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外道宿決斗始末
外道宿決斗始末-1
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序章 子守りの用心棒
「ったく、退屈で仕方ねぇな……」
萩尾大楽は、煙管の雁首を叩いて灰を落とすと、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
玄海党事件があった、天明二年(一七八二年)から年が改まった春のこと。大楽は穏やかな日差しの中、大坂の煙管職人・堺屋儀平が手掛けた煙管を片手に、寺の濡れ縁から無邪気に遊ぶ子供たちの様子をぼんやりと眺めていた。
(まぁ、元気があるのは素晴らしいこった)
子供たちは境内を所狭しと駆け回りながら、竹馬や独楽回しなど、思い思いの遊びに興じている。大楽は、ひとつ大きな欠伸をした。
これでも、仕事だった。一応は用心棒の名目であるが、今回は勝手が違う。むしろ事前に聞いていた話と違い、騙されたという気分だ。依頼人があの女でなければ、「俺たちの役目じゃねぇよ」と、即座に断っていたであろう。
なにせ今回の客は、目の前で遊ぶ子供たちである。用心棒として何者かから守る為ではない。ただ決まった時間に叩き起こし、飯を食べさせ、手習いを見てやり、元気に遊んでいる姿を見守るだけ。それは用心棒というより、子守りである。
筑前早良郡、姪浜宿にある多休庵。大楽の継母である松寿院の隠居所。
かつては鷲尾山の裾にひっそりと建っていた草庵であったが、昨年末に大規模な増築を施した。
大楽は「以前の派手好みが蘇ったか?」と訝しんだが、萩尾家領内の孤児を引き取って養育するという、かつて自分を虐めた鬼女とは思えない善行を、継母は施し始めたのだ。
四歳から十三歳までの、男女合わせて十二名。いずれは市丸を支える萩尾家の家人とするか、しっかりとした店に奉公へ出すか、自らが望む道へ進ませるつもりらしく、どちらにせよ前藩主の妹が母代わりであれば、引き取り先も無下には扱わないだろうと語っていた。
なぜ、松寿院がそのようなことを始めたのか? 異母弟の主計とその妻である縫子など多くの死が関わっているのだろうとは思うが、本当のことはわからないし、二人を死なせてしまった自分が訊いてはならない気もする。
そして今日の仕事は、その松寿院からの依頼だった。
先々代藩主、松寿院にとっては実父の大事な法要が二日後にあり、その為に最低四日は多休庵を空けねばならず、その間の留守居を任されたのだ。
大楽は煙管を懐にしまうと、また欠伸をしてゴロリと仰臥した。
昼餉の後の昼下がり。しかも、初夏を感じさせる陽気の中である。猫でなくとも眠くなるのは仕方がない。
(まぁ、昼寝をしていても問題ないだろ)
と、大楽は、子供たちと相撲を取りだした門人の七尾壮平を一瞥した。
色白の美男子が、無邪気に遊んでいる。その姿は遊んでいるのか、遊んでもらっているのかわからないほどだ。ただ、こうした七尾の姿は江戸で見ることはなかった。
(奴は、こっちに来て正解だったかもしれんな……)
七尾は谷中にあった萩尾道場の門人であったが、今年の初めに古参の大梶安兵衛と共に江戸から移り住んでいる。
その理由を七尾は「新道場の人手が足りないと思いまして。少しでも勝手を知っている働き手がいた方がいいでしょう?」などと言ってはいたが、それだけではない面倒な内情を、大梶から聞かされていた。
谷中の道場は笹井久兵衛という、最古参だった男に預けていたのだが、大楽には市丸を守るという使命が出来てしまい、今はもう捨てたという形に近い。姪浜には、活計の為に新たな道場も建ててしまってもいる。
そんな分際で、谷中のことをとやかく言う資格は無いとは思うが、いつかは始末をつけることになるだろうという予感はある。いずれは起こるであろうひと悶着を考えただけでも、どうにも気が重くなってしまう。
ただ理由はともかく、二人の合流は有り難かった。道場を開いたはいいが、肝心の門人が集まらないのだ。いや、募集をすれば集まるのだが、適した人材がいない。用心棒では、腕だけでなく人品というものも大きく関わってくる。
それを見定めるのは師範代となった平岡九十郎の役目であるが、その目が厳しいだけに、いつまでたっても増えることはなかった。これでは商売は広げられないし、何より厳つい自分と平岡では客受けも悪い。
そんな中で、若くて明るく二枚目でもある七尾と、いつも笑顔を振りまき、何事にも柔軟で人懐っこい大梶の存在は、何とも心強い。腕も立つし、何より萩尾道場の勝手も知っているのは大きい。
ただ、二人には申し訳なさもあった。大梶は天涯孤独の身の上とはいえ住み慣れた江戸を離れさせてしまったし、七尾に至っては両親を説得してまでの、筑前行きとなったのだ。父母の気持ちを考えれば、到底顔向けは出来ない。
「何を寝ておられるのですか」
咎めるような声色を含んだ言葉に、大楽はゆっくりと目を開いた。
大楽の傍の濡れ縁に、少年が一人腰掛けていた。父親に似た愛想のない口振りに、大楽は露骨に溜息を吐いた。
少年は、亀井昱太郎。萩尾家家老・亀井主水の嫡男である。
「なんだよ。人が気持ちよく昼寝を決め込んでるってぇいうのに」
「『なんだよ』ではございません。私は松寿院様に仰せつかったのですよ。大楽様をお助けするようにと」
