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外道宿決斗始末
外道宿決斗始末-2
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二
淡雲が名を告げると、その武士は厳めしく頷いた。
歳は三十になるかどうか。がっしりとした体躯を持ち、色黒で顔は濃い。いかにも、南海の果てから江戸へ来た田舎武士という感じだ。
下谷茅町。不忍池を臨むように位置する、小さな寺院だった。門前で供の仙松が訪ないを入れると、小坊主の代わりに偉そうな浅黄裏が出てきたのだ。
「貴殿が益屋殿か。お待ちしておりました」
流暢な言葉に、淡雲は一瞬だけ驚いた。この武士の藩は薩摩。江戸の者では聞き取りにくい酷い訛りを持つ。過去に何度か薩摩者と話したことがあるが、地の言葉に詳しい者を介さなければ、会話が成立しないほどだった。
だが、この薩摩藩士には訛りが一切なかった。浅黄裏と思っていたが、江戸は長いのかもしれない。
「ここからは、おひとりで」
淡雲を中へ促そうとした武士が、仙松に向かって言った。仙松が横目で淡雲を一瞥したので、頷いて応えた。
「なぁに、心配はいるまいよ」
今夜の会談は、向こうから希望したことだった。これまでは人を挟んでの交渉だったが、今日からは頭領同士が雁首を揃えた直接の話し合い。ここで薩摩藩が自分を殺せば、手に入れるはずの巨利をどぶに捨てることになる。
長い廊下を歩かされ、庫裏の一室に通された。境内に面した障子は開け放たれ、昼間の暑気を感じさせる、生ぬるい夜風が淡雲を出迎えた。
「殿はすぐにお越しになります。暫しお待ちを」
淡雲は案内してくれた武士に恭しく一礼をすると、その視線を境内に向けた。
時刻は、暮れ六つ(午後六時)を過ぎた頃。夜の帳は既に降り、境内の石塔や池も闇の中に溶けている。
淡雲は、新たな玄海党を作り上げようとしていた。その為に、旧玄海党の残党を糾合し、また鄭行龍と渡りをつけた。しかし、それだけでは玄海党の二の舞になる。強大な後ろ盾がなければ、幕府に簡単に潰される。故に淡雲は、これからの抜け荷に薩摩藩を嚙ませようとしていた。
薩摩藩の参加は、政治的な思惑だけではなく、地理的な要素もある。これまで通り玄界灘での取引は、監視の目が厳しい。幕府は北部九州の諸藩に命じて、海上の取り締まりを強化しているのだ。
そこで目を付けたのが、南回りの海路だった。玄界灘ではなく、南に下って薩摩を中継基地にするという計画だった。
薩摩という存在は、淡雲にとって理想の相手だった。薩摩は南海の果て。幕府の目も届きにくい上に、密偵が潜入することが最も困難な藩。七十七万石を有し徳川家とも縁が深いという権力と権威がある。そして何より、琉球貿易で培った経験があった。同志として組むには、これ以上の相手はいない。
玄海党は福岡城代や福岡勤番という、幕府の役人を引き込んだが、淡雲に言わせればそれが失敗だったと言える。所詮は小役人なのだ。どこかの藩と組み、組織の中枢まで組み込めば、下手を打つことはなかったはずだ。
淡雲は、まず安定した抜け荷の道を構築したかった。その為に薩摩藩に持ち掛けたのだが、薩摩藩にしてもそれは願ってもないことだったに違いない。
薩摩藩の財政は、危機的な状況にある。それは昨日今日始まったものではなく、慢性的であるが故に、その根も深かった。
そこが淡雲の攻めどころだった。ただの抜け荷ではなく、目玉は阿芙蓉である。それだけで、抜け荷の利益は倍以上に跳ね上がる。薩摩藩はすぐに飛びつくはずであろう。
ふと、周囲が騒がしくなった。足音。力強い、自信に満ちた足運び。淡雲はいよいよか、と平伏した。
襖が開き、何者かが淡雲の前に座った。
「面を上げよ」
声は野太く、酒焼けをしたように聞き取りにくい。しかし、どこか腹にずしんとくる重さがある。
「はっ……」
ゆっくりと顔を上げると、そこには堂々とした体躯の男が座っていた。
全てが太い。眉も眼も鼻も唇も、顎も首も、肩も腕も胴回りも、髪の一本一本に至るまで太い。
だと言うのに、粗野さは全く感じられない。表情や佇まいに、品の良さを感じるのだ。それが妙に、萩尾大楽に似ている。
「よう来たな、益屋。儂が、重豪だ」
島津左近衛権中将重豪。島津氏二十五代当主にして、薩摩藩八代目藩主。淡雲は軽く目を伏せた。
「この度は、お目通りを許していただき、誠にありがたく……」
「よいよい」
と、重豪は一笑して淡雲の言葉を遮った。この男も、喋りに薩摩の訛りは全く感じられない。
「おぬしの申し出、大変ありがたい。我が藩の台所事情は、中々厳しいものがあってのう。それぐらいは当然存じておろう」
淡雲は、コクリと頷いた。
淡雲の表の正業は、両替商。大名貸しもしているので、薩摩藩の財政難は情報として耳に入っている。それだけでなく、手を組むにあたって人を使って調べさせもしたのだ。
薩摩藩は特殊な支配体制や農業技術の遅れから、藩政初期から財政的に恵まれていなかった。それに追い打ちをかけるように、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)に木曽三川の治水事業を命ぜられ、更には藩邸が度重なる焼失に見舞われるなど、不運が続いた。
