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最終章 天暗の仔
第三回 人材(前編)
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利重が智深庵に籠って、二刻ほどが過ぎていた。
「誰も入れるな」
と、言い付けているので、小姓が外で控えているだけで、部屋には誰もいない。
久し振りに取る、沈思の時間だった。江戸では、連日人に会わねばならなかった。栄生家の親戚筋に当たる大名・旗本には挨拶をせねばならなかったし、濁流派の面々とも会う必要があった。
国元に戻り一息は吐けたが、それでも山積した問題が無くなるわけではない。
利重は帳面から目を離し、すっかり冷めた茶に手を伸ばした。
(中々上手く行かぬものだな)
帳面には、無数の名前と身分、簡単な情報が書き連ねている。夜須に仕える藩士の名簿だ。
人材の登用、再編。それが緊急の問題である。参勤を終えて戻った利重は、早速その問題に着手した。
まず、新たに召し抱えた者、長く遠ざけられていた者、身分低き者に関わらず、若く能力がある者を直属下に置き、暫く使ってみる事にした。
執政府の人材は、一門衆や門閥から選抜して数だけ揃えている。所詮、執政府など藩主親政をする夜須藩に於いては、そこまで重要ではない。そう割り切ると、当座の陣容は簡単に決める事が出来た。
利景は自らの幕僚を執政府に入れたが、自分はそうするつもりはない。諮問機関としての役割は別に創設する予定で、執政府はいずれ解体してもいいと思っている。
それでも不足しているのは、実務を統べるべき奉行級の人材だった。主君を守る為に勇敢に戦い、そして死んだ者が多いのだ。その忠義は称賛されるべき事だが、それが仇になったのは皮肉な事である。
人材欠乏の窮状は、帰国すると想定以上酷く、相賀などは滞った仕事を片付ける為に、何十日も城に泊まり込んで働いていたという。
新たに見出した者を、一気に奉行に引き上げる事は出来るだろうが、それが新たな不和を藩内に蒔く事になる。この現状で、それは避けたい。
そして、大きな問題がもう一つ。
人材の不足を聞きつけた田沼意安が、見所あるという若い武士を、三名送り込んできたのだ。
密偵なら秘密裏に潜らせればよいものの、堂々と推薦という形で送り込む所が、意安の嫌らしい所である。
当然、断れるはずもない。絶大な権力を持ち、弱みを握られている相手なのだ。それに静照院再嫁では、強力な後ろ盾にもなってくれた。
八十太夫などは殺してしまえばいいと進言したが、それは厳しく禁じた。万が一の事があれば、それこそ取り潰しの口実になる。今は、ひたすら意安に臣従する他にないのである。
(どこで、間違ったのか……)
自分の能力には、自信があった。利景にも、勝るとも及ばないという自負も。実際、藩主の地位を得るまでは良かったのだ。
利重の脳裏に、帯刀と清記の顔が浮かんだ。
やはり、あの二人だ。全ては、あの二人が謀叛を起こしたからだ。
帯刀は、いずれ始末すべき敵だと認識出来ていた。それはいい。しかし、清記は違う。あの者は、自分に反感はあっても刀を抜くまでは無いと踏んでいたのだ。まさに飼い犬に手を噛まれるとは、この事であろう。
「殿」
不意に、声がした。そして、無遠慮に障子が開く。八十太夫だった。
「誰も入るなと申し伝えたはずだがな」
「火急の報せです」
表情も変えずに、八十太夫が言う。この男が直々伝えるぐらいなのだ。急を要する報せなのには疑いないが、八十太夫のこうした振る舞いが時折疎ましく思える。
「どうしたのだ」
「平山雷蔵が、雄勝から消えました」
利重は帳面を閉じ、八十太夫に顔を向けた。
「およそ十日前の事です。放っていた刺客は、全員消息を絶ちました」
「羽合は?」
「彼は、雄勝藩士となる道を選んだようです。暫くは家老の下で働くようです」