そう言って、昱太郎は面皰の赤みが少しずつ目立ってきた顔をこちらに向けた。確か、今年で十か十一ぐらいになる。
「へん。余計なお世話だってんだ。ちゃんとやっているからご心配なく」
「これのどこが、ちゃんとやっておられるのですか。そもそも大楽様はお勤めの最中でしょう。それなのに、昼寝など怠惰が過ぎます」
「怠惰が過ぎるって、痛いことを言うなぁ。まぁ、子供どもは七尾が見てくれているから心配いらねぇよ」
「そのような問題ではありませぬ。大楽様は松寿院様からご依頼を受け、報酬を約束されているのでしょう? ならば、斯様な真似をしてはいけません」
「俺は朝っぱらから働いてんだぜ? 子供を叩き起こし、飯も拵えたじゃねえか。そもそも、子守りなんぞ俺たち萩尾道場の仕事じゃねぇんだよ。まったく、閻羅遮の名が泣くぜ」
「怠けている方が、大楽様のご異名が泣きます。それに引き受けたのは、納得されたからではないのですか?」
大楽は鼻を鳴らすと、昼寝を諦めゆっくりと起き上がった。
「お前も遊べよ。子供なら子供らしく」
「今から遊びますよ、ほら?」
と、昱太郎は懐に忍ばせていた書物を取り出した。
「荻生徂徠の太平策というものです。父上にお借りしました」
「子供は駆け回って遊ぶもんだ」
「私にとって書見が遊びなのです。それに子供の遊びは駆け回るだけではありませんし、そもそも何を以て遊びとするかは各個人が決めるべきです」
昱太郎はさも平然と正論を言ってのけると、太平策を開いて目を落とした。父親に似て小賢しく、可愛げというものがない。だが、成長が楽しみでもある。いずれは、市丸を支える頼もしい家人になるに違いない。
大楽は子供の遊びを邪魔してはならぬと、それ以上の抗弁を諦めて庭に目をやった。
大楽は思い出したかのように、ひとりふたり……と頭数を指で数えた。十二、十三とまで数え、一人多いのは七尾を含めたからだと、もう一度最初からやろうと思った時、背後の襖が開いて平岡が陰気な顔を出した。
平岡は玄海党事件で、大楽の命を救った恩人であり、玄海党壊滅の立役者の一人である。今は死んだ寺坂源兵衛の後を継いで二代目師範代となり、萩尾道場の実務を支えている。そして、松寿院から今回の依頼を引き受けた張本人だ。
「なぁ平岡。一つ良いことを教えてやるが、これは用心棒ではなく子守りって言うんだぜ?」
「仕方がないですよ。今の道場には、仕事を選り好んで踏めるような余裕はありません。それに松寿院様の頼みなど誰が断れますか?」
「……お前、どことなく寺坂に似てきたな」
「旦那と付き合っていれば、誰でもこうなるんじゃないですかね? そんなことより、急ぎの仕事です」
大楽は「ほう」と、身を起こした。
「楠安楼で、酔った浪人が暴れています。今は大梶が急いで向かっていますが」
楠安楼とは、旦過町にある料理茶屋である。姪浜宿では最も高級な店であり、参勤交代で一泊する唐津藩主は、必ずこの料理茶屋で夕餉を摂っているほどの名店。その店に酩酊した浪人が一人乗り込んで、「酒を飲ませろ」だのと喚いているらしい。
「相手が一人なら、大梶だけで収められるだろ」
すると、平岡は冷めた目をして首を横にした。
「たまには旦那も働かないと、身体が鈍ってしまうと思いましてね」
「確かに、最近は荒事から遠ざかっているな。ただ、それは町衆にとっちゃ歓迎すべきことだ」
「平穏無事は歓迎ですが、それじゃ俺たちは干上がってしまいます。因果な商売とは思いますが、姪浜は閻羅遮が守っていると見せつける機会です。それに楠安楼さんからの月賦は太い。ここは一つ、旦那自ら……」
そこまで言われたら、もう逃れる術はない。大楽は嘆息して、月山堯顕を手に、濡れ縁から庭に下り立った。
「平岡、可愛い子供どもの面倒は頼むぜ」
平岡の返事を大楽は背中で聞いた。平岡が、どんな顔で子供たちと接するのか。考えただけでも笑えるし、見たくもある。
「大楽様」
昱太郎だった。振り向くと、居住まいを正して座し、「どうか、よろしくお願いします」と頭を下げた。大楽は軽く笑って、昱太郎の肩を軽く叩いた。
「おう、任せとけ。子守りは苦手だが、酔っ払いの躾は閻羅遮様の十八番ってもんさ」
第一章 あの男
一
この日、益屋淡雲は谷中を訪れていた。
今年に入って二度目。年始に新茶屋町の料亭で、萩尾道場を預かる笹井と会って以来になる。
目的は、特に決めていない。ただ今夜は要人との面会が入っていて、それまでの時間潰しであり、強いて言えば、「いずれは自分のものになるであろう領分を、ちょっくら覗いてみよう」という軽い気持ちだった。
春にしては、暑いと思える陽気である。昨年の冬は異例とも言える暖かさであり、これも天候不順の一種だと言われている。東北では酷い有様のようで、それが米価をはじめ諸色高直を招いている。
白髪交じりの鬢と小太りの身体に汗を滲ませつつ、淡雲は八軒町や門前町といった谷中の町筋を歩いたあと、縁日で賑わう感応寺へと参詣することにした。
供は、ずんぐりとした淡雲とは正反対の、長身の色男。今は四十を超えているが、若い頃はさぞかし女を泣かせたであろう、側近の文殊の仙松だけである。仙松は一見して商家の旦那のようだが、これでも唐獅子組というやくざを束ねる侠客であり、背中には立派な唐獅子の刺青が入っている。
