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転章
あの人
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暗い女。
鏡に写った自分の顔を見て、志月はそう思った。
無理に笑んでみたが、何処かぎこちなく、返って痛々しいものになった。
城前町にある屋敷の自室。志月は、その隅で手鏡を覗いていた。
(これじゃ、駄目だわ)
どんな角度から見ても、自分には愛嬌がない。その作り方もわからないのだ。
しかも若衆髷で、男のような格好である。いつまでも、こんな格好では駄目だと思いながらも、楽だからとついつい袖を通してしまう。
志月は手鏡を仕舞い、薄暗い梅雨空を見上げた。
(まるで私みたい……)
そう内心で呟き、志月は溜息を吐いた。
根暗。不愛想。陰気。無口。
同じ年頃の女たちに、そう陰口を言われている事は知っていた。手習いの場でも、裁縫や行儀作法の稽古の場でも、何かにつけて馬鹿にされていた。聞こえない振りをしていたが、それでも怒りと悲しみはあった。
自分では、暗いつもりはない。確かに、騒いだりお喋りしたりするよりも、静かに書を読む方が好きだったが、それでも暗くしているつもりはなかった。面白い話なら笑いもするのだ。
だが、周囲はそう思ってくれなかった。きっと、狐のようなきつい眼がそう感じさせるのだろう。何をしても無駄だと気付いたのは、生まれてより十回目の春を迎えた頃だった。
気が付けば、周りに誰もいなくなっていた。仲間外しにされるという以前に、もうその場にいないという扱いをされていたのだ。たまに口を開けば、
「あら、お化けがいるのね」
と、言われた。
話す相手は、家の者だけ。それが悲しいとさえ思わなくなっていた。
剣術にのめり込んだのは、孤独だった事が影響したのかもしれない。剣には愛想もお喋りも必要ないのだ。十二歳で母が死ぬと、より剣に打ち込むようになっていた。
父の勧めで小関道場に入門したのも、その頃である。父と兄の稽古をずっと見ていたので、身体と剣の動かし方は頭で理解していて、実際その通りに動かせるようになるのに、そこまで時間が掛からなかった。
その頃からだろうか、男装をするようになったのは。そうなると、同年代の女は陰口すら言わなくなった。
数年の修練で、剣術の腕は伸びた。道場主の小関弥蔵からは、高弟の一人と認められたが、満たされない想いがあるのにも気付いた。
剣の腕を磨き、高弟の一人として認められても、足りない何か。父も兄も、可愛がってくれるのだけど、何かが満たされない。
そのような時に、あの人が現れた。
奥寺家の剣術指南役。曩祖八幡宮での奉納試合で兄に敗れた身でありながら、どうして当家で剣術指南をするのか、それが疑問であり不満だった。
しかし、驚くほど強かった。竹刀も合わせずに敗れたのだ。
兄も、
「真剣を持たせれば、俺以上だ」
と、あの人を評している。
鹿毛馬では、あわやの所を救われた。兄が言っていたように、真剣を持ったあの人は、常人には測れないほどに強く、そして恐ろしかった。
まるで、生きている世界が違うと思えた。それは、兄とも父とも違う世界。それほどの使い手なのに、自らの力量を誇る事がない。いつも謙遜しているし、隠してもいる。それどころか、己の剣や強さを嫌悪しているように見える。
強くなりたくなかったのか。仕方なく、強くなってしまったのか。兄は強さへの渇望が底なしである。それは剣客として当然だと理解出来るか、あの人にはそれが全く感じられない。まるで、強くならなければ生きて来れなかったような、強さ自体に憎悪を覚えているのでは? と、思えてくる。そんな事をあれこれと考えているうちに、あの人を目で追うようになっていた。
恋というものだろうか。それを意識したのは、二人だけで稽古をした後だった。
この日、あの人は稽古の合間に、奥州へ旅をした時の話をしてくれた。いつも朴訥としている人だが、今日という日は妙に饒舌だった。
「あなたの前では、私は不思議と喋り過ぎてしまうようです」
話し終えたあの人が、そう言った。私もそうだと返すと、あの人は笑って、
「一緒ですね」
と、笑った。
あの人と、一緒。その意味を考えただけで、志月の胸は大きく高鳴った。
初めての経験だった。今まで、言い寄ってくる男がいないわけではなかった。だが、その男達の多くが、父の権力にあやかろうとする者ばかりだった。私の前にいて、視線は常に父にあった。
でも、あの人は違う。それは兄も同じように感じ、
「あの男は信じられるぞ。いや、信じるではない。疑いようもないのだ」
と、賊の退治から戻った日に、私に言ってくれた。
山人の為に命を賭して賊と戦う。それを決めたのは、あの人だった。人別帳に記載がない、下賤の民。そうした者の為に命を賭す。武士の鏡であるが、普通の武士はしない。普通はしない事をする、そこに何か理由が隠されているのではないか? と、思う。
(あの人の全てが知りたい……)
切なくなるほどに、そう思う。
朴訥としているが、不意に見せる表情に深い翳りと悲しみが浮かぶ。その理由を、あの人は語らない。訊いても笑って誤魔化すのだ。
私にだけは、教えて欲しい。心の底にある、悲しみも怒りも、憎しみも、醜いもの全て。
嫌いになんてならない。むしろ、癒してあげたい。全てを受け止めて、あの人の心を。
二人で釣りに行った、あの日。川の流れを眺めている時に浮かんだ、哀切に満ちた表情を、もう二度としなくて済むように。
志月は立ち上がった。
今日は、一人で木剣を振るつもりだった。家人の稽古もいいが、たまには一人で剣に向かい合う時間も必要だった。
夜須藩内の政事がきな臭い。父の周りに集う奥寺派の面々が、犬山梅岳の排除を声高に叫ぶようになってきている。しかも、その手法は武力も辞さないという過激なものだ。
父は必死に抑え込もうとしていて、一応は従っているような感じだが雲行きは怪しい。そうした話は、兄や家人から聞いた。特に兄は奥寺派の面々を毛嫌いし、警戒している。
父と梅岳の対立は、いよいよ沸点に達そうという勢いだ。藩庁での執政会議では視線すら合わせず、論争になる事もしばしばだという。
更に、今年になって父が曲者に襲われている。兄が駆け付けて九死に一生を得たが、これから何が起こるかわかったものではない。
政事は嫌いだ。出来れば、父には身を退いて欲しいとも考えている。政事などのせいで、小関道場の師匠や兄弟子・門弟を失ったのだ。その毒牙が、今度は父に伸びようとしているのではないか?
