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第五回 天誅
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小さな店だった。
客が十人、入るかどうかというぐらいである。
怡土藩城下、師吉町にある居酒屋。屋号を[り久]という。
睦之介は、葱と一緒に煮込んだ豆腐を肴に、酒をちびちびと口にしていた。
客は四人連れが一組。それだけで、[り久]の席は半分埋まった。
睦之介は一人だった。共に飲む相手と言えば逸平ぐらいしかいないが、その逸平は極度の下戸で酒に付き合う事はない。
道場帰りの睦之介の疲れた足は、自然と昨年の暮れから贔屓にしているこの店に向いた。
飲みたい夜だった。別段何かあったわけではない。だが酔いの中で、鬱屈したものから目を背けたかった。
楊三郎が怡土を発って、暫くの時が経った。雪が降らぬ冬が過ぎて、季節は春を迎えている。京からは、未だ何の便りも無い。
(つまらぬ……)
町衆の雑多な声に耳を傾けながら、睦之介はそう思った。
楊三郎が去ってからというもの、面白い事など何一つもなかった。平凡で何も変わらぬ、寂しくも虚無的な毎日である。
孤独を紛らわせる為に、とりあえず剣に打ち込んではいる。稽古量を増やし、時には一人で一貴山に籠った。
腕は格段に上がった。逸平と立ち合っても、五本に一本取られるかどうかだ。道場内に敵はいない、と言っていい。その腕に、師範すらも舌を巻いたほどである。
また先月に行われた道場対抗の試合では、十人抜きを果たした。それを皆に賞賛された。父や二人の兄にも誇りだと言われたが、睦之介は嬉しいとは思わなかった。
(楊三郎がいないからだ)
という気持ちが強い。もし楊三郎がいれば、十人抜きは果たせなかっただろう。
睦之介は、手酌で酒を進めた。
もう銚子は二本目である。上質な酒と、気の利いた肴を出す。おまけに見るからに頑固そうな主人が無駄口を叩かないので、睦之介は気に入っていた。
客が入ってきた。二人。粗末な着物だが、二本差しである。足軽だろうか。浪人かもしれないが、そこまでは判らない。二人は睦之介の後ろに座ると、酒と飯を頼んだ。
睦之介は、構わずまた酒を猪口に注いだ。
「今の執政府は何を考えているのか」
暫くして、そんな声が聞こえてきた。
「幕府は夷狄に対して弱腰だ。攘夷なんて考えていない。そんな事で日ノ本を守れるのか。それに追従する執政府も情けない」
潜んだ声であるが、睦之介の耳には確かに聞こえた。
「我が藩も攘夷の戦を決行すべきだ」
「その為には、藩の人事を一新すべきであろう」
そんな意見に、睦之介は鼻を鳴らした。そう簡単に一新出来れば苦労はない。
相変わらず、佐幕と勤王のせめぎ合いは続いている。しかし、勤王が押し気味であるという話を逸平から聞いた。
幕府が、朝廷の要求を飲んだのだ。前代未聞の出来事らしい。どのような要求なのか判らないが、それが幕府の弱体化を示している事と勤王派の後押しとなった事は、考えなくとも理解出来た。
楊三郎が怡土を去ってから、時勢について考える事が多くなった。今までは、関係ないと思っていたが、最愛の男が政争に巻き込まれた事で状況が変わった。それなりに本を読み、父の紹介で蘭学者の林田曽鵬を訪ね話を聞いてみた。
林田は両派が争う愚を説き、睦之介はそれに共感していた。
(夷狄を前に、日本人同士で争うなど愚かな事だ)
それに、攘夷など愚かしい話である。相手が侵略してきているなら別だが、今は戦闘状態にない。諸外国は、日本に交易を求めているだけなのだ。交易は利を生む。その利で国を富ませ、軍備を整えるべきではないのか。
そうは思っても、具体的に政治運動に身を投じる気は毛頭無かった。差し当たり、身の回りの人間が安泰なら良い思っているだけである。
二本目の銚子が空いた所で、睦之介は席を立った。幾ら呑んでも酔えそうもない。
師吉町から泉川の筋を西に歩く。夜風は肌寒く、まだ冬の名残が幾分か感じさせる。
(誰かいる)
氣が全身を打ち、睦之介は歩みを止めた。氣は禍々しい殺気である。
暗い道の先に、何かある。睦之介は思わず駆けていた。
まず倒れていたのは、中間だった。その傍には武士。刀を抜いているが、既に事切れている。