しかも、仙松はただのやくざ者ではない。元は御家人だけあって学もあるし、機転も利く。そして何より、ここ一番で肝も据わるので、淡雲は側近として傍に置き、仙松が率いる唐獅子組は、淡雲を守る最精鋭の子分衆だ。
今回の護衛も、仙松に一任していた。仙松であれば手抜かりはないし、堅気を威圧するような真似もしない。
谷中はいずれ、自分の領分に組み込むつもりでいる。それ故に土地の者に対して威張り散らし、嫌われるわけにはいかないのだ。仙松はその辺をよく弁えている。
そして今のところ、仙松は淡雲の注文を完璧にこなしていた。淡雲の見える範囲に、護衛らしい者の影を感じない。きっと凄腕を変装させ、堅気の中に紛れ込ませているのだろう。ぴったりと付いてはいないが、何かあれば駆けつけることが出来る、そんな距離にいるはずだ。
そうした余裕のある体制を敷けるのも、淡雲の傍近くで侍る仙松の腕が半端ではないからだ。元は御家人だった仙松は、無外流の免許持ちでもある。
その仙松を引き連れ、淡雲は参道の出店を覗いては、商売に励む香具師たちに調子を訊いたが、どれも渋い返事ばかりだった。
「参拝客はそれなりにいるようだが、どうも景気は悪そうだねぇ、仙さん」
淡雲は隣を歩く仙松に言った。
「へぇ。東北の飢饉の影響が、じわじわと出ているようですが、参拝客はこれだけいるのです。銭が正しく香具師たちに落ちるようにしなければいけません」
「ふむ。全くその通り。景気は悪くとも、暗い顔をさせぬのが首領の役目だというんだがねぇ。そう思わないかい?」
首領とは、その町の表と裏を支配する、顔役のことである。やくざや掏磨、金貸しに香具師、女衒など堅気の稼業でない者を率い、裏は勿論のこと、表の世界にも強い影響力を持っている。
「やはり、彼では荷が重いようで」
「おっと、あの男を後釜に据えたのは私だよ」
「何をおっしゃる。首領が務まる男ではないと見抜いたからこそ、彼を推したのではありませんか」
仙松の心中を見透かした一言に、淡雲は苦笑で返した。
佐多弁蔵が玄海党事件で命を落とすと、谷中一帯は弟の佐多善八が支配することとなっていた。
善八は兄に似ず出来が悪く、人望も無い。それでも淡雲が、わざわざ婿養子先から連れ戻して後釜に据えたのは、善八に支配を失敗させ、代々谷中を支配してきた佐多家から首領という身分を取り上げる為だ。いずれは善八を追い出し、代わりに自分の子飼いを送り込むか、或いは直接的に領分に組み込むつもりでいる。
しかし、その為には大きく厄介な障害があった。
それが武揚会という、首領たちの親睦組織である。江戸開闢当時、治安の悪化を憂いた幕府は、町の有力者を集めて、各地区の裏を取り仕切るように命じて武揚会を結成させ、そして彼らが腐敗しないよう、厳しい掟を定めた。
根岸一帯の首領である淡雲は、玄海党事件をきっかけに両国の首領である嘉穂屋宗右衛門とぶつかり、打倒することに成功した。戦国乱世の御代であれば、両国は淡雲の手に入るべきであったが、武揚会には「他の首領の領分を押領してはならぬ」という掟があるが故に、嘉穂屋の領分を取り損ねてしまった。
手下の中には、「武揚会を抜けてでも、両国を奪ってしまおう」との声も挙がったが、淡雲はこれを時期尚早と退け、最も声高に叫んだ男を始末した。
嘉穂屋を倒すだけでなく弁蔵も倒れたことで、武揚会で一番の実力者にはなった。単独で自分に対抗できる者はいない。しかし、武揚会の背後には幕府がいて、そして幕府を束ねるのが、あの田沼意次だ。
意次は、福岡城に蔓延する腐敗を一掃し、博多を長崎のように開港する為の下準備として、玄海党を壊滅する必要があり、その点で淡雲はある男を通じて手を結んだ形となった。しかし、意次との協力関係はそれだけであり、直接的に面識があるわけでも、連合したわけでもない。もしここで武揚会の掟を破り、江戸で騒乱を起こそうものなら、ここぞとばかりに潰しにかかるに違いない。
事実として淡雲が抱える密偵の報告では、意次は淡雲一強の武揚会を危惧してか「益屋から目を離すな」と密かに命を出したという。
確かに、玄海党事件の後の行動が露骨過ぎた。嘉穂屋の領分は、淡雲が嘉穂屋側から寝返らせた滑蔵と、嘉穂屋と癒着していた元南町奉行の牧靱負に分割して与え、そして弁蔵の跡目には、決して後継者候補にはなり得なかった不出来な弟を据えた。言わば、滑蔵も牧も善八も淡雲によって首領になれたようなもので、子飼いではないにしろ、一派だと思われても仕方がない。
だが、淡雲は彼らを信じていない。滑蔵も牧も一度は主人を裏切った走狗であるし、善八は出来が悪い頭で必死に考えるが故に、何をするかわからないところがある。だからこそ、何とか自分のものにしたかった。
また、淡雲の野望は江戸の外にもあった。玄海党が持っていた、阿芙蓉(アヘン)を含む抜け荷の道を奪取すること、そして玄海党が瓦解して空白地となった博多を支配することである。
淡雲が危険を冒してまで、玄海党の残党を保護したのもその為だ。今は数か所に分散し、隠れ住んでもらっている。いずれは、彼らの能力と経験が自分の抜け荷に役立ってくれるはずだ。
ただ、そちらにも大きな懸念がある。もし自分が第二の玄海党となれば、かならず厄介なあの男が敵となって立ち上がるに違いないということだ。その覚悟はあるし、むしろ楽しみとさえ感じるが、そこに意次も加わるとなれば、こちらも無傷ではいられない。下手をすると、嘉穂屋の二の舞となって滅びる。
