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第四章 末路

第七回 浪人狩り

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「やめろよ」

 目の前の男が、声を震わせながら懇願した。
 伊岐須いぎす郡、綱分宿つなわけじゅく。その外れにある、鬱蒼とした森に囲まれたやしろである。近郷の者は、五穀社ごこくしゃと呼んでいるそうだが、昼間でも薄暗く平素人が来るような場所ではない。
 男は、絵に描いたような浪人だった。乱れに乱れた蓬髪ほうはつ。伸びざらした髭。何日も洗っていない、垢と埃で薄汚れた着物。数年来の苦難と貧困が、身体にも衣服にも染み付いている。すえた悪臭が、周囲に漂っている。

「やめてくれよ」
「……」
「冗談だろ。よせよ」

 男は顔色を失い、下唇が小刻みに震えている。
 雷蔵は、無言で一歩踏み出した。傍には、頭蓋から両断された骸が二つ。この男の仲間で、浪人。雷蔵が斬り捨てていた。

「一体、俺達が何をしたと言うのだ」
「何も」

 澄ました顔で、雷蔵は答えた。
 手には、抜き身の関舜水八虎。生き血を啜った漆黒の刀身が、木漏れ陽を浴びて淫らな光を放っている。

「何もしていない。……かもしれません」
「何?」

 男の声が拍子抜けしたのか、目を見開いた。

「そんな曖昧な理由で、何故俺達を斬ろうとするのか?」
「浪人だからですよ」

 即答した。

「浪人は斬ります」
「そんな。見過ごしてくれよ。なぁ、いいだろう?」
「では、教えて下さい」
「何を?」
「あなたの身元引受人です。町年寄か庄屋か」
「そ、そんなもんがいるわけないだろうが」
「では斬ります。当藩では、浪人の入国は御法度。見つけ次第、斬り捨て御免がご定法。浪人が夜須の地を踏む、その事だけで罪なのです」
「城下には立ち入っていない」
「私は『入国』と申し上げました。もう一度申し上げますが、城下への立ち入りではなく当藩への立ち入りが禁止なのです。例外的に、身元引受人がいれば別ですが。その時は、奉行所に申し出なければなりません」
「知ってるさ、そんな事。しかし、今まで役人は見て見ぬ振りだったぞ」
「だから私がいるのです」

 雷蔵は正眼に構えた。

「さぁ、抜いて下さい。手向わぬ者を斬るのは、目覚めが悪いですからね」
「糞ったれ」

 男が絶叫し、猛然と斬り込んできた。剣術とは呼べぬ、陳腐な斬撃である。浪々の日々が、男の腕を鈍らせたのだろう。
 雷蔵は悠々とそれを見て流し、擦れ違いざまに関舜水八虎を一閃させた。
 骨肉を断つ感触は、無いに等しい。斬ったのか躱されたのか、意識しなければ判らないほどだった。

(流石は、関舜水八虎だ)

 雷蔵は、禍々しい刀身に眼をやった。豆腐を切るような感触だった。骨肉を断ったというのに、何の抵抗も無い。
 この刀で、既に何人か斬った。驚いた事に、斬れば斬るほどに鋭くなっている気がする。人の生き血を餌にして、日々鋭くなっているようだ。

(やはり、魔性なのかもしれないな)

 雷蔵はなめした鹿皮で刀身の血脂を拭き取ると、その場を足早に離れた。
 森を歩くと、途中で竹林になった。人通りは無い。晩春の風が竹の葉を揺らし、サラサラと心地良い音を奏でている。
 浪人狩りは、雷蔵に与えられた新しい役目だった。年が明けてから、夜須へ流入する浪人が増えているという。昨年の某藩取り潰しと、橘民部の残党が影響しているのだろうか。
 これは、父から言い付けられた役目だった。