そして、今こうして目の前にいる男の存在。薩摩が持つ、独特かつ閉じた気風を払拭する為に、様々な改革をしている。そこにも多額な藩費が注ぎ込まれていて、噂では大名貸しからも資金調達を渋られているという。
「おぬしからの申し出を受けた時、銭の貸し付けかと思ったが……まさか、まさか」
「恐れながら、今この状況で大名貸しをしたところで、こちらに旨味はございません」
「旨味のう」
淡雲は、背筋を伸ばした。そして、やや息を吸って丹田に力を込めた。
ここで媚びるように接すれば、重豪は恐らく自分を認めることはないだろう。認めなければ、いいように扱われて捨てられるだけだ。対等の関係として、島津重豪と組む。相手にその気概を見せなければ、重豪は益屋淡雲という男を認めないはずだ。
「ええ、旨味でございます。利と申し上げてもよろしいでしょう」
淡雲はゆっくりと口を開き、重豪を見据えた。
「わたくしも商売人ゆえ、それ相応の見返りが無くては銭をお貸ししません。ご不興は承知で申し上げますが、この状況でご家中へ銭をお貸ししても、大火で燃え上がる屋敷に柄杓で水を撒くようなもの」
重豪の太い眉が、一度ピクリと動いた。
「ほう。当家の懐は、大火で燃え上がっている最中か」
「いかにも。幾らかお貸ししたところで、すぐに消えてしまいます。ですので、わたくしが提案したのは、水そのものではなく水源でございます」
「わかる話だ」
と、重豪は腕を組んだ。袖から太い腕がちらりと見える。剣術の方もやっているのだろう。よく鍛えられていた。
「わたくしと組むことで、それが可能になります。ご領内の地を中継地としてお貸しいただき、一切の安全を保障してくださるだけで、薩摩の地から莫大な量の水が湧き出すはずでございます」
「阿芙蓉は、公儀の禁制だ」
阿芙蓉は耶蘇(キリスト教)と並ぶ、重大なご禁制である。薬用で使われるのが殆どであるが、吸煙すると倦怠感に襲われ、常軌を逸した錯乱状態に陥る恐れがあるからというのが理由だった。
禁制にするべきだと訴えたのは、かの大岡忠相だ。八代将軍・吉宗がその進言を入れ、国内の生産販売は厳しい管理下に置かれ、唐土からの輸入も固く禁じている。
「おぬしは、その阿芙蓉をわしに扱えというのだな?」
淡雲は、力強く頷いた。
「その為に、わたくしは今ここにおります」
「わしの義理の祖母であり育ての母たる浄岸院は、その阿芙蓉を禁制にした吉宗公の養女である。それにおぬしは知らぬと思うが、わしは相良侯とは存外仲が良い」
「ですが亡き浄岸院様も田沼様も、ご家中の借財を肩代わりすることはございますまい」
「借金を返せても、お家が潰されれば元も子もない」
「島津七十七万石を潰す余裕は、今のご公儀にはございません」
「そうとも断言できぬぞ。玄海党とやらの一件で、公儀は抜け荷に敏感になっておる。ここで薩摩が絡んでいるとわかれば、いくら相良侯と昵懇とはいえ」
「……確かにそうかもしれません。ですが、このまま柄杓の水だけを求めるような手ばかりを打っていては、薩摩に待っているのは焼け野原でございます」
淡雲は、そう言うと懐から帳面を一冊取りだした。
それは、阿芙蓉を含む抜け荷をどう進めるか、また利の分配などを記した概要である。
「ですが、銭が湧き出る源さえ手に入れば、重豪様は何でもお出来になります。改革だけではございません。西洋から珍しき品々を取り寄せることも可能になるのです。お好きなのでしょう?」
「よく喋る爺さんだ」
重豪はそう吐き捨て、脇息に身を委ねた。
「わたくしも、命を賭しておりますゆえ」
「銭は必要だ。それこそ、湯水のようにな」
「まさに。わたくしとて、そうでございます」
「ふむ。……わしはな、薩摩という土地が嫌いなのだ。何を話しているかわからぬ言葉といい、兵児二才などという野蛮で粗野な風習と見苦しい容貌といい、未だ戦国乱世の遺風を吹かせていることが、恥ずかしくてたまらん」
淡雲は重豪の話に耳を傾けつつ、内心で頷いた。
応対に出た武士も重豪も、薩摩訛りではない。その理由が、重豪の薩摩嫌いにあるのだ。
「だが薩摩をどれだけ嫌っても、わしは薩摩藩主。逃げも隠れも出来ん。ならば、出来ることは一つ。薩摩を江戸者に笑われぬようにすること。その為に藩士の教育を促し、また町民百姓の為にも学問所を設けた。それだけではないが、全て薩摩から閉鎖的な気風を排除する為よ。でなければ、我が藩に未来はない」
「その為に必要なものが、阿芙蓉でございます」
淡雲が、帳面を重豪の方へ差し出す。重豪は、それを一瞥して鼻を鳴らした。
「……益屋。薩摩が一枚嚙むとして、何か懸念はあるか?」
「いえ、公儀の密偵に漏れなければ」
と、そこまで言って、淡雲の脳裏にあの男が浮かび上がった。
「一人、厄介な男がおります」
「一人? たった一人か?」
「ええ。萩尾大楽という浪人者でございます」
重豪が、脇息から身を起こす。その瞳に、微かな好奇心の火が灯ったのがわかった。
「重豪様。この萩尾は、ただの浪人ではございません。神君家康公の血を引く者でして、かの玄海党を討滅せしめた立役者にございます」
