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第四章 末路
第十五回 獣肉
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夜須城下の東、吉原町の裏路地に太郎小路はある。
酒気と汗の澱んだ空気が漂い、路傍では乞食だか浪人だかつかぬ酔客が潰れ、年増の私娼が客引きに勤しんでいる。まるで、有象無象の吹き溜まりである。
(何故、斯様な場所に)
そう訝しみながらも、雷蔵は〔八ツ造〕と印された赤提灯を見つけた。小さな店が肩を寄せ合って立ち並ぶ中で、その外観は比較的大きいように見える。
戸を開けると、威勢の良い店主の声と焼けた獣肉の臭いが雷蔵を迎え入れた。串焼きの店だった。肉食はあまり一般的ではないが、海の無い夜須では、焼いたり煮たりとそれなりに食べられる食材である。
店内は吹き抜けの二階造り。一階の土間は満席に近いが、添田の姿は無い。むしろ、
(このような場末に、御家老がいるのか?)
とも思うぐらいだ。
見た感じでは、下士や町人相手の店で、上士のような身分ある者が来るような店ではない。
「おい、こっちだ」
頭上から声がした。見上げると、手だけが見えて上に来いと手招きしている。添田であろうか。雷蔵は店主に目配せし、階段を上がった。
吹き抜けの二階は座敷になっていた。その隅の席に、添田甲斐がいた。他に客はいない。
「よく来てくれた」
添田は、口元だけに笑みを浮かべた。格好は、気儘な着流し姿である。城中や別邸で見たような立派なものではない。柄も色も地味なもので、質感も安っぽい。
(これでは、どちらの身分が上か判らぬではないか)
雷蔵の着物も地味ではあるが、質は高級であり上品さというものが滲みでている。こうした着物は三郎助が見繕ったもので、雷蔵が高級品を選んでいるわけではない。
「まぁ、座れ」
添田は、卓の向かい席を顎でしゃくった。
「随分とお待たせしたようで、申し訳ございませぬ」
雷蔵は、座るなり頭を下げた。
「いや、構わぬ。儂が先に来ていて始めていたのよ」
着流しの首席家老は、猪口を煽った。そして、また手酌で注ぐ。その所作は堂には入ったもので、この男が夜須二十六万石の宰相だとは到底見えない。むしろ、ただの呑兵衛だ。
「しかし、どうして儂が待っていたと判った?」
「卓の上を見ました」
卓上には、銚子が二本と串焼き、冷や奴が並んでいる。しかも、食べた後の串が三本。これを見て、暫く待たせていたと判断したのだ。
「なるほど。腕っ節だけの馬鹿ではなさそうだな」
そう言って笑った添田の笑みには、人を小馬鹿にする冷笑的なものが含まれている。
添田の皮肉屋な人柄や毒舌ついては、父からも三郎助からも聞いていた。故に、嫌う者が多いというが、同時に師と仰ぐ者も少なくない。添田の力量は、名君を支える軍師として藩外にも知れ渡るほどなのだ。
「雷蔵、飯はまだであろう?」
「はい」
「なら頼むぞ」
添田は下に顔を出し、
「串焼きの旨い所を適当に持ってきてくれ」
と、頼んだ。階下から店主の声が返ってくる。
(贔屓にしているのだな)
添田も慣れていれば、店主も家老に対する遠慮はない。
「飲め」
添田が銚子を差し出したので、雷蔵は酌を猪口で受け呷った。腹に染み渡る酒だった。酒は飲むようになったが、本当に旨いと感じられるほどにまでは慣れていない。
「驚いたろう? こんな場所で」
添田が訊いた。
「ええ、正直」
「ここはな、儂の馴染みの店なのだ」
「斯様な店がですか?」
「ふふふ。そうだ」
階下からは、酔客の下品な笑い声が聞こえる。かなりの盛り上がりようだ。上士の武家が馴染みにするような店ではない。
「儂はな、元々浪人よ」
「ええ」
その話は有名だった。雷蔵は盃を置くと、視線を正面に向けた。添田が不敵な笑みを見せている。
「生まれは、九州は長崎。駄賃欲しさにオランダ商館で下働きをし、その合間に語学・数学・工学・法学・商学を学んだ」
