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第六回 目付組
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救った男は、大目付助役の大須賀要蔵という男だった。
歳は五十ほどだろう。白髪が目立ち、学者風の落ち着いた雰囲気がある。浅傷とはいえ、血や痛みで取り乱す様子はないのは、それなりの経験と胆力があるからか。
賊を叩き斬った睦之介は、路傍に嘔吐した後、大須賀を連れ屋敷に駆け込んだ。
流石に邸内は騒然となった。放蕩息子が返り血を浴び、また傷を負った老武士を連れ帰ったのだ。無理もない話しだが、その混乱に構っている余裕はなかった。
大須賀には、すぐさま手当てが施された。家人に金瘡医術の心得がある者がいるのだ。その家人によれば、傷は浅くで骨には達していないという。その間、睦之介は行水で返り血を洗い落とし、父の居室で事の次第を説明した。
「勤王派の仕業というのは間違いないのだな?」
睦之介の報告を終えると、織部が訊いた。
「はい。斬る前に『天誅』と叫んでおりました」
「天誅か」
織部は苦い顔をした。機嫌が悪いように見える。就寝中を起こされたからだろう。こめかみを、中指の腹で押さえている。
「最近、志士の間で流行りだと聞いたことがあります。これも勤王派の仕業と思って間違いありません」
「先日、下士を中心にして怡土勤王党が結党された」
「怡土勤王党ですか」
「そうだ。この暴挙は勤王党の仕業かもしれんな。指図したのは。加藤めだろう。勤王党の後ろ盾が、あの加藤甚左衛門だ」
「だとしても、何故に大須賀殿は襲われたのでしょうか?」
「それはな、大須賀が目付組の助役だからだ。目付組は我々と志を同じにしている。あ奴は切れ者でね。お前も知っている赤橋頼母の軍師だ」
我々とは、佐幕派の事だろう。睦之介は、納得し頷いた。大須賀からは軍師らしい知性が感じられる。
「好機かもしれぬな」
「好機?」
「勤王党を潰す、な」
「父上、今は勤王派の力が強いと聞きました。安易に踏み込めば逆激を受ける恐れがあります。ここはまだ伏せるべきと思いますが」
睦之介は意見していた。政事には関わらない。そう決めていたが、考えた事がつい口に出ていた。
「ほう」
父は、一瞬だけ驚いた顔をした。
「親が思っている以上に、子は育っているのかもしれん」
「何の事でしょうか?」
「いや、独り言だ。この件は表沙汰にはせぬ。そして、機を待つ。それまでは、他言無用とする」
「判りました」
「うむ。それにしても、よくやったな睦之介」
睦之介が部屋を出ると、代わって大須賀が呼ばれた。個別に話を聞くつもりだろう。
この夜は寝付けなかった。三人も斬ったのだから無理もない。これで普段と変わらず眠れたら、立派な人斬りである。そうはなりたくはない。嘔吐したのも、情けなさの表れではなく、まだ人斬りではない証拠かもしれない。
それから三日後、父の命令で大目付の赤橋頼母の屋敷を訪ねた。
赤橋家の屋敷は、怡土城からほど近い堤小路にある。此処に屋敷を構える武士は、大組の中でも新参の家門が多い。谷原家のような大身はもっと郊外にある。
客間に案内されると、赤橋の他に大須賀の姿もあった。大須賀はまだ包帯を巻いていて、睦之介の姿を認めると頭を下げた。
「わざわざ呼び立ててすまない」
睦之介が腰を下ろすと、細面の赤橋が軽く微笑んだ。春の爽やかな風のような笑みで、楊三郎ほどではないが中々の美男子である。
「まずは、ありがとうと言いたい。君のお陰で私は大事な側近を失わずに済んだ」
そう言って、赤橋が大須賀を一瞥した。
大須賀は、赤橋の軍師だと父が称していた。元は石田正蔵という下士だったらしいが、その能力を赤橋の父に見出され、大須賀家の名籍を継がせて身分を一気に引き上げたという。
(怡土でも五指に入る策士か。とんだ大物を助けたものだ)
