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阿芙蓉抜け荷始末
阿芙蓉抜け荷始末-2
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それから朝餉を済ました大楽は、客先に顔を見せるご機嫌伺いに出掛けた。
用心棒を請け負っている店に顔を出し、他愛もない世間話をする。それだけの事だが、顔を見せるだけで客は安心するし、時としてそこで新たな仕事を受けたりもするのだ。
「閻羅遮の大将」
声を掛けられたのは、中門前町に至る感応寺の裏道だった。振り向くと、歯の抜けた老爺が一人立っていた。
「なんだ、三爺じゃねぇか」
大楽が言うと、三爺と呼ばれた男は、顔をくしゃくしゃにした笑みを見せた。
「大将ってのは、やめてくんねぇか? 俺は単なる浪人だぜ。征夷大将軍じゃあるまいし」
「じゃ、閻羅遮の親分ってのはどうでぇ」
「やくざじゃねぇんだよ。大体、閻羅遮って呼ばれるだけでも小っ恥ずかしいんだ。萩尾で十分よ」
「何言ってやがる。大将のやってる事は、まんまやくざだろうに。ま、堅気を大事にしているだけましってもんだがよ」
銭を貰って、守ってやる。確かに、やくざ者の地廻りと変わりはしない。それだけに派遣する用心棒の人品というものは大事にしていた。
「それで、俺に何の用だ」
この三爺は三吉という名で、長く感応寺で寺男をしていた男だ。谷中の事情には詳しく顔も広い。大楽も三吉がもたらす情報に、何度か救われた事もある。
「いやね、最近見ねぇ顔が増えてるって思ってな」
見ねぇ顔とは、谷中界隈に流入した余所者という意味だ。勿論、堅気ではなくやくざ者である。
「新茶屋町あたりか。暮れ六つ(午後六時)を越えたぐらいに来やがる。どいつもこいつも、癖のある悪りぃ顔をしているぜ」
「金兵衛一家か?」
すると、三吉はとんでもないといった風に顔を横に振った。
「今の金兵衛一家に、骨のある奴はいねぇよ。でなけりゃ見ねぇ顔が谷中に入り込んだりするもんか」
「確かにそうだな」
大楽の同意に、三吉が破顔する。この男は、金兵衛一家とも近いが、内心では蛇蝎の如く嫌っていた。
「それはそうと、阿芙蓉が谷中に入って来ているって話は知ってるかい?」
大楽は話題を変えた。いつも谷中の裏表を見ているこの男なら、何か知っているかと思った。
「最近噂のあれかい。煙草のように吸うと気持ち良くなるらしいね」
「ああ。金兵衛んとこの馬鹿息子が持っていた」
「すまねぇが、そいつに関わる情報は無いねぇ」
「そうかい。なら、何でもいいので小耳に挟んだら教えてくれねえか?」
大楽は懐から小銭を幾つか摘まみだし、三吉に握らせた。
「合点だ。何かわかればすぐにでも報せるぜ。見ねぇ顔についてもな」
「ああ。だが、谷中の首領には内緒にしてくれよ」
「そいつも承知の助よ」
用心棒稼業で大事な事は、潜在的な敵を知る事だ。なので、依頼を受ける時は客から根掘り葉掘り身の上話を聞き出す。問題があらかじめわかっていれば、然るべき備えは出来るものである。
客先へのご機嫌伺いを終えた大楽は、新茶屋町に来ていた。
この町は、感応寺の参拝客を相手にした飲食店が多く、最近では傾城町の様相を呈して何かと揉め事が多い。
それは萩尾道場が抱えている客の数にも表れていて、この町だけで十七。それだけに、新茶屋町に詰めている用心棒も、道場内でも屈指の猛者を揃えていた。
大楽は今日はこの町で、夜を迎えるつもりであった。それは三吉の話を聞いたからで、この谷中に入って来た見ねぇ顔がどんなものか、見てみたいと思ったからだ。
(金兵衛一家の領分狙いか。或いは俺か)
あるいは萩尾道場憎しと、金兵衛一家が雇ったという線もある。
大楽は、表通りに建てた小さな小屋に向かった。
この小屋は萩尾道場の詰め所であり、昼番・夜番と決めて必ず一人は常駐させている。つまりは自身番のようなもので、この日は二人の用心棒が待機していた。
「先生」
大楽の姿を認め、弾けたように一人が立ち上った。もう一人は大刀を抱えたまま、湯呑を啜っている。
立ち上がったのは七尾壮平で、座ったままなのが平岡九十郎と言った。
七尾は腕こそ立つが経験が浅いので、歴戦の平岡と組ませている。一方の平岡は、萩尾道場でも古株だった。七尾は二十一で、平岡は三十五である。
「どうだ?」
大楽は七尾の肩に手を置いて、平岡に訊いた。
「何も。平穏なものですよ。昨夜は酔っ払いが暴れたそうですが、夜番の林が叩き出しています」
「林に怪我は?」
「拳の掠り傷ぐらいですね。あの程度なら、治療代は取れんでしょう」
「この町の店からは多めに銭を払ってもらっている。これぐらいは契約の内さ」
平岡は、それに然したる反応も見せなかった。長く浪人をしている男で、万事に対し冷淡なところがある。平岡が放つ深い翳りを感じ取った寺坂に採用を反対された経緯はあるが、今では彼にとって良き話し相手になっている。
「そういえば、最近この辺りで見ねぇ顔が増えたそうだな」
「新茶屋の客は、初めて見る顔ばかりですよ」
「そりゃそうだが、薄暮れ時になると一癖もありそうな連中が増える、と三爺に聞いた。何か知らねぇか?」
そう訊き直すと、平岡が七尾に目で合図を出した。話せ、という事だろうか。
「確かに、見かけます。ですが、今の所は静かに酒を飲むだけですね」
「そうなのか? 平岡」
七尾の言葉を受けて大楽が尋ねると、平岡は微かに頷いた。それを見て大楽は言葉を続ける。
「金兵衛一家じゃないという話だが」
「どうでしょうね。雰囲気だけ見れば連中とは思えませんが」
やはり、狙いははっきりとしない。金兵衛一家なのか。或いは、自分か。
この稼業を始めて、随分と恨みは買っている。心当たりは多いが、権藤に忠告された後だ。何かが繋がっていると勘ぐってしまう。
そんな大楽に、平岡が首を傾げる。
「旦那。そいつらをどうするつもりなんで?」
「どうも。客に迷惑を掛ければ追い出すだけ。俺を襲うようなら、叩き潰すだけだ」
「旦那は相変わらず荒事が好きだな」
平岡のその言葉に、大楽は肩を竦めてみせた。
「荒事の方から俺に寄ってくるだけさ」
詰め所を出た大楽は、客先を回った。
世間話にかこつけて見ねぇ顔について訊いた所、やはり現れているようであった。それは毎日の時もあれば、数日を空ける時もあるらしい。別に暴れるわけではないそうだが、明らかに異質な存在だと、客達は口を揃えて語った。
谷中で阿芙蓉を売り捌いているのは、見ねぇ顔かもしれない。
この読みに根拠は無いが、一番辻褄が合う気はする。
暮れ六つ(午後六時)になり、大楽は客先を出て表通りに出た。方々の店から酔客の笑い声が聞こえて来くる。
酒の臭い。人の熱気。規模はそれほどではないが、これが谷中の傾城町である。いつもの風景だった。
見ねぇ顔など、よくある話ではないか。それなのに、権藤の手先と結び付けて過敏に反応している自分がいる。萩尾道場を始めて、敵が増えた。それは気にしていないし、いつでも受けて立つつもりではある。
だが、敵は十万石。あまりにも強大である。それと戦う覚悟が、自分にはあるのか。
(気にし過ぎか……)
主計が――弟が何かを盗んで脱藩し、斯摩藩が弟を助けるなと言ってきた。今ある情報はそれだけではないか。そもそも、萩尾家の当主が脱藩するほどの事情はあるのだろうが、だからとて宍戸川と敵対すると決まったわけではない。
そこまで考えて、大楽は考えるのを止めた。
なんだかんだ考えては安心しようとする、そんな自分の臆病さには反吐が出る。