「浪人を見つけ次第、斬れ。ただし、秘密裏にだ」

 浪人にも色々である。罪を犯していない者も斬るのか? そう思いもしたが、父はこう附言した。

「浪人の入国は藩法で禁じられている。関所にも、法を破れば斬罪と明記している。つまり、浪人がこの夜須にいるだけで、罪を犯しているのだ」

 雷蔵は、それで納得した。
 勿論、浪人は無条件で弾圧されているわけではない。町年寄か庄屋に身元引受人になってもらい、奉行所に届を出せば夜須で生きる事を許されるのだ。その見極めも大事だった。
 初めの三日は、浪人を観察した。思えば、今まで浪人という存在を注視し、考えた事など無かったからだ。ただそこにある風景の一つ、言わば路傍の石としてしか映ってなかった。
 城下の浪人は、大人しいものであった。身なりも清く、城務めの武士と見間違う者もいる。大抵、そうした浪人は商人や寺社、侠客に囲われている用心棒だという。身元を引き受ける代わりに、安い値段で働かせられている者もいると、目尾組の廉平が言っていた。
 一方で、郊外にいる浪人は、まるで飢えた狼のようであった。粗暴で凶悪。簡単に刀を抜く者もいる。
 雷蔵が最初に斬った浪人が、まさにそうした男だった。行商人を脅し、酒代を得ようとしていたのだ。雷蔵は、その浪人を人目の無い場所に誘い出して斬った。
 次の日も一人、更に次の日は二人を斬った。そして、今日は三人である。
 人を斬る。その行為そのものに、何の痛痒も覚えなくなっていた。それは、利景の言葉があったからこそでもある。

「使え、雷蔵。民の為に。天下泰平の為に。この刀は、私がお前と共に戦っている証なのだ」

 今でも、この耳に蘇る。民の為、天下泰平の為、そしてお殿様に為に刀を奮う事は、雷蔵の喜びでもあった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 雷蔵は、竹林を抜けて綱分宿に入った。
 昼餉を摂っていなかったのを、腹の虫で思い出したのだ。
 雷蔵は、真っ直ぐ一膳飯屋に向かい、暖簾をくぐった。

「いらっしゃい」

 板場から、生き生きとした声が飛んできた。
 客はそこそこである。百姓の姿に紛れて、旅装の者が多い。それは夜須藩の大動脈、那珂へ向かう築那街道ちくやがいどう沿いなのだ。故に賑わいがあり、そこらの宿場とはおもむきが違った。

「飯を。菜はお任します」

 席に着き一息吐くと、すぐに膳が出された。香の物を乗せた丼飯と、岩魚の塩焼き。それと野菜屑の味噌汁である。
 雷蔵は無心で川魚で丼飯を一杯、おかわりで、味噌汁でもう一杯食した。以前は、人を斬ると飯など喉を通らなかった。それどころか、吐いた事もある。しかし、今は逆だ。腹が無性に減る。

(さて、これからどうするか)

 薄い茶を啜りながら、雷蔵は思案を巡らせた。

「全て、一人で計画し、そして結果を出せ」

 父が、そう言った。村に戻る時は、結果報告の時だけだ、とも。
 試しだろう。これから、父の跡目を継ぐ事への。

(改めて、気負う事も無い。いつも通りでいいのだ)

 目尾組の協力もある。それを使う裁量も一任されているが、どうにかなるだろう。
 以前の自分なら、重圧で潰れていたはずだ。そうならないのは、関舜水八虎と利景の言葉があるからだ。

(まずは、伊岐須郡)

 そう決めていた。無作為に歩いているのも芸がない。一つ一つ虱潰しにしていけば、浪人も恐れて夜須を立ち去るはずだ。
 銭を払って店を出ると、雷蔵はその足で旅籠に入った。
 それなりの額を支払って、個室を取った。他人と同室でも構わないが、わざわざそれを望むつもりはない。
 布団も敷かずに横になった。すぐに眠れる。そんな身体になりつつあった。山でも川でも、眠ろうと思えば、眠る事が出来る。
 夕暮れ時に眼を覚まし外に出た。客の声だった。旅籠は賑わっているようだ。
 綱分宿は、日が暮れても眠る事はない。夜も開けている店々からは酔客の嬌声が漏れ、路上では私娼が客引きをする、退廃的な空間と化していた。
 雷蔵は、居酒屋の一つに入った。〔でんべえ〕という屋号だ。
 雷蔵は、客の中に浪人の姿を認めた。五人。店の隅で、徒党を組んで飲んでいる。

(情報の通りだな……)

 目尾組の小忠太が、時折現れては浪人に関する情報をくれていた。伊岐須に浪人が多いと教えてくれたのも、その小忠太だった。何かと不快な男だが、仕事はそれなりに出来るようだ。
 雷蔵は浪人の近くに座り、

「銭ならいくらでもあります。旨い酒を飲ませて下さい」

 と、机に銭を幾らか置いて、酒や肴を豪勢頼んだ。
 主人が、ほくほく顔で頭を下げた。

「酒は京都より仕入れました聚楽酒じゅらくしゅ、肴は海魚だけでなく鹿肉もございますよ」
「お任せする。今日は気分が良くてね」
「そりゃ、何よりで。さっ、すぐにご準備いたしやす」

 すぐに料理と酒が運ばれた。

「旨い」

 聚楽酒を飲み、肴に箸を付けた雷蔵は、些かの笑みを店主に向けた。そうすると、背後であからさまな舌打ちが聞こえた。

(餌に食いついたな)

