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第三章 雨の波瀬川

最終回 雨の波瀬川①

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 今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
 息苦しさを感じるほどの重い雲が、夜須の空を覆っている。日暮れにはまだ時があるが、周囲は薄暗くなりつつある。
 波瀬川の畔にある、庚申塔の傍。清記は、ちょうどいい大きさの石に腰掛けていた。
 周囲には鬱蒼とした芒が生い茂っていて、人通りどころか人の姿すら、ここに来てからは一度も見ていない。
 この場所で、古谷孤月と立ち合う。生死しょうじを賭して戦うのだと思うと、膝が震えてくる。数刻後には、この場所でどちらかが斃れているのだ。
 孤月は、父の剣から生き延びた男だった。今もって、そんな男に清記は出会った事が無かった。しかも隻腕となって、容易に辿りつけない境地に達しているという事は、夜須藩の名だたる剣士を四人も斃している事でわかる。

「落鳳は使うな」

 父に孤月の剣についてを訊くと、最初に言われた事だった。

「孤月は落鳳を見ている。二度は通じぬよ」

 とも。
 それだけで、孤月の腕が計り知れる。
 孤月の居場所を探り出し、果たし状を渡した廉平は、

「あの殺気は、半端ねぇですぜ」

 と、建花寺村に現れるなり、顔色を青くして報告した。清記と共に修羅場を潜った廉平がそうなるのだ。やはり、孤月は並みの腕ではない。
 死が怖かった。必死に抑え込んでいるが、人を斬る度にその恐怖が大きくなってくる。目を閉じても、浮かんでくるのは、孤月に斬られる自分の姿だ。
 戦う前から、相手に呑まれている。それは即ち、敗北を意味していた。孤月という男に、勝てる気がしない。相手の事は殆ど知らないに等しいが、父と戦って生き延びたという事実が、清記の中では重石のように圧し掛かってくる。
 かと言って、逃げる事も出来ない。お役目を放棄すれば、自分だけでなく平山家が潰える。主税介が御手先役の役目を望んでいるようだが、弟の性格を考えれば譲る事は危険だった。一見して軽薄な性格が役目に合っているように思えるが、それ故に御手先役が持つ闇に堕ちてしまう。それを知っていて譲るほどの勇気も、非情さも持ち合わせていない。

(やはり、勝つしかない……)

 勝てば、明日という日を迎える事が出来る。志月にも逢う事が出来る。御手先役として勝ち続ければ、生き延びる事が出来るのだ。それが生まれ持った宿雲であるなら、諦めるしかない。

「勝とう」

 清記は一人呟いて立ち上がると、扶桑正宗の下げ緒で袖を絞り、頭に鉢巻を巻いた。
 遠くにこちらへ歩いてくる人の姿を認め、清記はそちらに身体を向けた
 深編笠を被っているが、風体は着流しの浪人。そして、秋の風に左腕の袖が靡いている。

「待たせたかな」

 男は五歩ほどの距離を空けて立ち止まった。

「古谷孤月殿とお見受けする」
「左様」

 孤月は、顎紐を解いて深編笠を脱ぎ捨てた。
 老人のような顔だった。歳は四十五ほどと聞いていたが、伸び散らかした月代は白く、くぼんだ眼窩と生気を感じさせない顔色は、その歳よりずっと老けて見える。

「仔細は承知しておりますが、不躾ながら父に代わって私がお相手いたします」
「悌蔵殿のご子息か。代わるのはいいが、貴公も念真流なのか?」
「はい。幼き頃より手ほどきを受け、宗家を継ぐ身なれば」
「よかろう。だが、貴公を斬った後は悌蔵殿に挑むがよろしいか?」
「私が死んだ後の事は、ご随意に」
「達観しておるな。いや、諦観か」