閻羅遮。谷中でいい顔になり、そう呼ばれるようになって、自分は腰抜けになったのではないか。
萩尾家の為に、家を飛び出した十三年前。そして生きる為に必死だった頃の闘争心はどこに消えたのか。それほど、今の生活が惜しいのか。
(敵は十万石)
もう一度、胸の内に呟いた。
三
大楽の前に出されたのは、鯖の味噌煮だった。それに丼飯と味噌汁、香の物がついている。
道場から五十歩ほどの距離にある食堂。屋号は『たいら』という。昼間しか開けておらず、夕方前には閉めてしまう。この店も萩尾道場の客であるが、酒を出さないだけに呼ばれる事が殆ど無く、故に安い手間賃で請け負っている。
「面白い話を聞いたんでね。昼飯を食いながらどうだ?」
と、大楽が寺坂に誘われたのは、七尾相手に道場で稽古をしていた時だった。
若くて活きのいい七尾の打ち込みを何とか弾いていると、寺坂が助け舟を出すように話しかけてきたのだ。どうやら、新しい情報を仕入れたのだという。
大楽達がいるのは奥の一間。元々、たいらには土間席しかなく、この一間は店主夫婦が休憩などに使う場所である。寺坂は内密の話があるとして、この一間を特別に借りたという。
「まず食っちまうか」
寺坂の言葉を合図に、大楽は鯖に箸を伸ばした。
味噌味の濃い鯖で、丼飯を一杯。さらに残った煮汁を飯にかけて、更にもう一杯食べた。味に関して、たいらに不満はない。
「いつも思うが、まるで若造のような食べっぷりだな」
そう言った寺坂は、熱いほうじ茶を啜っている。
「食う量は変わらないね。それに、俺はまだ老け込んじゃいねぇよ。そんな事より、話ってぇのは何だよ」
大楽は、空いた皿を脇に寄せながら訊いた。店の者は、呼ばれるまでは入って来ない。そうした気配りは出来る店だった。
「お前が言う見ない顔の事だ。平岡に聞いたよ。やけに気にしていたと」
「気のせいだろ」
「そう思っていても、周囲には案外と伝わるもんだ。特にお前さんは、鉄砲玉が現れても気にも留めないからな。だが今回は違う」
「気にしてねぇって」
「まぁ、そう言うならそれでいい。で、俺たち萩尾道場の門人としちゃ、黙って見てられないわけよ」
「俺はな――」
「弟さんと、何か関係がある。そう思っているんだろう?」
その寺坂の言葉に、もう否定のしようがないと、大楽は渋々頷いた。
「普段なら気にも留めなかっただろうな。だが、弟の話を聞いた後だ。疑わないほど、俺は無垢じゃない」
「そうだろう。で、お前の読み筋は?」
「さてね。ただの破落戸かもしれんし」
権藤の監視かとも思ったが、新茶屋町にしか現れない所を見ると、そうとも言い切れない。なら考えられるのは商売敵か、酔客を装って命を狙う刺客か。或いは、単なる嫌がらせか。敵が多い身だけに、考えれば考えるほど読み筋は絡まっていく気がする。
「ひとまずの報告だが、金兵衛一家とは関係ないそうだ」
「お前さん、まさかわざわざ」
「ああ、行って来たさ、一人でね。金兵衛は驚いてたけどな」
寺坂は、言わば萩尾道場の副将である。それが金兵衛一家に単身で乗り込んだのだから、さぞ驚いたに違いない。
「何て訊いたんだ?」
「最近、新茶屋で見掛ける筋者は、お前さんの身内かい? とな。すると、顔を真っ赤にして否定されたよ。一家の若い衆が一度声を掛けたそうだが、拳骨一つ喰らって伸びちまったそうだ」
「信じられるのか?」
「まぁ、八割は」
大楽は、急須に手を伸ばした。湯呑はとうに空になっていた。寺坂も飲み干していたのか、無言で湯呑を差し出した。
「手間を掛けさせちまったな。だが、これで金兵衛一家の線は消えた」
とは言っても、他の可能性は大いにある。
「萩尾、それで弟さんの件はどうするつもりだ?」
そう訊かれ、大楽は腕を組んだ。
まだ決めかねているのだ。もし主計が目の前に現れれば、助けるかもしれない。あいつは昔から利口で、誰にでも気配りができる心優しい弟だ。その弟に、萩尾家嫡男という重責を、押しつけてしまった。その罪を贖えるなら、喜んで動こう。だが、敵は途方もなく大きい。
答えない大楽に、寺坂は一つ咳払いをした。
「儂はお前の決めた事なら、どこまでも従うつもりだ」
「そうさな」
大楽は目を閉じた。
命が惜しいのか。そう、自分に問い掛ける。
この手で、幾つもの命を葬ってきた。いつ死んでも文句の言えない身である。しかし、無意味な死は嫌だ。せめて、意味のある死でありたい。
(ならば、助けるべきではないか)
少なくとも、愛する者の為にはなる。主計の、そして縫子の為には。だが――。
いつの間にか、臆病になったのだろうか。主計は助けたいと思う反面で、十万石を相手にすると思うと、何処かで怯んでいる自分もいるのだ。
昔は、無鉄砲だった。自分では色々と考えていたつもりだが、最後はどうにでもなれと腹を括れた。
斯摩藩を出奔したのもそうだった。そして江戸でも無茶をした。自らの命を試すような真似を繰り返し、そうして付いた渾名が閻羅遮だった。
少なくとも、権藤は癪に障る。権藤の上にいる宍戸川はもっと嫌いだ。憎んでいるとも言っていい。
いいだろう。覚悟を決めてやる。しかし、自分一人だ。寺坂も他の門人も関わらせない。これは萩尾家を飛び出した、罪滅ぼしなのだ。
大楽は腹を決め、目を開いた。
「これは俺の家の話だからな。勝手にするさ」
「水臭いな」
「そうさ。俺は水臭い奴なんだ」
大楽の言葉に、それ以上、寺坂は何も言わなかった。
料理茶屋『熊辰』の小僧が、新茶屋町の詰め所に駆け込んで来たのは、門人の一人が百目蝋燭に火を灯そうとした頃だった。
大楽が尋ねたところによれば、どうも熊辰で、酔客が暴れたらしい。それを七尾が止めたようだが、どこからか仲間が現れ、七尾と向かい合っているという。
「大将、暴れているのは見ねぇ顔だぜ」
小僧を追ってきたのか、続いて三吉が詰め所に現れた。
「三爺、そいつらを見たのかい?」
「勿論さ。小遣いを貰ったからね。その分の義理は果たさんとな」
「悪いね。じゃ、ちょっくら行ってくるか」
詰め所から熊辰は近い。大楽は詰め所に門人を残し、一息に駆けた。
熊辰の前に人だかりは無かった。遠巻きで見ているだけだ。
七尾が、まだ向かい合ったままだった。相手は四人。どれも町人だが、柄のいい連中ではない。
「先生」
七尾が振り向く。大楽は肩に手を置き、下がれと命じた。
「あいつらです。例の」
七尾は下がりながら、短く耳打ちした。唇は殆ど動いていない。
「おっと、助っ人かい?」
酔っている男が言った。小僧に酔客とは聞いたが、顔が赤いだけで本当に酔っているようには見えない。仲間の三人にも、酒気の色は見えなかった。
(まんまと誘い出されたか)
と、思った。やはり見ねぇ顔とやらは、俺を狙ったものなのか。
「悪いが、今日の所はこれぐらいにしといてくれねぇか。他のお客さんに迷惑でね」
大楽は、一歩踏み出してそう言った。
四人の顔は、どれも若い。しかし、それなりの悪事を重ねたような面構えだった。
「お、よく見りゃ萩尾道場の旦那じゃねぇか。知っているぜ。金兵衛一家をぶっ叩いて、谷中を領分にしてるっていう」
「おいおい、俺は素っ堅気だぜ」
「やっている事はやくざじゃねぇか。でもよ、旦那が金兵衛一家を抑えているお陰で、俺たちが谷中で遊べるんだから感謝しねぇとな」
大楽は、小さい溜息を漏らした。
「やくざがいねぇならいねぇで面倒なもんだな。お前らのような、糞の役にも立たない破落戸が蔓延っちまう。こちとら金兵衛一家だけで十分というのに」
「何だって?」
四人が、一斉に気色ばんだ。
「ここでは他のお客さんに迷惑だ。裏手に人が寄り付かねぇ場所がある。そこで話つけようじゃねぇか」
