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第四章 穢土の暗闇

第四回 弟たち②

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 尾行の気配を感じたのは、今川町を抜けて上之橋を渡り終えた時だった。
 気を研ぎ澄ませれば、何とか感じられる程度の巧妙なものだが、確かに誰かが追っている。
 これは今に始まった事ではなかった。去年の秋、本格的に抜け荷の探索に動き出したぐらいから、時折感じていた。しかし、今夜はいつもと違う。明確な意思、つまり殺気を感じるのだ。
 いつもなら「面倒くせぇや」と、人の波に紛れて尾行を巻いただろうが、今夜は妙に癪に障った。おそらく、酔いがそうさせたのだろうという、その自覚も確かにある。

(お前らがその気なら、相手をしてやろうじゃねぇか)

 十中八九、梅岳の手の者だろう。しかし、それ以外にも浮かぶ顔がある。夜道を襲われる経験は幾度かあるし、野州夜須藩十二万石を統べる栄生家の御曹司でありならが、付け狙われるだけの因果を持つような生き方をしてきてしまったのだ。

(しかし、此処じゃ襲いにくかろうね)

 深川の夜は賑やかだ。酒を求める者、色を求める者が町中を闊歩している。まさか、そんな中で斬り合いをするわけにはいかない。着流しの落とし差しでゆらゆら歩く帯刀は、霊雲院れいうんいんの方へ足を向けた。

(阿波屋嘉兵衛の後は、俺というわけか)

 それはそれで、頷ける判断だ。なにせ、こちらは痛い所を突こうと嗅ぎまわっているのだ。それを証拠と一緒くたに取り除こうとするのも、頷ける話である。
 しかし、相手は念真流である。勝てるのか? と問われると、流石に自信はない。夜須藩の御留流であり、呪われた暗殺剣なのだ。
 帯刀は、自分の腰に佩いた一文字長典いちもんじちょうてんを一瞥した。剣は直新陰流を学んだ。放蕩無頼の日々の中でも、剣だけには正直に向き合ってきたのだ。人も斬った。二年、諸国を歩いて修行もした。それなりに自信はある。
 相手は、清記だろうか。あの朴訥とした顔が脳裏に浮かぶ。
 一見して虫も殺せなそうな顔立ちをしているが、誰よりも多く平然として人を斬る非情な刺客だった。
 今まで多くの男達を見てきた。しかし、清記ほどの底が見えない男はそうそういない。特に暗い闇を湛えた両眼りょうまなこ。そんな眼をした男はいるにはいたが、全員が早死にをしていた。
 霊雲院を囲むように広がる森に辿り着いた。周囲には人影は無く、此処ならば邪魔が入る事もないだろう。
 帯刀は歩みを止めて振り返った。

「おあつらえ向きの場所を選んでやったぜ」

 闇に向かって声を出してみる。しかし返事などはなく、そこには無限の闇が広がるだけだった。

「さっさと出てきやがれってんだ」

 すると風で騒めく草木の音に合わせて、頭上から影が幾つか舞い降りて来た。
 面相まで隠した、黒装束の男達。数は五名。剣呑な雰囲気は、いよいよ自分を殺しに来たという事か。

何者なにもんだい?」

 当然だが、返事は無い。夜須藩が抱える、目尾組という忍びだろう。若い頃から、何度か目にしてきた存在だった。

「まぁ、言えぬだろうな。梅岳の手下かい?」
「手を引け」

 帯刀の言葉を無視して、目の前に立つ黒装束の男が口を開いた。指図役でありそうな雰囲気を出している。

「何から? それを言わねぇと、手の引きようがねぇな」
「お前が江戸でやっている事、全てだ」
「それは難しいな。でなきゃ、俺は夜須に帰らなきゃならねぇ」
「なら夜須へ帰ればよろしかろう」
「やなこった。江戸こそ俺の住処だぜ?」

 と、帯刀は鼻を鳴らした。

「もし仮にだが、俺が手を引かねぇと言ったらどうなるよ?」
「その時は死ぬまでだ。いや、お前だけではない。西永代町にいる、お前の妻子も道連れになる」
「へぇ……」

 帯刀はそこまで言うと、帯刀は大きく踏み込んでいた。
 指図役の男と目が合う。意外だったのだろう。帯刀は構わず、手に掛けた一文字長典を抜き払い、渾身の力で逆袈裟に斬り上げた。