 清記は、孤月が何の事を言っているのかわからず次の言葉を待っていると、孤月は軽く微笑んでみせた。

「さぁ、とっとと始めよう。ぐずぐずしていると一雨来そうだ」

◆◇◆◇◆◇◆◇

 孤月の構えに、清記は言葉を失った。
 腰の一刀を抜くと、左足を一歩下げて半身になった。背筋を伸ばしたまま腰をやや落とすと、刀を前に突き出して構えたのだ。
 異形だった。何の構えとも呼べない。この国の構えには類を見ないそれは、隻腕で辿り着いた境地というものだろうか。よく見ると、孤月の剣は一般的な刀に比べて細身で反りが少ないような気もする。
 一方、清記は扶桑正宗を正眼に取った。相手の出方がわからない以上、正眼が最も変化に対応出来る。

「いざ」

 孤月が短く言った。
 距離は五歩。廉平が言ったように、向き合ってみると並みの殺気ではない事がわかった。全身に粟が立っている。決して、それは秋雨のせいではなかった。
 孤月の右足が動いた。地摺りで間合いを詰めていく。清記は、動かずに待った。
 三歩の距離で、孤月が足を止めた。切っ先が揺れている。上下に、何かを測っているように。それに気付いた時、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。

「潮合いを読んでいる暇は無くなったな」

 孤月が、清記を見据えたまま口を開いた。

「ええ」

 雨脚が一気に激しくなった。全身が既に濡れ切っている。それでも、清記は正眼を崩さなかった。一瞬でも気を抜けば、孤月が仕掛けてくるような気がしてならないのだ。
 不動が続いた。聞こえるのは雨音だけ。どれほど対峙が続いているのか、清記にはわからなかった。一刻は経っているようにも思えるが、四半刻ほどとも思える。

(これが、父が斃せなかった男か)

 清記は息を呑んだ。ただでさえ、この男には天稟はあった。父の落鳳を躱したほどなのだ。それが片腕を失う事で、秘めていた何かが開花したのかもしれない。
 不意に身体が重くなった。黒い瘴気が、地を這って足に絡みついている。そんな感覚に清記は襲われた。気勢を挙げて振り払いたいところだが、そんな真似をすれば孤月に自分が圧されていると教えてやるようなものだ。

(しかし、どうするべきか)

 異形の構えとの対峙のまま、大粒の雨が身体を濡らし続けている。
 やはり、落鳳しかないのか。跳べば、孤月を確実に斬れそうな気がする。
 しかし、父からは跳ぶなと忠告されていた。孤月は落鳳を受け、二度は通じないという事だった。
 果たして、本当にそうだろうか? 父の落鳳は通じないが、自分の落鳳ならば通じるのかもしれない。
 生じた迷いが、頭を何度も巡っていく。跳ぶべきか? 待つべきか?

(いや、待てよ)

 孤月は何故に動かないのか? 年齢と体力を考えれば、早くに勝負を決したいはずだ。その孤月が動かない。そこに勝機はないだろうか。
 動かない。何故? 動かないのか。動けないのか。仮に動かないとしたら――。

(やはり)

 待っているのだ。そうだ、跳ぶのを待っているのだ。ならば、こっちも待ってやる。いつまでも、待ってやる。体力でなら、若い自分に勝機はあるかもしれない。
 だが、この殺気を放つ男と向かい合うだけでも、清記は呻吟を挙げそうになる。持久戦に持ち込むのはいいが、出口のない迷路に飛び込むような気分でもある。
 風が強くなり、雨は打ちつけるような激しいものになっていた。
 空が光った。雷鳴。近くに落ちた轟音と共に、清記の眼前で二度目の稲妻が走った。
 斬光だった。孤月の突き。慌てて弾いたが、返す刀で斬り下ろしてきた。
 尋常ではないはやさだ。清記は身を反らして躱したが、更に一閃二閃と追ってきた。
 払い、弾き、躱す。孤月の連撃に、清記は幾つかの傷を受けていた。撓る孤月の剣の軌道が読めない。苦し紛れに小手を狙ったが、逆撃とばかりに右肩を浅く突かれてしまった。

「糞っ」

 慌てて後方に跳び退く。しかし、そこに隙。空いた懐に、孤月が大きく踏み込んできた。
 下から、刀を突き上げる。しまったと思った時、孤月の体勢が崩れた。清記はその瞬間を見逃さなかった。
 刀を持った右腕を刎ね上げると、振り上げた扶桑正宗を斬り下ろしていた。
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