「へぇ、いい度胸だな。流石、谷中の旦那ってだけはあらぁ」
大楽は一歩後退り、「お前は残れ」と、七尾に命じた。
「ですが」
「他で騒ぎが起きたらどうする? 客は熊辰だけじゃねぇんだぜ」
それで、七尾は引き下がった。
大通りから一本奥に入った道を辿ると、小さな不動尊が見えてくる。この辺りは、鬱蒼とした木々も多く、この時分に人通りは無い。何とも陰気な場所である。
「ここらでいいだろう」
大楽は四人と向かい合った。夕闇が周囲を包んでいるが、支障がある暗さではない。
「このまま帰っちゃくんねぇだろうな」
「へへ。なら、こんな場所まで付いて来るわけがねぇだろ」
「確かに」
と、言ったと同時に、大楽は正面に立っていた男の顎に、掌底を浴びせていた。
男が腰から落ちたところに、膝を叩きこむ。
男の口から、黄色いものが吐き出された。酸っぱさのある臭いが、大楽の鼻を突いた。
横から拳が来た。それを左の肘で弾く。
当たったのは肩で、そのまま顎を右の掌底で同じように打ち抜いた。そして腹。更に踏み込んで抱え上げ、背中から、叩き落とす。地に落ちた男の身体が海老のように反った。これで、暫くは息が出来ないはずだ。
やるなら、容赦はしない。殺さないまでも、動けないようにする。
容赦をして、後ろから刺された用心棒を、大楽は何人も知っている。
ふと大楽は、肌にひりつく何かを覚え、視線を残りの二人に向けた。
――匕首を抜き払っていた。宵闇に、刃の鈍い白だけが、獣の目のように光っている。
「そいつを抜いちまったか」
「侠を売り物にしている以上、何としても勝たなきゃならねぇのさ」
「それは俺も一緒さ。だが、抜いちまった手前、手加減は出来んぞ」
大楽は月山堯顕を、するりと抜いた。長年使い込んだ相棒。手に馴染むことを再確認するように握りしめた。
男の匕首が伸びて来た。迅い。
が、大楽はそれを身を翻して躱すと、男の手首を刀背で打ち砕き、返す刀で残った一人の首筋に打ち込んだ。
「さてと」
大楽は、手首を打たれて蹲った男の首筋に、月山堯顕の切っ先を突き付けた。他の三人は伸びている。
「誰に頼まれた?」
「な、何の話だよ。俺たちはただ」
「単に遊んでいたわけじゃねぇよなぁ?」
と、大楽は刀をより首元に近付けた。
「手荒な真似はしたくねぇんだが、こっちも必死でね。俺が谷中の閻羅遮と呼ばれているのを知っているかい? この谷中で非違を犯せば、閻魔様すら道を遮るって意味さ」
大楽は、刀の切っ先を蹲る男の頬に向けた。
「まぁ、そんな事はどうでもいい。言えよ」
「し、知らねぇって」
「どうしても言わねぇんだな」
すっと、頬に這わせる。それだけで、男の頬から血が流れた。
「やめてくれ」
「言うならやめてやるぜ? 言わねえなら、まず頬に穴が開く。まず右。そして左。ま、最後まで言わなきゃ死ぬ羽目になるだけだが、それまで色々としなきゃならん。面倒だし、俺も気分は悪い」
「知らねぇんだ。本当だって。俺は頼まれただけなんだ」
大楽は男の髷を掴み上げた。
「俺の顔を見ろ。いいか。これがお前を殺す男の顔だ。お前は俺を殺そうとしたんだ。なら、手前が殺されても文句はねぇだろう」
「やめてくれ、言う。言うから」
「誰だ?」
「かほ」
「『かほ』ってのは、名前か? 屋号か?」
「屋号だ。嘉穂屋の宗右衛門」
その男は、両国広小路にある、両替商の隠居である。
だが、それは表の顔に過ぎない。真の顔は両国一体の裏を仕切る首領である。
江戸には『裏』と呼ばれる堅気には知り得ない暗い世界があり、そこを取り仕切る首領が十数名いて、彼らは『武揚会』と称し、八百八町を分割支配している。
武揚会の面々は表は勿論の事、裏にも強い影響力を持つ。
やくざや掏摸、金貸しに女衒など堅気の稼業でない者は、仲介者を通じて必ず土地の首領の世話にならなければならない。他にも厳しい掟があるのだが、こうした江戸の流儀に逆らえば、漏れなく三途の川を渡る事になっている。
大楽も用心棒という真っ当ではない商売をする上で、谷中の首領に話を通し、決して安くはない上納金を納めている。金兵衛一家との悶着を控えているのも、谷中の首領が仲裁に入ったからであった。
決して歯向かってはいけない存在なのだ。江戸の裏に疎かった頃は、大楽は何度も首領に抗おうとして、寺坂に必死に止められていた。今はそうではない。適当に付き合い、折り合いを付けている。十三年も経った今、かつてのような血気も侠気も無くなったのかもしれない。
「なるほど、嘉穂屋か」
大楽は頷きつつも、しかし、嘉穂屋が何故? とも思う。
両国では商売をしてはいないし、恨みを買う理由が思い当たらない。むしろ武揚会に名を連ねる大物が、自分のような用心棒など相手にしようはずはない。
「あと、もう一つ。阿芙蓉を捌いているのはお前たちか?」
「阿芙蓉だって? とんでもねぇよ。そんなもん売ってたら、こんなケチな仕事を踏まねぇでも暮らせらぁ」
確かに、と大楽は頷いた。阿芙蓉自体が高級品であり、仕入れるだけでも銭と力が必要になる。そんなものがあれば、こんな鉄砲玉のようなマネはしない。
「谷中で持っていた奴がいた。何か知らねぇか?」
「どっかで買ったんだろう。俺らみたいな半端者が手を出せる稼業じゃねぇ」
「本当か?」
男が首を縦に振る。よく見れば、まだ若い顔立ちをしている。本当に何も知らないのかもしれない。
「わかった。だが、早く江戸を離れる事だ。嘉穂屋の依頼だと喋った手前、何をされるかわかんねぇぞ」
来た道を戻る途中だった。
寺壁沿いの一本道。男が立っていた。背は低い。やや太く、猫背だった。
「何か?」
「閻羅遮の行く道を遮りたくてですね」
「ほう」
男は中年の武士だった。自分よりは上。四十半ばから後半ぐらいか。締まりのない顔や恰好からは、うだつのあがらない凡庸な小役人という印象しかない。
「俺を遮りゃ、お前さんは怪我をする事になる」
「そりゃ怖い」
「怖がっているようには見えんぜ」
すると、男は苦笑いを浮かべ、人差し指で眉間を掻いてみせた。
「権藤の手先か」
「はて、どうでしょう」
「では、嘉穂屋か?」
男が笑みを崩さぬまま、鋭い視線を大楽に向けた。
「……それを何処で?」
「そりゃ、お前が氏素性を明かしてくれりゃ教えてやらんでもないが」
「難しいですなぁ、それは」
不意に、対峙の様相になった。距離は五歩半。
男からは凡庸な小役人という印象は消え、不気味で、それでいて得体の知れない妖怪に変わっていた。
(面白い……)
大楽は、気を放った。
しかし向かい合う妖怪は、それを上手く受け流したようだった。
只者ではない。それはわかる。だが、不快感も強かった。あの薄気味悪い笑みは、全身をねっとりと舐められている気分になるのだ。
斬ってやろうか。そう思った。捕まえて、話を聞くのが一番の手なのだろうが、そうした生半可な真似をすれば、痛撃を受けかねない実力を持っているはずだ。やるなら、殺す気でやる。
腰を落とし、月山堯顕に右手を伸ばそうとした時、男が間合いを外すかのように、後方へ跳び退いた。
「危ない、危ない。今日は挨拶のつもりで来たんですよ」
と、男は笑顔を崩さずに言い、大楽も姿勢を戻した。対峙の気配は消えている。
「名前も名乗らずに挨拶もなかろうよ」
「それはまた、今度という事で」
「もう会いたかねぇよ」
「嫌でも、またお会いする事になりますよ」
そう言って男は踵を返し、闇の中に消えていった。
四
穏やかな海だった。波はあるが、舟底を舐める程度で大きく揺らすほどではない。
