【受賞作】狼の贄~念真流寂滅抄~

筑前助広

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第三章 雨の波瀬川

第三回 犬山家の者たち②

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 足音。それが次第に近付いてきたので、清記は居住まいを正した。
 道場に併設した控えの間である。清記は、犬山家が準備した昼餉を平らげ、午後の試合まで休んでいたところだった。

「お、おるな」

 その声と共に入ってきたのは、犬山梅岳だった。一人でふらりと現れ、清記の目の前に腰を下ろした。
「これは、梅岳様」

 清記は平伏しようとすると、それを梅岳が止めた。

「よいよい。それより、今日は格之助の我儘に付き合わせて悪かったな」
「いえ、何ほどの事もございません」
「ほう『何ほどの事もない』か。言うのう」

 梅岳が一笑した。この男の感情は、表情からは読めない。気に障ったのか、楽しみにしているのか。それさえも、猿と鼠を掛け合わせたような面貌からは判別できなかった。

「じゃが、試合の相手は家人の中でも指折りぞ? 何ほどの事と言ってられるかのう」
「ええ。久しく試合から遠ざかっておりましたので、勘の部分では心配ではありますが、楽しみではあります。しかし、私とて家中に於いては指折りでございますれば」
「そうだのう。御手先役のおぬしが、これぐらいで敗れるようでは困る。して、清記。これは別件なのだがな」
「はっ」

 新たなお役目だろうか。梅岳の依頼で、反対派の暗殺を阻止したのは二十日ほど前だ。いくらなんでも、次のお役目まで早過ぎる。

「最近、使い手として名を馳せている藩士が次々に死んでいるのは存じておるか?」
「先日、岡殿の葬儀へ参列しました。それと何か?」
「その岡もじゃが、江戸で高倉権十郎が斬られ、九郎原宿くろうばるしゅく飯田孫七いいだ まごしちが斬られた」
「飯田殿が」

 飯田孫七の件は初耳だった。確か九郎原宿で柳生心眼流の小さな町道場をしている男だ。もうかなりの高齢であり、道場は師範代であり孫の雪次郎に任せている状態だた。そんな男が斬られ、梅岳が敢えてその話を自分に持ち出す。陣内が追っている事件は、中々根が深そうだった。

「そうだ。自宅の畠にしておった」
「これで、当家の剣客が三人ですか」
「いや、四人じゃ。今朝一人られた。桐島平兵衛きりしま へいべえという足軽がな」
「小関道場で学ばれていた者ですね」

 梅岳は頷くと、わざとらしいぐらい渋い顔を見せた。

「岡、高倉、飯田、桐島……。この四人は、儂とも些か関わり合いのある者でもあってな。どこぞの誰かの〔嫌がらせ〕かもしれぬと考えておるのだが」

 大和の事だ。清記は、丹田に力を込めて梅岳の言葉を待った。

「おぬしの耳に、善からぬ事でも聞いておらぬか?」
「……いえ」

 当然だった。この四人を斬ったところで、梅岳の政権に寸分の乱れすら生じさせる事は出来ない。そんな事を、ましてや他者の命を弄ぶような真似を大和はするはずがない。

「だろうな。〔どこぞの誰か〕は、斯様な近視眼ではないからの。いやぁ、最近どうも疑い深くなってのう。いかんとは思うのだが」

 と、梅岳が自らの膝を打った。

「最近では、儂の懐を探られているような気がしてなぁ。どうも落ち着かん」
「……」
「思い過ごしならいいのだが、痛くもない腹を探られるのは気持ちが良くない」

 思わず、生唾を飲み込んでいた。懐を探られる。それは大和が秘密裏に探索を進めている抜け荷の事だろう。清記は何も応えずに、苦笑いで切り抜けようとした。

「清記、何やら緊張の色が顔に浮かんでおるぞ?」
「いえ、左様な事はございませぬ」
「ふむ」

 梅岳の細く小さな手が、清記の肩に置かれた。吹けば飛ぶような軽さのはずなのに、それは石抱いしだきに使われる伊豆石のように重く、清記の身体に圧し掛かってきた。

「どうした? ん?」
「何も聞いてはおりませぬ」
「そうかのう」

 すると、梅岳は清記の背中をポンっと一度叩いた。

「ふふ。おぬしは、向こうにも警戒されておろう。元よりおぬしは、間諜ではないからの。無理はせんでいいぞ」
「はっ……」
「何か聞いた時に報せてくれればそれでいい」

 梅岳はそう言うと立ち上がり、片手を挙げて控えの間を出て行った。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 その夜は、ささやかな宴が催された。梅岳と格之助を加えた三人だけの席であったが、それ故に内住郡の事から御手先役の事まで、根掘り葉掘りと話す羽目になった。また会話は奥寺家での剣術指南にも及んだが、志月の女傑っぷりや武者修行中の東馬に関わる事ばかりで、政争に絡むものは一切無かった。
 腕試しは、清記が圧倒する内容だった。家人の中から、三人と立ち合った。最後は梅岳の護衛の中から一人選ばれて立ち合ったが、清記は容赦しなかった。
 その直前に梅岳から尋問された鬱憤があったのだろう。勿論、相手が手を抜けるほど甘い相手ではなかったという事もある。しかし清記の容赦の無い攻めに、梅岳は苦笑し、格之助は手を叩いて喜んでいた。

(家人衆達からは、恨みを買っただろうな)

 そうは思ったが、あからさまな敵意を清記は感じなった。立ち合った四人とは挨拶を交わし、暫く剣談で盛り上がった。いずれ、酒を飲みに行こうという者もいた。
 宴は格之助がまず席を立ち、次に梅岳が酔い潰れて終わった。波多野が現れると、前髪付きの小姓たちが呼ばれ、抱きかかえられて奥へと消えた。
 梅岳には、男色の噂がある。この様子を見ると、その噂は間違いないだろう。だからどうという事もないが、清記は見てはならないものを見てしまった気分に襲われた。
 そんな宴から解放され、清記が犬山邸を出たのは、夜も五つになろうとしていた頃だった。
 波多野に駕籠を勧められたが、清記は些か過ぎた酔いを醒ます為に、固辞して提灯を片手に歩いて帰る事にした。
 秋の夜だ。あれだけ暑かった夏が嘘のように、ひんやりとしている。特に掘割の傍を歩くと、水面を伝う風で身震いがする程である。

(ん?)

 妙な気配を感じたのは、三の丸を出て城前町を横切った時だ。
 誰かが、尾行けている。その数は二人ほどであろうか。殺気があった。しかし、あからさま過ぎる。それだけで、腕の程が知れようものだ。
 念真流の次期宗家、或いは御手先役として働く清記にとって、刺客というのは珍しいものではない。身内を殺され仇と追う者。討ち取って名を上げたい者。賞金欲しさに付け狙う者。この命を欲する者は、それこそ山のようにいるのだ。

(しかし……)

 どうしても、剣客が相次いで殺されている一件が頭を過る。

「もしかしたら、名のある剣客を狙っているのかもしれない」

 陣内はそう言っていた。自分が名のある剣客とは思わないが、もしかしたらと考えると捨てても置けない。
 清記は、掘割に掛けられた橋の袂で立ち止まると、ゆっくりと振り向いた。
 来るか。そう思ったが、追跡者が慌てて逃げる足音だけ聞こえた。
 もし、これが岡や高倉らを斬った下手人であれば、捨てては置けない。しかし、そうとは思えない尾行のおそまつさである。

(廉平に頼んでみるか)

 清記は、嘆息し再び歩き出した。

〔第三回 了〕
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