【受賞作】狼の贄~念真流寂滅抄~

筑前助広

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第二章 謀略の坂

第四回 青い志

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 目が覚めると、頭が痛い上に、強烈な喉の渇きを覚えた。重い瞼を薄っすらとこじ開けると、眩い光に両のまなこを焼かれたように感じ、倉持平次は慌てて顔を背けた。

(家か……)

 全身から発せられる酒と肴の不快な残り香が、昨夜の愉快な宴を思い出させてくれたが、どうやって中屋村まで戻ったのかまでは記憶が無かった。

(二日酔いだな)

 平次は、観念してのっそりと起き上がると、家の裏手を流れる碇川の畔に屈みこみ、勢いよく顔を洗い口を啜った。
 昨日は飲み過ぎてしまった。それは無理もない。あの平山清記に冷や汗をかかせたご褒美で、酒を奢ってもらったのだ。しかも自分一人ではなく、昨日あの道場にいた全員をだった。
 皿屋町さらやまちにある、〔太十たじゅう〕という居酒屋。大組格の御曹司が選ぶ店だから、きっと名のある料亭で芸者でも呼ぶのだろうと思っていたが、清記が選んだ店はごく庶民的な店だった。
 平次は胸を撫で下ろした。もし、ここで高級な料亭でも連れて行かれていたら、自分は清記という男に失望し、怒りすら覚えていただろう。
 今年は作柄が悪く、それにより諸物の値も高騰して、領民の生活は苦しいのである。武家奉公人ではあるが、半士半農の生活をしている平次にも、その苦境は肌身で感じている。だから、過度の奢侈には抵抗を覚えてしまう。
 安く庶民の店であるが、奢られる立場にすれば遠慮が出る。しかも相手は、本来仰ぎ見るべき身分の男なのだ。しかし、

「私が憂さ晴らしをしたいのだよ。今日は遠慮せず、付き合ってもらおう」

 と、清記は一同に遠慮を許さなかった。
 久し振りの酒宴。慎ましくも、皆で心ゆくまで飲んだ。だがそれよりも、清記との会話が面白かった。
 内住郡代官所でのお役目の事。建花寺流の剣客として、東馬に敗れた事。その他、武者修行と称して、方々を旅した事。どれも、今の平次には刺激的だった。
 特に感心した事は、清記が考える武士の心構えだった。

「武士は、領民の年貢で生活している。つまり、領民に食わせてもらっている身分なのだ。故に、一朝事あれば命を賭して戦わねばならない。腰に佩いた大小は、その証でもある」

 痺れた。やはり、清記は武士の中の武士である。このような武士が増えれば、夜須藩はより良い国になるだろう。

(しかし……)

 立ち上がり、大きく息を吐いた。
 今の夜須藩は腐っている。栄生利永は風流に狂い、犬山梅岳は己の権勢にしか興味がない。利永もだが、最も問題なのは梅岳の存在である。あの男に、少しでも人間の心があれば、夜須の政事は多少はましになっていただろう。しかし、梅岳は利永を甘やかし、その見返りとして後ろ盾になってもらっている。城下に吉原町という傾城街を造ったのも、その一つだ。全ては、権力を掌中にしておきたいが為に。

(あの二人の為だけに、どれだけの銭が浪費されていくのか)

 吉原町建設。別邸の利休茶室造営。茶器・奇石・骨董品の収集。寺社への度を超した勧進。想いを巡らせるだけでも、怒りが湧いてくる。

(誰かがやらねばならぬ)

 今の梅岳の独裁を、誰かが止めなければ、夜須藩の将来は暗い。いずれは、一揆が起こる。四年前は直前で首領格だった〔義民の加助〕が失踪し、百姓衆は意気消沈して阻止されたが、その残り火は未だ燻っている。
 その意味では、平次は主君でもある奥寺大和に期待している。一本筋が通った気骨ある武士だ。梅岳の派閥に属さず、才覚だけで中老になったほどである。最近では奥寺派が出来つつあるという噂もあるが、まだ梅岳に対して敵対しようとする素振りは見せない。
 大和に対しては、期待と共にもどかしい焦りもあった。いつかは反犬山として起つかもしれないが、そうこうしている間に、犬山派に取り込まれる可能性もある。

