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第三章 蒼い月

第十五回 走狗

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 膳が運ばれた。
 これが、最後の夕餉。そう思い定め、求馬は箸を取った。
 膳に登ったのは、牡蛎飯、里芋と大根の梅蒸し煮、根深汁。芳野が腕によりをかけて拵えたもので、どれも求馬の好物である。
 その夕餉を、芳野も共に摂った。だが会話は無く、黙々と箸を動かし口に運んだ。

(何か、話さなければ)

 もう二度と語り合えないかもしれないというのに、言葉が見つからない。
 芳野を妻に迎えてからの日々を、無駄にしてきたのだと痛感した。今になって、もっと話しておけば良かったと思ってしまう。これが、芳野を蔑ろにしてきたツケというものだ。誰よりも、何よりも愛しているという事に、気付くのが遅過ぎた。つくづく、そう思う。
 心が焦れ、芳野を一瞥した。目が合う。芳野も求馬を見ていた。

「如何されましたか?」

 芳野が、そう言って軽く笑む。

「……いや。何でもない」

 やはり何も言えなくて、視線を逸らした。
 結局、無言のまま全てを平らげた。旨かった。流石は、我が妻。いや、妻だった女。
 昨夜、芳野に離縁を申し渡した。そうしなければならない理由を包み隠さず伝えたが、芳野は頑なに拒否した。

「いつまでも待ちます」

 とまで、言われた。嬉しい言葉であるが、求馬は厳命した。でなければ、芳野や徳衛門にまで類が及ぶからである。それだけは避けたい。我が滝沢家の呪われた宿運に巻き込みたくはない。
 夕餉を終えると、芳野に手伝われ旅装束に着替えた。そこでも、無言のままだった。

「芳野」

 やっと言葉が出たのは、屋敷を出ようとした時だった。

「芳野」
「はい」

 求馬は瞑目した。

「俺はお前に惚れている。人はお前の父と奉行所を繋ぐ為に夫婦になったと言うが、それは違う。俺は、心底お前に惚れて妻にしたのだ。それを一度、言いたかった……」

 芳野の瞳に大きな露が浮かび、堪えきれず頬に伝って落ちた。

「どうしたのだ」

 求馬は、その涙を親指の腹で拭った。

「初めて言われました……嬉しゅうございます」
「そうか。今まで、そんな事すら言わなかったのだな、俺は」

 そう言うと、芳野は首を横に振った。

「駄目な男だ」
「そんな事ございません。求馬様のお気持ちはちゃんと伝わっておりました」

 芳野が身体を寄せてきた。抱き締める。力の限り。全身に、芳野という女の存在を感じ、その感触を記憶に叩き込んだ。

「もう今生では会えぬかもしれぬ。俺の事は忘れて、達者で過ごせ」

◆◇◆◇◆◇◆◇

 求馬は、足早に屋敷を出た。
 外は、どこまでも暗い夜だった。月は無く、雲に隠れている。雲さえ晴れれば、幾らか明るくなるであろう。
 一度も振り返らずに町を抜けた。もう此処に戻る事もない。そう思っていても、不思議と感慨は無かった。やはり、宇美津を嫌いだったのだ。
 歩きながら、これからの事を考えた。兎に角、金橋と宇美津を脱出する事が第一である。舟で吉見崎よしみざきまで移動し、陸路で江戸に向かう行程になるだろう。
 その後は、どうするか? 金橋と共に、橘民部の義挙に参加するしかないと思うが、気乗りはしない。一度は捨てた志である。隙を見て逃げ出し、浪人になる手もあるが。

(生きていれば、いつか……)

 そこまで思い、求馬は頭を振った。芳野はもう離縁したのだ。出戻りにはなったが、いずれ同じ百姓に嫁いで幸せになればいい。
 湊には常夜燈が幾つか並び、温かい光を灯していた。人の姿も、気配も無い。ただ、潮騒だけが聴こえるだけだ。
 約束された場所に到着した。千石船が幾つか並んでいる泊地である。金橋は岩礁が多いが目立たない漁師用の湊を集合場所にしていたが、そこはかえって人目に付くとして求馬がこの湊を指定した。
 約束した刻限は、とうに過ぎていた。金橋はまだ来ていない。

(何をしているのだ)

 身を切るような海風が、全身を打つ。
 その時。御用と記された提灯が、闇に浮かんだ。数える間もなく、それは波紋のように広がっていく。その意味を瞬時に理解し、求馬は駆け出した。
 が、逃げ場になる所は既に固められ、気付けば堤防に追い詰められていた。
 眩い光が、一斉に向けられた。四方八方からである。それは龕灯がんどうによる光りだった。

(やはり、こうなる宿運だったか)