「添田様は蘭学で高名だと、父に聞いております」
「ふむ。その私が夜須藩に雇われたのは、商館長の妻に手を出したからだ。いい女だったのだ。豊満で、抱けば白い肌が紅潮した。だが、商館長にばれると、雇われた破落戸に追われてなぁ。それを救うという条件で、私は夜須藩に学者として雇われた。そうでなければ、こんな辺鄙な山奥になど来る事はなかった。だが、浪人が一代で一藩の宰相とは、どこぞの太閤様には及ばぬが見事な立身出世だろう?」
「……」
「これも、お殿様があっての事だ。利景公が儂を引き上げてくれた」
「確かに。と、雷蔵は頷いた。利景の慧眼が無ければ、このような立身出世は有り得ない」
店の女が、串焼きを運んで来た。タレに漬け込んだものや、塩を振りかけたものもある。
「獣肉は嫌いか?」
「いえ、好きです。宇美津への旅でかなり食べました」
「ほう。何を食べた?」
「兎、野鳥。鹿や猪も食べました」
「鹿や猪は狩ったのか?」
「いえ、山人から購いました。山深い所には、そうした民がいるのですよ」
「らしいな。だが、儂には縁がない。して、その肉は旨いのだろうな」
「焚き火で焼きます。荒塩を塗し、遠火でじっくりと。新鮮ならば刺身で食べる事が出来ます。肝臓も」
「ほうほう。こりゃ、聞くだけでも涎が出る。だが、ここの串焼きも負けず劣らずだ。さぁ食え」
雷蔵は、促され串焼きに手を伸ばした。鹿肉の串だ。まずはタレ。黒に近い色合いで、甘辛い。次も鹿肉で、粗塩が振ってある。肉の旨みを引き出すぐらいで、ちょうど良い。
「どうだ? 旨いか?」
「予想以上に」
「そうだろうて」
添田は、満面の笑みで猪口を口に運んだ。
「して、お前を呼んだのは他でも無い堂島の事だ」
「はい」
雷蔵は箸を置き、背筋を伸ばした。
「ここ最近、色々と動いているようだな」
「ご存知なのですか?」
「城下には、儂の眼になる者がいるからの」
「なるほど。流石は添田様」
と、雷蔵は感心した。藩政を取り仕切る者は、このぐらいはないといけない。
「世辞はいい。何を調べていた?」
「それもご存知ではございませぬか?」
「小癪な若僧だのう。愛嬌無しは、父親譲りか」
「よく言われます」
雷蔵は即答した。微かな酔いが饒舌にさせている。
「儂は、自分の耳目しか信じぬ。つまりな、お前の口から報告を聞きたいのだ」
添田が、酒で赤らんだ顔を雷蔵に向けた。多少酔ってはいるだろうが、眼は真剣な眼差しである。
「堂島が、どうして夜須に戻って来るのか。堂島という男を知る事で、その理由を見極めようとしました」
「ほう」
「逃げようと思えば、西国にでも逃げられたはずです。そうなれば、我らの手での捕縛も不可能に等しいはず。しかし、それでも堂島は、捕吏が待ち構えている夜須に戻る選択をしました。つまり、夜須に戻らねばならない理由があるのです。そして、その理由さえ判れば、堂島を待ち伏せする事も可能だと」
「それで、許斐亘と斉木利三郎を訪ねたわけだな?」
「はい」
二人の名が出た事に、雷蔵は驚かなかった。探索していた事を知っていたのなら、誰を訪ねたかぐらいは掴んでいて当然である。
「何か判ったのか?」
「両者には、堂島に斬られても仕方がない遺恨がありました。許斐殿は、堂島に暗殺を指示した上役。そして斉木殿は、友でありながら、堂島が長年慕っていた美弥という女を奪いました。もとより、美弥は堂島より斉木殿を慕っていたようですが」
「それで、お前はどちらだと思う?」
「正直、迷っております。二人共、『堂島は自分を斬りに来る』と言い出す始末ですし」
「自分を斬りに来る、か……」
「どちらの遺恨も、理由として十分なものがあります。もし私が堂島だとして、口封じに殺されそうになれば許斐殿を斬るでしょう」
「女を友に奪われたら?」
「……斬りはしないでしょうが、一発は殴ってやりたいですね。ただ、世には女に狂った者もいます。堂島もその口である可能性もあります」