と、知らされた時は思ったものである。
「何か礼をしたいのだが……」
「いえ、私はあの付近をぶらついていただけで。礼をされるほどではありません」
「ずばり、飲み歩いていたついでに助けたのだから心苦しいというのだな?」
「それは」
核心を突いた言葉に、睦之介は言葉を詰まらせた。すると、その様子に赤橋は堪えきれずに吹き出した。
「いやいや。この際、その放蕩っ振りに助けられたのだ。感謝しようではないか。なぁ大須賀」
「如何にも」
睦之介は、顔が赤くなる熱を感じた。
「しかし、流石は丹下流の使い手。三人を相手にする事は並みの胆力で務まらない。私も剣をしているから、余計に判る」
「無我夢中でした」
「そういう時に、本当の力が出るのだよ」
赤橋は、江戸で佐伯派壱刀流〔南斗館〕で免許を得たという剣客である。〔南斗館〕は江戸四大道場の一つで、道場主の佐伯奏太郎は、「江戸の仁王」と渾名される豪傑と有名である。その男に認められた赤橋に褒められると、流石に悪い気はしない。
「谷原中老も喜んでいたぞ」
「……そうですか」
父は喜んでいたのか、睦之介には判らなかった。父は文官として功を挙げ、中老に出世した経緯から、剣なり武官なりを軽視する所がある。口では「よくやった」などと誉めてはいるが、口だけの事に思える。
「そこでだ」
赤橋が、懐から書状を取り出した。
「これを見て欲しい」
言われるがまま手に取ると、そこには三つの名が記されてあった。
「これは大須賀を襲った者だ」
赤橋の声が、険しいものに変わった。
「……」
「三名の素性を辿れば、怡土勤王党ひいては加藤甚左衛門殿に辿り着くはずだろう。しかし、君はまだ表沙汰にすべきではないと、お父上に意見したと聞いた。その真意を聞きたいのだが」
突然の質問に一瞬戸惑ったが、睦之介は父に話した事を順序よく説明した。
「なるほどな。今は勤王派の力が強い。しかも加藤殿は、周辺諸藩の勤王派にも人望がある。無理に取り締まれば、何が起きるか判らない。そういう事かな?」
「有り体に申せば左様です」
赤橋は腕を組むと、一つ大きな溜息を吐いた。真剣な面持ちだ。流麗な目元に、鋭さが増している。
(試されている……)
睦之介は息を呑み、次の言葉を待った。
睦之介にとって、赤橋は目指すべき尊敬の対象になりつつある。そんな男に落胆されたくはない。
「大須賀はどう思う?」
「私も同意見です。勤王派の意気は軒昂にて、京都では曲渕信濃が宮中に出入りし、摂関家の覚えめでたいと聞きます。探索は秘密裏に行い確たる証拠を抑えた後は、風向きが変わるのを待っち、ここぞという時に……」
大須賀が同意してくれた。赤橋の軍師であり、藩でも指折りの策士が。睦之介は赤橋に目を向けた。
「そうだな。罪を見過ごす事は些か後ろめたいが、これも大罪を裁く布石となるならば。目付組としても君の意見を採用しよう」
その言葉に、睦之介は安堵した。藩内でも俊英が集まる目付組の総帥と軍師が、自分の意見を採用してくれた。これは大きな自信になる。
赤橋が茶に手を伸ばした。睦之介もそれを見て茶を口にした。高級な茶であろう。香りや味わいに気品がある。だからと言って、赤橋は贅沢を好んでいるようには見えなかった。屋敷は広いが、それは大組の身分に見合ったもので、着ている着物や調度品は決して豪奢な物ではない。
(やはり、信じるに足る人物だ)
何より、この人は叱責する父から庇ってくれたのだ。
「そこでだ。暫く私の下で働いてみないか?」
「私が、目付組にですか?」
「ああ。しかし、今は目付として働いてもらうつもりはない。差し当たりは、大須賀の護衛を頼みたいのだ。賊は再び大須賀を襲うだろう。今この男を失うわけにはいかんのだ」
青天の霹靂だった。名門とは言え、部屋住みの三男坊が目付組に出仕するなど、想像もしなかった事だ。
「どうだ?」
赤橋が確認するように訊いた。睦之介はその言葉で我に返り、