顔を上げて先に目をやると、白刃を翳した武士が向かい合っていた。
三対一。三人が一人を囲んでいる。一人は白髪が目立つ壮年の男である。
「待て」
睦之介は叫び、駆けながら間に割って入った。
「私は、谷原睦之介という。中老谷原織部の嫡男だ」
「何?」
囲んでいた三人が色めき立った。覆面をしているので表情は見えないが、父の名に反応した事は声色から判った。
「奸賊、谷原の倅か」
正面に立つ男がそう言った。
(なるほど)
父を奸賊と呼ばわりする所を見ると、この三人は勤王派の志士か。
「そう、私は奸賊の息子だ。しかし、多勢で一人を襲うような卑怯な真似はしない。奸賊である父もな」
そう言いながら、睦之介は壮年の男を一瞥した。
見た事のない顔だった。右腕と左肩を斬られているようだが、浅く致命傷ではなさそうだ。
「君は」
と、言おうとした壮年の男を、睦之介は手で制した。
「背後の一人を」
睦之介の言葉に、壮年の男は頷いた。
「これはいい。奸賊の息子にも天誅を与えてやろう」
後ろの男が笑った。
「天誅か。そうだな。出来るものなら、やってみるがいい。賊ども」
微かな酔いと溜まった鬱憤が、自暴自棄にさせたのか。
(死ぬなら死んでもいいさ)
そう自嘲しながら、腰の三之平兼広を抜いた。
三之平兼広は元服の祝いとして、祖父に買い与えられたものだ。祖父だけは自分を可愛がってくれたが、今はもう亡《いな》い。
睦之介は、腰を落として正眼に構えた。
氣が燃え上がった。身体が熱くなる。相手にするのは、目の前の賊二人である。見る限り、使い手はいない。
「天誅」
絶叫が聞こえた。一人が向かってくる。叫んだ分、懐が空いていた。
睦之介は前に出た。脇を駆け抜けながら、胴を抜いていた。
もう一人。突きがきた。躱す。そうしながら、三之平兼広を振り上げた。
気勢と共に、振り下ろす。首筋から鳩尾までを断った。
「御加勢を」
助けを求める声が聞こえた。目を移すと、壮年の男が攻め込まれていた。鍔迫り合いを演じている。流石に力では敵わないようだ。
睦之介は駆け寄り、賊の背後に立った。そして三之平兼広を構える。
こちらを振り返る賊の目には、明確な恐怖の色が浮かんでいた。
客が十人、入るかどうかというぐらいである。
怡土藩城下、師吉町にある居酒屋。屋号を[り久]という。
睦之介は、葱と一緒に煮込んだ豆腐を肴に、酒をちびちびと口にしていた。
客は四人連れが一組。それだけで、[り久]の席は半分埋まった。
睦之介は一人だった。共に飲む相手と言えば逸平ぐらいしかいないが、その逸平は極度の下戸で酒に付き合う事はない。
道場帰りの睦之介の疲れた足は、自然と昨年の暮れから贔屓にしているこの店に向いた。
飲みたい夜だった。別段何かあったわけではない。だが酔いの中で、鬱屈したものから目を背けたかった。
楊三郎が怡土を発って、暫くの時が経った。雪が降らぬ冬が過ぎて、季節は春を迎えている。京からは、未だ何の便りも無い。
(つまらぬ……)
町衆の雑多な声に耳を傾けながら、睦之介はそう思った。
楊三郎が去ってからというもの、面白い事など何一つもなかった。平凡で何も変わらぬ、寂しくも虚無的な毎日である。
孤独を紛らわせる為に、とりあえず剣に打ち込んではいる。稽古量を増やし、時には一人で一貴山に籠った。
腕は格段に上がった。逸平と立ち合っても、五本に一本取られるかどうかだ。道場内に敵はいない、と言っていい。その腕に、師範すらも舌を巻いたほどである。
また先月に行われた道場対抗の試合では、十人抜きを果たした。それを皆に賞賛された。父や二人の兄にも誇りだと言われたが、睦之介は嬉しいとは思わなかった。
(楊三郎がいないからだ)
という気持ちが強い。もし楊三郎がいれば、十人抜きは果たせなかっただろう。
睦之介は、手酌で酒を進めた。
もう銚子は二本目である。上質な酒と、気の利いた肴を出す。おまけに見るからに頑固そうな主人が無駄口を叩かないので、睦之介は気に入っていた。
客が入ってきた。二人。粗末な着物だが、二本差しである。足軽だろうか。浪人かもしれないが、そこまでは判らない。二人は睦之介の後ろに座ると、酒と飯を頼んだ。
睦之介は、構わずまた酒を猪口に注いだ。
「今の執政府は何を考えているのか」
