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第四章 穢土の暗闇
第一回 江戸にて②
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翌日は稽古に出た。名目とは言え、通わなければ不審がられてしまうので清記も主税介も折りを見て道場へ顔を出しているのだ。
清記は下谷練塀小路の一刀流中西道場へ、主税介は京橋の西紺屋町の雖井蛙流道場へ通っている。どちらも夜須藩とは繋がりがあり、建花寺流の剣客として稽古に参加していた。
中西道場の主は、中西忠太という男であったが、既に〔大先生〕と呼ばれる半ば道場から身を引いており、清記は入門の折に顔を合わせただけだった。
実際に指導するのは、跡取りの中西忠蔵で、当年三十三になる。仁王のように筋骨たくましいこの男は、江戸の剣界でも当世無双との呼び声高い豪傑である。防具を身に着けた立ち合いでは、清記ですら一本も取れなかった。勿論、念真流の技は使えないが、たとえ使ったとしても勝負の行方は読めない。真剣で立ち合っても、読めない。それほど、忠蔵は出来る男だった。
(やはり、江戸は広いな)
そう思わざる得ない。人が多いだけに、強い男も多いのだ。
「平山君」
稽古後、裏庭で汗を拭っていたら忠蔵に声を掛けられた。
「君をずっと見ていたのだが、どうもいけない」
「私になにか?」
「いや、君というか剣というか」
迷いだろうか。志月にも指摘された事だった。確かに、江戸に来てから気鬱な事ばかりだ。
「思い過ごしならいいのだが、君は何か隠してはいないかね?」
肺腑を突かれたような衝撃だった。しかし清記は何とか堪え、取り繕うように首を横にした。
「我々剣客はね、時として口より剣が多く語るものだ。君が道場に来てからずっと見ていたが、妙な感覚を覚えてね」
「妙な感覚ですか?」
「そう。手を抜いているとは言わないが、何か大事なものを出していない、出すまいとしているように思える」
清記は何と言っていいかわからず、ただ目を伏せた。
「まぁいいさ。建花寺流だったかな? 私もあまり知らないからね。いつか君の本当の剣を暴き出してやるよ」
忠蔵は、そう笑って清記の背中を叩いた。江戸の剣界で最強を誇る手は、思った以上に大きいものだった。
藩邸の自室に戻ると、同じく主税介も道場から戻った所だった。主税介とは隣りの部屋を与えられている。
「これは兄上。お疲れの様子で」
「中西道場といえば荒稽古だからな。くたくただ」
「ほう。江戸の道場は人気取りで稽古は柔いと聞いていましたが」
「そうした側面もあるだろうが、荒稽古を望む者には、徹底して厳しい。それより、お前はどうなのだ? 雖井蛙流も厳しいと聞いたが」
「そうですね。難しいですよ」
「難しいとは、どういう意味だ」
「いや、間違って師範から一本取りそうで」
主税介は、そう言って細面の顔に冷笑を浮かべた。
「おい。お前、念真流は使ってないだろうな?」
「勿論。それはご安心下さい。ですが、師範代も師範も、私に比べたら」
「そこを上手くやるのだ。いいな」
主税介は、煩いとばかりに片手を振って自室に戻って行った。
その夜は、外に出て酒を飲む事にした。ここ最近、気が塞いで仕方がなかった。それを忘れさせてくれるのは、今のところ酒しかない。
店は弓町にある、居酒屋だ。土間席には机が五つと、奥には座敷もある。店は賑わい、客の殆どは近在の町人だが、武士の姿も幾つか見られた。
清記は、小女に銚子を二本と適当に肴を頼んだ。暫くて出されたのは、豆腐になめ味噌を沿えたものと、焼き茄子だった。なめ味噌は、飯に乗せて食べる方が好きだが、豆腐も中々のものである。焼き茄子もまた美味だったが、山椒が薬味であればなお良かった。
それらを肴に、清記は一刻ほど手酌で酒を飲んだ。時折耳に入る江戸人の猥談には、眉を顰めたが、それを許容するのも江戸が魔都たる所以であろう。
およそ一刻で四本の調子を空け、銭を置いて店を出た。
夜風の心地良い冷たさが、酔いの熱をさらっていく。季節は秋を迎え、日々深まろうとしている。夜空には、待宵月が出ていた。