「勿論、私でよければ勤めさせて頂きます。藩にとって重要な人材を護衛する大役を果たせるは、光栄な事でございます」
と、平伏した。
しかし、父の顔が浮かんだ。勝手に決めて良いものなのか。
「お父上には、既に話を通しております」
そう言ったのは、大須賀だった。睦之介は顔を上げて赤橋を見ると、頷いて答えてくれた。
「私から了承を得ている」
やはり、この男は。と、睦之介は思った。尊敬できる。そんな男の下で働けるのは、幸運と言うべきであろう。
赤橋の屋敷を辞去し外に出ると、追ってきた大須賀に呼び止められた。
「これから宜しく頼みます」
大須賀は深々と白髪頭を下げた。
「いや……」
睦之介は、大須賀の敬語に戸惑いを覚えた。
大須賀は同じ大組に属しているが、生まれた身分が低いのと、中老の息子に護衛されている事を気にしているのだろう。
「大須賀殿、私に対して敬語は止めて下さい」
「私は大組とは言え、生まれは下級の無足組《むそくぐみ》。かつ、睦之介殿は谷原中老のご子息であります」
「しかし、今は大組であられます。そして私は若輩、年長者から敬語で話されるのはどうも苦手で」
「判りました……いや、判った。これから頼むよ」
大須賀が笑う。だが、目の奥は笑っていない。策士の習性だろうか。笑いながらも、何かを偽り謀っているような目だった。
翌朝、睦之介は当座の荷物を片手に自宅を出た。
荷物を持って行けと、父に言われた。つまり住み込みでの護衛という事だ。持ちきれない荷物は、家人が運ぶ手はずになっていた。
出立前に、睦之介は父に礼を言った。赤橋の下で働く事を許してくれた事の。それに対し、父は鼻を鳴らし、
「お前の蛮勇も役に立てばよいと思った」
と、応えた。そして、大須賀の屋敷で学んで来いとも。父なりに期待を込めて送り出してくれたのだろうか。
大須賀の屋敷は、赤橋と同じ堤小路にある。そう大きなものではなく、赤橋邸と比べれば明らかに見劣りする規模だ。
訪ないを入れると、襷掛けにして袖を絞った若い娘が現れた。炊事をしていたのか、息は弾んでいる。
「失礼する」
睦之介の言葉に、娘は笑顔を向けた。
日に焼けた丸顔で、瞳は胡桃のように丸く、愛嬌のある顔である。十七かという年頃だろう。娘は元気よく睦之介を迎え入れた。
(下女かな)
大組の娘にしては、来ている着物も地味で粗末だ。
「私は谷原睦之介という。大須賀要蔵殿はご在宅か?」
「はい、奥にいます」
娘は笑顔で頭を下げると、睦之介を中に導いた。中に入ると、大組の屋敷にしては、その狭さが際立った。大須賀は成り上がりである。嫌でも嫉妬の対象になる。その辺りを気にして、わざと狭い屋敷に住んでいるのだろうか。
大須賀は私室にいた。書見をしながら煙草を吹かせていた。
「お、来たかね」
と、大須賀は煙管の雁首を叩いて灰を落とした。
「今日から暫くの間、君に命を預けるよ」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
それからすぐに、警備の話を詰めた。睦之介は日中と外出時の警備を担当し、夜間は宿直として別の護衛が受け持つという。睦之介は、その護衛の素性が気になったが、その辺りは「流石は目付組」と言うべきか。知縁のある道場から募集し、腕前のみならず普段の行動から思想まで綿密に調べ上げ、最後は赤橋自身で選抜したらしい。
それほど手間を掛けるのは、それだけ大須賀という男が、目付組にとって不可欠な男だからだろう。勿論、赤橋にとってもそうで、だとすれば、何としても大須賀を守らねばならない。喩え、自らの命に代えても。
「それと、君には離れで寝起きしてもう。それは承知してくれるかね?」
最後に、大須賀が付け加えるように言った。
「はい。その件は父に言われています」
「よろしい。身の回りの世話は、娘の紀和に命じている。何かあれば気軽に言うといい」
そう言うと、大須賀は紀和の名を叫んだ。
「あなたは」
暫くして現れたのは、睦之介を出迎えたあの娘だった。