釣り日和というものだ。大楽の他にも幾つか舟は出ているし、鉄砲洲の辺りは、釣果を競う太公望で溢れかえっている。
江戸浦。鉄砲洲から沖合へ二町ほど乗り出した、海上である。
そこで大楽は、竿を出して釣りに興じていた。
釣りは、斯摩にいる時からの趣味である。唯一とも言っていい。
萩尾家の所領・姪浜は、浜の字が付くように海に面していた。
唐津街道沿いの宿場町でもあるが、一本奥に入れば漁村と繋がっていて、町中にあっても潮の臭いは濃い。
また、その海は博多浦と呼ばれる湾で、比較的穏やかな内海だった。ぜんざいの餅のように瓢箪の形をした島が一つだけ浮いている。そして湾を抜ければ、漆黒の玄界灘だった。
大楽は海を眺めて育った。屋敷では継母に苛められ、その継母に気を使う父親からも、煙たがられた。仕方なかった。継母は、藩主の妹なのだ。堪える日々の鬱積が、広大な海へと駆り立てたのだろう。
五歳で、釣りを覚えた。漁村の子供たちが教えてくれたのだ。最初は浜や礒から釣ったが、程なく仲間と舟を出して釣るようにもなった。
身分を超えた、初めての友達だった。屋敷を抜け出しては、何度も遊んだ。喧嘩もした。
だが、その繋がりも継母に取り上げられた。藩主家、ひいては神君に連なる一門の武士が、軽々しく下々と関わるものではない、と叱責されたのだ。同時に継母は、網元を呼びつけて釘を刺したので、大楽に声を掛ける者は自然といなくなった。
その日以来、大楽の釣りは独りでするものになったが、新たな釣り仲間を得たのは、十二歳で入った藩校での事だった。
「釣り、した事あるか?」
そう声を掛けてきたのは、忠之助と当時は名乗っていた、乃美蔵主である。
乃美とは修明館の寄宿舎で生活を共にするうちに親友となり、釣果を競う好敵手となった。
主に斯摩城下や姪浜で競い合い、今は自分が二つ勝ち越しているが、この十三年間その記録は変わらない。
全く動かない竿先を眺めながら、大楽は久し振りに見た乃美の顔を思い出した。
陰気な顔は、相変わらずだ。順調に出世しているそうだが、それだけ厳しい立場にいるのだろう。
昔、乃美は執政府入りを目指すと言っていた。斯摩藩では、中老に上がれば執政府の一員となれる。今はどの辺りまで登ったのだろうか。権藤の付き添いをするぐらいだから、まだ奉行にもなっていないのはわかる。
(しかし、何が起きているのだ)
あの生真面目な主計が脱藩したのだから、藩内は深刻な状況なはずだ。しかも、萩尾家は藩主家の一門衆であり、血筋を辿れば神君家康、そして長子だった信康にも通じる名門である。その当主の出奔が御家に与えた衝撃は計り知れないし、一連の騒動が幕府の耳に届かぬようにもするであろう。
(やはり、主計は宍戸川に歯向かったのか。そして奪ったものは、奴の弱みか……)
様々な可能性は浮かぶが、結局は想像でしかない。これ以上の推測をするには、現在の斯摩藩の状況を知らな過ぎるのだ。
藩主は渋川堯春で、世子は一橋家から迎えた渋川堯雄。藩政は十三年前から変わらず、宍戸川一派が独裁している。
意図的に故郷の事を聞かないようにしていたので、知っているのはそれぐらいのものだ。
「旦那、どうしやすかい?」
と、大楽の思考を遮るように、艫に腰掛けた船頭が言った。
沖に出て暫くは潮が動いていたが、今は下げ止まっている。食いも悪くなり、魚信など最後はいつだったか? と、忘れるほどにない。
「そうさなぁ。もう竿仕舞いにしようか。これ以上、釣れる気がしねぇ」
「他の舟は粘っているみたいですが、いいんですかい?」
「構わん、構わん。今日の俺はついてねぇんだよ」
「流石は萩尾の旦那だ。何事も引き際が大事でさ」
そう言うと、船頭はむっくりと立ち上がった。もう老齢だが、経験豊かな船頭である。
「そういや、少し前に釣り人が海で死んじまったんですよ」
大楽は「そうか」と呟いて仰臥した。
詳しくは聞かないが、海を甘く見たからそうなったのだろう。海は恵みをもたらすだけではなく、時として人に牙を剥く獣なのだ。大楽もその事を、十六の時に身を以て痛感した事がある。
「浦の外に出ると、魚種も豊かだし、大物も釣れるぜ」
その話を聞いたのは、藩校での事だった。父親が船手方という学友の言葉で、「そこを知らなきゃ、斯摩の釣り師とは言えんな」とも、付け加えられた。
若かった大楽は、血潮が沸きたった。
海は博多浦しか知らなかったのだ。釣りに対して寛容だった叔父からも、浦の外、つまり玄界灘へ行く事だけは厳しく禁じられていた。
玄界灘へ出てみたいと大楽が言うと、乃美は止めた。
素人が出るような海ではない。ましてや、博多浦で使っている小舟では無理だと。
しかし、どうしても行きたかった大楽は、一人でも行くと告げると、乃美は仕方ないという表情で、付き合ってくれた。
二人で銭を出し合い、博多の船主に頼んだ。斯摩の者では断られると思ったからだ。
「素人に耐えられる海じゃねぇですよ」
船主は渋い顔をした。
季節は冬。玄界灘が、最も厳しい荒れを見せる季節だった。
それでもいい。どうせ見るのなら、最も厳しい顔が見たいと言って更に銭を積むと、船主は仕方がないという風に頷いた。
乗り込んだのは、姫島行きの五百石ほどの弁才船で、二人で払える額ではぎりぎりの大きさだった。
博多浦までは、いつもの海。しかし、浦の外を出ると、まず海の色が変わり、そして波の質が変わった。
まるで、黒い獣だった。玄界灘の水はどこまでも深い闇で、荒れ狂った波が牙を剥いていた。
海は弁才船を容赦なく揺らし、大楽も乃美も釣りどころではなかった。盛大に吐き、這う這うの体で博多へ帰港した。
船乗りたちは、その姿を見て笑った。言わんこっちゃない、軟弱な青侍とも思ったのだろう。事実、そうだった。
海では気を抜けない。剥き出しの命を晒していて、いつ何があるかわからないからだ。しかし、同時に雄大で親しみすら覚える。どこまでも、海は自由なのだ。
だから大楽は、海が好きだった。
誰かが、尾行ている。
その気配を感じたのは、明石町で釣り舟を降りた時からだった。
初めは、気のせいかと思った。だが、十軒町に入った時には、それが明確な意図を持ったものだと、大楽は確信した。
だが、相手は素人だった。隠れよう隠れようとして、余計に目立っている。
先日の中途半端な腕を持つ破落戸といい、嘉穂屋は手駒に窮しているのだろうか。
大楽は、追跡者の視線を背中に浴びながら、十軒町にある蕎麦屋に入った。釣りの後に立ち寄る馴染みの店だった。
「いらっしゃい」
店に入ると、蕎麦を湯がく熱気と共に、板場から景気のいい声が飛んできた。
頼んだのは、ざる蕎麦と天ぷらのかき揚げ、そして酒だった。かき揚げは季節の野菜で、菜の花の黄色も入っている。
大楽は出された蕎麦を、黙々と啜った。この店のつゆは薄いので、麺をどっぷりと付ける。かき揚げは、塩を振りかけて、そのまま齧った。
「ここの蕎麦は旨いですな」
ふと、背後から声を掛けられた。
振り向けば、あの男が、背を向けて蕎麦を啜っていた。
「お前」
「これは、奇遇ですなぁ」
男も振り返って笑う。男映えのしない、むさ苦しい中年男の顔がそこにあった。
言葉も出なかった。その気配を全く感じなかったのだ。
確かに追跡者の気配は背後にあり、それは店に入るまで感じていた。そして店に入ると気配は消え、大楽は少なからず安堵していた。
しかし、実際はもっと身近にいた。すると、下手な尾行は気を逸らす為の罠だったという事か。
そんな大楽に、男は言葉を続ける。
「私も、この店の蕎麦が好きでしてね」
「そうかい。俺はそうでもないね」
「またまた。贔屓の店じゃありませんか。確か先月も来てたでしょう?」