(いつ、夜須に戻れるのであろう……)
ふと、清記は故郷の風景が脳裏に浮かんだ。望郷の念に駆られるなど、我ながら甘い。そう自嘲した時には、志月の顔が浮かんでいた。
男装をした志月と、鮎釣りに行った。そこで想いを伝えようとしたが、結局何も言えなかった。話す事と言えば、剣術の事ぐらい。何か話さねばと思っても、上手く言葉は出なかった。しかし、楽しかった。今までの人生で、最も。
(志月殿も、この月を見ているのか)
会いたい。そう思った自分が情けなくなった。御手先役として、軟弱すぎる。しかし、このまま江戸にいるのは苦痛だった。表向きは、剣術修行。だが真の目的は、御手先役として何人もの人間を斬らねばならない。
今年に入って、お役目を受ける回数が多くなっている。梅岳にも頻繁に呼ばれる。去年までは、年に二度ほどだった。
(やはり、何かある)
いや、そう思っても仕方がないほど、今の夜須藩はおかしい。風流に狂い藩政を省みない、栄生利永。専横の限りを尽くす、犬山梅岳。そして、それに追従する執政府の藩閣の面々。なるべく、政争に関する事は関わらないようにしてきた。しかし、それでも思う事はある。そして、それを変えてくれるであろう、奥寺大和への期待も禁じ得ない。
(出来るなら協力したい)
と、最近では思う。大和が梅岳を斬れと頼めば、喜んで引き受けたい。しかし、それは出来ない事だ。平山家の血の呪縛が、大和に加勢する事を躊躇させている。
「ちょいとお兄さん」
暗がりから、声を掛けられた。茣蓙を手に、手拭いで顔を隠した女。夜鷹だ。
「浮かない顔ね」
「そう見えるかな」
「どう? 遊んでいかない? 浮世の憂さを晴らすにゃ、女と肌を合わせるしかないよ」
清記は一瞬だけ迷ったが、志月の顔が浮かんだ。そして溜息を吐き、銭を無造作に投げ渡した。
「決まりだね。こっちに、いい場所があるんだ」
しかし、清記は踵を返した。夜鷹が何か言っているが、構わず片手を上げ背中で聞き流した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
立ち止まったのは、弓町を抜け延命院や大乗院などの寺が並ぶ小路を抜けた時だった。
誰かがいる。そう思って振り返ると、ただ闇が広がるばかりだった。
(いや、確かに気配は感じたのだが)
酔いのせいか。再び足を進めようと前を向くと、そこに男が佇立していた。着流しに落とし差し。深編笠で顔を隠している。
「自棄酒かねぇ」
男が言った。声に聞き覚えはない。
「平山の御曹司が、酒に逃げるとは情けねぇなぁ」
名前を知っている。夜須藩の者だろうか。或いは、念真流を狙う刺客という可能性もある。
「女には逃げなかったのは流石だが、酒より女の方が効き目があるぜ」
「……」
「しかし、らしくねぇな」
「そう言う、あなたは?」
「俺かい? 名は言えないねぇ」
「それは卑怯というものだ」
「卑怯か。それでも構わねぇよ。俺は名乗りたくないんだ。特に、酔いに逃げるような野郎には」
清記は、一瞬で血が沸くのを感じた。何者かわからない。だが、少し痛めつけてやろう。そんな気分になった。
「あなたが何者か存じませんが、謝罪するなら今ですよ」
「誰が謝るか。平山の御曹司が、お役目に嫌気がさして自棄酒をしている。それを揶揄いに来たんだ。面白くて仕方がねぇのに、何で謝らなきゃならねぇんだ」
その瞬間、殺気が爆発した。跳躍しそうになった身体を抑え、前に踏み込む。扶桑正宗。抜いた。そこに男の姿は無かったが、斬光は僅かに、深編笠の庇を掠めていた。
「ふう、危ねぇ。これが念真流かよ」
男は、五歩の距離を空けて立っていた。
「まるで、狼だぜお前は」
「平山家を知る者か?」
「ああ。知っているとも」
「名乗れ。それから斬るかどうか決める」
すると、男は一笑した。
「斬る」
「いいねぇ。その貌。それを忘れるんじゃねぇぞ。江戸は、妬心と欲にまみれた悪徳の魔都だ。気を塞いでちゃ潰れちまうぜ」
何とも、煙に巻いたような男だ。殺気や敵意は感じないが、どうも気に食わない。
「ま、名前ぐらいは教えてやろうか」