紀和は、指を着いて平伏した。笑顔は人懐っこく、どこか子犬のような印象を受ける。
「紀和という。我が娘ながら面倒見はいい」
大須賀は娘と二人暮らしだった。妻は五年前に亡くなり、子も紀和しかいない。あとは住み込みの下女と下男、中間が一人ずついるだけだ。
それから紀和の案内で、屋敷内を見回った。護衛をする以上、構造は頭に叩き込んでおく必要がある。また、退路になる正門以外の出口も確認した。
全て見終わると、睦之介の部屋となる離れに案内された。八畳の思ったより広い部屋で、寝具などの一式は既に用意されている。
「紀和殿、ご面倒を掛けるが頼みます」
睦之介は、一つ頭を下げた。
「ふふ。紀和と呼んで下さい。私は睦之介さんより随分と年下ですもの」
確かに、並んでみるとまだ身体つきは幼い。まだ十五にも満たないのかもしれない。
「そうはいきませぬ。上役の令嬢ですので」
「いいのいいの。どうせ元は無足組の下士ですもの。大組の姫様のように気取ったりしたら、父に叱られるから」
「判りました。しかしお父上の手前もありますので、『紀和さん』と呼ばせて頂きます」
「堅いなぁ。ま、何かあれば、気兼ねなく私に申し付けてくださいね。家中の事は一切私が取り仕切っていますので」
「凄いな、紀和さんは」
「父が後添いを貰わないから。かと言って下女も雇わないんです、ケチだから。でも、花嫁修業になるからいいかな? かなり大変ですけど」
そう言うと、紀和は舌を出して一笑し、母屋に引き返していった。
気立てがいい娘だ。いずれは婿養子を取り、大須賀家を継がせるのだろう。そんな事を、去りゆく紀和のまだ薄い尻を眺めながら思った。
歳は五十ほどだろう。白髪が目立ち、学者風の落ち着いた雰囲気がある。浅傷とはいえ、血や痛みで取り乱す様子はないのは、それなりの経験と胆力があるからか。
賊を叩き斬った睦之介は、路傍に嘔吐した後、大須賀を連れ屋敷に駆け込んだ。
流石に邸内は騒然となった。放蕩息子が返り血を浴び、また傷を負った老武士を連れ帰ったのだ。無理もない話しだが、その混乱に構っている余裕はなかった。
大須賀には、すぐさま手当てが施された。家人に金瘡医術の心得がある者がいるのだ。その家人によれば、傷は浅くで骨には達していないという。その間、睦之介は行水で返り血を洗い落とし、父の居室で事の次第を説明した。
「勤王派の仕業というのは間違いないのだな?」
睦之介の報告を終えると、織部が訊いた。
「はい。斬る前に『天誅』と叫んでおりました」
「天誅か」
織部は苦い顔をした。機嫌が悪いように見える。就寝中を起こされたからだろう。こめかみを、中指の腹で押さえている。
「最近、志士の間で流行りだと聞いたことがあります。これも勤王派の仕業と思って間違いありません」
「先日、下士を中心にして怡土勤王党が結党された」
「怡土勤王党ですか」
「そうだ。この暴挙は勤王党の仕業かもしれんな。指図したのは。加藤めだろう。勤王党の後ろ盾が、あの加藤甚左衛門だ」
「だとしても、何故に大須賀殿は襲われたのでしょうか?」
「それはな、大須賀が目付組の助役だからだ。目付組は我々と志を同じにしている。あ奴は切れ者でね。お前も知っている赤橋頼母の軍師だ」
我々とは、佐幕派の事だろう。睦之介は、納得し頷いた。大須賀からは軍師らしい知性が感じられる。
「好機かもしれぬな」
「好機?」
「勤王党を潰す、な」
「父上、今は勤王派の力が強いと聞きました。安易に踏み込めば逆激を受ける恐れがあります。ここはまだ伏せるべきと思いますが」
睦之介は意見していた。政事には関わらない。そう決めていたが、考えた事がつい口に出ていた。
「ほう」
父は、一瞬だけ驚いた顔をした。
「親が思っている以上に、子は育っているのかもしれん」
「何の事でしょうか?」
「いや、独り言だ。この件は表沙汰にはせぬ。そして、機を待つ。それまでは、他言無用とする」
「判りました」