そうならない為に、色々と策を講じているつもりではある。特に敵が多い意次の方は、対抗し得る権力を持つ一橋治済と関係を深めている。今夜、会うことになっている男も、その為の一手だ。
飽くなき野望が、淡雲にはあった。その為に嘉穂屋を倒し、玄海党を潰す為に協力した。江戸の秩序の為だとか、武揚会の掟を守る為だとか、そんな青い志などではない。自分が生きていると実感する為、より大きな権力を掴む為だ。
誰にも従わず、誰をも従える。そうした存在になりたかった。幼き頃、理不尽な権力に踏みつぶされた父のようにはなりたくない。だからこそ、江戸の暗い世界で生きようと決めたのだ。
「そろそろ、昼餉にいたしますか?」
仙松に声を掛けられ、淡雲は物思いからふと我に返った。
この時期だ。春になると、ついつい感傷的な気分になってしまう。
淡雲の家は、代々庄屋をしていた。特に父は篤農家として知られ名声もあったが、百姓への負担を増す幕府の改革を公然と批判した罪で、父は殺されて財産を奪われた。
父が縄を打たれて連れていかれたのも、ちょうど今ぐらいの春のことであり、否が応でも思い出してしまう。今から五十年ほど前、享保のことである。
「そうさな……。ほら、あの男が通っていた食堂へ行こうじゃないか」
谷中を一回りした淡雲は、感応寺の裏手にある食堂へと向かった。屋号は〔たいら〕といって、この食堂の味は近郷でも評判だった。
「ここは、あの男が通っていた店らしいのですよ」
と、淡雲は仙松に語り掛けて暖簾をくぐった。
板場から初老の男が顔を出し、年季の入った挨拶が飛んでくる。店内は狭く、土間に机が四つだけのひっそりとしたものだ。昼時を過ぎているからか、他に客の姿はない。
淡雲は、仙松と隅の席に座った。奥には小上がりもあるようだが、客用には使っていないようである。
飯はすぐに出た。飯と根深汁と香の物。そして、烏賊と里芋を醤油で炊いたものだった。注文を聞かずに出るあたり、出す料理は決まっているのだろう。
「こいつは旨そうですね」
仙松が言い、淡雲は頷いた。
醤油と出汁が合わさった、何とも言えぬ腹に響く香り。それだけで、この料理が旨いとわかる。
この店は、あの男から教わったのだ。「谷中に来ることがあれば、たいらって店に行ってみな。そんじょそこらの料亭以上の飯が食えるぜ」と。
淡雲も仙松も、無言で箸を動かすことに集中した。烏賊も里芋もしっかりと味は染みていて、これがまた飯に合う。
「そういえば、道場はここから近いですが、行かれますか?」
先に食べ終えた仙松が、茶を啜りながら訊いた。
「道場?」
「萩尾道場ですよ。今は名を笹井道場と改めております、どうですか?」
淡雲は首を振りつつ、最後の香の物を口に放り込んだ。
「萩尾道場か。久し振りに聞いた気がするねぇ、その名前。で、最近はどうなんだい?」
「古参の門人が離脱して、一時はどうなるかと思われましたが、今は何とか持ち直したようです。ですが、評判はよくないようですね。門人を無理やり集めた結果なのでしょうが」
「そういえば、あの男が言ってたねぇ。用心棒というものは、腕前だけでなく、人品も大事なんだと」
「そのようで。それに、笹井殿はあの男が留守の間に道場を乗っ取ったとも思われているようですね。それで、手切れにしたという店もあるとか」
「それはいかん」
と、淡雲は腕を組み板場の方へ眼をやった。
この店も、萩尾道場の世話になっていたという。笹井道場になった今は、どうしているのだろうか? と、訊きたくなる。
「さしあたり、すぐに人を送り込もう。腕は勿論、人品も申し分ない者を。その中の二人ばかしを師範代に据え、上手いこと笹井を導いてもらおうか」
笹井道場については、仙松に聞かされるまでもなく、その状況は大体把握していた。裏の世界では、笹井道場は淡雲の手先に成り下がったと言う者までいた。
確かにそうだ。笹井道場には、仕事を回すだけでなく資金援助もしている。笹井があの男から自分に鞍替えしたのも事実。こうした工作は、あの男との対決を意識してのことだった。
「やはり、邪魔だねぇ」
淡雲は、湯飲みに手を伸ばした。仙松は何も言わない。ただ、一点を見つめている。こういう時、明確に意見を求められない限り、仙松が口を開くことはない。
「本腰を入れて、考えないといけないようだ」
何とかしなければ、あの男は災いの種になる。それは、出会った時にはわかっていたことだった。この男は、自分には従うことはないと。それでも殺さなかったのは、利用する価値があったからだが、玄海党が瓦解した今では用済み。ならば、殺すしかない。
「そろそろ、行きませんと。約束の刻限になってしまいます」
黙っていた仙松が、湯飲みを置いて言った。
「そうさの、左近衛権中将様をお待たせしてはいかん」
淡雲は銭を置くと、席を立った。
これから会う男は、中々の曲者である。気を抜くと、こちらが喰われる可能性があるほどで、手を組むのはある種の賭けでもあった。
しかし野望の為には、左近衛権中将の力が必要だった。こうでもしないと、あの二人に勝てないかもしれないのだ。勿論、その為に交渉という形を取った。相手が欲しがっているものを与える代わりに、こちらも相手から必要なものを受け取る。
淡雲が欲しているものは、権力と権威と南海の果てという立地であった。そして、それらは全て銭に繋がる。
銭が必要だった。飽くなき野望の為にも、それを阻止するであろう二人を倒す為にも。銭こそが力である。