清記は頷き、扶桑正宗を鞘に戻した。
「栄生帯刀。一応、御一門衆だが穀潰しの風来坊で名が通っている」
清記は絶句した。栄生帯刀。現藩主・利永の実弟である。
〔第一回 了〕
清記は下谷練塀小路の一刀流中西道場へ、主税介は京橋の西紺屋町の雖井蛙流道場へ通っている。どちらも夜須藩とは繋がりがあり、建花寺流の剣客として稽古に参加していた。
中西道場の主は、中西忠太という男であったが、既に〔大先生〕と呼ばれる半ば道場から身を引いており、清記は入門の折に顔を合わせただけだった。
実際に指導するのは、跡取りの中西忠蔵で、当年三十三になる。仁王のように筋骨たくましいこの男は、江戸の剣界でも当世無双との呼び声高い豪傑である。防具を身に着けた立ち合いでは、清記ですら一本も取れなかった。勿論、念真流の技は使えないが、たとえ使ったとしても勝負の行方は読めない。真剣で立ち合っても、読めない。それほど、忠蔵は出来る男だった。
(やはり、江戸は広いな)
そう思わざる得ない。人が多いだけに、強い男も多いのだ。
「平山君」
稽古後、裏庭で汗を拭っていたら忠蔵に声を掛けられた。
「君をずっと見ていたのだが、どうもいけない」
「私になにか?」
「いや、君というか剣というか」
迷いだろうか。志月にも指摘された事だった。確かに、江戸に来てから気鬱な事ばかりだ。
「思い過ごしならいいのだが、君は何か隠してはいないかね?」
肺腑を突かれたような衝撃だった。しかし清記は何とか堪え、取り繕うように首を横にした。
「我々剣客はね、時として口より剣が多く語るものだ。君が道場に来てからずっと見ていたが、妙な感覚を覚えてね」
「妙な感覚ですか?」
「そう。手を抜いているとは言わないが、何か大事なものを出していない、出すまいとしているように思える」
清記は何と言っていいかわからず、ただ目を伏せた。
「まぁいいさ。建花寺流だったかな? 私もあまり知らないからね。いつか君の本当の剣を暴き出してやるよ」
忠蔵は、そう笑って清記の背中を叩いた。江戸の剣界で最強を誇る手は、思った以上に大きいものだった。
藩邸の自室に戻ると、同じく主税介も道場から戻った所だった。主税介とは隣りの部屋を与えられている。
「これは兄上。お疲れの様子で」
「中西道場といえば荒稽古だからな。くたくただ」
「ほう。江戸の道場は人気取りで稽古は柔いと聞いていましたが」
「そうした側面もあるだろうが、荒稽古を望む者には、徹底して厳しい。それより、お前はどうなのだ? 雖井蛙流も厳しいと聞いたが」
「そうですね。難しいですよ」
「難しいとは、どういう意味だ」
「いや、間違って師範から一本取りそうで」
主税介は、そう言って細面の顔に冷笑を浮かべた。
「おい。お前、念真流は使ってないだろうな?」
「勿論。それはご安心下さい。ですが、師範代も師範も、私に比べたら」
「そこを上手くやるのだ。いいな」
主税介は、煩いとばかりに片手を振って自室に戻って行った。
その夜は、外に出て酒を飲む事にした。ここ最近、気が塞いで仕方がなかった。それを忘れさせてくれるのは、今のところ酒しかない。
店は弓町にある、居酒屋だ。土間席には机が五つと、奥には座敷もある。店は賑わい、客の殆どは近在の町人だが、武士の姿も幾つか見られた。
清記は、小女に銚子を二本と適当に肴を頼んだ。暫くて出されたのは、豆腐になめ味噌を沿えたものと、焼き茄子だった。なめ味噌は、飯に乗せて食べる方が好きだが、豆腐も中々のものである。焼き茄子もまた美味だったが、山椒が薬味であればなお良かった。
それらを肴に、清記は一刻ほど手酌で酒を飲んだ。時折耳に入る江戸人の猥談には、眉を顰めたが、それを許容するのも江戸が魔都たる所以であろう。
およそ一刻で四本の調子を空け、銭を置いて店を出た。
夜風の心地良い冷たさが、酔いの熱をさらっていく。季節は秋を迎え、日々深まろうとしている。夜空には、待宵月が出ていた。
(いつ、夜須に戻れるのであろう……)
ふと、清記は故郷の風景が脳裏に浮かんだ。望郷の念に駆られるなど、我ながら甘い。そう自嘲した時には、志月の顔が浮かんでいた。