 雷蔵は四半刻で全てを平らげ、店を出た。
 もう夜の帳は降りている。背後からは殺気。店にいた浪人達であろう。尾行しているのだ。
 雷蔵は宿場を抜けると、人気ひとけのない農道で立ち止まった。
 傍には、百姓が雨避けにでも使っているであろう小屋が一つ。あとは、畠である。

「銭を出してもらおう」

 浪人が声を掛けた。
 振り向く。やはり、先程の五人だった。

「命までとは言わん」

 雷蔵は、返事の代わりに関舜水八虎を抜き払った。

「貴様、やる気か」

 浪人達の顔が、驚きに満ちた。

「ええ」

 雷蔵は跳躍すると、五人の中に躍り込んだ。
 先頭の浪人を落鳳で両断し、着地するやいなや二人を瞬時に斬り倒した。
 一人が逃げ出した。一瞬、そちらに視線がいった。その隙に、もう一人が鞘走っていた。
 居合。剣氣に満ちた、鋭い一閃だった。そこそこはやるようだ。
 雷蔵は、身を捩じってそれを躱した。朧。念真流が誇る、究極の見切りである。
 男の目が見開いていた。斬ったと思ったのだろう。そして、俺の身体が霧散したようにも見えているはずだ。
 驚愕した男に、袈裟斬りを叩き込んだ。首筋から噴出する血飛沫を避けるように、男を蹴り倒した。

(もう一人)

 最後の一人が逃げていた。雷蔵は後を追い、走りながら懐の手裏剣を放った。
 男の走りが鈍くなった。大腿の裏に命中したようだ。男が振り向く。刀に手を回そうとする寸前で、その首を刎ねた。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「また、よいものを見せてもらった」

 その声は、農道沿いの木々の間からだった。
 暫くして、男がのっそりと現れた。闇夜というのに、深編笠をしている。

「あなたですか……」

 今回も気配を感じなかった。使い手なのだろうか。かと言って、剣客が持つ猛々しい氣は全く感じない。氏素性だけでなく、その存在もよく判らない不思議な男である。

「小耳に挟んでね。伊岐須で平山雷蔵が人を斬りまくっていると」
「それで来たのですが、わざわざ」
「御曹司が、人を斬る姿が見たくてね」
「悪趣味ですよ」
「そりゃ、よく言われる事さ。お陰で、世間じゃ肩身が狭くてかなわねぇ」

 冗談のつもりだろうが、雷蔵は何も反応せず、

「で、今日は何か用ですか?」

 と、訊いた。

「見物だけさ。念真流を久し振り見たくなってねぇ」
「私の名や役目を知り、建花寺流ではなく念真流と呼ぶ。あなたの素性は判りませんが、斬った方がよさそうですね」
「おいおい。綺麗な顔立ちのくせに、それじゃ狂犬じゃねぇか。辻斬りと変わらんぜ、御曹司」
「その物言い、不快です」
「わざとさ」
「見物だけではないというのは、やはり嘘ですね」
「やる気かい?」
「ええ、有無を言わさず」

 対峙の構えで、向かい合った。腰を落とす。だが、男は懐手のままである。
 雷蔵が、関舜水八虎に手を伸ばすと、男は懐手を解いた。微かに見える口元が笑っている。
 男からは、何も感じない。ただ悠然と、佇立しているだけだ。

(不思議だ)

 実った風に凪ぐ稲穂のように、闘気がなされている気分になる。
 雷蔵は、剣氣を高めた。しかし、男からの反応はない。

(そうか、口ではああ言うが、最初から戦う気が無いのだ)

 それを察した雷蔵は、構えを解いた。

「どうやら、ただの狂犬じゃなさそうだ」
「あなたも」

 敵ではない。それは何となく判った。だが、自分に付きまとう理由が判らない。それを知るまでは、気を抜くべきではないだろう。

「だが、狂犬は他にいる」

 雷蔵は、周囲の気配を察して頷いた。何やら、強烈な殺気が近付いてきていた。

「俺が、浪人衆に情報を流した」
「……」
「浪人狩りをしている奴が、此処にいると」
「謀ったのですか?」

 すると、男は一笑した。

「違う。協力したのさ。浪人を探すの面倒だろう? なら、来てもらえばいいってね」
「にしても、数が多いですよ」

 十人。いや、十五人はいるだろう。腕の程は、抜き合うまでは判らないが、骨なのは確かだ。

「正直、俺も驚いている。だが責任は取ってやろう。加勢してやる」
「それはどうも。しかし他の狂犬とは、あなたですね」
「言うじゃねぇか、御曹司」

 男は雷蔵を一瞥すると、腰の一刀を抜き払った。
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