「うむ。それにしても、よくやったな睦之介」
睦之介が部屋を出ると、代わって大須賀が呼ばれた。個別に話を聞くつもりだろう。
この夜は寝付けなかった。三人も斬ったのだから無理もない。これで普段と変わらず眠れたら、立派な人斬りである。そうはなりたくはない。嘔吐したのも、情けなさの表れではなく、まだ人斬りではない証拠かもしれない。
それから三日後、父の命令で大目付の赤橋頼母の屋敷を訪ねた。
赤橋家の屋敷は、怡土城からほど近い堤小路にある。此処に屋敷を構える武士は、大組の中でも新参の家門が多い。谷原家のような大身はもっと郊外にある。
客間に案内されると、赤橋の他に大須賀の姿もあった。大須賀はまだ包帯を巻いていて、睦之介の姿を認めると頭を下げた。
「わざわざ呼び立ててすまない」
睦之介が腰を下ろすと、細面の赤橋が軽く微笑んだ。春の爽やかな風のような笑みで、楊三郎ほどではないが中々の美男子である。
「まずは、ありがとうと言いたい。君のお陰で私は大事な側近を失わずに済んだ」
そう言って、赤橋が大須賀を一瞥した。
大須賀は、赤橋の軍師だと父が称していた。元は石田正蔵という下士だったらしいが、その能力を赤橋の父に見出され、大須賀家の名籍を継がせて身分を一気に引き上げたという。
(怡土でも五指に入る策士か。とんだ大物を助けたものだ)
と、知らされた時は思ったものである。
「何か礼をしたいのだが……」
「いえ、私はあの付近をぶらついていただけで。礼をされるほどではありません」
「ずばり、飲み歩いていたついでに助けたのだから心苦しいというのだな?」
「それは」
核心を突いた言葉に、睦之介は言葉を詰まらせた。すると、その様子に赤橋は堪えきれずに吹き出した。
「いやいや。この際、その放蕩っ振りに助けられたのだ。感謝しようではないか。なぁ大須賀」
「如何にも」
睦之介は、顔が赤くなる熱を感じた。
「しかし、流石は丹下流の使い手。三人を相手にする事は並みの胆力で務まらない。私も剣をしているから、余計に判る」
「無我夢中でした」
「そういう時に、本当の力が出るのだよ」
赤橋は、江戸で佐伯派壱刀流〔南斗館〕で免許を得たという剣客である。〔南斗館〕は江戸四大道場の一つで、道場主の佐伯奏太郎は、「江戸の仁王」と渾名される豪傑と有名である。その男に認められた赤橋に褒められると、流石に悪い気はしない。
「谷原中老も喜んでいたぞ」
「……そうですか」
父は喜んでいたのか、睦之介には判らなかった。父は文官として功を挙げ、中老に出世した経緯から、剣なり武官なりを軽視する所がある。口では「よくやった」などと誉めてはいるが、口だけの事に思える。
「そこでだ」
赤橋が、懐から書状を取り出した。
「これを見て欲しい」
言われるがまま手に取ると、そこには三つの名が記されてあった。
「これは大須賀を襲った者だ」
赤橋の声が、険しいものに変わった。
「……」
「三名の素性を辿れば、怡土勤王党ひいては加藤甚左衛門殿に辿り着くはずだろう。しかし、君はまだ表沙汰にすべきではないと、お父上に意見したと聞いた。その真意を聞きたいのだが」
突然の質問に一瞬戸惑ったが、睦之介は父に話した事を順序よく説明した。
「なるほどな。今は勤王派の力が強い。しかも加藤殿は、周辺諸藩の勤王派にも人望がある。無理に取り締まれば、何が起きるか判らない。そういう事かな?」
「有り体に申せば左様です」
赤橋は腕を組むと、一つ大きな溜息を吐いた。真剣な面持ちだ。流麗な目元に、鋭さが増している。
(試されている……)
睦之介は息を呑み、次の言葉を待った。
睦之介にとって、赤橋は目指すべき尊敬の対象になりつつある。そんな男に落胆されたくはない。
「大須賀はどう思う?」
「私も同意見です。勤王派の意気は軒昂にて、京都では曲渕信濃が宮中に出入りし、摂関家の覚えめでたいと聞きます。探索は秘密裏に行い確たる証拠を抑えた後は、風向きが変わるのを待っち、ここぞという時に……」