「なるほど。我々が第二の玄海党となれば、この男は黙ってはいないということだな?」
淡雲は頷き、大楽の血筋故に表立って対立しては、こちらが窮地になる可能性があると付け加えた。
「益屋、簡単な話ではないか。その萩尾とやらを殺したい者、或いは死ねば得する者を動かせばいい。何なら、手を貸してもよいぞ?」
「重豪様のお手を煩わせるわけには」
「いいや、構わん。抜け荷の邪魔になるのなら、薩摩の敵でもある。そうだ、ちょうどいい人材がいる。御家大事の忠義一徹ではあるが、わしの政策に反対する頑愚な者たちが十人ばかりいる。その者らをどう始末しようか迷っていたところだ。どうせなら、萩尾とかいう男と刺し違わせても構わんぞ。どうせ殺すつもりだ」
話はこれで終わりだと言わんばかりに、重豪はすくっと立ち上がった。
寺を出ると、仙松が唐獅子組の若い衆を連れて待っていた。駕籠が用意され、淡雲は「ご苦労さん」とだけ言って、中に乗り込んだ。
重豪との交渉は、上出来だった。殺されても不思議はない中、薩摩藩を味方に引き入れたことは大きい。また一つ、賭けに勝った。
しかし、不安もある。それは漠然とした、重豪への不信感。意次と昵懇だから、というわけではない。あの男が、どうにも信じられない。利口であるが故に、先の先のその先を見越して裏切る可能性がある。
公儀から厳しい追及を受けた場合、重豪は簡単に自分を差し出すだろう。そうならぬ為にも、重豪と一橋治済を一日でも早く繋げる必要がある。
(その前に、萩尾を殺すことだな)
大楽さえ死ねば、多少は楽になる。その為には、あれを使おう。勿体ない気もするが、あれならば仕損じることはあるまい。
「惜しい男ではあるが……仕方のないことか」
淡雲は、絶対に自分には従うことのない男の抹殺を決めた。
三
秋にしては、穏やかな海だった。
盥に張った水のように、穏やかな水面である。秋の海は、冬に向かって荒れだす。しかも、それは徐々にではなく、急に牙を剥く。だから気を抜けないと、言っていた奴がいたことを、大楽は思い出した。
博多浦。小戸大神宮の前から舟を出し、御膳立と呼ばれる岩山を迂回し、残島が見える沖合へ僅かに舟を出した辺りである。
付き従っているのは、玄海党事件の後に雇い入れた老僕の弥平治だけである。弥平治は大楽の身の回りの世話や、道場の雑用をこなしてくれる男で、歳は六十になるかどうか。生まれは津屋崎の漁師の家らしく、釣りもやるし櫓も扱えるので、船頭の代わりに随行させていた。
朝から竿を出し、今は昼を過ぎた頃。道場から持参した握り飯を食い終えたあとである。弥平治は竿を叩いているが、大楽は早々に仕舞って、堺屋儀平の煙管を吹かせている。
今のところの釣果は鯵・鰶・鱚が数匹。弥平治はこれに、伊佐幾を二匹も釣り上げている。魚種も量も、今日は弥平治に軍配である。
「いい天気でございますねぇ、旦那様」
針先の餌を、活きのいいものに替えつつ弥平治が言った。
「お陰で眠くなるぜ」
夏の名残りを見せる日差しの中、風は海上でも無風に近い。波は船底を僅かに揺らす程度のべた凪で、それが眠気を誘う。
数か月前、この海が荒れ狂い多くの命を飲み込んだ。兄と頼った男も、家という厄介事を押し付けてしまった弟も、かつて惚れていた義妹も、欲望という名の海の波濤の中で死んだ。死なせてしまった。
その原因となった玄海党は潰したが、それで全てが解決したとは言い難い。この海に平和と秩序が戻るかと思ったが、待っていたのは、新たな地獄だった。
「どうぞ、ひと眠りしてくだせぇ。あっしは、もう少しだけ粘ってみまさぁ」
大楽は返事代わりに煙管を置くと、視線を右手に浮かぶ残島へと向けた。
あの島も、玄海党との闘争の記憶が色濃い。何せ、縫子を死なせてしまった場所なのだ。縫子と市丸が攫われ、大楽は一人で来いと脅された。
死ぬつもりだった。縫子と市丸を生きて帰し、自分はあそこで死ぬつもりだったのだ。それが、縫子の命と引き換えに、助かる羽目になってしまった。
忸怩たる思いが、玄海党打倒に繋がったが、その後の景色は思っていたものではなかった。
まず玄海党が潰れると、大規模な残党狩りが北部九州沿岸で行われた。残党のみならず、協力者はことごとく捕縛され、彼らと通じていた役人も一掃された。それだけでなく、田沼意次の名によって、福岡城代はじめ幹部職の幕臣は交代。福岡城内では大規模な人事異動が実施された。
また、こうした動きは大楽たちのいる斯摩藩も同様だった。大目付へと出世した乃美蔵主が、苛烈な内部粛清を断行。玄海党に通じていた者を始末するだけでなく、宍戸川多聞や権藤次郎兵衛の一族を領外に追放し、彼らの派閥に属した主だった者は切腹に処された。
これだけを見れば、二度と玄海党を生み出さない為の処置とも思えるが、予想だにしなかったのは、この後だった。
玄海党という表にも裏にも通じる重石が無くなったことで、福岡・博多の秩序が失われてしまったのだ。その混乱に拍車を掛けたのが、大規模な人事異動を敢行し、慣れない役人たちだけで福博の統治しなければならなくなった福岡城の存在だった。
汚職役人を一掃して人事異動を行った結果、福岡城の行政機能が著しく鈍化。それが治安の悪化を招き、方々でやくざや浪人が徒党を組んで第二の玄海党にならんと覇を唱える、破落戸どもの群雄割拠となり果てていた。
