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第一回 朝帰り
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いつから、このような関係になったのか。
谷原睦之介は師吉町にある馴染みの出会茶屋を出ると、朝焼けに染まる空を仰ぎ見て、一つ溜め息を吐いた。
(いつかは終わらさねばなるまい……)
長く忍ばせるには耐え難く、危険を孕んだ関係である。
不義の恋とも呼べる。何せ密会の相手は、父・谷原織部の政敵、加藤甚左衛門の三男・加藤楊三郎なのである。
まだ身体に残る楊三郎の体温から、昨夜の官能的な秘め事を思い出せば、後ろめたさに胸が痛む。しかし、それこそが情交を更に燃え上がらせる刺激になっているのは確かだった。
女形のように妖艶で、細い楊三郎の身体が脳裏に浮かんだ。どのような事情があるにしろ、離れがたい男である。
「俺は、どうすればよいのだ」
と、呟く。
楊三郎は、睦之介の二つ年下の十九歳。同じ大組に属する、怡土藩の上士である。
出会ったのは五年前、丹下流羽島道場での事だった。
江戸藩邸に詰めるの家に生まれた楊三郎は、十四歳で父に従って怡土にやってきた。入国の翌日には羽島道場へ入門し、その世話役に歳が近いという理由から睦之介が選ばれたのだ。
楊三郎とは、何故か最初から馬が合った。それは、己の置かれた境遇が何となく似ていたからであろう。同じ大組格の上士。お互いの父は藩内でも有名な出世魚であるが、自分達は家督に関係ない部屋住みの三男坊。
ただ剣の腕に限っては、楊三郎だけが上達した。初めは睦之介が圧倒していたものの、いつの間にか並ばれ、そして抜かれた。今では羽島道場始まって以来の俊英と呼ばれるまでになっている。
自分とて、それなりの剣を使う。並みの相手には負けない自信はあるが、楊三郎は違う。持って生まれた天稟が段違いなのだ。
そんな楊三郎と、[念友]とも呼ばれる仲になったのは二年前である。これも剣に関わる事が発端だった。その時の記憶は遠く霞んだものになり、思い出す事も少ない。
睦之介は、前原町の湯屋に立ち寄った。前原町は城下でも猥雑な地区の一つで、遊郭帰りの男を相手にした湯屋が多い。睦之介もまたそうで、屋敷に戻る前に、酒気と楊三郎の残り香を落とすつもりだった。
鍛え抜かれた小麦色の身体を、ゆっくりと熱い湯に沈めた。強ばった筋肉が溶けていく。
思わず声が出た。若い男同士の情交で、身体は疲れ果てていたのだ。
「それでよう、脱がした女はよ」
「おう、それで?」
近くでは、町人達が朝から猥談に興じていた。卑しい笑い声。そこには、何も縛られない自由がある。
(いっそ、町人だったら)
と、羨ましさを感じた。
いや、違う。こんな時勢に生まれさえしなければ悩まずに済んだのだ。
世の中は、風雲急を告げていた。外国船が相次いで来寇し、幕府はそれに毅然とした態度を示せないでいる。そうした事態の中で、国を憂う者が尊皇攘夷と言い出し、朝廷を巻き込んで幕府と激しく対立しているのだ。
そのような動乱を前にして、北部九州の怡土藩も無関係ではいられず、藩内にも中央の対立が波及していた。
(この騒ぎのせいなのだ、全て)
父は佐幕に付き、楊三郎の父が勤王に付いた。それが、今まで出世競争だけであった両家の争いを、より一層ややこしいものにし、結果として楊三郎との交流を禁じられる仕儀に至った。
睦之介の屋敷は怡土城の傍、大番丁にある。古くから原田家に仕える大組格の上士が住まう、閑静な武家地だ。
帰宅すると、井上久兵衛に出迎えられた。薄い髪に無理矢理髷を結ったこの老人は、谷原家に古くから仕える執事である。井上は声を潜め、父に来客があっている旨を耳打ちした。どうやら、町奉行と大目付が訪ねて来ているという。
それを聞いて、睦之介は鼻を鳴らした。