あの二人がいる限り、自分の野望は完遂されない。田沼意次、そして萩尾大楽を始末しない限りは。
「ったく、退屈で仕方ねぇな……」
萩尾大楽は、煙管の雁首を叩いて灰を落とすと、誰に聞かせるわけでもなく呟いた。
玄海党事件があった、天明二年(一七八二年)から年が改まった春のこと。大楽は穏やかな日差しの中、大坂の煙管職人・堺屋儀平が手掛けた煙管を片手に、寺の濡れ縁から無邪気に遊ぶ子供たちの様子をぼんやりと眺めていた。
(まぁ、元気があるのは素晴らしいこった)
子供たちは境内を所狭しと駆け回りながら、竹馬や独楽回しなど、思い思いの遊びに興じている。大楽は、ひとつ大きな欠伸をした。
これでも、仕事だった。一応は用心棒の名目であるが、今回は勝手が違う。むしろ事前に聞いていた話と違い、騙されたという気分だ。依頼人があの女でなければ、「俺たちの役目じゃねぇよ」と、即座に断っていたであろう。
なにせ今回の客は、目の前で遊ぶ子供たちである。用心棒として何者かから守る為ではない。ただ決まった時間に叩き起こし、飯を食べさせ、手習いを見てやり、元気に遊んでいる姿を見守るだけ。それは用心棒というより、子守りである。
筑前早良郡、姪浜宿にある多休庵。大楽の継母である松寿院の隠居所。
かつては鷲尾山の裾にひっそりと建っていた草庵であったが、昨年末に大規模な増築を施した。
大楽は「以前の派手好みが蘇ったか?」と訝しんだが、萩尾家領内の孤児を引き取って養育するという、かつて自分を虐めた鬼女とは思えない善行を、継母は施し始めたのだ。
四歳から十三歳までの、男女合わせて十二名。いずれは市丸を支える萩尾家の家人とするか、しっかりとした店に奉公へ出すか、自らが望む道へ進ませるつもりらしく、どちらにせよ前藩主の妹が母代わりであれば、引き取り先も無下には扱わないだろうと語っていた。
なぜ、松寿院がそのようなことを始めたのか? 異母弟の主計とその妻である縫子など多くの死が関わっているのだろうとは思うが、本当のことはわからないし、二人を死なせてしまった自分が訊いてはならない気もする。
そして今日の仕事は、その松寿院からの依頼だった。
先々代藩主、松寿院にとっては実父の大事な法要が二日後にあり、その為に最低四日は多休庵を空けねばならず、その間の留守居を任されたのだ。
大楽は煙管を懐にしまうと、また欠伸をしてゴロリと仰臥した。
昼餉の後の昼下がり。しかも、初夏を感じさせる陽気の中である。猫でなくとも眠くなるのは仕方がない。
(まぁ、昼寝をしていても問題ないだろ)
と、大楽は、子供たちと相撲を取りだした門人の七尾壮平を一瞥した。
色白の美男子が、無邪気に遊んでいる。その姿は遊んでいるのか、遊んでもらっているのかわからないほどだ。ただ、こうした七尾の姿は江戸で見ることはなかった。
(奴は、こっちに来て正解だったかもしれんな……)
七尾は谷中にあった萩尾道場の門人であったが、今年の初めに古参の大梶安兵衛と共に江戸から移り住んでいる。
その理由を七尾は「新道場の人手が足りないと思いまして。少しでも勝手を知っている働き手がいた方がいいでしょう?」などと言ってはいたが、それだけではない面倒な内情を、大梶から聞かされていた。
谷中の道場は笹井久兵衛という、最古参だった男に預けていたのだが、大楽には市丸を守るという使命が出来てしまい、今はもう捨てたという形に近い。姪浜には、活計の為に新たな道場も建ててしまってもいる。
そんな分際で、谷中のことをとやかく言う資格は無いとは思うが、いつかは始末をつけることになるだろうという予感はある。いずれは起こるであろうひと悶着を考えただけでも、どうにも気が重くなってしまう。
ただ理由はともかく、二人の合流は有り難かった。道場を開いたはいいが、肝心の門人が集まらないのだ。いや、募集をすれば集まるのだが、適した人材がいない。用心棒では、腕だけでなく人品というものも大きく関わってくる。
それを見定めるのは師範代となった平岡九十郎の役目であるが、その目が厳しいだけに、いつまでたっても増えることはなかった。これでは商売は広げられないし、何より厳つい自分と平岡では客受けも悪い。
そんな中で、若くて明るく二枚目でもある七尾と、いつも笑顔を振りまき、何事にも柔軟で人懐っこい大梶の存在は、何とも心強い。腕も立つし、何より萩尾道場の勝手も知っているのは大きい。
ただ、二人には申し訳なさもあった。大梶は天涯孤独の身の上とはいえ住み慣れた江戸を離れさせてしまったし、七尾に至っては両親を説得してまでの、筑前行きとなったのだ。父母の気持ちを考えれば、到底顔向けは出来ない。
「何を寝ておられるのですか」
咎めるような声色を含んだ言葉に、大楽はゆっくりと目を開いた。
大楽の傍の濡れ縁に、少年が一人腰掛けていた。父親に似た愛想のない口振りに、大楽は露骨に溜息を吐いた。
少年は、亀井昱太郎。萩尾家家老・亀井主水の嫡男である。
「なんだよ。人が気持ちよく昼寝を決め込んでるってぇいうのに」
「『なんだよ』ではございません。私は松寿院様に仰せつかったのですよ。大楽様をお助けするようにと」
そう言って、昱太郎は面皰の赤みが少しずつ目立ってきた顔をこちらに向けた。確か、今年で十か十一ぐらいになる。
「へん。余計なお世話だってんだ。ちゃんとやっているからご心配なく」