(なら、背中を押してやるのも臣たる者の務めだろう)

 だから、俺は。

「あら、起きたのかい? あんたが起きないから、母ちゃん畑でひと仕事してきたんだよ」

 顔を洗って戻ると、母が畠から戻っていた。倉持家には猫の額ほどだが田畠があり、その一切の面倒を見ているのは母だった。男は足軽として奉公し、女は村で百姓仕事に精を出す。それが中屋村の当たり前の光景だった。

「そう大声で喚かないでくれよ。頭に響いちまう」
「昨日あれだけ酔っぱらってたんだから、無理もないさね。どこにそんな銭があるか知らないけど、昨日はご機嫌でのお帰りだったよ」

 小太りで、白髪が目立つ母は、そう言って朝餉の準備を始めた。すぐに味噌のよい香りが漂ってきた。

「それに、夜更けにあんたを送ってくれたのは誰なんだい? 凄く丁寧で、立派な旦那様だったよ。お土産に、佃煮までいただいて」
「ああ……」

 昨夜は千鳥足で、村に戻った。記憶は辛うじてあるが、村まで送ってくれたのは清記だった。

「名乗らずに帰ってしまわれたんじゃ、礼の言い様がないんだよ」
「昨日のお方は、平山清記様さ。内住郡代官のご子息様だよ。俺は先生と呼んでいるけどね」
「まぁ、あんたにそんな知り合いがいるとは」

 母が、朝餉の膳を運んできた。飯と味噌汁、それに青菜の漬物だ。母は飯が旨い。七年前に死んだ親父も、母の料理に惚れ込んだそうだ。

「あんた、今日は非番なんだろ?」
「そうだけど、ちょっと出かけてくるよ」
「道場かい?」
「ああ、最近は剣術が面白いんだよ。いずれ俺は剣で身を立ててみせるさ」
「何を寝惚けた事を言ってんだい。あんたが剣で身を立てる前に、貧乏で身が潰れちまうよ。たまには畑でも手伝えってんだ」

 あれこれ小煩い母から逃れようと、平次は飯に味噌汁をぶっかけ、急いで腹に流し込んだ。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 平次が一刀流小関道場に顔を出したのは、陽が中天に差し掛かった頃だった。
 小関道場は、欅の杜に囲まれた春日神社かすがじんじゃの一角にある。神社の境内に道場があるのは、一刀流の剣客で浪人だった小関弥次郎が神社に逗留した際、押し入った夜盗を返り討ちにした事に由来する。九死に一生を得た神主が、弥次郎に恩を感じて一刀流の道場を建てたのだ。その時に使った大刀は、今でも道場に祀られている。
 その小関道場はちょうど昼の休憩中なのか、竹刀の音に代わって漏れ聞こえるのは、談笑する若者の声だった。

「おう、平次じゃないか」

 道場の入口で、松井直四郎まつい なおしろうに出迎えられた。松井は同じ足軽で、母の乳を吸っていた頃からの付き合いだ。平次と違い、色が白く眉目秀麗な美男子である。二人で歩いていると、碁石のようだと言われるほどだ。直四郎は今、藩主家一門衆の筆頭・栄生帯刀家の足軽として奉公している。

「今日はもう来ねぇかと思ったんだがな」
「悪い。昨日は飲み過ぎてしまったんだよ」
「ほう、お前に飲み過ぎるほどの銭があろうとは思わなかったぜ」
「へへ、ちょっとしたご褒美でな。平山先生に御馳走してもらったのさ」
「ああ、内住郡代官の息子か」