(派閥の会合か……)
大目付は知らないが、町奉行は父の子飼いと呼べる谷原派の武士である。谷原派、即ちそれが佐幕党であり、加藤甚左衛門と対立している者達だった。
「今は父上の部屋か?」
「いえ、客間でございます」
「なんだ」
睦之介の部屋は、屋敷の一番奥にある。そこへ行くには客間を通らねばならない。朝帰りを知られると、また小言を頂戴する事になる。
(気が重い)
と、恐る恐る廊下を歩いていると、客間の障子は誰も寄るなと言わんばかりに固く閉じられていた。
(おおよそ、勤王党を駆逐する密議だろうよ)
そう思いながらも、これ幸いにと素早く通り過ぎようとした時、
「睦之介」
と、怒気を孕んだ声が飛んできた。父の声だ。熱感は無いが、怒っている事は長らくこの親の子をしている経験から判る。こうなれば、諦める他に術はない。
「何かご用でしょうか」
睦之介が観念して廊下に控えると、障子が勢いよく開き、織部が呆れ顔で見下ろしていた。まるで無能者を見下すような、冷たい目である。
「また朝帰りか」
「……」
「このような時勢という時に、お前は」
「いやはや、面目次第もございませぬ」
言い訳のしようもない。睦之介に今出来る事は、ただ神妙な顔で俯き時が過ぎるのを待つだけである。
「甚左衛門の小倅とつるんでいたのではあるまいな?」
「まさか。父上に諭されて以降は会っておりませぬ」
父からは、楊三郎と会う事を固く禁じていた。そうなったのは最近の事で、道場で共に修行していた頃は何も言わなかった。勿論、密かなる関係の事も知らない。
「お前という奴は、とんだ放蕩息子だな。長兄は儂の補佐をし、次兄は他家を継いでお役目に励んでいる。一方、お前は朝帰りか」
睦之介は、蝉時雨のように降り注ぐ罵声を、遠いもののように聞き流していた。
(兄は兄だ)
しかも、自分は三男坊。何の期待もされずに生まれ育った。それを何を今更……と、思う。
「たまには本でも読むのだな。今や時勢はどうなるか判らぬ。それを見通す為に必要なものは、学問と弁舌だ。剣でどうにかなる時代ではない」
「しかし、動乱には剣が活かせる事があるやもしれません」
「馬鹿者。お前は谷原家の男子だぞ。言わば、下士を号令し率いる身分。お前が剣を奮う場があるものか」
そうだった。睦之介は不用意に発言した自分を悔やんだ。
父は文官である。前藩主・原田長種に見込まれ、文官として出世したからか武よりも学を重んじる性格なのだ。
(これは長くなる)
そう思ったのも束の間、思わぬ助け舟が入った。
「まぁまぁ、谷原様」
睦之介は驚いて顔を挙げた。言ったのは、大目付だった。
(確か、名前は赤橋頼母だったか)
色白で怜悧という言葉を具現化したような顔をした赤橋は、その口元に僅かばかりの笑みを浮かべていた。
「まだ若いのですし」
「赤橋殿。若さで許すのは、ちと甘いというものではないか?」
「そうかもしれませぬが、この時分は何もかも面白くないと感じるものです。将来が全て見えてしまう気になる。しかも、三男坊ならば尚更の事。だから酒色に溺れ無頼を気取るのでしょう」
「しかし、我が谷原家の男子だ」
「もうすぐ気付きますよ。それに、俗世間を知る事は悪い事ばかりではありません。何も知らず学問ばかりで育った者は、理屈倒れで使い物になりませぬ」
三十を少し過ぎた若き大目付の言葉に、睦之介は何故か嬉しくなっていた。この人は、判ってくれているのだ。
「睦之介。今回ばかりは赤橋殿に免じて許してやる。しかし、世の中が動いている事は忘れるなよ」
「かしこまりました」
睦之介立ち上がると、踵を返して自室に駆け込んだ。
部屋には布団が敷かれていた。井上が気を回したのだろう。その上に、大の字になって横になった。
「勤王だろうが、佐幕だろうが」
俺には関係ない。遠い世界の話だ。外国船が来ようが、諸藩が喚こうが、徳河幕府の屋台骨は揺らぐ事はなく、このまま世の中は当たり前のように続いていく。