男装をした志月と、鮎釣りに行った。そこで想いを伝えようとしたが、結局何も言えなかった。話す事と言えば、剣術の事ぐらい。何か話さねばと思っても、上手く言葉は出なかった。しかし、楽しかった。今までの人生で、最も。
(志月殿も、この月を見ているのか)
会いたい。そう思った自分が情けなくなった。御手先役として、軟弱すぎる。しかし、このまま江戸にいるのは苦痛だった。表向きは、剣術修行。だが真の目的は、御手先役として何人もの人間を斬らねばならない。
今年に入って、お役目を受ける回数が多くなっている。梅岳にも頻繁に呼ばれる。去年までは、年に二度ほどだった。
(やはり、何かある)
いや、そう思っても仕方がないほど、今の夜須藩はおかしい。風流に狂い藩政を省みない、栄生利永。専横の限りを尽くす、犬山梅岳。そして、それに追従する執政府の藩閣の面々。なるべく、政争に関する事は関わらないようにしてきた。しかし、それでも思う事はある。そして、それを変えてくれるであろう、奥寺大和への期待も禁じ得ない。
(出来るなら協力したい)
と、最近では思う。大和が梅岳を斬れと頼めば、喜んで引き受けたい。しかし、それは出来ない事だ。平山家の血の呪縛が、大和に加勢する事を躊躇させている。
「ちょいとお兄さん」
暗がりから、声を掛けられた。茣蓙を手に、手拭いで顔を隠した女。夜鷹だ。
「浮かない顔ね」
「そう見えるかな」
「どう? 遊んでいかない? 浮世の憂さを晴らすにゃ、女と肌を合わせるしかないよ」
清記は一瞬だけ迷ったが、志月の顔が浮かんだ。そして溜息を吐き、銭を無造作に投げ渡した。
「決まりだね。こっちに、いい場所があるんだ」
しかし、清記は踵を返した。夜鷹が何か言っているが、構わず片手を上げ背中で聞き流した。
◆◇◆◇◆◇◆◇
立ち止まったのは、弓町を抜け延命院や大乗院などの寺が並ぶ小路を抜けた時だった。
誰かがいる。そう思って振り返ると、ただ闇が広がるばかりだった。
(いや、確かに気配は感じたのだが)
酔いのせいか。再び足を進めようと前を向くと、そこに男が佇立していた。着流しに落とし差し。深編笠で顔を隠している。
「自棄酒かねぇ」
男が言った。声に聞き覚えはない。
「平山の御曹司が、酒に逃げるとは情けねぇなぁ」
名前を知っている。夜須藩の者だろうか。或いは、念真流を狙う刺客という可能性もある。
「女には逃げなかったのは流石だが、酒より女の方が効き目があるぜ」
「……」
「しかし、らしくねぇな」
「そう言う、あなたは?」
「俺かい? 名は言えないねぇ」
「それは卑怯というものだ」
「卑怯か。それでも構わねぇよ。俺は名乗りたくないんだ。特に、酔いに逃げるような野郎には」
清記は、一瞬で血が沸くのを感じた。何者かわからない。だが、少し痛めつけてやろう。そんな気分になった。
「あなたが何者か存じませんが、謝罪するなら今ですよ」
「誰が謝るか。平山の御曹司が、お役目に嫌気がさして自棄酒をしている。それを揶揄いに来たんだ。面白くて仕方がねぇのに、何で謝らなきゃならねぇんだ」
その瞬間、殺気が爆発した。跳躍しそうになった身体を抑え、前に踏み込む。扶桑正宗。抜いた。そこに男の姿は無かったが、斬光は僅かに、深編笠の庇を掠めていた。
「ふう、危ねぇ。これが念真流かよ」
男は、五歩の距離を空けて立っていた。
「まるで、狼だぜお前は」
「平山家を知る者か?」
「ああ。知っているとも」
「名乗れ。それから斬るかどうか決める」
すると、男は一笑した。
「斬る」
「いいねぇ。その貌。それを忘れるんじゃねぇぞ。江戸は、妬心と欲にまみれた悪徳の魔都だ。気を塞いでちゃ潰れちまうぜ」
何とも、煙に巻いたような男だ。殺気や敵意は感じないが、どうも気に食わない。
「ま、名前ぐらいは教えてやろうか」
清記は頷き、扶桑正宗を鞘に戻した。
「栄生帯刀。一応、御一門衆だが穀潰しの風来坊で名が通っている」
清記は絶句した。栄生帯刀。現藩主・利永の実弟である。
〔第一回 了〕
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