 直四郎が、そう言って渋い顔をした。直四郎は、上士に対して、強い憎しみを抱いていた。それは彼が六歳の時に、実の父親が酔った上士に足蹴にされた挙句、無礼討ちをされたのを目の前で見たからだ。
 その上士はしばらくして病死したが、直四郎の憎悪は消えていない。藩主一門衆の帯刀家に奉公しているのも、その為である。直四郎の理屈では、藩主家はいいが上士は許せないらしい。
 上士である清記の話題で表情を変えたのも、そのせいだろう。ここ最近は、清記の話をしても眉一つ動かさなかったが、大事を前にして過敏になっているのかもしれない。

「お前、あんまり傾倒すんじゃねぇぞ。あいつらは、俺達の事なぞ犬猫のように考えてやがるんだ。いつかは利用されて捨てられる」

 平次は、反論したかった。清記はそんな男ではないと。お前も会えばわかると言いたかったが、今の直四郎に何を言っても面倒になるだけである。平次は、話題を変えた。

「それより志月様は来ているかい?」
「いや、姿は見ねぇな。この時刻だ、もう今日は来ないだろうよ」

 志月は、小関道場の高弟だった。実力は折り紙つきであるが、主君の娘が同じ道場にいるというのは、いろいろとやりづらい。嫌いな女ではないのだが、一々遠慮して楽しくないのだ。

「ならよかった」

 そう言って道場に入ろうとした平次の袖を、直四郎が握って引き留めた。

「どうした?」

 直四郎は周囲に誰もいないのを確認し、声を潜めて耳打ちした。

「先生から、招集が掛かった」
「いつ?」
「夜四つ。場所は鞍手山くらてやま
「そりゃ遠いな」

 鞍手山は、潤野郡うるのぐんの東の端にある。中々に険しい山で、これを越えれば、もう陸奥に入る。
 詳細な場所は、その山の入口にある庚申塔へ行けばわかるという。具体的な場所は、直前まで明かさない。知っているのは、先生と一部の人間のみ。藩庁の密偵を気にしての事だった。

「ああ、だからお前を待つか呼びに行こうかと考えていたんだ。急な招集でもあるし」
「何人ぐらい集まる?」
「さぁ。だが、師範代も来られる。この話も、師範代から聞いた」

 師範代。小関忠五郎の事だ。師範・小関弥蔵の甥である忠五郎も同志の一人である。

「これが、最後の会合になるらしいぞ」
「そうか。いよいよか……」

 平次は、そう言うと天を仰いだ。雲の隙間から、蒼穹の空が見える。

「平次、降りるなら今だぞ?」

 脳裏で、母の顔が浮かんだ。そして、もう一人。好きだった、一つ年上の幼馴染の女。将来を誓い合ったが、四年前に強姦された挙句に殺された。相手は岩城新之助いわき しんのすけとその取り巻きだった。岩城家は門閥中の門閥。かつて夜須藩を牛耳っていた、栄生十六家の一つである。勿論というべか、新之助が裁かれる事はなく、そもそも下手人として追及される事もなかった。
 怒りに震えていた自分を支えてくれたのが、直四郎だった。短気は起こすなと。そして、お前が望むならと紹介してくれたのが、西辻源馬という学者だった。
 西辻から学んだ事は、領民を守る事の大切さだった。国の土台は、民。その生活を向上させる事が、武士の使命。それを阻む、犬山梅岳の独裁は倒すべきだと説いてくれた。清記が話した武士の義務に心打たれたのも、西辻の教えがあったからだ。

「直四郎。復讐はお前だけじゃない」
「だが、お前にはお袋がいるだろう。ふた親を既に亡くした俺とは違がうんだ」
「お前の気持ちはありがたい。だが、俺は武士なんだ。身分こそ足軽だが、苗字帯刀を許された武士だ。その武士の義務とは領民を守る事。その領民を苦しめる根源を排除する事こそ、武士の本懐だ」
「武士の本懐か。わかった。もう言わん」
「志を果たす。その為に、この命を投げうつ事も厭わん」
「ああ。そうと決まれば、こうしちゃおれんな。道場で稽古している場合ではないぞ」

 平次は直四郎と顔を見合わせて頷いた。
 犬山梅岳を斬る。これは復讐だけではない。秕政を糺す世直しなのだ。俺達には、思想がある。

〔第四回 了〕
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