「全く、嫌になる」
大楽は独り言ちた。
「何かございましたかい?」
「胸糞悪いことを思い出しただけさ」
弥平治はそれには返事をせず、釣り上げたばかりの鯵を魚籠に投げ入れた。
今日の弥平治は運いている。大楽にはそれも気に入らない。
「まぁ、最近は何かときな臭くなりやしたからねぇ」
「爺さんの目にはそう映るかい?」
「へぇ。目というより、耳に入ってくるんですがねぇ。福博も酷い有様のようですが、西の方では浪人ややくざ者が領主然と振舞っているようですよ。目が届かない分、勝手が出来るんですかねぇ」
そうした噂は、否が応でも耳に入ってくる。
もちろん、こうした現状に思うところがないわけではない。玄海党がいた頃の方が、秩序があって良かった、という声もあることも知っている。予想だにしなかった事態だが、それでも玄海党は潰さなければならなかった。そのことに後悔はない。
ただ治安の悪化は、大楽たちの周囲も騒がしくさせていた。調子に乗った半端者が姪浜まで出張ってくることがあるのだ。玄海党亡き後の治安の悪化に責任を負うつもりはないが、主計が残した所領を守る責任はある。それは命に代えても果たさなければならない。
「爺さん、そうとわかれば帰ろうか。いつ悪党が押し寄せてくるかわかったもんじゃねぇからよ」
暖簾には、〔寺源〕と染め抜かれていた。
姪浜宿の水町。その一角にある、小料理屋。土間に机が六つあり、奥には小上がりがある。また二階にも座席があって、簡単な宴席なら出来るようになっている。
「よう」
弥平治を連れて店に入った大楽は、ずっしりと重い魚籠を掲げた。
「これは旦那」
板場から、男が顔を出した。右の目元から口の端に至るまで、古い刃傷がある。この男は半助という板前で、今は店を開ける為の仕込みに追われているようである。
「ちょいと釣りに行ったら大漁でよ。俺たちだけじゃ食い切れねぇから、店で使ってくれねぇかい?」
と、大楽が魚籠を差し出した。
「いいんですか? こんなに」
「遠慮するな。どうせ、自分の店なんだし」
寺源は、大楽の店だった。旨い肴と酒を楽しみたいが為に、幕府より下賜された玄海党壊滅の慰労金の一部で開いたのである。それが原因で道場の懐事情は厳しくなったこともあったが、死んだ寺坂が「用心棒として使い物にならなくなったら、小料理屋なんぞ始めたい」と言っていたので、そのことに迷いも後悔もなかった。
また寺源という店の名前は、寺坂の姓名から一字ずつ取ったもので、大楽にとってはこれが供養のつもりであった。
ただ大楽が寺源に関知するのは、基本的な経営だけである。どんな料理をいくらで出すか? どれだけ人を雇うか? という運営に関しては、半助に一任している。大楽としては、寺源の名前を持つ気の利いた店が欲しかっただけだった。
「それに半分以上は、この爺さんが釣ったもんだしな」
と、大楽は弥平治を一瞥した。弥平治は手を振って恐縮している。
「わかりました。それで、少しぐらい食べませんか?」
「いいのかい? 忙しいだろ?」
「構いません。簡単なものしか出来ませんが」
そう言うと、半助は魚籠を抱えて奥へと引っ込んだので、大楽は弥平治と隅の席に座った。
半助は、元々博多の古い居酒屋で板前をしていた。その腕を大楽は気に入り、「姪浜で料理人をしてくれ」と頼み込んだのだ。
歳は三十八。無口で愛想は良いとはいえず、決して客商売に向いた性格とは言い難いが、実直で義理堅い。それに客あしらいは、雇っている小女たちがやってくれるので、半助は料理さえ作っていればいい。
ただこの半助には、渡世人だった過去がある。今はしっかり足を洗っているが、十年前までは、〔鬼猿〕と呼ばれ、筑西と呼ばれる怡土・志摩の両郡では恐れられたらしい。
その話は、雇い入れようとした時に聞かされたものだった。「脛に疵がある半端な奴ですが、いいんですか?」と。勿論、大楽はそんなことは気にしなかった。今は足を洗っているのだし、脛に疵ならお互い様である。以来、大楽が半助の前歴について、話題にしたことはない。
暫くして、半助が鯵を刺身にして運んできた。それに酒が添えられている。料理もだが、酒にも半助はこだわっていて、自ら選んだ酒蔵から取り寄せている。そうした姿勢は宿場の者たちからも愛され、客が絶えることはない。寺源が稼いでくれるから、道場の門人たちは飢えずに済んでいる、と言っても過言ではないほどだ。
大楽が弥平治と、刺身を肴にちびちびと酒を飲んでいると、七尾が駆け込んできた。
「どうした」
大楽は、席を立って七尾を迎え入れた。七尾は、肩で息をしている。どこから駆けてきたのだろうか。
「先生、また例の奴らです」
「例の……。あいつらか」
「ええ、今は平岡さんが対応しています。与吉の茶屋で因縁をつけて、なんやかんや喚いていまして」
与吉の茶屋は、姪浜宿の外。室見川の傍にある、旅人用の茶屋だった。
「相手は八幡一家で間違いはないんだな?」
「ええ。自分たちでそう言っていました」
八幡一家は、最近になって姪浜を狙っている、福岡のやくざである。頻繁に現れては問題を起こすので、八幡一家絡みで何かあれば連絡するよう門人たちに命じていたのだ。