大須賀が同意してくれた。赤橋の軍師であり、藩でも指折りの策士が。睦之介は赤橋に目を向けた。
「そうだな。罪を見過ごす事は些か後ろめたいが、これも大罪を裁く布石となるならば。目付組としても君の意見を採用しよう」
その言葉に、睦之介は安堵した。藩内でも俊英が集まる目付組の総帥と軍師が、自分の意見を採用してくれた。これは大きな自信になる。
赤橋が茶に手を伸ばした。睦之介もそれを見て茶を口にした。高級な茶であろう。香りや味わいに気品がある。だからと言って、赤橋は贅沢を好んでいるようには見えなかった。屋敷は広いが、それは大組の身分に見合ったもので、着ている着物や調度品は決して豪奢な物ではない。
(やはり、信じるに足る人物だ)
何より、この人は叱責する父から庇ってくれたのだ。
「そこでだ。暫く私の下で働いてみないか?」
「私が、目付組にですか?」
「ああ。しかし、今は目付として働いてもらうつもりはない。差し当たりは、大須賀の護衛を頼みたいのだ。賊は再び大須賀を襲うだろう。今この男を失うわけにはいかんのだ」
青天の霹靂だった。名門とは言え、部屋住みの三男坊が目付組に出仕するなど、想像もしなかった事だ。
「どうだ?」
赤橋が確認するように訊いた。睦之介はその言葉で我に返り、
「勿論、私でよければ勤めさせて頂きます。藩にとって重要な人材を護衛する大役を果たせるは、光栄な事でございます」
と、平伏した。
しかし、父の顔が浮かんだ。勝手に決めて良いものなのか。
「お父上には、既に話を通しております」
そう言ったのは、大須賀だった。睦之介は顔を上げて赤橋を見ると、頷いて答えてくれた。
「私から了承を得ている」
やはり、この男は。と、睦之介は思った。尊敬できる。そんな男の下で働けるのは、幸運と言うべきであろう。
赤橋の屋敷を辞去し外に出ると、追ってきた大須賀に呼び止められた。
「これから宜しく頼みます」
大須賀は深々と白髪頭を下げた。
「いや……」
睦之介は、大須賀の敬語に戸惑いを覚えた。
大須賀は同じ大組に属しているが、生まれた身分が低いのと、中老の息子に護衛されている事を気にしているのだろう。
「大須賀殿、私に対して敬語は止めて下さい」
「私は大組とは言え、生まれは下級の無足組《むそくぐみ》。かつ、睦之介殿は谷原中老のご子息であります」
「しかし、今は大組であられます。そして私は若輩、年長者から敬語で話されるのはどうも苦手で」
「判りました……いや、判った。これから頼むよ」
大須賀が笑う。だが、目の奥は笑っていない。策士の習性だろうか。笑いながらも、何かを偽り謀っているような目だった。
翌朝、睦之介は当座の荷物を片手に自宅を出た。
荷物を持って行けと、父に言われた。つまり住み込みでの護衛という事だ。持ちきれない荷物は、家人が運ぶ手はずになっていた。
出立前に、睦之介は父に礼を言った。赤橋の下で働く事を許してくれた事の。それに対し、父は鼻を鳴らし、
「お前の蛮勇も役に立てばよいと思った」
と、応えた。そして、大須賀の屋敷で学んで来いとも。父なりに期待を込めて送り出してくれたのだろうか。
大須賀の屋敷は、赤橋と同じ堤小路にある。そう大きなものではなく、赤橋邸と比べれば明らかに見劣りする規模だ。
訪ないを入れると、襷掛けにして袖を絞った若い娘が現れた。炊事をしていたのか、息は弾んでいる。
「失礼する」
睦之介の言葉に、娘は笑顔を向けた。
日に焼けた丸顔で、瞳は胡桃のように丸く、愛嬌のある顔である。十七かという年頃だろう。娘は元気よく睦之介を迎え入れた。
(下女かな)
大組の娘にしては、来ている着物も地味で粗末だ。
「私は谷原睦之介という。大須賀要蔵殿はご在宅か?」
「はい、奥にいます」
娘は笑顔で頭を下げると、睦之介を中に導いた。中に入ると、大組の屋敷にしては、その狭さが際立った。大須賀は成り上がりである。嫌でも嫉妬の対象になる。その辺りを気にして、わざと狭い屋敷に住んでいるのだろうか。