「貴様」

 指図役の男の身体が二つになって斃れると、残りの四人が一斉に刀を抜いた。
 闇夜に映える、抜き身の白。帯刀の全身に、憤怒の血が駆け巡る。久し振りの感覚だった。

「こいつは、俺の大事なものに触れた。だから殺した。お前達も同じつもりなら斬るぜ?」
「……」
「帰って梅岳、いや菊原に伝えろ。俺は抜け荷から手を引くが、これで俺を黙らせたと思うなよ」

 四人が視線だけを見合わせ、あからさまに戸惑っているようにも見えた。指図役を失ったからか? 或いは脅すだけにして、戦う事を想定しなかったのか。

「退け」

 その時、背後から短い声が聞こえた。熱感の無い、冷めたものだった。

「誰だ?」
「私ですよ。言葉を交わすのは初めてかもしれませんね」

 すっと現れたのは、穴水主税介だった。兄の方ではない、というのが意外だった。
 それに合わせるかのように、四人の忍びがすっと後方に退いた。

「お前が、俺への刺客か?」
「何を仰られますか。私はただ見物に来ただけですよ。そこに転がっている乙吉が若宮様にご諫言するというので」

 向かい合った。四歩の距離。主税介からは肌が粟立つような圧を感じるが、それが不思議と殺気というほどの鋭さは無かった。
 帯刀は鼻を鳴らして一文字長典を鞘に戻すと、主税介の表情もやや柔らかくなった。

「俺を若宮様と呼ぶんじゃねぇ」
「これは申し訳ございません、御舎弟様」

 若宮庄を統べるので、若宮様。藩内の者はそう呼ぶが、それを帯刀は好きではなかった。
 若宮庄の領有権を取り上げられなかったのも、藩主の座を諦める事と交換条件のようなものだった。でなければ、改易は間違いなかった。若宮庄一万石。十二万石への野心を、若宮庄に封じ込められたのである。

「しかし、驚きました。まさか、斬って捨てるとは」
「乙吉と言ったか。この男は、俺の最も踏んじゃいけねぇ所を踏んじまったのさ。諫言はありがたかったがな」
「兄はさぞ悲しまれましょう」
「この男と友だったのか?」
「何度か一緒に働きましたからね。私は御舎弟様の太刀筋を見れたので良かったと思えるぐらいの薄情な男ですが、兄は私と正反対ですから」
「なるほどね」

 この主税介も面白い男だった。兄への対抗心が、まるで氷の牙のように尖って見えている。その気持ちは、同じく家督を継げない弟として帯刀にも痛いほどわかる。

「お前は清記の〔弟〕だったな」
「ええ、そうですよ」
「家督を継げぬ〔弟〕同士のよしみで頼むんだが、このまま帰してくれるかい?」

 すると、主税介は肩を竦めてみせた。

「勿論ですよ。今の腕前をみれば、私とて無傷でいれそうにない」
「悪いね。この恩はどこかで返そう」
「目に見える形でお願いしますよ。楽しみにしていますよ」

 帯刀は片手を挙げて、踵を返した。
 霊雲院の森は静かだった。主税介達が追ってくる気配もない。聞こえるのは、梟の囀りと草木が揺れる音だけだった。
 もう一人、弟が故に理不尽な宿運を背負った男がいた。それが何故だが、帯刀には嬉しかった。
 弟とは悲しいものだ。生まれながらにして、兄を越えられない宿運を背負っている。歴史を振り返ってみても、長幼の序というものに涙を飲んだ男は多いだろう。
 その中でも、無能な兄を持った弟は余計に不運である。無能であるが、兄というだけで、全てを得られるのだ。それが悔しかった。
 主税介の兄である清記は、家督を継ぐに能う才覚と器を持っている。朴訥としてはいるが、人当たりもいい。最近では右京の一件から利永に気に入られ、何度か呼ばれて話し相手をしているようである。
 万事に秀でた、自慢の兄。それならそれで、兄を支えよう、兄から学ぼうという気になれるのだろうと思うが、主税介はそうは思っていないようだ。兄を超えようと必死である。そういう弟の形もあるのだろう。如何せん、自分の兄は無能者であるので、その気持ちだけは帯刀にはわからなかった。

〔第四回 了〕
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