「わかった。ちょっくら、顔を出す」
と、大楽は弥平治に目を向け、「残りは食べといてくれ」と告げた。
淡雲が名を告げると、その武士は厳めしく頷いた。
歳は三十になるかどうか。がっしりとした体躯を持ち、色黒で顔は濃い。いかにも、南海の果てから江戸へ来た田舎武士という感じだ。
下谷茅町。不忍池を臨むように位置する、小さな寺院だった。門前で供の仙松が訪ないを入れると、小坊主の代わりに偉そうな浅黄裏が出てきたのだ。
「貴殿が益屋殿か。お待ちしておりました」
流暢な言葉に、淡雲は一瞬だけ驚いた。この武士の藩は薩摩。江戸の者では聞き取りにくい酷い訛りを持つ。過去に何度か薩摩者と話したことがあるが、地の言葉に詳しい者を介さなければ、会話が成立しないほどだった。
だが、この薩摩藩士には訛りが一切なかった。浅黄裏と思っていたが、江戸は長いのかもしれない。
「ここからは、おひとりで」
淡雲を中へ促そうとした武士が、仙松に向かって言った。仙松が横目で淡雲を一瞥したので、頷いて応えた。
「なぁに、心配はいるまいよ」
今夜の会談は、向こうから希望したことだった。これまでは人を挟んでの交渉だったが、今日からは頭領同士が雁首を揃えた直接の話し合い。ここで薩摩藩が自分を殺せば、手に入れるはずの巨利をどぶに捨てることになる。
長い廊下を歩かされ、庫裏の一室に通された。境内に面した障子は開け放たれ、昼間の暑気を感じさせる、生ぬるい夜風が淡雲を出迎えた。
「殿はすぐにお越しになります。暫しお待ちを」
淡雲は案内してくれた武士に恭しく一礼をすると、その視線を境内に向けた。
時刻は、暮れ六つ(午後六時)を過ぎた頃。夜の帳は既に降り、境内の石塔や池も闇の中に溶けている。
淡雲は、新たな玄海党を作り上げようとしていた。その為に、旧玄海党の残党を糾合し、また鄭行龍と渡りをつけた。しかし、それだけでは玄海党の二の舞になる。強大な後ろ盾がなければ、幕府に簡単に潰される。故に淡雲は、これからの抜け荷に薩摩藩を嚙ませようとしていた。
薩摩藩の参加は、政治的な思惑だけではなく、地理的な要素もある。これまで通り玄界灘での取引は、監視の目が厳しい。幕府は北部九州の諸藩に命じて、海上の取り締まりを強化しているのだ。
そこで目を付けたのが、南回りの海路だった。玄界灘ではなく、南に下って薩摩を中継基地にするという計画だった。
薩摩という存在は、淡雲にとって理想の相手だった。薩摩は南海の果て。幕府の目も届きにくい上に、密偵が潜入することが最も困難な藩。七十七万石を有し徳川家とも縁が深いという権力と権威がある。そして何より、琉球貿易で培った経験があった。同志として組むには、これ以上の相手はいない。
玄海党は福岡城代や福岡勤番という、幕府の役人を引き込んだが、淡雲に言わせればそれが失敗だったと言える。所詮は小役人なのだ。どこかの藩と組み、組織の中枢まで組み込めば、下手を打つことはなかったはずだ。
淡雲は、まず安定した抜け荷の道を構築したかった。その為に薩摩藩に持ち掛けたのだが、薩摩藩にしてもそれは願ってもないことだったに違いない。
薩摩藩の財政は、危機的な状況にある。それは昨日今日始まったものではなく、慢性的であるが故に、その根も深かった。
そこが淡雲の攻めどころだった。ただの抜け荷ではなく、目玉は阿芙蓉である。それだけで、抜け荷の利益は倍以上に跳ね上がる。薩摩藩はすぐに飛びつくはずであろう。
ふと、周囲が騒がしくなった。足音。力強い、自信に満ちた足運び。淡雲はいよいよか、と平伏した。
襖が開き、何者かが淡雲の前に座った。
「面を上げよ」
声は野太く、酒焼けをしたように聞き取りにくい。しかし、どこか腹にずしんとくる重さがある。
「はっ……」
ゆっくりと顔を上げると、そこには堂々とした体躯の男が座っていた。
全てが太い。眉も眼も鼻も唇も、顎も首も、肩も腕も胴回りも、髪の一本一本に至るまで太い。
だと言うのに、粗野さは全く感じられない。表情や佇まいに、品の良さを感じるのだ。それが妙に、萩尾大楽に似ている。
「よう来たな、益屋。儂が、重豪だ」
島津左近衛権中将重豪。島津氏二十五代当主にして、薩摩藩八代目藩主。淡雲は軽く目を伏せた。
「この度は、お目通りを許していただき、誠にありがたく……」
「よいよい」
と、重豪は一笑して淡雲の言葉を遮った。この男も、喋りに薩摩の訛りは全く感じられない。
「おぬしの申し出、大変ありがたい。我が藩の台所事情は、中々厳しいものがあってのう。それぐらいは当然存じておろう」
淡雲は、コクリと頷いた。
淡雲の表の正業は、両替商。大名貸しもしているので、薩摩藩の財政難は情報として耳に入っている。それだけでなく、手を組むにあたって人を使って調べさせもしたのだ。
薩摩藩は特殊な支配体制や農業技術の遅れから、藩政初期から財政的に恵まれていなかった。それに追い打ちをかけるように、宝暦年間(一七五一年~一七六四年)に木曽三川の治水事業を命ぜられ、更には藩邸が度重なる焼失に見舞われるなど、不運が続いた。
そして、今こうして目の前にいる男の存在。薩摩が持つ、独特かつ閉じた気風を払拭する為に、様々な改革をしている。そこにも多額な藩費が注ぎ込まれていて、噂では大名貸しからも資金調達を渋られているという。