(だから面白くない)
したたかな眠気に襲われ、睦之介は目を閉じた。
谷原睦之介は師吉町にある馴染みの出会茶屋を出ると、朝焼けに染まる空を仰ぎ見て、一つ溜め息を吐いた。
(いつかは終わらさねばなるまい……)
長く忍ばせるには耐え難く、危険を孕んだ関係である。
不義の恋とも呼べる。何せ密会の相手は、父・谷原織部の政敵、加藤甚左衛門の三男・加藤楊三郎なのである。
まだ身体に残る楊三郎の体温から、昨夜の官能的な秘め事を思い出せば、後ろめたさに胸が痛む。しかし、それこそが情交を更に燃え上がらせる刺激になっているのは確かだった。
女形のように妖艶で、細い楊三郎の身体が脳裏に浮かんだ。どのような事情があるにしろ、離れがたい男である。
「俺は、どうすればよいのだ」
と、呟く。
楊三郎は、睦之介の二つ年下の十九歳。同じ大組に属する、怡土藩の上士である。
出会ったのは五年前、丹下流羽島道場での事だった。
江戸藩邸に詰めるの家に生まれた楊三郎は、十四歳で父に従って怡土にやってきた。入国の翌日には羽島道場へ入門し、その世話役に歳が近いという理由から睦之介が選ばれたのだ。
楊三郎とは、何故か最初から馬が合った。それは、己の置かれた境遇が何となく似ていたからであろう。同じ大組格の上士。お互いの父は藩内でも有名な出世魚であるが、自分達は家督に関係ない部屋住みの三男坊。
ただ剣の腕に限っては、楊三郎だけが上達した。初めは睦之介が圧倒していたものの、いつの間にか並ばれ、そして抜かれた。今では羽島道場始まって以来の俊英と呼ばれるまでになっている。
自分とて、それなりの剣を使う。並みの相手には負けない自信はあるが、楊三郎は違う。持って生まれた天稟が段違いなのだ。
そんな楊三郎と、[念友]とも呼ばれる仲になったのは二年前である。これも剣に関わる事が発端だった。その時の記憶は遠く霞んだものになり、思い出す事も少ない。
睦之介は、前原町の湯屋に立ち寄った。前原町は城下でも猥雑な地区の一つで、遊郭帰りの男を相手にした湯屋が多い。睦之介もまたそうで、屋敷に戻る前に、酒気と楊三郎の残り香を落とすつもりだった。
鍛え抜かれた小麦色の身体を、ゆっくりと熱い湯に沈めた。強ばった筋肉が溶けていく。
思わず声が出た。若い男同士の情交で、身体は疲れ果てていたのだ。
「それでよう、脱がした女はよ」
「おう、それで?」
近くでは、町人達が朝から猥談に興じていた。卑しい笑い声。そこには、何も縛られない自由がある。
(いっそ、町人だったら)
と、羨ましさを感じた。
いや、違う。こんな時勢に生まれさえしなければ悩まずに済んだのだ。
世の中は、風雲急を告げていた。外国船が相次いで来寇し、幕府はそれに毅然とした態度を示せないでいる。そうした事態の中で、国を憂う者が尊皇攘夷と言い出し、朝廷を巻き込んで幕府と激しく対立しているのだ。
そのような動乱を前にして、北部九州の怡土藩も無関係ではいられず、藩内にも中央の対立が波及していた。
(この騒ぎのせいなのだ、全て)
父は佐幕に付き、楊三郎の父が勤王に付いた。それが、今まで出世競争だけであった両家の争いを、より一層ややこしいものにし、結果として楊三郎との交流を禁じられる仕儀に至った。
睦之介の屋敷は怡土城の傍、大番丁にある。古くから原田家に仕える大組格の上士が住まう、閑静な武家地だ。
帰宅すると、井上久兵衛に出迎えられた。薄い髪に無理矢理髷を結ったこの老人は、谷原家に古くから仕える執事である。井上は声を潜め、父に来客があっている旨を耳打ちした。どうやら、町奉行と大目付が訪ねて来ているという。
それを聞いて、睦之介は鼻を鳴らした。
(派閥の会合か……)
大目付は知らないが、町奉行は父の子飼いと呼べる谷原派の武士である。谷原派、即ちそれが佐幕党であり、加藤甚左衛門と対立している者達だった。