(強くならねば……)
志月は道場へ足を向けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
志月は、暫く木剣を振った。
誰もいない道場。気が付けば、雨は降り出している。
無心のつもりであったが、頭に浮かぶのはあの人の顔だった。
江戸から戻ってから、屋敷には二度しか顔を出していない。それからは賊退治で忙しかったのだろうが、今は戻っているはずだ。
「あいつを呼んでこようか」
どこか上の空の自分に、兄がほくそ笑んで言ってくれた事がある。兄はこの恋心に勘付いている。だから言っているのだろうが、余計なお世話のような気がする。
ふと物音がして、志月は木剣を振る手を止めた。
名前を呼ばれた。志月は振り返ると、降り出した雨に濡らされた、あの人が立っていた。
そして、あの人は何か言いにくそうな素振りを見せた後、意を決したように口を開いた。
その言葉。涙が込み上がってきた。
あの人が、妻になって欲しいと、言ってくれたのだ。
頼んでいるのです。どうか、私の妻になって欲しい。その、嫌でなければ……。私の妻に。
志月は零れる涙そのままに、深く頷いた。
〔転章 了〕
鏡に写った自分の顔を見て、志月はそう思った。
無理に笑んでみたが、何処かぎこちなく、返って痛々しいものになった。
城前町にある屋敷の自室。志月は、その隅で手鏡を覗いていた。
(これじゃ、駄目だわ)
どんな角度から見ても、自分には愛嬌がない。その作り方もわからないのだ。
しかも若衆髷で、男のような格好である。いつまでも、こんな格好では駄目だと思いながらも、楽だからとついつい袖を通してしまう。
志月は手鏡を仕舞い、薄暗い梅雨空を見上げた。
(まるで私みたい……)
そう内心で呟き、志月は溜息を吐いた。
根暗。不愛想。陰気。無口。
同じ年頃の女たちに、そう陰口を言われている事は知っていた。手習いの場でも、裁縫や行儀作法の稽古の場でも、何かにつけて馬鹿にされていた。聞こえない振りをしていたが、それでも怒りと悲しみはあった。
自分では、暗いつもりはない。確かに、騒いだりお喋りしたりするよりも、静かに書を読む方が好きだったが、それでも暗くしているつもりはなかった。面白い話なら笑いもするのだ。
だが、周囲はそう思ってくれなかった。きっと、狐のようなきつい眼がそう感じさせるのだろう。何をしても無駄だと気付いたのは、生まれてより十回目の春を迎えた頃だった。
気が付けば、周りに誰もいなくなっていた。仲間外しにされるという以前に、もうその場にいないという扱いをされていたのだ。たまに口を開けば、
「あら、お化けがいるのね」
と、言われた。
話す相手は、家の者だけ。それが悲しいとさえ思わなくなっていた。
剣術にのめり込んだのは、孤独だった事が影響したのかもしれない。剣には愛想もお喋りも必要ないのだ。十二歳で母が死ぬと、より剣に打ち込むようになっていた。
父の勧めで小関道場に入門したのも、その頃である。父と兄の稽古をずっと見ていたので、身体と剣の動かし方は頭で理解していて、実際その通りに動かせるようになるのに、そこまで時間が掛からなかった。
その頃からだろうか、男装をするようになったのは。そうなると、同年代の女は陰口すら言わなくなった。
数年の修練で、剣術の腕は伸びた。道場主の小関弥蔵からは、高弟の一人と認められたが、満たされない想いがあるのにも気付いた。
剣の腕を磨き、高弟の一人として認められても、足りない何か。父も兄も、可愛がってくれるのだけど、何かが満たされない。
そのような時に、あの人が現れた。
奥寺家の剣術指南役。曩祖八幡宮での奉納試合で兄に敗れた身でありながら、どうして当家で剣術指南をするのか、それが疑問であり不満だった。
しかし、驚くほど強かった。竹刀も合わせずに敗れたのだ。
兄も、
「真剣を持たせれば、俺以上だ」
と、あの人を評している。
鹿毛馬では、あわやの所を救われた。兄が言っていたように、真剣を持ったあの人は、常人には測れないほどに強く、そして恐ろしかった。
まるで、生きている世界が違うと思えた。それは、兄とも父とも違う世界。それほどの使い手なのに、自らの力量を誇る事がない。いつも謙遜しているし、隠してもいる。それどころか、己の剣や強さを嫌悪しているように見える。