「そうか。雷蔵は、来るだろうか?」
「恐らく。今、手の者に命じて追跡しております」
「足りぬな」
「逸死隊の編成も、ほぼ終えております。山筒隊も常時城内各所に配置し、防備は完璧かと」
「他には?」
「腕自慢の浪人を、郊外に集めております。一通りの調練はひとまず終え、いつでも戦えます」
利重は頷いた。昨年の一件で、藩士を戦わせる事は、大きな損失になると判ったのだ。そこで八十太夫が考案したものが、浪人の組織化だった。夜須藩は浪人の流入を禁止している。それでも減らない。そこで、その一部を利用する事にしたのだ。もし雷蔵が現る時には、この浪人衆と逸死隊で戦う事にしている。
「それは誰が率いる?」
「馬廻組の斉木利三郎に」
「あの者か」
「斉木には、堂島丑之助の件で負い目がございます。大いに奮起してくれる事でしょう」
斉木は剣に秀で、頭も悪くない。利重が期待している人材の一人だ。しかも利重が抜擢した事で、その忠誠も厚い。
「今は浪人狩りに従事させています」
「浪人で浪人を狩る、か。毒を以てというものだな」
「そうです。彼らが死んでも、我々の懐は痛みません」
「いいだろう。ただ無駄に死なすなよ」
何も言わず、平伏だけして八十太夫は辞去した。
代わって、利重は牧文之進を呼んだ。
齢二十八になるこの武士は、八十太夫の推挙で側に置くようにした男だった。
癖毛で朴訥。見栄えは良くないが、深い考えと閃きがあると、八十太夫が珍しく称賛した人材だ。
叛徒の一族。牧家はそう呼ばれ、藩庁から無視されてきた。それは文之進の父が梅岳派に属し、利景暗殺に関わったからだ。先祖の功績に免じて家名断絶は免れたが、家督を継いだ文之進は知行の大部分を召し上げられた上に、どうでもいい閑職に任ぜられ冷遇されていた。
その文之進を見つけたのが、八十太夫だった。同じく、利景に冷遇された一門。何か通じ合ったものがあったのかもしれない。
推挙され、傍で暫く使ってみた。閃きではなく、熟慮して答えを導き出す性質の男だが、出された答えというのが、誰にも思い付かないものだったりする。
山人の帰属も、この男の発案だった。
執政会議では、
「大きな財源が目の前にありながら、律儀に昔の約定を守って見逃すほど、夜須藩に余裕ございませぬ」
そう反対者に論戦を吹っ掛け
「信義にもとる行為だ」
との声には、
「信義など、これから築けばいいのです」
と、まで嘯いた。
また、八十太夫に似て汚れ役を平気で行える強さがある。江戸では、何度か過酷なお役目を命じて試してみたが、剣もそれなりに使える事が判った。だが、一番はその智謀である。特に内政については、相賀以上のものがあると期待している。
「入れ」
身体が小さな文之進が、膝行して前に進み出た。
「お呼びでしょうか」
「実はな、新たな統治体制を考えている」
そう言うと、文之進の目が一瞬光りを放った。
「具体的には、どの部分の?」
「郡制だ。現在、郡代官は世襲になっている。これをどうにかしたい」
「賛成でございます。現行の統治では、百姓の忠誠が領主然とした代官に向いてしまいます。あくまで、百姓は藩のものであり、忠誠は藩主一人に誓うべき事。悪癖は早々に取り除くべきです」
「お前は賛成か」
「当然です。反対する者はおられないと思いますが」
「いや。まだ誰にも話しておらぬ。ただ代官衆は反対するだろうな」
「彼らは仕方ありません。ですが、その代わりに奉行職を与えれば、満足するでしょう。こちらとて、奉行の人材不足を解消出来ます」
「ふむ」
流石は、八十太夫が推挙したほどだ。もしかすると、以前から考えていたのかもしれないが、どちらにせよ得難い才覚だ。
「新たな仕組みの素案を、お前に任せたい」
「はい」
文之進が即答した。自信でもあるのだろうか。
「どの程度まで、手を加えてよろしいでしょうか?」
「手を加えるのではない。一から構築するつもりでやれ」