「おぬしからの申し出を受けた時、銭の貸し付けかと思ったが……まさか、まさか」
「恐れながら、今この状況で大名貸しをしたところで、こちらに旨味はございません」
「旨味のう」
淡雲は、背筋を伸ばした。そして、やや息を吸って丹田に力を込めた。
ここで媚びるように接すれば、重豪は恐らく自分を認めることはないだろう。認めなければ、いいように扱われて捨てられるだけだ。対等の関係として、島津重豪と組む。相手にその気概を見せなければ、重豪は益屋淡雲という男を認めないはずだ。
「ええ、旨味でございます。利と申し上げてもよろしいでしょう」
淡雲はゆっくりと口を開き、重豪を見据えた。
「わたくしも商売人ゆえ、それ相応の見返りが無くては銭をお貸ししません。ご不興は承知で申し上げますが、この状況でご家中へ銭をお貸ししても、大火で燃え上がる屋敷に柄杓で水を撒くようなもの」
重豪の太い眉が、一度ピクリと動いた。
「ほう。当家の懐は、大火で燃え上がっている最中か」
「いかにも。幾らかお貸ししたところで、すぐに消えてしまいます。ですので、わたくしが提案したのは、水そのものではなく水源でございます」
「わかる話だ」
と、重豪は腕を組んだ。袖から太い腕がちらりと見える。剣術の方もやっているのだろう。よく鍛えられていた。
「わたくしと組むことで、それが可能になります。ご領内の地を中継地としてお貸しいただき、一切の安全を保障してくださるだけで、薩摩の地から莫大な量の水が湧き出すはずでございます」
「阿芙蓉は、公儀の禁制だ」
阿芙蓉は耶蘇(キリスト教)と並ぶ、重大なご禁制である。薬用で使われるのが殆どであるが、吸煙すると倦怠感に襲われ、常軌を逸した錯乱状態に陥る恐れがあるからというのが理由だった。
禁制にするべきだと訴えたのは、かの大岡忠相だ。八代将軍・吉宗がその進言を入れ、国内の生産販売は厳しい管理下に置かれ、唐土からの輸入も固く禁じている。
「おぬしは、その阿芙蓉をわしに扱えというのだな?」
淡雲は、力強く頷いた。
「その為に、わたくしは今ここにおります」
「わしの義理の祖母であり育ての母たる浄岸院は、その阿芙蓉を禁制にした吉宗公の養女である。それにおぬしは知らぬと思うが、わしは相良侯とは存外仲が良い」
「ですが亡き浄岸院様も田沼様も、ご家中の借財を肩代わりすることはございますまい」
「借金を返せても、お家が潰されれば元も子もない」
「島津七十七万石を潰す余裕は、今のご公儀にはございません」
「そうとも断言できぬぞ。玄海党とやらの一件で、公儀は抜け荷に敏感になっておる。ここで薩摩が絡んでいるとわかれば、いくら相良侯と昵懇とはいえ」
「……確かにそうかもしれません。ですが、このまま柄杓の水だけを求めるような手ばかりを打っていては、薩摩に待っているのは焼け野原でございます」
淡雲は、そう言うと懐から帳面を一冊取りだした。
それは、阿芙蓉を含む抜け荷をどう進めるか、また利の分配などを記した概要である。
「ですが、銭が湧き出る源さえ手に入れば、重豪様は何でもお出来になります。改革だけではございません。西洋から珍しき品々を取り寄せることも可能になるのです。お好きなのでしょう?」
「よく喋る爺さんだ」
重豪はそう吐き捨て、脇息に身を委ねた。
「わたくしも、命を賭しておりますゆえ」
「銭は必要だ。それこそ、湯水のようにな」
「まさに。わたくしとて、そうでございます」
「ふむ。……わしはな、薩摩という土地が嫌いなのだ。何を話しているかわからぬ言葉といい、兵児二才などという野蛮で粗野な風習と見苦しい容貌といい、未だ戦国乱世の遺風を吹かせていることが、恥ずかしくてたまらん」
淡雲は重豪の話に耳を傾けつつ、内心で頷いた。
応対に出た武士も重豪も、薩摩訛りではない。その理由が、重豪の薩摩嫌いにあるのだ。
「だが薩摩をどれだけ嫌っても、わしは薩摩藩主。逃げも隠れも出来ん。ならば、出来ることは一つ。薩摩を江戸者に笑われぬようにすること。その為に藩士の教育を促し、また町民百姓の為にも学問所を設けた。それだけではないが、全て薩摩から閉鎖的な気風を排除する為よ。でなければ、我が藩に未来はない」
「その為に必要なものが、阿芙蓉でございます」
淡雲が、帳面を重豪の方へ差し出す。重豪は、それを一瞥して鼻を鳴らした。
「……益屋。薩摩が一枚嚙むとして、何か懸念はあるか?」
「いえ、公儀の密偵に漏れなければ」
と、そこまで言って、淡雲の脳裏にあの男が浮かび上がった。
「一人、厄介な男がおります」
「一人? たった一人か?」
「ええ。萩尾大楽という浪人者でございます」
重豪が、脇息から身を起こす。その瞳に、微かな好奇心の火が灯ったのがわかった。
「重豪様。この萩尾は、ただの浪人ではございません。神君家康公の血を引く者でして、かの玄海党を討滅せしめた立役者にございます」
「なるほど。我々が第二の玄海党となれば、この男は黙ってはいないということだな?」
淡雲は頷き、大楽の血筋故に表立って対立しては、こちらが窮地になる可能性があると付け加えた。
「益屋、簡単な話ではないか。その萩尾とやらを殺したい者、或いは死ねば得する者を動かせばいい。何なら、手を貸してもよいぞ?」