そう言われ、大楽が舌打ちをした。
ずっとこちらを監視していたという事か。しかも先月というと、権藤と会う前の話だ。
用心棒を請け負っている店に顔を出し、他愛もない世間話をする。それだけの事だが、顔を見せるだけで客は安心するし、時としてそこで新たな仕事を受けたりもするのだ。
「閻羅遮の大将」
声を掛けられたのは、中門前町に至る感応寺の裏道だった。振り向くと、歯の抜けた老爺が一人立っていた。
「なんだ、三爺じゃねぇか」
大楽が言うと、三爺と呼ばれた男は、顔をくしゃくしゃにした笑みを見せた。
「大将ってのは、やめてくんねぇか? 俺は単なる浪人だぜ。征夷大将軍じゃあるまいし」
「じゃ、閻羅遮の親分ってのはどうでぇ」
「やくざじゃねぇんだよ。大体、閻羅遮って呼ばれるだけでも小っ恥ずかしいんだ。萩尾で十分よ」
「何言ってやがる。大将のやってる事は、まんまやくざだろうに。ま、堅気を大事にしているだけましってもんだがよ」
銭を貰って、守ってやる。確かに、やくざ者の地廻りと変わりはしない。それだけに派遣する用心棒の人品というものは大事にしていた。
「それで、俺に何の用だ」
この三爺は三吉という名で、長く感応寺で寺男をしていた男だ。谷中の事情には詳しく顔も広い。大楽も三吉がもたらす情報に、何度か救われた事もある。
「いやね、最近見ねぇ顔が増えてるって思ってな」
見ねぇ顔とは、谷中界隈に流入した余所者という意味だ。勿論、堅気ではなくやくざ者である。
「新茶屋町あたりか。暮れ六つ(午後六時)を越えたぐらいに来やがる。どいつもこいつも、癖のある悪りぃ顔をしているぜ」
「金兵衛一家か?」
すると、三吉はとんでもないといった風に顔を横に振った。
「今の金兵衛一家に、骨のある奴はいねぇよ。でなけりゃ見ねぇ顔が谷中に入り込んだりするもんか」
「確かにそうだな」
大楽の同意に、三吉が破顔する。この男は、金兵衛一家とも近いが、内心では蛇蝎の如く嫌っていた。
「それはそうと、阿芙蓉が谷中に入って来ているって話は知ってるかい?」
大楽は話題を変えた。いつも谷中の裏表を見ているこの男なら、何か知っているかと思った。
「最近噂のあれかい。煙草のように吸うと気持ち良くなるらしいね」
「ああ。金兵衛んとこの馬鹿息子が持っていた」
「すまねぇが、そいつに関わる情報は無いねぇ」
「そうかい。なら、何でもいいので小耳に挟んだら教えてくれねえか?」
大楽は懐から小銭を幾つか摘まみだし、三吉に握らせた。
「合点だ。何かわかればすぐにでも報せるぜ。見ねぇ顔についてもな」
「ああ。だが、谷中の首領には内緒にしてくれよ」
「そいつも承知の助よ」
用心棒稼業で大事な事は、潜在的な敵を知る事だ。なので、依頼を受ける時は客から根掘り葉掘り身の上話を聞き出す。問題があらかじめわかっていれば、然るべき備えは出来るものである。
客先へのご機嫌伺いを終えた大楽は、新茶屋町に来ていた。
この町は、感応寺の参拝客を相手にした飲食店が多く、最近では傾城町の様相を呈して何かと揉め事が多い。
それは萩尾道場が抱えている客の数にも表れていて、この町だけで十七。それだけに、新茶屋町に詰めている用心棒も、道場内でも屈指の猛者を揃えていた。
大楽は今日はこの町で、夜を迎えるつもりであった。それは三吉の話を聞いたからで、この谷中に入って来た見ねぇ顔がどんなものか、見てみたいと思ったからだ。
(金兵衛一家の領分狙いか。或いは俺か)
あるいは萩尾道場憎しと、金兵衛一家が雇ったという線もある。
大楽は、表通りに建てた小さな小屋に向かった。
この小屋は萩尾道場の詰め所であり、昼番・夜番と決めて必ず一人は常駐させている。つまりは自身番のようなもので、この日は二人の用心棒が待機していた。
「先生」
大楽の姿を認め、弾けたように一人が立ち上った。もう一人は大刀を抱えたまま、湯呑を啜っている。
立ち上がったのは七尾壮平で、座ったままなのが平岡九十郎と言った。
七尾は腕こそ立つが経験が浅いので、歴戦の平岡と組ませている。一方の平岡は、萩尾道場でも古株だった。七尾は二十一で、平岡は三十五である。
「どうだ?」
大楽は七尾の肩に手を置いて、平岡に訊いた。
「何も。平穏なものですよ。昨夜は酔っ払いが暴れたそうですが、夜番の林が叩き出しています」
「林に怪我は?」
「拳の掠り傷ぐらいですね。あの程度なら、治療代は取れんでしょう」
「この町の店からは多めに銭を払ってもらっている。これぐらいは契約の内さ」
平岡は、それに然したる反応も見せなかった。長く浪人をしている男で、万事に対し冷淡なところがある。平岡が放つ深い翳りを感じ取った寺坂に採用を反対された経緯はあるが、今では彼にとって良き話し相手になっている。
「そういえば、最近この辺りで見ねぇ顔が増えたそうだな」
「新茶屋の客は、初めて見る顔ばかりですよ」
「そりゃそうだが、薄暮れ時になると一癖もありそうな連中が増える、と三爺に聞いた。何か知らねぇか?」
そう訊き直すと、平岡が七尾に目で合図を出した。話せ、という事だろうか。
「確かに、見かけます。ですが、今の所は静かに酒を飲むだけですね」
「そうなのか? 平岡」
七尾の言葉を受けて大楽が尋ねると、平岡は微かに頷いた。それを見て大楽は言葉を続ける。
「金兵衛一家じゃないという話だが」
「どうでしょうね。雰囲気だけ見れば連中とは思えませんが」
やはり、狙いははっきりとしない。金兵衛一家なのか。或いは、自分か。
この稼業を始めて、随分と恨みは買っている。心当たりは多いが、権藤に忠告された後だ。何かが繋がっていると勘ぐってしまう。
そんな大楽に、平岡が首を傾げる。
「旦那。そいつらをどうするつもりなんで?」
「どうも。客に迷惑を掛ければ追い出すだけ。俺を襲うようなら、叩き潰すだけだ」
「旦那は相変わらず荒事が好きだな」
平岡のその言葉に、大楽は肩を竦めてみせた。
「荒事の方から俺に寄ってくるだけさ」
詰め所を出た大楽は、客先を回った。
世間話にかこつけて見ねぇ顔について訊いた所、やはり現れているようであった。それは毎日の時もあれば、数日を空ける時もあるらしい。別に暴れるわけではないそうだが、明らかに異質な存在だと、客達は口を揃えて語った。
谷中で阿芙蓉を売り捌いているのは、見ねぇ顔かもしれない。
この読みに根拠は無いが、一番辻褄が合う気はする。
暮れ六つ(午後六時)になり、大楽は客先を出て表通りに出た。方々の店から酔客の笑い声が聞こえて来くる。
酒の臭い。人の熱気。規模はそれほどではないが、これが谷中の傾城町である。いつもの風景だった。
見ねぇ顔など、よくある話ではないか。それなのに、権藤の手先と結び付けて過敏に反応している自分がいる。萩尾道場を始めて、敵が増えた。それは気にしていないし、いつでも受けて立つつもりではある。
だが、敵は十万石。あまりにも強大である。それと戦う覚悟が、自分にはあるのか。
(気にし過ぎか……)
主計が――弟が何かを盗んで脱藩し、斯摩藩が弟を助けるなと言ってきた。今ある情報はそれだけではないか。そもそも、萩尾家の当主が脱藩するほどの事情はあるのだろうが、だからとて宍戸川と敵対すると決まったわけではない。
そこまで考えて、大楽は考えるのを止めた。
なんだかんだ考えては安心しようとする、そんな自分の臆病さには反吐が出る。
閻羅遮。谷中でいい顔になり、そう呼ばれるようになって、自分は腰抜けになったのではないか。
萩尾家の為に、家を飛び出した十三年前。そして生きる為に必死だった頃の闘争心はどこに消えたのか。それほど、今の生活が惜しいのか。