「これのどこが、ちゃんとやっておられるのですか。そもそも大楽様はお勤めの最中でしょう。それなのに、昼寝など怠惰が過ぎます」
「怠惰が過ぎるって、痛いことを言うなぁ。まぁ、子供どもは七尾が見てくれているから心配いらねぇよ」
「そのような問題ではありませぬ。大楽様は松寿院様からご依頼を受け、報酬を約束されているのでしょう? ならば、斯様な真似をしてはいけません」
「俺は朝っぱらから働いてんだぜ? 子供を叩き起こし、飯も拵えたじゃねえか。そもそも、子守りなんぞ俺たち萩尾道場の仕事じゃねぇんだよ。まったく、閻羅遮の名が泣くぜ」
「怠けている方が、大楽様のご異名が泣きます。それに引き受けたのは、納得されたからではないのですか?」
大楽は鼻を鳴らすと、昼寝を諦めゆっくりと起き上がった。
「お前も遊べよ。子供なら子供らしく」
「今から遊びますよ、ほら?」
と、昱太郎は懐に忍ばせていた書物を取り出した。
「荻生徂徠の太平策というものです。父上にお借りしました」
「子供は駆け回って遊ぶもんだ」
「私にとって書見が遊びなのです。それに子供の遊びは駆け回るだけではありませんし、そもそも何を以て遊びとするかは各個人が決めるべきです」
昱太郎はさも平然と正論を言ってのけると、太平策を開いて目を落とした。父親に似て小賢しく、可愛げというものがない。だが、成長が楽しみでもある。いずれは、市丸を支える頼もしい家人になるに違いない。
大楽は子供の遊びを邪魔してはならぬと、それ以上の抗弁を諦めて庭に目をやった。
大楽は思い出したかのように、ひとりふたり……と頭数を指で数えた。十二、十三とまで数え、一人多いのは七尾を含めたからだと、もう一度最初からやろうと思った時、背後の襖が開いて平岡が陰気な顔を出した。
平岡は玄海党事件で、大楽の命を救った恩人であり、玄海党壊滅の立役者の一人である。今は死んだ寺坂源兵衛の後を継いで二代目師範代となり、萩尾道場の実務を支えている。そして、松寿院から今回の依頼を引き受けた張本人だ。
「なぁ平岡。一つ良いことを教えてやるが、これは用心棒ではなく子守りって言うんだぜ?」
「仕方がないですよ。今の道場には、仕事を選り好んで踏めるような余裕はありません。それに松寿院様の頼みなど誰が断れますか?」
「……お前、どことなく寺坂に似てきたな」
「旦那と付き合っていれば、誰でもこうなるんじゃないですかね? そんなことより、急ぎの仕事です」
大楽は「ほう」と、身を起こした。
「楠安楼で、酔った浪人が暴れています。今は大梶が急いで向かっていますが」
楠安楼とは、旦過町にある料理茶屋である。姪浜宿では最も高級な店であり、参勤交代で一泊する唐津藩主は、必ずこの料理茶屋で夕餉を摂っているほどの名店。その店に酩酊した浪人が一人乗り込んで、「酒を飲ませろ」だのと喚いているらしい。
「相手が一人なら、大梶だけで収められるだろ」
すると、平岡は冷めた目をして首を横にした。
「たまには旦那も働かないと、身体が鈍ってしまうと思いましてね」
「確かに、最近は荒事から遠ざかっているな。ただ、それは町衆にとっちゃ歓迎すべきことだ」
「平穏無事は歓迎ですが、それじゃ俺たちは干上がってしまいます。因果な商売とは思いますが、姪浜は閻羅遮が守っていると見せつける機会です。それに楠安楼さんからの月賦は太い。ここは一つ、旦那自ら……」
そこまで言われたら、もう逃れる術はない。大楽は嘆息して、月山堯顕を手に、濡れ縁から庭に下り立った。
「平岡、可愛い子供どもの面倒は頼むぜ」
平岡の返事を大楽は背中で聞いた。平岡が、どんな顔で子供たちと接するのか。考えただけでも笑えるし、見たくもある。
「大楽様」
昱太郎だった。振り向くと、居住まいを正して座し、「どうか、よろしくお願いします」と頭を下げた。大楽は軽く笑って、昱太郎の肩を軽く叩いた。
「おう、任せとけ。子守りは苦手だが、酔っ払いの躾は閻羅遮様の十八番ってもんさ」
第一章 あの男
一
この日、益屋淡雲は谷中を訪れていた。
今年に入って二度目。年始に新茶屋町の料亭で、萩尾道場を預かる笹井と会って以来になる。
目的は、特に決めていない。ただ今夜は要人との面会が入っていて、それまでの時間潰しであり、強いて言えば、「いずれは自分のものになるであろう領分を、ちょっくら覗いてみよう」という軽い気持ちだった。
春にしては、暑いと思える陽気である。昨年の冬は異例とも言える暖かさであり、これも天候不順の一種だと言われている。東北では酷い有様のようで、それが米価をはじめ諸色高直を招いている。
白髪交じりの鬢と小太りの身体に汗を滲ませつつ、淡雲は八軒町や門前町といった谷中の町筋を歩いたあと、縁日で賑わう感応寺へと参詣することにした。
供は、ずんぐりとした淡雲とは正反対の、長身の色男。今は四十を超えているが、若い頃はさぞかし女を泣かせたであろう、側近の文殊の仙松だけである。仙松は一見して商家の旦那のようだが、これでも唐獅子組というやくざを束ねる侠客であり、背中には立派な唐獅子の刺青が入っている。
しかも、仙松はただのやくざ者ではない。元は御家人だけあって学もあるし、機転も利く。そして何より、ここ一番で肝も据わるので、淡雲は側近として傍に置き、仙松が率いる唐獅子組は、淡雲を守る最精鋭の子分衆だ。
今回の護衛も、仙松に一任していた。仙松であれば手抜かりはないし、堅気を威圧するような真似もしない。