「重豪様のお手を煩わせるわけには」
「いいや、構わん。抜け荷の邪魔になるのなら、薩摩の敵でもある。そうだ、ちょうどいい人材がいる。御家大事の忠義一徹ではあるが、わしの政策に反対する頑愚な者たちが十人ばかりいる。その者らをどう始末しようか迷っていたところだ。どうせなら、萩尾とかいう男と刺し違わせても構わんぞ。どうせ殺すつもりだ」
話はこれで終わりだと言わんばかりに、重豪はすくっと立ち上がった。
寺を出ると、仙松が唐獅子組の若い衆を連れて待っていた。駕籠が用意され、淡雲は「ご苦労さん」とだけ言って、中に乗り込んだ。
重豪との交渉は、上出来だった。殺されても不思議はない中、薩摩藩を味方に引き入れたことは大きい。また一つ、賭けに勝った。
しかし、不安もある。それは漠然とした、重豪への不信感。意次と昵懇だから、というわけではない。あの男が、どうにも信じられない。利口であるが故に、先の先のその先を見越して裏切る可能性がある。
公儀から厳しい追及を受けた場合、重豪は簡単に自分を差し出すだろう。そうならぬ為にも、重豪と一橋治済を一日でも早く繋げる必要がある。
(その前に、萩尾を殺すことだな)
大楽さえ死ねば、多少は楽になる。その為には、あれを使おう。勿体ない気もするが、あれならば仕損じることはあるまい。
「惜しい男ではあるが……仕方のないことか」
淡雲は、絶対に自分には従うことのない男の抹殺を決めた。
三
秋にしては、穏やかな海だった。
盥に張った水のように、穏やかな水面である。秋の海は、冬に向かって荒れだす。しかも、それは徐々にではなく、急に牙を剥く。だから気を抜けないと、言っていた奴がいたことを、大楽は思い出した。
博多浦。小戸大神宮の前から舟を出し、御膳立と呼ばれる岩山を迂回し、残島が見える沖合へ僅かに舟を出した辺りである。
付き従っているのは、玄海党事件の後に雇い入れた老僕の弥平治だけである。弥平治は大楽の身の回りの世話や、道場の雑用をこなしてくれる男で、歳は六十になるかどうか。生まれは津屋崎の漁師の家らしく、釣りもやるし櫓も扱えるので、船頭の代わりに随行させていた。
朝から竿を出し、今は昼を過ぎた頃。道場から持参した握り飯を食い終えたあとである。弥平治は竿を叩いているが、大楽は早々に仕舞って、堺屋儀平の煙管を吹かせている。
今のところの釣果は鯵・鰶・鱚が数匹。弥平治はこれに、伊佐幾を二匹も釣り上げている。魚種も量も、今日は弥平治に軍配である。
「いい天気でございますねぇ、旦那様」
針先の餌を、活きのいいものに替えつつ弥平治が言った。
「お陰で眠くなるぜ」
夏の名残りを見せる日差しの中、風は海上でも無風に近い。波は船底を僅かに揺らす程度のべた凪で、それが眠気を誘う。
数か月前、この海が荒れ狂い多くの命を飲み込んだ。兄と頼った男も、家という厄介事を押し付けてしまった弟も、かつて惚れていた義妹も、欲望という名の海の波濤の中で死んだ。死なせてしまった。
その原因となった玄海党は潰したが、それで全てが解決したとは言い難い。この海に平和と秩序が戻るかと思ったが、待っていたのは、新たな地獄だった。
「どうぞ、ひと眠りしてくだせぇ。あっしは、もう少しだけ粘ってみまさぁ」
大楽は返事代わりに煙管を置くと、視線を右手に浮かぶ残島へと向けた。
あの島も、玄海党との闘争の記憶が色濃い。何せ、縫子を死なせてしまった場所なのだ。縫子と市丸が攫われ、大楽は一人で来いと脅された。
死ぬつもりだった。縫子と市丸を生きて帰し、自分はあそこで死ぬつもりだったのだ。それが、縫子の命と引き換えに、助かる羽目になってしまった。
忸怩たる思いが、玄海党打倒に繋がったが、その後の景色は思っていたものではなかった。
まず玄海党が潰れると、大規模な残党狩りが北部九州沿岸で行われた。残党のみならず、協力者はことごとく捕縛され、彼らと通じていた役人も一掃された。それだけでなく、田沼意次の名によって、福岡城代はじめ幹部職の幕臣は交代。福岡城内では大規模な人事異動が実施された。
また、こうした動きは大楽たちのいる斯摩藩も同様だった。大目付へと出世した乃美蔵主が、苛烈な内部粛清を断行。玄海党に通じていた者を始末するだけでなく、宍戸川多聞や権藤次郎兵衛の一族を領外に追放し、彼らの派閥に属した主だった者は切腹に処された。
これだけを見れば、二度と玄海党を生み出さない為の処置とも思えるが、予想だにしなかったのは、この後だった。
玄海党という表にも裏にも通じる重石が無くなったことで、福岡・博多の秩序が失われてしまったのだ。その混乱に拍車を掛けたのが、大規模な人事異動を敢行し、慣れない役人たちだけで福博の統治しなければならなくなった福岡城の存在だった。
汚職役人を一掃して人事異動を行った結果、福岡城の行政機能が著しく鈍化。それが治安の悪化を招き、方々でやくざや浪人が徒党を組んで第二の玄海党にならんと覇を唱える、破落戸どもの群雄割拠となり果てていた。
「全く、嫌になる」
大楽は独り言ちた。
「何かございましたかい?」
「胸糞悪いことを思い出しただけさ」
弥平治はそれには返事をせず、釣り上げたばかりの鯵を魚籠に投げ入れた。