「なるほどのぅ……」
と、添田は銚子を傾けた。串焼きもう全て平らげ、酒の肴は豆腐や漬物だけになっている。
「それに、一つ加えぬか」
「何をでございますか?」
「藩そのものへの遺恨。自分に人斬りを命じた藩に対して。……藩、即ちお殿様の事だ」
「まさか。流石に城に斬り込むような真似は」
すると、添田は如何にも軽薄な笑みを口元に浮かべた。
「城では無理だわな。城では」
雷蔵は思わぬ話の展開に、次の言葉を待った。
「二日後、先代藩主利永公の御命日だ」
「……」
「あくまで可能性の一つである。ただな、目尾組が堂島を発見したのだ。八木山峠でな」
雷蔵は脳裏に、夜須藩の地図を思い浮かべた。
(確か、南か……)
八木山峠は夜須藩境にある峻険な峠である。この峠を越えると砥石山があり、その裾野を通って城下に続く道がある。
「南だな。網を張っていた南山道より遥かに」
「ええ」
南山道に網を張る。夜須に生まれ育った堂島ならば、そこで待ち伏せしていると考えるのは当然の事だ。
(だが、どうして八木山峠なのだ……)
と、いう疑問が湧いた。
南には、砥石山など険しい山道があり、城下へは遠回りになる。
(と、すると、険しいから見つからないと思っているのか……)
そんな安直な理由とは思えない。とすると、南に目的とする何かがあるのではないか?
「雷蔵」
推理を遮断するように、添田に名を呼ばれた。
「城下の南には何がある?」
「南ですか……」
「砥石山の手前に、馬敷村って村があるのだがな」
「もしや」
雷蔵は、絶句した。
「……栄生家菩提寺、東光寺」
堂島も伊川郷士ながら、夜須藩の一員。利永の命日に、決まって利景が東光寺を訪れるのは当然知っているはずだ。
「まさか、堂島は本当にお殿様を」
「さぁな。しかし、堂島は南で発見された。八木山峠から馬敷村までは二日もあれば事足りる。そして、利永公の命日は二日後」
「堂島の狙いはお殿様なのですか」
「あくまで可能性の一つだがな」
雷蔵は、手元の盃を煽った。
(しかし、堂島が畏れ多くも、お殿様を弑するというのか)
可能性が無いわけではないが、俄に信じられる話でもない。当然警備も厳重で、そこに単身斬り込めば犬死である。だが、
(殿の御命は何よりも尊い)
役目から外れるが、利景を守る事を最優先にするべきであろう。
「私も、お殿様の護衛の列にお加え下さい」
雷蔵は、後ろに身を引いて平伏した。
「ならぬな」
「何卒」
「雷蔵、極論を申せば、お前は堂島だけを斬ればよい。許斐や斉木を守る必要はない。無論、お殿様もだ」
「しかし」
「勘違いするなよ。お前は御手先役。つまりは、刀だ。それを使うのは、お殿様であり執政。お前は、命じられた事だけを遂行すればよい」
雷蔵は、下唇をグッと噛み締めた。腹立たしい物言いだ。しかし、正論でもある。
(御手先役に心は無いのだな……)
判っていた事だ。言うなれば、堂島と同じ人斬りという名の犬である。
雷蔵は、表情を消しながら面を上げた。
「そう、怖い眼をするな」
添田が苦笑する。
「申し訳ございません」
「心配せずとも、殿には十分な護衛を付けている。お前は堂島を斬る事だけを考え、心のままに動くがいい。それが、この添田甲斐からの命よ」
酒気と汗の澱んだ空気が漂い、路傍では乞食だか浪人だかつかぬ酔客が潰れ、年増の私娼が客引きに勤しんでいる。まるで、有象無象の吹き溜まりである。
(何故、斯様な場所に)
そう訝しみながらも、雷蔵は〔八ツ造〕と印された赤提灯を見つけた。小さな店が肩を寄せ合って立ち並ぶ中で、その外観は比較的大きいように見える。
戸を開けると、威勢の良い店主の声と焼けた獣肉の臭いが雷蔵を迎え入れた。串焼きの店だった。肉食はあまり一般的ではないが、海の無い夜須では、焼いたり煮たりとそれなりに食べられる食材である。
店内は吹き抜けの二階造り。一階の土間は満席に近いが、添田の姿は無い。むしろ、
(このような場末に、御家老がいるのか?)