(敵は十万石)
もう一度、胸の内に呟いた。
三
大楽の前に出されたのは、鯖の味噌煮だった。それに丼飯と味噌汁、香の物がついている。
道場から五十歩ほどの距離にある食堂。屋号は『たいら』という。昼間しか開けておらず、夕方前には閉めてしまう。この店も萩尾道場の客であるが、酒を出さないだけに呼ばれる事が殆ど無く、故に安い手間賃で請け負っている。
「面白い話を聞いたんでね。昼飯を食いながらどうだ?」
と、大楽が寺坂に誘われたのは、七尾相手に道場で稽古をしていた時だった。
若くて活きのいい七尾の打ち込みを何とか弾いていると、寺坂が助け舟を出すように話しかけてきたのだ。どうやら、新しい情報を仕入れたのだという。
大楽達がいるのは奥の一間。元々、たいらには土間席しかなく、この一間は店主夫婦が休憩などに使う場所である。寺坂は内密の話があるとして、この一間を特別に借りたという。
「まず食っちまうか」
寺坂の言葉を合図に、大楽は鯖に箸を伸ばした。
味噌味の濃い鯖で、丼飯を一杯。さらに残った煮汁を飯にかけて、更にもう一杯食べた。味に関して、たいらに不満はない。
「いつも思うが、まるで若造のような食べっぷりだな」
そう言った寺坂は、熱いほうじ茶を啜っている。
「食う量は変わらないね。それに、俺はまだ老け込んじゃいねぇよ。そんな事より、話ってぇのは何だよ」
大楽は、空いた皿を脇に寄せながら訊いた。店の者は、呼ばれるまでは入って来ない。そうした気配りは出来る店だった。
「お前が言う見ない顔の事だ。平岡に聞いたよ。やけに気にしていたと」
「気のせいだろ」
「そう思っていても、周囲には案外と伝わるもんだ。特にお前さんは、鉄砲玉が現れても気にも留めないからな。だが今回は違う」
「気にしてねぇって」
「まぁ、そう言うならそれでいい。で、俺たち萩尾道場の門人としちゃ、黙って見てられないわけよ」
「俺はな――」
「弟さんと、何か関係がある。そう思っているんだろう?」
その寺坂の言葉に、もう否定のしようがないと、大楽は渋々頷いた。
「普段なら気にも留めなかっただろうな。だが、弟の話を聞いた後だ。疑わないほど、俺は無垢じゃない」
「そうだろう。で、お前の読み筋は?」
「さてね。ただの破落戸かもしれんし」
権藤の監視かとも思ったが、新茶屋町にしか現れない所を見ると、そうとも言い切れない。なら考えられるのは商売敵か、酔客を装って命を狙う刺客か。或いは、単なる嫌がらせか。敵が多い身だけに、考えれば考えるほど読み筋は絡まっていく気がする。
「ひとまずの報告だが、金兵衛一家とは関係ないそうだ」
「お前さん、まさかわざわざ」
「ああ、行って来たさ、一人でね。金兵衛は驚いてたけどな」
寺坂は、言わば萩尾道場の副将である。それが金兵衛一家に単身で乗り込んだのだから、さぞ驚いたに違いない。
「何て訊いたんだ?」
「最近、新茶屋で見掛ける筋者は、お前さんの身内かい? とな。すると、顔を真っ赤にして否定されたよ。一家の若い衆が一度声を掛けたそうだが、拳骨一つ喰らって伸びちまったそうだ」
「信じられるのか?」
「まぁ、八割は」
大楽は、急須に手を伸ばした。湯呑はとうに空になっていた。寺坂も飲み干していたのか、無言で湯呑を差し出した。
「手間を掛けさせちまったな。だが、これで金兵衛一家の線は消えた」
とは言っても、他の可能性は大いにある。
「萩尾、それで弟さんの件はどうするつもりだ?」
そう訊かれ、大楽は腕を組んだ。
まだ決めかねているのだ。もし主計が目の前に現れれば、助けるかもしれない。あいつは昔から利口で、誰にでも気配りができる心優しい弟だ。その弟に、萩尾家嫡男という重責を、押しつけてしまった。その罪を贖えるなら、喜んで動こう。だが、敵は途方もなく大きい。
答えない大楽に、寺坂は一つ咳払いをした。
「儂はお前の決めた事なら、どこまでも従うつもりだ」
「そうさな」
大楽は目を閉じた。
命が惜しいのか。そう、自分に問い掛ける。
この手で、幾つもの命を葬ってきた。いつ死んでも文句の言えない身である。しかし、無意味な死は嫌だ。せめて、意味のある死でありたい。
(ならば、助けるべきではないか)
少なくとも、愛する者の為にはなる。主計の、そして縫子の為には。だが――。
いつの間にか、臆病になったのだろうか。主計は助けたいと思う反面で、十万石を相手にすると思うと、何処かで怯んでいる自分もいるのだ。
昔は、無鉄砲だった。自分では色々と考えていたつもりだが、最後はどうにでもなれと腹を括れた。
斯摩藩を出奔したのもそうだった。そして江戸でも無茶をした。自らの命を試すような真似を繰り返し、そうして付いた渾名が閻羅遮だった。
少なくとも、権藤は癪に障る。権藤の上にいる宍戸川はもっと嫌いだ。憎んでいるとも言っていい。
いいだろう。覚悟を決めてやる。しかし、自分一人だ。寺坂も他の門人も関わらせない。これは萩尾家を飛び出した、罪滅ぼしなのだ。
大楽は腹を決め、目を開いた。
「これは俺の家の話だからな。勝手にするさ」
「水臭いな」
「そうさ。俺は水臭い奴なんだ」
大楽の言葉に、それ以上、寺坂は何も言わなかった。
料理茶屋『熊辰』の小僧が、新茶屋町の詰め所に駆け込んで来たのは、門人の一人が百目蝋燭に火を灯そうとした頃だった。
大楽が尋ねたところによれば、どうも熊辰で、酔客が暴れたらしい。それを七尾が止めたようだが、どこからか仲間が現れ、七尾と向かい合っているという。
「大将、暴れているのは見ねぇ顔だぜ」
小僧を追ってきたのか、続いて三吉が詰め所に現れた。
「三爺、そいつらを見たのかい?」
「勿論さ。小遣いを貰ったからね。その分の義理は果たさんとな」
「悪いね。じゃ、ちょっくら行ってくるか」
詰め所から熊辰は近い。大楽は詰め所に門人を残し、一息に駆けた。
熊辰の前に人だかりは無かった。遠巻きで見ているだけだ。
七尾が、まだ向かい合ったままだった。相手は四人。どれも町人だが、柄のいい連中ではない。
「先生」
七尾が振り向く。大楽は肩に手を置き、下がれと命じた。
「あいつらです。例の」
七尾は下がりながら、短く耳打ちした。唇は殆ど動いていない。
「おっと、助っ人かい?」
酔っている男が言った。小僧に酔客とは聞いたが、顔が赤いだけで本当に酔っているようには見えない。仲間の三人にも、酒気の色は見えなかった。
(まんまと誘い出されたか)
と、思った。やはり見ねぇ顔とやらは、俺を狙ったものなのか。
「悪いが、今日の所はこれぐらいにしといてくれねぇか。他のお客さんに迷惑でね」
大楽は、一歩踏み出してそう言った。
四人の顔は、どれも若い。しかし、それなりの悪事を重ねたような面構えだった。
「お、よく見りゃ萩尾道場の旦那じゃねぇか。知っているぜ。金兵衛一家をぶっ叩いて、谷中を領分にしてるっていう」
「おいおい、俺は素っ堅気だぜ」
「やっている事はやくざじゃねぇか。でもよ、旦那が金兵衛一家を抑えているお陰で、俺たちが谷中で遊べるんだから感謝しねぇとな」
大楽は、小さい溜息を漏らした。
「やくざがいねぇならいねぇで面倒なもんだな。お前らのような、糞の役にも立たない破落戸が蔓延っちまう。こちとら金兵衛一家だけで十分というのに」
「何だって?」
四人が、一斉に気色ばんだ。
「ここでは他のお客さんに迷惑だ。裏手に人が寄り付かねぇ場所がある。そこで話つけようじゃねぇか」
「へぇ、いい度胸だな。流石、谷中の旦那ってだけはあらぁ」
大楽は一歩後退り、「お前は残れ」と、七尾に命じた。
「ですが」
「他で騒ぎが起きたらどうする? 客は熊辰だけじゃねぇんだぜ」