 捕吏は、二十名ほどだろう。既に四方を取り囲まれている。

「何用でございましょうか?」

 求馬は、意を決し訊いた。しかし、誰も口を開く素振りが無い。

「人違いでは?」

 これにも無言だった。つまり、それは自分に狙いを定めている証拠であろう。甚だ不気味であり、そこらの捕吏とは違う。
 逃げ場は無い。袋小路である。だが、斬り結べば何とかなるかもしれない。管亥流の限りを尽くせば、無傷ではいられないにしろ、活路は生まれるはずだ。

(だが、それからどうするか……)

 いや、活路の先を考えるのは後だ。求馬は、そう思い直すと重心を落として身構えた。

(戦うより他に、術はない)

 言い訳など、聞く耳はないだろう。端から自分に狙いを定めて来ている。
 無言の捕吏の中から、一人が前に進み出て跪いた。

「すまん」

 そう言った男は、金橋だった。荒縄で戒められている。拷問を受けたであろう、顔は殴打の跡があり、痛々しく膨れ上がっている。

「お前には期待していたのだがな」

 捕吏の群れが割れ、底冷えのする声が聞こえた。羽合掃部である。

「やはり、罪人の子は罪人だったか」

 提灯の灯りで、その怜悧な顔が浮かび上がる。

「羽合様。私は」
「言い訳は出来ぬぞ。お前が尚憲坊主や山藤助二郎、金橋忠兵衛と密会していた事実は掴んでいる。譜代である栄生の家中にありながら、御公儀に楯突くとは笑止千万。しかも親子二代でとなれば、その血筋は絶やさねばならぬ」

 と、言った羽合の傍に、見知った顔があった。

「お前」

 求馬は絶句した。辻村と廉造がいたのだ。唯一、この男だけはと思った男が、自分の監視者だったのだ。

「そういう事か」

 求馬は、湧き上がる笑いを敢えて堪えなかった。やはり、人を信じるべきではなかった。心を開くべきではなかったのだ。

「滝沢さん、私はこの事実を信じたくなかった。あなたに敬意を抱いておりましたから。ですが、あなたは罪を犯したのです」
「俺が、どんな罪を犯したというのだ」
「叛乱の計画を報告せず、黙認していました」
「俺を監視していたのか」
「はい。私は本藩から派遣された隠密。廉造もまた同じ」
「手が込んだ事を」

 廉造が無表情に黙礼した。今まで見た事のない、鋭い表情である。

走狗いぬだな、まるで」
「私が走狗である自覚はあります」
「武士が誇りを忘れたらそれまでだ」
「それは滝沢さんだけの考えに過ぎません。少なくとも、あと二匹は走狗がいますよ」

 求馬の背後に、大きな氣が二つ現れた。振り向く。そこには、平山清記と小弥太の姿があった。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「なるほど」

 二人を預かるに至った経緯を考えれば、納得出来る。この親子は羽合の命令で家に上がり込み、間近で行動を見張っていたのだ。

「滝沢殿のご好意を裏切る事になって申し訳ない」

 と、清記が頭を下げる。小弥太も無言でそれに倣った。

「見かけによらず、卑怯な真似する御仁だ」

 頭にきた。血が沸く。全員が、自分を疑っていた。信じていなかったのだ。それもこれも、父が罪人であるが故に。

「こうなれば、我が技倆の全てを賭して、斬りに斬ってやる。お前達を一人でも道連れにしてやるぞ」

 求馬は、腰の段平を抜き払った。

「止めてください。あなたは強い。道連れに何人死ぬか」

 辻村の言葉に、求馬は鼻を鳴らした。

「それが目的だ。まず手始めにお前を斬る。お前という男を信じてしまった汚点を消し去る為にな」

 求馬は、そう言い放ち八相に構えた。見る限り、鉄砲は無い。そうすると、まず半分は討ち取れるだろう。

「提案があります」

 清記が、おもむろに口を開いた。

「私の愚息と立ち合っていただきたい。勝てば、あなたを見逃します」
「小弥太君と?」

 何を言っているのだ、この男は。求馬は、清記の申し出を理解できなかった。小弥太に一度稽古をつけ、その時に打ち負かしている。つまり、それは我が息子を殺してくれと言っているようなものではないか。

「大丈夫なのか?」

 羽合の問いに、清記は頷いた。

「滝沢殿。如何か?」

 むしろ、お前はいいのか? と思ったが、子ども一人を斬って助かるならば、それもいい。

「二言はないですね?」
「私が責任を持って、皆を引かせましょう。無論、愚息の仇を討つ事もしません」
「判った。その提案をお受けしよう」

 そう言うと、求馬は小弥太に目をやった。
 無表情。能面のような顔付きで、袖を手早く絞っている。

(やる気満々という事か)

 捕吏の輪が、遠巻きになった。小弥太が前に進み出る。

「宜しくお願いします」

 その声に、覇気というものが微塵も無かった。
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