暫くして、そんな声が聞こえてきた。
「幕府は夷狄に対して弱腰だ。攘夷なんて考えていない。そんな事で日ノ本を守れるのか。それに追従する執政府も情けない」
潜んだ声であるが、睦之介の耳には確かに聞こえた。
「我が藩も攘夷の戦を決行すべきだ」
「その為には、藩の人事を一新すべきであろう」
そんな意見に、睦之介は鼻を鳴らした。そう簡単に一新出来れば苦労はない。
相変わらず、佐幕と勤王のせめぎ合いは続いている。しかし、勤王が押し気味であるという話を逸平から聞いた。
幕府が、朝廷の要求を飲んだのだ。前代未聞の出来事らしい。どのような要求なのか判らないが、それが幕府の弱体化を示している事と勤王派の後押しとなった事は、考えなくとも理解出来た。
楊三郎が怡土を去ってから、時勢について考える事が多くなった。今までは、関係ないと思っていたが、最愛の男が政争に巻き込まれた事で状況が変わった。それなりに本を読み、父の紹介で蘭学者の林田曽鵬を訪ね話を聞いてみた。
林田は両派が争う愚を説き、睦之介はそれに共感していた。
(夷狄を前に、日本人同士で争うなど愚かな事だ)
それに、攘夷など愚かしい話である。相手が侵略してきているなら別だが、今は戦闘状態にない。諸外国は、日本に交易を求めているだけなのだ。交易は利を生む。その利で国を富ませ、軍備を整えるべきではないのか。
そうは思っても、具体的に政治運動に身を投じる気は毛頭無かった。差し当たり、身の回りの人間が安泰なら良い思っているだけである。
二本目の銚子が空いた所で、睦之介は席を立った。幾ら呑んでも酔えそうもない。
師吉町から泉川の筋を西に歩く。夜風は肌寒く、まだ冬の名残が幾分か感じさせる。
(誰かいる)
氣が全身を打ち、睦之介は歩みを止めた。氣は禍々しい殺気である。
暗い道の先に、何かある。睦之介は思わず駆けていた。
まず倒れていたのは、中間だった。その傍には武士。刀を抜いているが、既に事切れている。
顔を上げて先に目をやると、白刃を翳した武士が向かい合っていた。
三対一。三人が一人を囲んでいる。一人は白髪が目立つ壮年の男である。
「待て」
睦之介は叫び、駆けながら間に割って入った。
「私は、谷原睦之介という。中老谷原織部の嫡男だ」
「何?」
囲んでいた三人が色めき立った。覆面をしているので表情は見えないが、父の名に反応した事は声色から判った。
「奸賊、谷原の倅か」
正面に立つ男がそう言った。
(なるほど)
父を奸賊と呼ばわりする所を見ると、この三人は勤王派の志士か。
「そう、私は奸賊の息子だ。しかし、多勢で一人を襲うような卑怯な真似はしない。奸賊である父もな」
そう言いながら、睦之介は壮年の男を一瞥した。
見た事のない顔だった。右腕と左肩を斬られているようだが、浅く致命傷ではなさそうだ。
「君は」
と、言おうとした壮年の男を、睦之介は手で制した。
「背後の一人を」
睦之介の言葉に、壮年の男は頷いた。
「これはいい。奸賊の息子にも天誅を与えてやろう」
後ろの男が笑った。
「天誅か。そうだな。出来るものなら、やってみるがいい。賊ども」
微かな酔いと溜まった鬱憤が、自暴自棄にさせたのか。
(死ぬなら死んでもいいさ)
そう自嘲しながら、腰の三之平兼広を抜いた。
三之平兼広は元服の祝いとして、祖父に買い与えられたものだ。祖父だけは自分を可愛がってくれたが、今はもう亡《いな》い。
睦之介は、腰を落として正眼に構えた。
氣が燃え上がった。身体が熱くなる。相手にするのは、目の前の賊二人である。見る限り、使い手はいない。
「天誅」
絶叫が聞こえた。一人が向かってくる。叫んだ分、懐が空いていた。
睦之介は前に出た。脇を駆け抜けながら、胴を抜いていた。
もう一人。突きがきた。躱す。そうしながら、三之平兼広を振り上げた。
気勢と共に、振り下ろす。首筋から鳩尾までを断った。
「御加勢を」
助けを求める声が聞こえた。目を移すと、壮年の男が攻め込まれていた。鍔迫り合いを演じている。流石に力では敵わないようだ。
睦之介は駆け寄り、賊の背後に立った。そして三之平兼広を構える。
こちらを振り返る賊の目には、明確な恐怖の色が浮かんでいた。
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