大須賀は私室にいた。書見をしながら煙草を吹かせていた。
「お、来たかね」
と、大須賀は煙管の雁首を叩いて灰を落とした。
「今日から暫くの間、君に命を預けるよ」
「こちらこそ、宜しくお願い致します」
それからすぐに、警備の話を詰めた。睦之介は日中と外出時の警備を担当し、夜間は宿直として別の護衛が受け持つという。睦之介は、その護衛の素性が気になったが、その辺りは「流石は目付組」と言うべきか。知縁のある道場から募集し、腕前のみならず普段の行動から思想まで綿密に調べ上げ、最後は赤橋自身で選抜したらしい。
それほど手間を掛けるのは、それだけ大須賀という男が、目付組にとって不可欠な男だからだろう。勿論、赤橋にとってもそうで、だとすれば、何としても大須賀を守らねばならない。喩え、自らの命に代えても。
「それと、君には離れで寝起きしてもう。それは承知してくれるかね?」
最後に、大須賀が付け加えるように言った。
「はい。その件は父に言われています」
「よろしい。身の回りの世話は、娘の紀和に命じている。何かあれば気軽に言うといい」
そう言うと、大須賀は紀和の名を叫んだ。
「あなたは」
暫くして現れたのは、睦之介を出迎えたあの娘だった。
紀和は、指を着いて平伏した。笑顔は人懐っこく、どこか子犬のような印象を受ける。
「紀和という。我が娘ながら面倒見はいい」
大須賀は娘と二人暮らしだった。妻は五年前に亡くなり、子も紀和しかいない。あとは住み込みの下女と下男、中間が一人ずついるだけだ。
それから紀和の案内で、屋敷内を見回った。護衛をする以上、構造は頭に叩き込んでおく必要がある。また、退路になる正門以外の出口も確認した。
全て見終わると、睦之介の部屋となる離れに案内された。八畳の思ったより広い部屋で、寝具などの一式は既に用意されている。
「紀和殿、ご面倒を掛けるが頼みます」
睦之介は、一つ頭を下げた。
「ふふ。紀和と呼んで下さい。私は睦之介さんより随分と年下ですもの」
確かに、並んでみるとまだ身体つきは幼い。まだ十五にも満たないのかもしれない。
「そうはいきませぬ。上役の令嬢ですので」
「いいのいいの。どうせ元は無足組の下士ですもの。大組の姫様のように気取ったりしたら、父に叱られるから」
「判りました。しかしお父上の手前もありますので、『紀和さん』と呼ばせて頂きます」
「堅いなぁ。ま、何かあれば、気兼ねなく私に申し付けてくださいね。家中の事は一切私が取り仕切っていますので」
「凄いな、紀和さんは」
「父が後添いを貰わないから。かと言って下女も雇わないんです、ケチだから。でも、花嫁修業になるからいいかな? かなり大変ですけど」
そう言うと、紀和は舌を出して一笑し、母屋に引き返していった。
気立てがいい娘だ。いずれは婿養子を取り、大須賀家を継がせるのだろう。そんな事を、去りゆく紀和のまだ薄い尻を眺めながら思った。
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日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
浅葱色の桜
初音
歴史・時代
新選組の局長、近藤勇がその剣術の腕を磨いた道場・試衛館。
近藤勇は、子宝にめぐまれなかった道場主・周助によって養子に迎えられる…というのが史実ですが、もしその周助に娘がいたら?というIfから始まる物語。
「女のくせに」そんな呪いのような言葉と向き合いながら、剣術の鍛錬に励む主人公・さくらの成長記です。
時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦書読みを推奨しています。縦書きで読みやすいよう、行間を詰めています。
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