「今は父上の部屋か?」
「いえ、客間でございます」
「なんだ」
睦之介の部屋は、屋敷の一番奥にある。そこへ行くには客間を通らねばならない。朝帰りを知られると、また小言を頂戴する事になる。
(気が重い)
と、恐る恐る廊下を歩いていると、客間の障子は誰も寄るなと言わんばかりに固く閉じられていた。
(おおよそ、勤王党を駆逐する密議だろうよ)
そう思いながらも、これ幸いにと素早く通り過ぎようとした時、
「睦之介」
と、怒気を孕んだ声が飛んできた。父の声だ。熱感は無いが、怒っている事は長らくこの親の子をしている経験から判る。こうなれば、諦める他に術はない。
「何かご用でしょうか」
睦之介が観念して廊下に控えると、障子が勢いよく開き、織部が呆れ顔で見下ろしていた。まるで無能者を見下すような、冷たい目である。
「また朝帰りか」
「……」
「このような時勢という時に、お前は」
「いやはや、面目次第もございませぬ」
言い訳のしようもない。睦之介に今出来る事は、ただ神妙な顔で俯き時が過ぎるのを待つだけである。
「甚左衛門の小倅とつるんでいたのではあるまいな?」
「まさか。父上に諭されて以降は会っておりませぬ」
父からは、楊三郎と会う事を固く禁じていた。そうなったのは最近の事で、道場で共に修行していた頃は何も言わなかった。勿論、密かなる関係の事も知らない。
「お前という奴は、とんだ放蕩息子だな。長兄は儂の補佐をし、次兄は他家を継いでお役目に励んでいる。一方、お前は朝帰りか」
睦之介は、蝉時雨のように降り注ぐ罵声を、遠いもののように聞き流していた。
(兄は兄だ)
しかも、自分は三男坊。何の期待もされずに生まれ育った。それを何を今更……と、思う。
「たまには本でも読むのだな。今や時勢はどうなるか判らぬ。それを見通す為に必要なものは、学問と弁舌だ。剣でどうにかなる時代ではない」
「しかし、動乱には剣が活かせる事があるやもしれません」
「馬鹿者。お前は谷原家の男子だぞ。言わば、下士を号令し率いる身分。お前が剣を奮う場があるものか」
そうだった。睦之介は不用意に発言した自分を悔やんだ。
父は文官である。前藩主・原田長種に見込まれ、文官として出世したからか武よりも学を重んじる性格なのだ。
(これは長くなる)
そう思ったのも束の間、思わぬ助け舟が入った。
「まぁまぁ、谷原様」
睦之介は驚いて顔を挙げた。言ったのは、大目付だった。
(確か、名前は赤橋頼母だったか)
色白で怜悧という言葉を具現化したような顔をした赤橋は、その口元に僅かばかりの笑みを浮かべていた。
「まだ若いのですし」
「赤橋殿。若さで許すのは、ちと甘いというものではないか?」
「そうかもしれませぬが、この時分は何もかも面白くないと感じるものです。将来が全て見えてしまう気になる。しかも、三男坊ならば尚更の事。だから酒色に溺れ無頼を気取るのでしょう」
「しかし、我が谷原家の男子だ」
「もうすぐ気付きますよ。それに、俗世間を知る事は悪い事ばかりではありません。何も知らず学問ばかりで育った者は、理屈倒れで使い物になりませぬ」
三十を少し過ぎた若き大目付の言葉に、睦之介は何故か嬉しくなっていた。この人は、判ってくれているのだ。
「睦之介。今回ばかりは赤橋殿に免じて許してやる。しかし、世の中が動いている事は忘れるなよ」
「かしこまりました」
睦之介立ち上がると、踵を返して自室に駆け込んだ。
部屋には布団が敷かれていた。井上が気を回したのだろう。その上に、大の字になって横になった。
「勤王だろうが、佐幕だろうが」
俺には関係ない。遠い世界の話だ。外国船が来ようが、諸藩が喚こうが、徳河幕府の屋台骨は揺らぐ事はなく、このまま世の中は当たり前のように続いていく。
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