谷中はいずれ、自分の領分に組み込むつもりでいる。それ故に土地の者に対して威張り散らし、嫌われるわけにはいかないのだ。仙松はその辺をよく弁えている。
そして今のところ、仙松は淡雲の注文を完璧にこなしていた。淡雲の見える範囲に、護衛らしい者の影を感じない。きっと凄腕を変装させ、堅気の中に紛れ込ませているのだろう。ぴったりと付いてはいないが、何かあれば駆けつけることが出来る、そんな距離にいるはずだ。
そうした余裕のある体制を敷けるのも、淡雲の傍近くで侍る仙松の腕が半端ではないからだ。元は御家人だった仙松は、無外流の免許持ちでもある。
その仙松を引き連れ、淡雲は参道の出店を覗いては、商売に励む香具師たちに調子を訊いたが、どれも渋い返事ばかりだった。
「参拝客はそれなりにいるようだが、どうも景気は悪そうだねぇ、仙さん」
淡雲は隣を歩く仙松に言った。
「へぇ。東北の飢饉の影響が、じわじわと出ているようですが、参拝客はこれだけいるのです。銭が正しく香具師たちに落ちるようにしなければいけません」
「ふむ。全くその通り。景気は悪くとも、暗い顔をさせぬのが首領の役目だというんだがねぇ。そう思わないかい?」
首領とは、その町の表と裏を支配する、顔役のことである。やくざや掏磨、金貸しに香具師、女衒など堅気の稼業でない者を率い、裏は勿論のこと、表の世界にも強い影響力を持っている。
「やはり、彼では荷が重いようで」
「おっと、あの男を後釜に据えたのは私だよ」
「何をおっしゃる。首領が務まる男ではないと見抜いたからこそ、彼を推したのではありませんか」
仙松の心中を見透かした一言に、淡雲は苦笑で返した。
佐多弁蔵が玄海党事件で命を落とすと、谷中一帯は弟の佐多善八が支配することとなっていた。
善八は兄に似ず出来が悪く、人望も無い。それでも淡雲が、わざわざ婿養子先から連れ戻して後釜に据えたのは、善八に支配を失敗させ、代々谷中を支配してきた佐多家から首領という身分を取り上げる為だ。いずれは善八を追い出し、代わりに自分の子飼いを送り込むか、或いは直接的に領分に組み込むつもりでいる。
しかし、その為には大きく厄介な障害があった。
それが武揚会という、首領たちの親睦組織である。江戸開闢当時、治安の悪化を憂いた幕府は、町の有力者を集めて、各地区の裏を取り仕切るように命じて武揚会を結成させ、そして彼らが腐敗しないよう、厳しい掟を定めた。
根岸一帯の首領である淡雲は、玄海党事件をきっかけに両国の首領である嘉穂屋宗右衛門とぶつかり、打倒することに成功した。戦国乱世の御代であれば、両国は淡雲の手に入るべきであったが、武揚会には「他の首領の領分を押領してはならぬ」という掟があるが故に、嘉穂屋の領分を取り損ねてしまった。
手下の中には、「武揚会を抜けてでも、両国を奪ってしまおう」との声も挙がったが、淡雲はこれを時期尚早と退け、最も声高に叫んだ男を始末した。
嘉穂屋を倒すだけでなく弁蔵も倒れたことで、武揚会で一番の実力者にはなった。単独で自分に対抗できる者はいない。しかし、武揚会の背後には幕府がいて、そして幕府を束ねるのが、あの田沼意次だ。
意次は、福岡城に蔓延する腐敗を一掃し、博多を長崎のように開港する為の下準備として、玄海党を壊滅する必要があり、その点で淡雲はある男を通じて手を結んだ形となった。しかし、意次との協力関係はそれだけであり、直接的に面識があるわけでも、連合したわけでもない。もしここで武揚会の掟を破り、江戸で騒乱を起こそうものなら、ここぞとばかりに潰しにかかるに違いない。
事実として淡雲が抱える密偵の報告では、意次は淡雲一強の武揚会を危惧してか「益屋から目を離すな」と密かに命を出したという。
確かに、玄海党事件の後の行動が露骨過ぎた。嘉穂屋の領分は、淡雲が嘉穂屋側から寝返らせた滑蔵と、嘉穂屋と癒着していた元南町奉行の牧靱負に分割して与え、そして弁蔵の跡目には、決して後継者候補にはなり得なかった不出来な弟を据えた。言わば、滑蔵も牧も善八も淡雲によって首領になれたようなもので、子飼いではないにしろ、一派だと思われても仕方がない。
だが、淡雲は彼らを信じていない。滑蔵も牧も一度は主人を裏切った走狗であるし、善八は出来が悪い頭で必死に考えるが故に、何をするかわからないところがある。だからこそ、何とか自分のものにしたかった。
また、淡雲の野望は江戸の外にもあった。玄海党が持っていた、阿芙蓉(アヘン)を含む抜け荷の道を奪取すること、そして玄海党が瓦解して空白地となった博多を支配することである。
淡雲が危険を冒してまで、玄海党の残党を保護したのもその為だ。今は数か所に分散し、隠れ住んでもらっている。いずれは、彼らの能力と経験が自分の抜け荷に役立ってくれるはずだ。
ただ、そちらにも大きな懸念がある。もし自分が第二の玄海党となれば、かならず厄介なあの男が敵となって立ち上がるに違いないということだ。その覚悟はあるし、むしろ楽しみとさえ感じるが、そこに意次も加わるとなれば、こちらも無傷ではいられない。下手をすると、嘉穂屋の二の舞となって滅びる。
そうならない為に、色々と策を講じているつもりではある。特に敵が多い意次の方は、対抗し得る権力を持つ一橋治済と関係を深めている。今夜、会うことになっている男も、その為の一手だ。