「そのような大役を、私が宜しいのでしょうか?」
「構わぬ。それに、お前しかおらぬのだ」
文之進が、嬉々として平伏した。
「誰も入れるな」
と、言い付けているので、小姓が外で控えているだけで、部屋には誰もいない。
久し振りに取る、沈思の時間だった。江戸では、連日人に会わねばならなかった。栄生家の親戚筋に当たる大名・旗本には挨拶をせねばならなかったし、濁流派の面々とも会う必要があった。
国元に戻り一息は吐けたが、それでも山積した問題が無くなるわけではない。
利重は帳面から目を離し、すっかり冷めた茶に手を伸ばした。
(中々上手く行かぬものだな)
帳面には、無数の名前と身分、簡単な情報が書き連ねている。夜須に仕える藩士の名簿だ。
人材の登用、再編。それが緊急の問題である。参勤を終えて戻った利重は、早速その問題に着手した。
まず、新たに召し抱えた者、長く遠ざけられていた者、身分低き者に関わらず、若く能力がある者を直属下に置き、暫く使ってみる事にした。
執政府の人材は、一門衆や門閥から選抜して数だけ揃えている。所詮、執政府など藩主親政をする夜須藩に於いては、そこまで重要ではない。そう割り切ると、当座の陣容は簡単に決める事が出来た。
利景は自らの幕僚を執政府に入れたが、自分はそうするつもりはない。諮問機関としての役割は別に創設する予定で、執政府はいずれ解体してもいいと思っている。
それでも不足しているのは、実務を統べるべき奉行級の人材だった。主君を守る為に勇敢に戦い、そして死んだ者が多いのだ。その忠義は称賛されるべき事だが、それが仇になったのは皮肉な事である。
人材欠乏の窮状は、帰国すると想定以上酷く、相賀などは滞った仕事を片付ける為に、何十日も城に泊まり込んで働いていたという。
新たに見出した者を、一気に奉行に引き上げる事は出来るだろうが、それが新たな不和を藩内に蒔く事になる。この現状で、それは避けたい。
そして、大きな問題がもう一つ。
人材の不足を聞きつけた田沼意安が、見所あるという若い武士を、三名送り込んできたのだ。
密偵なら秘密裏に潜らせればよいものの、堂々と推薦という形で送り込む所が、意安の嫌らしい所である。
当然、断れるはずもない。絶大な権力を持ち、弱みを握られている相手なのだ。それに静照院再嫁では、強力な後ろ盾にもなってくれた。
八十太夫などは殺してしまえばいいと進言したが、それは厳しく禁じた。万が一の事があれば、それこそ取り潰しの口実になる。今は、ひたすら意安に臣従する他にないのである。
(どこで、間違ったのか……)
自分の能力には、自信があった。利景にも、勝るとも及ばないという自負も。実際、藩主の地位を得るまでは良かったのだ。
利重の脳裏に、帯刀と清記の顔が浮かんだ。
やはり、あの二人だ。全ては、あの二人が謀叛を起こしたからだ。
帯刀は、いずれ始末すべき敵だと認識出来ていた。それはいい。しかし、清記は違う。あの者は、自分に反感はあっても刀を抜くまでは無いと踏んでいたのだ。まさに飼い犬に手を噛まれるとは、この事であろう。
「殿」
不意に、声がした。そして、無遠慮に障子が開く。八十太夫だった。
「誰も入るなと申し伝えたはずだがな」
「火急の報せです」
表情も変えずに、八十太夫が言う。この男が直々伝えるぐらいなのだ。急を要する報せなのには疑いないが、八十太夫のこうした振る舞いが時折疎ましく思える。
「どうしたのだ」
「平山雷蔵が、雄勝から消えました」
利重は帳面を閉じ、八十太夫に顔を向けた。
「およそ十日前の事です。放っていた刺客は、全員消息を絶ちました」
「羽合は?」
「彼は、雄勝藩士となる道を選んだようです。暫くは家老の下で働くようです」
「そうか。雷蔵は、来るだろうか?」
「恐らく。今、手の者に命じて追跡しております」
「足りぬな」
「逸死隊の編成も、ほぼ終えております。山筒隊も常時城内各所に配置し、防備は完璧かと」
「他には?」