とも思うぐらいだ。
見た感じでは、下士や町人相手の店で、上士のような身分ある者が来るような店ではない。
「おい、こっちだ」
頭上から声がした。見上げると、手だけが見えて上に来いと手招きしている。添田であろうか。雷蔵は店主に目配せし、階段を上がった。
吹き抜けの二階は座敷になっていた。その隅の席に、添田甲斐がいた。他に客はいない。
「よく来てくれた」
添田は、口元だけに笑みを浮かべた。格好は、気儘な着流し姿である。城中や別邸で見たような立派なものではない。柄も色も地味なもので、質感も安っぽい。
(これでは、どちらの身分が上か判らぬではないか)
雷蔵の着物も地味ではあるが、質は高級であり上品さというものが滲みでている。こうした着物は三郎助が見繕ったもので、雷蔵が高級品を選んでいるわけではない。
「まぁ、座れ」
添田は、卓の向かい席を顎でしゃくった。
「随分とお待たせしたようで、申し訳ございませぬ」
雷蔵は、座るなり頭を下げた。
「いや、構わぬ。儂が先に来ていて始めていたのよ」
着流しの首席家老は、猪口を煽った。そして、また手酌で注ぐ。その所作は堂には入ったもので、この男が夜須二十六万石の宰相だとは到底見えない。むしろ、ただの呑兵衛だ。
「しかし、どうして儂が待っていたと判った?」
「卓の上を見ました」
卓上には、銚子が二本と串焼き、冷や奴が並んでいる。しかも、食べた後の串が三本。これを見て、暫く待たせていたと判断したのだ。
「なるほど。腕っ節だけの馬鹿ではなさそうだな」
そう言って笑った添田の笑みには、人を小馬鹿にする冷笑的なものが含まれている。
添田の皮肉屋な人柄や毒舌ついては、父からも三郎助からも聞いていた。故に、嫌う者が多いというが、同時に師と仰ぐ者も少なくない。添田の力量は、名君を支える軍師として藩外にも知れ渡るほどなのだ。
「雷蔵、飯はまだであろう?」
「はい」
「なら頼むぞ」
添田は下に顔を出し、
「串焼きの旨い所を適当に持ってきてくれ」
と、頼んだ。階下から店主の声が返ってくる。
(贔屓にしているのだな)
添田も慣れていれば、店主も家老に対する遠慮はない。
「飲め」
添田が銚子を差し出したので、雷蔵は酌を猪口で受け呷った。腹に染み渡る酒だった。酒は飲むようになったが、本当に旨いと感じられるほどにまでは慣れていない。
「驚いたろう? こんな場所で」
添田が訊いた。
「ええ、正直」
「ここはな、儂の馴染みの店なのだ」
「斯様な店がですか?」
「ふふふ。そうだ」
階下からは、酔客の下品な笑い声が聞こえる。かなりの盛り上がりようだ。上士の武家が馴染みにするような店ではない。
「儂はな、元々浪人よ」
「ええ」
その話は有名だった。雷蔵は盃を置くと、視線を正面に向けた。添田が不敵な笑みを見せている。
「生まれは、九州は長崎。駄賃欲しさにオランダ商館で下働きをし、その合間に語学・数学・工学・法学・商学を学んだ」
「添田様は蘭学で高名だと、父に聞いております」
「ふむ。その私が夜須藩に雇われたのは、商館長の妻に手を出したからだ。いい女だったのだ。豊満で、抱けば白い肌が紅潮した。だが、商館長にばれると、雇われた破落戸に追われてなぁ。それを救うという条件で、私は夜須藩に学者として雇われた。そうでなければ、こんな辺鄙な山奥になど来る事はなかった。だが、浪人が一代で一藩の宰相とは、どこぞの太閤様には及ばぬが見事な立身出世だろう?」
「……」
「これも、お殿様があっての事だ。利景公が儂を引き上げてくれた」
「確かに。と、雷蔵は頷いた。利景の慧眼が無ければ、このような立身出世は有り得ない」
店の女が、串焼きを運んで来た。タレに漬け込んだものや、塩を振りかけたものもある。