飽くなき野望が、淡雲にはあった。その為に嘉穂屋を倒し、玄海党を潰す為に協力した。江戸の秩序の為だとか、武揚会の掟を守る為だとか、そんな青い志などではない。自分が生きていると実感する為、より大きな権力を掴む為だ。
誰にも従わず、誰をも従える。そうした存在になりたかった。幼き頃、理不尽な権力に踏みつぶされた父のようにはなりたくない。だからこそ、江戸の暗い世界で生きようと決めたのだ。
「そろそろ、昼餉にいたしますか?」
仙松に声を掛けられ、淡雲は物思いからふと我に返った。
この時期だ。春になると、ついつい感傷的な気分になってしまう。
淡雲の家は、代々庄屋をしていた。特に父は篤農家として知られ名声もあったが、百姓への負担を増す幕府の改革を公然と批判した罪で、父は殺されて財産を奪われた。
父が縄を打たれて連れていかれたのも、ちょうど今ぐらいの春のことであり、否が応でも思い出してしまう。今から五十年ほど前、享保のことである。
「そうさな……。ほら、あの男が通っていた食堂へ行こうじゃないか」
谷中を一回りした淡雲は、感応寺の裏手にある食堂へと向かった。屋号は〔たいら〕といって、この食堂の味は近郷でも評判だった。
「ここは、あの男が通っていた店らしいのですよ」
と、淡雲は仙松に語り掛けて暖簾をくぐった。
板場から初老の男が顔を出し、年季の入った挨拶が飛んでくる。店内は狭く、土間に机が四つだけのひっそりとしたものだ。昼時を過ぎているからか、他に客の姿はない。
淡雲は、仙松と隅の席に座った。奥には小上がりもあるようだが、客用には使っていないようである。
飯はすぐに出た。飯と根深汁と香の物。そして、烏賊と里芋を醤油で炊いたものだった。注文を聞かずに出るあたり、出す料理は決まっているのだろう。
「こいつは旨そうですね」
仙松が言い、淡雲は頷いた。
醤油と出汁が合わさった、何とも言えぬ腹に響く香り。それだけで、この料理が旨いとわかる。
この店は、あの男から教わったのだ。「谷中に来ることがあれば、たいらって店に行ってみな。そんじょそこらの料亭以上の飯が食えるぜ」と。
淡雲も仙松も、無言で箸を動かすことに集中した。烏賊も里芋もしっかりと味は染みていて、これがまた飯に合う。
「そういえば、道場はここから近いですが、行かれますか?」
先に食べ終えた仙松が、茶を啜りながら訊いた。
「道場?」
「萩尾道場ですよ。今は名を笹井道場と改めております、どうですか?」
淡雲は首を振りつつ、最後の香の物を口に放り込んだ。
「萩尾道場か。久し振りに聞いた気がするねぇ、その名前。で、最近はどうなんだい?」
「古参の門人が離脱して、一時はどうなるかと思われましたが、今は何とか持ち直したようです。ですが、評判はよくないようですね。門人を無理やり集めた結果なのでしょうが」
「そういえば、あの男が言ってたねぇ。用心棒というものは、腕前だけでなく、人品も大事なんだと」
「そのようで。それに、笹井殿はあの男が留守の間に道場を乗っ取ったとも思われているようですね。それで、手切れにしたという店もあるとか」
「それはいかん」
と、淡雲は腕を組み板場の方へ眼をやった。
この店も、萩尾道場の世話になっていたという。笹井道場になった今は、どうしているのだろうか? と、訊きたくなる。
「さしあたり、すぐに人を送り込もう。腕は勿論、人品も申し分ない者を。その中の二人ばかしを師範代に据え、上手いこと笹井を導いてもらおうか」
笹井道場については、仙松に聞かされるまでもなく、その状況は大体把握していた。裏の世界では、笹井道場は淡雲の手先に成り下がったと言う者までいた。
確かにそうだ。笹井道場には、仕事を回すだけでなく資金援助もしている。笹井があの男から自分に鞍替えしたのも事実。こうした工作は、あの男との対決を意識してのことだった。
「やはり、邪魔だねぇ」
淡雲は、湯飲みに手を伸ばした。仙松は何も言わない。ただ、一点を見つめている。こういう時、明確に意見を求められない限り、仙松が口を開くことはない。
「本腰を入れて、考えないといけないようだ」
何とかしなければ、あの男は災いの種になる。それは、出会った時にはわかっていたことだった。この男は、自分には従うことはないと。それでも殺さなかったのは、利用する価値があったからだが、玄海党が瓦解した今では用済み。ならば、殺すしかない。
「そろそろ、行きませんと。約束の刻限になってしまいます」
黙っていた仙松が、湯飲みを置いて言った。
「そうさの、左近衛権中将様をお待たせしてはいかん」
淡雲は銭を置くと、席を立った。
これから会う男は、中々の曲者である。気を抜くと、こちらが喰われる可能性があるほどで、手を組むのはある種の賭けでもあった。
しかし野望の為には、左近衛権中将の力が必要だった。こうでもしないと、あの二人に勝てないかもしれないのだ。勿論、その為に交渉という形を取った。相手が欲しがっているものを与える代わりに、こちらも相手から必要なものを受け取る。
淡雲が欲しているものは、権力と権威と南海の果てという立地であった。そして、それらは全て銭に繋がる。
銭が必要だった。飽くなき野望の為にも、それを阻止するであろう二人を倒す為にも。銭こそが力である。
あの二人がいる限り、自分の野望は完遂されない。田沼意次、そして萩尾大楽を始末しない限りは。
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