「腕自慢の浪人を、郊外に集めております。一通りの調練はひとまず終え、いつでも戦えます」
利重は頷いた。昨年の一件で、藩士を戦わせる事は、大きな損失になると判ったのだ。そこで八十太夫が考案したものが、浪人の組織化だった。夜須藩は浪人の流入を禁止している。それでも減らない。そこで、その一部を利用する事にしたのだ。もし雷蔵が現る時には、この浪人衆と逸死隊で戦う事にしている。
「それは誰が率いる?」
「馬廻組の斉木利三郎に」
「あの者か」
「斉木には、堂島丑之助の件で負い目がございます。大いに奮起してくれる事でしょう」
斉木は剣に秀で、頭も悪くない。利重が期待している人材の一人だ。しかも利重が抜擢した事で、その忠誠も厚い。
「今は浪人狩りに従事させています」
「浪人で浪人を狩る、か。毒を以てというものだな」
「そうです。彼らが死んでも、我々の懐は痛みません」
「いいだろう。ただ無駄に死なすなよ」
何も言わず、平伏だけして八十太夫は辞去した。
代わって、利重は牧文之進を呼んだ。
齢二十八になるこの武士は、八十太夫の推挙で側に置くようにした男だった。
癖毛で朴訥。見栄えは良くないが、深い考えと閃きがあると、八十太夫が珍しく称賛した人材だ。
叛徒の一族。牧家はそう呼ばれ、藩庁から無視されてきた。それは文之進の父が梅岳派に属し、利景暗殺に関わったからだ。先祖の功績に免じて家名断絶は免れたが、家督を継いだ文之進は知行の大部分を召し上げられた上に、どうでもいい閑職に任ぜられ冷遇されていた。
その文之進を見つけたのが、八十太夫だった。同じく、利景に冷遇された一門。何か通じ合ったものがあったのかもしれない。
推挙され、傍で暫く使ってみた。閃きではなく、熟慮して答えを導き出す性質の男だが、出された答えというのが、誰にも思い付かないものだったりする。
山人の帰属も、この男の発案だった。
執政会議では、
「大きな財源が目の前にありながら、律儀に昔の約定を守って見逃すほど、夜須藩に余裕ございませぬ」
そう反対者に論戦を吹っ掛け
「信義にもとる行為だ」
との声には、
「信義など、これから築けばいいのです」
と、まで嘯いた。
また、八十太夫に似て汚れ役を平気で行える強さがある。江戸では、何度か過酷なお役目を命じて試してみたが、剣もそれなりに使える事が判った。だが、一番はその智謀である。特に内政については、相賀以上のものがあると期待している。
「入れ」
身体が小さな文之進が、膝行して前に進み出た。
「お呼びでしょうか」
「実はな、新たな統治体制を考えている」
そう言うと、文之進の目が一瞬光りを放った。
「具体的には、どの部分の?」
「郡制だ。現在、郡代官は世襲になっている。これをどうにかしたい」
「賛成でございます。現行の統治では、百姓の忠誠が領主然とした代官に向いてしまいます。あくまで、百姓は藩のものであり、忠誠は藩主一人に誓うべき事。悪癖は早々に取り除くべきです」
「お前は賛成か」
「当然です。反対する者はおられないと思いますが」
「いや。まだ誰にも話しておらぬ。ただ代官衆は反対するだろうな」
「彼らは仕方ありません。ですが、その代わりに奉行職を与えれば、満足するでしょう。こちらとて、奉行の人材不足を解消出来ます」
「ふむ」
流石は、八十太夫が推挙したほどだ。もしかすると、以前から考えていたのかもしれないが、どちらにせよ得難い才覚だ。
「新たな仕組みの素案を、お前に任せたい」
「はい」
文之進が即答した。自信でもあるのだろうか。
「どの程度まで、手を加えてよろしいでしょうか?」
「手を加えるのではない。一から構築するつもりでやれ」
「そのような大役を、私が宜しいのでしょうか?」
「構わぬ。それに、お前しかおらぬのだ」
文之進が、嬉々として平伏した。
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