強くなりたくなかったのか。仕方なく、強くなってしまったのか。兄は強さへの渇望が底なしである。それは剣客として当然だと理解出来るか、あの人にはそれが全く感じられない。まるで、強くならなければ生きて来れなかったような、強さ自体に憎悪を覚えているのでは? と、思えてくる。そんな事をあれこれと考えているうちに、あの人を目で追うようになっていた。
恋というものだろうか。それを意識したのは、二人だけで稽古をした後だった。
この日、あの人は稽古の合間に、奥州へ旅をした時の話をしてくれた。いつも朴訥としている人だが、今日という日は妙に饒舌だった。
「あなたの前では、私は不思議と喋り過ぎてしまうようです」
話し終えたあの人が、そう言った。私もそうだと返すと、あの人は笑って、
「一緒ですね」
と、笑った。
あの人と、一緒。その意味を考えただけで、志月の胸は大きく高鳴った。
初めての経験だった。今まで、言い寄ってくる男がいないわけではなかった。だが、その男達の多くが、父の権力にあやかろうとする者ばかりだった。私の前にいて、視線は常に父にあった。
でも、あの人は違う。それは兄も同じように感じ、
「あの男は信じられるぞ。いや、信じるではない。疑いようもないのだ」
と、賊の退治から戻った日に、私に言ってくれた。
山人の為に命を賭して賊と戦う。それを決めたのは、あの人だった。人別帳に記載がない、下賤の民。そうした者の為に命を賭す。武士の鏡であるが、普通の武士はしない。普通はしない事をする、そこに何か理由が隠されているのではないか? と、思う。
(あの人の全てが知りたい……)
切なくなるほどに、そう思う。
朴訥としているが、不意に見せる表情に深い翳りと悲しみが浮かぶ。その理由を、あの人は語らない。訊いても笑って誤魔化すのだ。
私にだけは、教えて欲しい。心の底にある、悲しみも怒りも、憎しみも、醜いもの全て。
嫌いになんてならない。むしろ、癒してあげたい。全てを受け止めて、あの人の心を。
二人で釣りに行った、あの日。川の流れを眺めている時に浮かんだ、哀切に満ちた表情を、もう二度としなくて済むように。
志月は立ち上がった。
今日は、一人で木剣を振るつもりだった。家人の稽古もいいが、たまには一人で剣に向かい合う時間も必要だった。
夜須藩内の政事がきな臭い。父の周りに集う奥寺派の面々が、犬山梅岳の排除を声高に叫ぶようになってきている。しかも、その手法は武力も辞さないという過激なものだ。
父は必死に抑え込もうとしていて、一応は従っているような感じだが雲行きは怪しい。そうした話は、兄や家人から聞いた。特に兄は奥寺派の面々を毛嫌いし、警戒している。
父と梅岳の対立は、いよいよ沸点に達そうという勢いだ。藩庁での執政会議では視線すら合わせず、論争になる事もしばしばだという。
更に、今年になって父が曲者に襲われている。兄が駆け付けて九死に一生を得たが、これから何が起こるかわかったものではない。
政事は嫌いだ。出来れば、父には身を退いて欲しいとも考えている。政事などのせいで、小関道場の師匠や兄弟子・門弟を失ったのだ。その毒牙が、今度は父に伸びようとしているのではないか?
(強くならねば……)
志月は道場へ足を向けた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
志月は、暫く木剣を振った。
誰もいない道場。気が付けば、雨は降り出している。
無心のつもりであったが、頭に浮かぶのはあの人の顔だった。
江戸から戻ってから、屋敷には二度しか顔を出していない。それからは賊退治で忙しかったのだろうが、今は戻っているはずだ。
「あいつを呼んでこようか」
どこか上の空の自分に、兄がほくそ笑んで言ってくれた事がある。兄はこの恋心に勘付いている。だから言っているのだろうが、余計なお世話のような気がする。
ふと物音がして、志月は木剣を振る手を止めた。
名前を呼ばれた。志月は振り返ると、降り出した雨に濡らされた、あの人が立っていた。
そして、あの人は何か言いにくそうな素振りを見せた後、意を決したように口を開いた。
その言葉。涙が込み上がってきた。
あの人が、妻になって欲しいと、言ってくれたのだ。
頼んでいるのです。どうか、私の妻になって欲しい。その、嫌でなければ……。私の妻に。
志月は零れる涙そのままに、深く頷いた。
〔転章 了〕
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