今日の弥平治は運いている。大楽にはそれも気に入らない。
「まぁ、最近は何かときな臭くなりやしたからねぇ」
「爺さんの目にはそう映るかい?」
「へぇ。目というより、耳に入ってくるんですがねぇ。福博も酷い有様のようですが、西の方では浪人ややくざ者が領主然と振舞っているようですよ。目が届かない分、勝手が出来るんですかねぇ」
そうした噂は、否が応でも耳に入ってくる。
もちろん、こうした現状に思うところがないわけではない。玄海党がいた頃の方が、秩序があって良かった、という声もあることも知っている。予想だにしなかった事態だが、それでも玄海党は潰さなければならなかった。そのことに後悔はない。
ただ治安の悪化は、大楽たちの周囲も騒がしくさせていた。調子に乗った半端者が姪浜まで出張ってくることがあるのだ。玄海党亡き後の治安の悪化に責任を負うつもりはないが、主計が残した所領を守る責任はある。それは命に代えても果たさなければならない。
「爺さん、そうとわかれば帰ろうか。いつ悪党が押し寄せてくるかわかったもんじゃねぇからよ」
暖簾には、〔寺源〕と染め抜かれていた。
姪浜宿の水町。その一角にある、小料理屋。土間に机が六つあり、奥には小上がりがある。また二階にも座席があって、簡単な宴席なら出来るようになっている。
「よう」
弥平治を連れて店に入った大楽は、ずっしりと重い魚籠を掲げた。
「これは旦那」
板場から、男が顔を出した。右の目元から口の端に至るまで、古い刃傷がある。この男は半助という板前で、今は店を開ける為の仕込みに追われているようである。
「ちょいと釣りに行ったら大漁でよ。俺たちだけじゃ食い切れねぇから、店で使ってくれねぇかい?」
と、大楽が魚籠を差し出した。
「いいんですか? こんなに」
「遠慮するな。どうせ、自分の店なんだし」
寺源は、大楽の店だった。旨い肴と酒を楽しみたいが為に、幕府より下賜された玄海党壊滅の慰労金の一部で開いたのである。それが原因で道場の懐事情は厳しくなったこともあったが、死んだ寺坂が「用心棒として使い物にならなくなったら、小料理屋なんぞ始めたい」と言っていたので、そのことに迷いも後悔もなかった。
また寺源という店の名前は、寺坂の姓名から一字ずつ取ったもので、大楽にとってはこれが供養のつもりであった。
ただ大楽が寺源に関知するのは、基本的な経営だけである。どんな料理をいくらで出すか? どれだけ人を雇うか? という運営に関しては、半助に一任している。大楽としては、寺源の名前を持つ気の利いた店が欲しかっただけだった。
「それに半分以上は、この爺さんが釣ったもんだしな」
と、大楽は弥平治を一瞥した。弥平治は手を振って恐縮している。
「わかりました。それで、少しぐらい食べませんか?」
「いいのかい? 忙しいだろ?」
「構いません。簡単なものしか出来ませんが」
そう言うと、半助は魚籠を抱えて奥へと引っ込んだので、大楽は弥平治と隅の席に座った。
半助は、元々博多の古い居酒屋で板前をしていた。その腕を大楽は気に入り、「姪浜で料理人をしてくれ」と頼み込んだのだ。
歳は三十八。無口で愛想は良いとはいえず、決して客商売に向いた性格とは言い難いが、実直で義理堅い。それに客あしらいは、雇っている小女たちがやってくれるので、半助は料理さえ作っていればいい。
ただこの半助には、渡世人だった過去がある。今はしっかり足を洗っているが、十年前までは、〔鬼猿〕と呼ばれ、筑西と呼ばれる怡土・志摩の両郡では恐れられたらしい。
その話は、雇い入れようとした時に聞かされたものだった。「脛に疵がある半端な奴ですが、いいんですか?」と。勿論、大楽はそんなことは気にしなかった。今は足を洗っているのだし、脛に疵ならお互い様である。以来、大楽が半助の前歴について、話題にしたことはない。
暫くして、半助が鯵を刺身にして運んできた。それに酒が添えられている。料理もだが、酒にも半助はこだわっていて、自ら選んだ酒蔵から取り寄せている。そうした姿勢は宿場の者たちからも愛され、客が絶えることはない。寺源が稼いでくれるから、道場の門人たちは飢えずに済んでいる、と言っても過言ではないほどだ。
大楽が弥平治と、刺身を肴にちびちびと酒を飲んでいると、七尾が駆け込んできた。
「どうした」
大楽は、席を立って七尾を迎え入れた。七尾は、肩で息をしている。どこから駆けてきたのだろうか。
「先生、また例の奴らです」
「例の……。あいつらか」
「ええ、今は平岡さんが対応しています。与吉の茶屋で因縁をつけて、なんやかんや喚いていまして」
与吉の茶屋は、姪浜宿の外。室見川の傍にある、旅人用の茶屋だった。
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八幡一家は、最近になって姪浜を狙っている、福岡のやくざである。頻繁に現れては問題を起こすので、八幡一家絡みで何かあれば連絡するよう門人たちに命じていたのだ。
「わかった。ちょっくら、顔を出す」
と、大楽は弥平治に目を向け、「残りは食べといてくれ」と告げた。
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