「獣肉は嫌いか?」
「いえ、好きです。宇美津への旅でかなり食べました」
「ほう。何を食べた?」
「兎、野鳥。鹿や猪も食べました」
「鹿や猪は狩ったのか?」
「いえ、山人から購いました。山深い所には、そうした民がいるのですよ」
「らしいな。だが、儂には縁がない。して、その肉は旨いのだろうな」
「焚き火で焼きます。荒塩を塗し、遠火でじっくりと。新鮮ならば刺身で食べる事が出来ます。肝臓も」
「ほうほう。こりゃ、聞くだけでも涎が出る。だが、ここの串焼きも負けず劣らずだ。さぁ食え」
雷蔵は、促され串焼きに手を伸ばした。鹿肉の串だ。まずはタレ。黒に近い色合いで、甘辛い。次も鹿肉で、粗塩が振ってある。肉の旨みを引き出すぐらいで、ちょうど良い。
「どうだ? 旨いか?」
「予想以上に」
「そうだろうて」
添田は、満面の笑みで猪口を口に運んだ。
「して、お前を呼んだのは他でも無い堂島の事だ」
「はい」
雷蔵は箸を置き、背筋を伸ばした。
「ここ最近、色々と動いているようだな」
「ご存知なのですか?」
「城下には、儂の眼になる者がいるからの」
「なるほど。流石は添田様」
と、雷蔵は感心した。藩政を取り仕切る者は、このぐらいはないといけない。
「世辞はいい。何を調べていた?」
「それもご存知ではございませぬか?」
「小癪な若僧だのう。愛嬌無しは、父親譲りか」
「よく言われます」
雷蔵は即答した。微かな酔いが饒舌にさせている。
「儂は、自分の耳目しか信じぬ。つまりな、お前の口から報告を聞きたいのだ」
添田が、酒で赤らんだ顔を雷蔵に向けた。多少酔ってはいるだろうが、眼は真剣な眼差しである。
「堂島が、どうして夜須に戻って来るのか。堂島という男を知る事で、その理由を見極めようとしました」
「ほう」
「逃げようと思えば、西国にでも逃げられたはずです。そうなれば、我らの手での捕縛も不可能に等しいはず。しかし、それでも堂島は、捕吏が待ち構えている夜須に戻る選択をしました。つまり、夜須に戻らねばならない理由があるのです。そして、その理由さえ判れば、堂島を待ち伏せする事も可能だと」
「それで、許斐亘と斉木利三郎を訪ねたわけだな?」
「はい」
二人の名が出た事に、雷蔵は驚かなかった。探索していた事を知っていたのなら、誰を訪ねたかぐらいは掴んでいて当然である。
「何か判ったのか?」
「両者には、堂島に斬られても仕方がない遺恨がありました。許斐殿は、堂島に暗殺を指示した上役。そして斉木殿は、友でありながら、堂島が長年慕っていた美弥という女を奪いました。もとより、美弥は堂島より斉木殿を慕っていたようですが」
「それで、お前はどちらだと思う?」
「正直、迷っております。二人共、『堂島は自分を斬りに来る』と言い出す始末ですし」
「自分を斬りに来る、か……」
「どちらの遺恨も、理由として十分なものがあります。もし私が堂島だとして、口封じに殺されそうになれば許斐殿を斬るでしょう」
「女を友に奪われたら?」
「……斬りはしないでしょうが、一発は殴ってやりたいですね。ただ、世には女に狂った者もいます。堂島もその口である可能性もあります」
「なるほどのぅ……」
と、添田は銚子を傾けた。串焼きもう全て平らげ、酒の肴は豆腐や漬物だけになっている。
「それに、一つ加えぬか」
「何をでございますか?」
「藩そのものへの遺恨。自分に人斬りを命じた藩に対して。……藩、即ちお殿様の事だ」
「まさか。流石に城に斬り込むような真似は」
すると、添田は如何にも軽薄な笑みを口元に浮かべた。
「城では無理だわな。城では」
雷蔵は思わぬ話の展開に、次の言葉を待った。