それで、七尾は引き下がった。
大通りから一本奥に入った道を辿ると、小さな不動尊が見えてくる。この辺りは、鬱蒼とした木々も多く、この時分に人通りは無い。何とも陰気な場所である。
「ここらでいいだろう」
大楽は四人と向かい合った。夕闇が周囲を包んでいるが、支障がある暗さではない。
「このまま帰っちゃくんねぇだろうな」
「へへ。なら、こんな場所まで付いて来るわけがねぇだろ」
「確かに」
と、言ったと同時に、大楽は正面に立っていた男の顎に、掌底を浴びせていた。
男が腰から落ちたところに、膝を叩きこむ。
男の口から、黄色いものが吐き出された。酸っぱさのある臭いが、大楽の鼻を突いた。
横から拳が来た。それを左の肘で弾く。
当たったのは肩で、そのまま顎を右の掌底で同じように打ち抜いた。そして腹。更に踏み込んで抱え上げ、背中から、叩き落とす。地に落ちた男の身体が海老のように反った。これで、暫くは息が出来ないはずだ。
やるなら、容赦はしない。殺さないまでも、動けないようにする。
容赦をして、後ろから刺された用心棒を、大楽は何人も知っている。
ふと大楽は、肌にひりつく何かを覚え、視線を残りの二人に向けた。
――匕首を抜き払っていた。宵闇に、刃の鈍い白だけが、獣の目のように光っている。
「そいつを抜いちまったか」
「侠を売り物にしている以上、何としても勝たなきゃならねぇのさ」
「それは俺も一緒さ。だが、抜いちまった手前、手加減は出来んぞ」
大楽は月山堯顕を、するりと抜いた。長年使い込んだ相棒。手に馴染むことを再確認するように握りしめた。
男の匕首が伸びて来た。迅い。
が、大楽はそれを身を翻して躱すと、男の手首を刀背で打ち砕き、返す刀で残った一人の首筋に打ち込んだ。
「さてと」
大楽は、手首を打たれて蹲った男の首筋に、月山堯顕の切っ先を突き付けた。他の三人は伸びている。
「誰に頼まれた?」
「な、何の話だよ。俺たちはただ」
「単に遊んでいたわけじゃねぇよなぁ?」
と、大楽は刀をより首元に近付けた。
「手荒な真似はしたくねぇんだが、こっちも必死でね。俺が谷中の閻羅遮と呼ばれているのを知っているかい? この谷中で非違を犯せば、閻魔様すら道を遮るって意味さ」
大楽は、刀の切っ先を蹲る男の頬に向けた。
「まぁ、そんな事はどうでもいい。言えよ」
「し、知らねぇって」
「どうしても言わねぇんだな」
すっと、頬に這わせる。それだけで、男の頬から血が流れた。
「やめてくれ」
「言うならやめてやるぜ? 言わねえなら、まず頬に穴が開く。まず右。そして左。ま、最後まで言わなきゃ死ぬ羽目になるだけだが、それまで色々としなきゃならん。面倒だし、俺も気分は悪い」
「知らねぇんだ。本当だって。俺は頼まれただけなんだ」
大楽は男の髷を掴み上げた。
「俺の顔を見ろ。いいか。これがお前を殺す男の顔だ。お前は俺を殺そうとしたんだ。なら、手前が殺されても文句はねぇだろう」
「やめてくれ、言う。言うから」
「誰だ?」
「かほ」
「『かほ』ってのは、名前か? 屋号か?」
「屋号だ。嘉穂屋の宗右衛門」
その男は、両国広小路にある、両替商の隠居である。
だが、それは表の顔に過ぎない。真の顔は両国一体の裏を仕切る首領である。
江戸には『裏』と呼ばれる堅気には知り得ない暗い世界があり、そこを取り仕切る首領が十数名いて、彼らは『武揚会』と称し、八百八町を分割支配している。
武揚会の面々は表は勿論の事、裏にも強い影響力を持つ。
やくざや掏摸、金貸しに女衒など堅気の稼業でない者は、仲介者を通じて必ず土地の首領の世話にならなければならない。他にも厳しい掟があるのだが、こうした江戸の流儀に逆らえば、漏れなく三途の川を渡る事になっている。
大楽も用心棒という真っ当ではない商売をする上で、谷中の首領に話を通し、決して安くはない上納金を納めている。金兵衛一家との悶着を控えているのも、谷中の首領が仲裁に入ったからであった。
決して歯向かってはいけない存在なのだ。江戸の裏に疎かった頃は、大楽は何度も首領に抗おうとして、寺坂に必死に止められていた。今はそうではない。適当に付き合い、折り合いを付けている。十三年も経った今、かつてのような血気も侠気も無くなったのかもしれない。
「なるほど、嘉穂屋か」
大楽は頷きつつも、しかし、嘉穂屋が何故? とも思う。
両国では商売をしてはいないし、恨みを買う理由が思い当たらない。むしろ武揚会に名を連ねる大物が、自分のような用心棒など相手にしようはずはない。
「あと、もう一つ。阿芙蓉を捌いているのはお前たちか?」
「阿芙蓉だって? とんでもねぇよ。そんなもん売ってたら、こんなケチな仕事を踏まねぇでも暮らせらぁ」
確かに、と大楽は頷いた。阿芙蓉自体が高級品であり、仕入れるだけでも銭と力が必要になる。そんなものがあれば、こんな鉄砲玉のようなマネはしない。
「谷中で持っていた奴がいた。何か知らねぇか?」
「どっかで買ったんだろう。俺らみたいな半端者が手を出せる稼業じゃねぇ」
「本当か?」
男が首を縦に振る。よく見れば、まだ若い顔立ちをしている。本当に何も知らないのかもしれない。
「わかった。だが、早く江戸を離れる事だ。嘉穂屋の依頼だと喋った手前、何をされるかわかんねぇぞ」
来た道を戻る途中だった。
寺壁沿いの一本道。男が立っていた。背は低い。やや太く、猫背だった。
「何か?」
「閻羅遮の行く道を遮りたくてですね」
「ほう」
男は中年の武士だった。自分よりは上。四十半ばから後半ぐらいか。締まりのない顔や恰好からは、うだつのあがらない凡庸な小役人という印象しかない。
「俺を遮りゃ、お前さんは怪我をする事になる」
「そりゃ怖い」
「怖がっているようには見えんぜ」
すると、男は苦笑いを浮かべ、人差し指で眉間を掻いてみせた。
「権藤の手先か」
「はて、どうでしょう」
「では、嘉穂屋か?」
男が笑みを崩さぬまま、鋭い視線を大楽に向けた。
「……それを何処で?」
「そりゃ、お前が氏素性を明かしてくれりゃ教えてやらんでもないが」
「難しいですなぁ、それは」
不意に、対峙の様相になった。距離は五歩半。
男からは凡庸な小役人という印象は消え、不気味で、それでいて得体の知れない妖怪に変わっていた。
(面白い……)
大楽は、気を放った。
しかし向かい合う妖怪は、それを上手く受け流したようだった。
只者ではない。それはわかる。だが、不快感も強かった。あの薄気味悪い笑みは、全身をねっとりと舐められている気分になるのだ。
斬ってやろうか。そう思った。捕まえて、話を聞くのが一番の手なのだろうが、そうした生半可な真似をすれば、痛撃を受けかねない実力を持っているはずだ。やるなら、殺す気でやる。
腰を落とし、月山堯顕に右手を伸ばそうとした時、男が間合いを外すかのように、後方へ跳び退いた。
「危ない、危ない。今日は挨拶のつもりで来たんですよ」
と、男は笑顔を崩さずに言い、大楽も姿勢を戻した。対峙の気配は消えている。
「名前も名乗らずに挨拶もなかろうよ」
「それはまた、今度という事で」
「もう会いたかねぇよ」
「嫌でも、またお会いする事になりますよ」
そう言って男は踵を返し、闇の中に消えていった。
四
穏やかな海だった。波はあるが、舟底を舐める程度で大きく揺らすほどではない。
釣り日和というものだ。大楽の他にも幾つか舟は出ているし、鉄砲洲の辺りは、釣果を競う太公望で溢れかえっている。
江戸浦。鉄砲洲から沖合へ二町ほど乗り出した、海上である。
そこで大楽は、竿を出して釣りに興じていた。
釣りは、斯摩にいる時からの趣味である。唯一とも言っていい。
