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最終章 狼の贄

第五回 そして、牙が剥かれる①

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 穏やかな日々が過ぎていた。
 志月の声で目覚め、志月が拵えた飯を食す。それがどんなに大切で幸せな事か、今まで思いもしなかった。
 例年より暖かい正月。清記は代官所に詰めて筆仕事に追われているが、志月は大きな腹を抱え、齷齪あくせくと働いている。家中の女衆が代わると言うが、

「あら、これは病じゃありませんわ」

 と、気にも留めない。女中から報告を受けた三郎助が志月に頼んでも、聞く耳を持たないらしい。幾ら病ではないとは言え、お産で命を落とす危険がある。
 結局は清記から志月を言い聞かせ、清記の身の回りの世話だけにすると約束させたが、今頃も働いているのだろう。志月も無理のない程度で、休み休みで働いている。

(志月の気が紛れるならば……)

 と、清記はそれ以上言うつもりはない。
 そう思うのは、理由があった。
 東馬の行方が杳として知れないのだ。これまでは、定期的に便りがあり、何処にいるのか報せてくれたが、もう半年以上は便りが無い。奥州を渡り歩いていたが、泉藩に立ち寄って以降は、消息を絶っていた。
 今回の廻国修行は、藩庁の命令でもあった。夜須藩とは関係が深い会津藩や二本松藩、庄内藩への遊学であり、故に所在は明確にしておかねばならない義務がある。例え今回の修行自体が、大和を失脚させる為に引き離す目的があったとしてもだ。
 しかし、あの風来坊の事である。藩命には従わず、好き勝手しているのかもしれないし、フラっと帰ってくるかもしれないが、大和が幽閉された状況で、何がどう転ぶか知れたものではない。

(東馬殿なら、早まった真似はしないと思うが……)

 大和が幽閉の身になったとは言え、無茶をするような真似はしないと思う。弟もいて、妹もいるのだ。それにあの男は、政事に対して冷笑的だ。実の父にすら、鼻で笑う所があった。それ故に熱くなる事は無いとは思うのだが、漠然とした不安もあった。
 志月は、東馬の便りが無い理由を、

「兄上は剣術以外は飽き性ですから、便りを書くのも飽いたのでしょう」

 と、言う。
 確かに、東馬は筆まめではないし、せっせと便りを寄越すような男ではない。便りのないのは良い便りと思しかないのだろう。
 一方の大和は、舎利蔵峠に幽閉されているものの、日中はある程度の自由は許されて不便は少ないという。差し入れも許され、清記は三郎助に命じて何かと差し入れを行い、幽閉先に詰める役人に対しても、粗略に扱わぬよう銭を撒いていた。
 そうした日々の中で、清記は代官職に精励していた。
 政争は犬山派が勝利した事で落ち着き、御手先役として呼ばれる問題は当面は無い。裏稼業の始末屋も、志月の出産を前にして遠慮してもらっている。
 普段は下役の報告書を読み、藩庁へ提出する書類を作るばかりだが、時折は供を連れ郡内を巡っている。
 疲れ切って屋敷に戻れば、腹の大きい志月が待っている。それの何と幸せな事だろうか。時には、陣内が遊びに来る事もある。酒を飲みながら話すのは、もっぱら百姓の暮らしぶりだ。農村支配はどうあるべきか、夜通し語り合う。陣内の表情は輝いていた。穂波郡の代官所に役替えになった事で、気鬱の病が治ったのだ。陣内にとっても良かったが、清記にとっても、藤河雅楽との繋がりを持てた事は歓迎すべき事だった。
 平穏な毎日だった。三日前に不逞浪人が暴れたが、下役を引き連れて向かうと菰田郡に逃げ込んでいる。それ以外では、郡内で目立った乱れはない。
 筆仕事を終えた頃、三郎助から来客を告げられた。
 客の名は、執政府直属の使番のもの。つまり、御手先役としての登城命令である。

「此度は、悌蔵様もご一緒に」

 と、その使番は言った。梅岳直々の書状もあり、そこには命の内容は記されていないものの、悌蔵も共にと記されてあった。
 一見して平穏な政局に、新たなお役目。隠居した父と一緒というのも解せなかい。

「今回ばかりはわからぬのう。容易ならざる事態かもしれぬの」

 使番との面会に同席した父も、珍しく表情を曇らせるほどだった。きっと、火急の事態なのだろう。大和の事でなければいい。そう思った。
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