「二日後、先代藩主利永公の御命日だ」
「……」
「あくまで可能性の一つである。ただな、目尾組が堂島を発見したのだ。八木山峠でな」
雷蔵は脳裏に、夜須藩の地図を思い浮かべた。
(確か、南か……)
八木山峠は夜須藩境にある峻険な峠である。この峠を越えると砥石山があり、その裾野を通って城下に続く道がある。
「南だな。網を張っていた南山道より遥かに」
「ええ」
南山道に網を張る。夜須に生まれ育った堂島ならば、そこで待ち伏せしていると考えるのは当然の事だ。
(だが、どうして八木山峠なのだ……)
と、いう疑問が湧いた。
南には、砥石山など険しい山道があり、城下へは遠回りになる。
(と、すると、険しいから見つからないと思っているのか……)
そんな安直な理由とは思えない。とすると、南に目的とする何かがあるのではないか?
「雷蔵」
推理を遮断するように、添田に名を呼ばれた。
「城下の南には何がある?」
「南ですか……」
「砥石山の手前に、馬敷村って村があるのだがな」
「もしや」
雷蔵は、絶句した。
「……栄生家菩提寺、東光寺」
堂島も伊川郷士ながら、夜須藩の一員。利永の命日に、決まって利景が東光寺を訪れるのは当然知っているはずだ。
「まさか、堂島は本当にお殿様を」
「さぁな。しかし、堂島は南で発見された。八木山峠から馬敷村までは二日もあれば事足りる。そして、利永公の命日は二日後」
「堂島の狙いはお殿様なのですか」
「あくまで可能性の一つだがな」
雷蔵は、手元の盃を煽った。
(しかし、堂島が畏れ多くも、お殿様を弑するというのか)
可能性が無いわけではないが、俄に信じられる話でもない。当然警備も厳重で、そこに単身斬り込めば犬死である。だが、
(殿の御命は何よりも尊い)
役目から外れるが、利景を守る事を最優先にするべきであろう。
「私も、お殿様の護衛の列にお加え下さい」
雷蔵は、後ろに身を引いて平伏した。
「ならぬな」
「何卒」
「雷蔵、極論を申せば、お前は堂島だけを斬ればよい。許斐や斉木を守る必要はない。無論、お殿様もだ」
「しかし」
「勘違いするなよ。お前は御手先役。つまりは、刀だ。それを使うのは、お殿様であり執政。お前は、命じられた事だけを遂行すればよい」
雷蔵は、下唇をグッと噛み締めた。腹立たしい物言いだ。しかし、正論でもある。
(御手先役に心は無いのだな……)
判っていた事だ。言うなれば、堂島と同じ人斬りという名の犬である。
雷蔵は、表情を消しながら面を上げた。
「そう、怖い眼をするな」
添田が苦笑する。
「申し訳ございません」
「心配せずとも、殿には十分な護衛を付けている。お前は堂島を斬る事だけを考え、心のままに動くがいい。それが、この添田甲斐からの命よ」
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その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。
それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。
~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。
この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。
桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。
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