萩尾家の所領・姪浜は、浜の字が付くように海に面していた。
唐津街道沿いの宿場町でもあるが、一本奥に入れば漁村と繋がっていて、町中にあっても潮の臭いは濃い。
また、その海は博多浦と呼ばれる湾で、比較的穏やかな内海だった。ぜんざいの餅のように瓢箪の形をした島が一つだけ浮いている。そして湾を抜ければ、漆黒の玄界灘だった。
大楽は海を眺めて育った。屋敷では継母に苛められ、その継母に気を使う父親からも、煙たがられた。仕方なかった。継母は、藩主の妹なのだ。堪える日々の鬱積が、広大な海へと駆り立てたのだろう。
五歳で、釣りを覚えた。漁村の子供たちが教えてくれたのだ。最初は浜や礒から釣ったが、程なく仲間と舟を出して釣るようにもなった。
身分を超えた、初めての友達だった。屋敷を抜け出しては、何度も遊んだ。喧嘩もした。
だが、その繋がりも継母に取り上げられた。藩主家、ひいては神君に連なる一門の武士が、軽々しく下々と関わるものではない、と叱責されたのだ。同時に継母は、網元を呼びつけて釘を刺したので、大楽に声を掛ける者は自然といなくなった。
その日以来、大楽の釣りは独りでするものになったが、新たな釣り仲間を得たのは、十二歳で入った藩校での事だった。
「釣り、した事あるか?」
そう声を掛けてきたのは、忠之助と当時は名乗っていた、乃美蔵主である。
乃美とは修明館の寄宿舎で生活を共にするうちに親友となり、釣果を競う好敵手となった。
主に斯摩城下や姪浜で競い合い、今は自分が二つ勝ち越しているが、この十三年間その記録は変わらない。
全く動かない竿先を眺めながら、大楽は久し振りに見た乃美の顔を思い出した。
陰気な顔は、相変わらずだ。順調に出世しているそうだが、それだけ厳しい立場にいるのだろう。
昔、乃美は執政府入りを目指すと言っていた。斯摩藩では、中老に上がれば執政府の一員となれる。今はどの辺りまで登ったのだろうか。権藤の付き添いをするぐらいだから、まだ奉行にもなっていないのはわかる。
(しかし、何が起きているのだ)
あの生真面目な主計が脱藩したのだから、藩内は深刻な状況なはずだ。しかも、萩尾家は藩主家の一門衆であり、血筋を辿れば神君家康、そして長子だった信康にも通じる名門である。その当主の出奔が御家に与えた衝撃は計り知れないし、一連の騒動が幕府の耳に届かぬようにもするであろう。
(やはり、主計は宍戸川に歯向かったのか。そして奪ったものは、奴の弱みか……)
様々な可能性は浮かぶが、結局は想像でしかない。これ以上の推測をするには、現在の斯摩藩の状況を知らな過ぎるのだ。
藩主は渋川堯春で、世子は一橋家から迎えた渋川堯雄。藩政は十三年前から変わらず、宍戸川一派が独裁している。
意図的に故郷の事を聞かないようにしていたので、知っているのはそれぐらいのものだ。
「旦那、どうしやすかい?」
と、大楽の思考を遮るように、艫に腰掛けた船頭が言った。
沖に出て暫くは潮が動いていたが、今は下げ止まっている。食いも悪くなり、魚信など最後はいつだったか? と、忘れるほどにない。
「そうさなぁ。もう竿仕舞いにしようか。これ以上、釣れる気がしねぇ」
「他の舟は粘っているみたいですが、いいんですかい?」
「構わん、構わん。今日の俺はついてねぇんだよ」
「流石は萩尾の旦那だ。何事も引き際が大事でさ」
そう言うと、船頭はむっくりと立ち上がった。もう老齢だが、経験豊かな船頭である。
「そういや、少し前に釣り人が海で死んじまったんですよ」
大楽は「そうか」と呟いて仰臥した。
詳しくは聞かないが、海を甘く見たからそうなったのだろう。海は恵みをもたらすだけではなく、時として人に牙を剥く獣なのだ。大楽もその事を、十六の時に身を以て痛感した事がある。
「浦の外に出ると、魚種も豊かだし、大物も釣れるぜ」
その話を聞いたのは、藩校での事だった。父親が船手方という学友の言葉で、「そこを知らなきゃ、斯摩の釣り師とは言えんな」とも、付け加えられた。
若かった大楽は、血潮が沸きたった。
海は博多浦しか知らなかったのだ。釣りに対して寛容だった叔父からも、浦の外、つまり玄界灘へ行く事だけは厳しく禁じられていた。
玄界灘へ出てみたいと大楽が言うと、乃美は止めた。
素人が出るような海ではない。ましてや、博多浦で使っている小舟では無理だと。
しかし、どうしても行きたかった大楽は、一人でも行くと告げると、乃美は仕方ないという表情で、付き合ってくれた。
二人で銭を出し合い、博多の船主に頼んだ。斯摩の者では断られると思ったからだ。
「素人に耐えられる海じゃねぇですよ」
船主は渋い顔をした。
季節は冬。玄界灘が、最も厳しい荒れを見せる季節だった。
それでもいい。どうせ見るのなら、最も厳しい顔が見たいと言って更に銭を積むと、船主は仕方がないという風に頷いた。
乗り込んだのは、姫島行きの五百石ほどの弁才船で、二人で払える額ではぎりぎりの大きさだった。
博多浦までは、いつもの海。しかし、浦の外を出ると、まず海の色が変わり、そして波の質が変わった。
まるで、黒い獣だった。玄界灘の水はどこまでも深い闇で、荒れ狂った波が牙を剥いていた。
海は弁才船を容赦なく揺らし、大楽も乃美も釣りどころではなかった。盛大に吐き、這う這うの体で博多へ帰港した。
船乗りたちは、その姿を見て笑った。言わんこっちゃない、軟弱な青侍とも思ったのだろう。事実、そうだった。
海では気を抜けない。剥き出しの命を晒していて、いつ何があるかわからないからだ。しかし、同時に雄大で親しみすら覚える。どこまでも、海は自由なのだ。
だから大楽は、海が好きだった。
誰かが、尾行ている。
その気配を感じたのは、明石町で釣り舟を降りた時からだった。
初めは、気のせいかと思った。だが、十軒町に入った時には、それが明確な意図を持ったものだと、大楽は確信した。
だが、相手は素人だった。隠れよう隠れようとして、余計に目立っている。
先日の中途半端な腕を持つ破落戸といい、嘉穂屋は手駒に窮しているのだろうか。
大楽は、追跡者の視線を背中に浴びながら、十軒町にある蕎麦屋に入った。釣りの後に立ち寄る馴染みの店だった。
「いらっしゃい」
店に入ると、蕎麦を湯がく熱気と共に、板場から景気のいい声が飛んできた。
頼んだのは、ざる蕎麦と天ぷらのかき揚げ、そして酒だった。かき揚げは季節の野菜で、菜の花の黄色も入っている。
大楽は出された蕎麦を、黙々と啜った。この店のつゆは薄いので、麺をどっぷりと付ける。かき揚げは、塩を振りかけて、そのまま齧った。
「ここの蕎麦は旨いですな」
ふと、背後から声を掛けられた。
振り向けば、あの男が、背を向けて蕎麦を啜っていた。
「お前」
「これは、奇遇ですなぁ」
男も振り返って笑う。男映えのしない、むさ苦しい中年男の顔がそこにあった。
言葉も出なかった。その気配を全く感じなかったのだ。
確かに追跡者の気配は背後にあり、それは店に入るまで感じていた。そして店に入ると気配は消え、大楽は少なからず安堵していた。
しかし、実際はもっと身近にいた。すると、下手な尾行は気を逸らす為の罠だったという事か。
そんな大楽に、男は言葉を続ける。
「私も、この店の蕎麦が好きでしてね」
「そうかい。俺はそうでもないね」
「またまた。贔屓の店じゃありませんか。確か先月も来てたでしょう?」
そう言われ、大楽が舌打ちをした。
ずっとこちらを監視していたという事か。しかも先月というと、権藤と会う前の話だ。
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