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第三章 蒼い月

第十四回 罪人の子

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 不快な視線を感じたのは、宇美津を出てからの事だった。
 誰かが尾行つけている。それも、一定の距離を保ってだ。まるで、禽獣が獲物を追うが如くである。
 求馬の横を歩く辻村は、いつもと変わらず飄々としている。二人を先導する廉造もまたそうで、追跡者の影を感じている様子はない。

(これほどの氣を向けられて何も気付かんとは……)

 求馬は呑気な二人と不快な氣に苛立ちを覚え、内心で舌打ちをした。
 相変わらずの村廻りだった。四つ目の村を検見し終えた、昼下がりである。

「例の失踪の件なのですが」

 ふと、辻村が口を開いた。

「何でも、武士だけではないみたいですよ」
「どういう事だ」
「確か、慈恩密寺だったかな」
「え……」

 求馬は絶句し、目を白黒させた。

「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。いいから、話を続けろ」
「ええ。あの、今山にある真言宗の慈恩密寺の坊主が消えたそうなんですよ」
「ほう。あそこの坊主が」

 そう惚けてみせたが、動揺を隠し通せたか自信はなかった。それより、尚憲である。あの日以来、慈恩密寺には行っていないが、尚憲も消えたとなると勤王派が狙われているという事は確実である。

「夜逃げじゃないのか?」
「まさか。あ、これも脱藩の形跡はなく、忽然とです……」
「へぇ」
「噂によれば、物の怪かもしれないって」
「おいおい、神隠しってか? お前な、物の怪などいるものか。武士がそんな御伽噺おとぎばなしを信じてどうする」
「まぁ、そうですけど」

 そう口を尖らせた辻村は、これ見よがしに肩を竦めた。
 暫く歩くと、山道になった。次の村は、小高い山の中腹に拓いた山村である。
 路傍には、八手ヤツデが丸い綿のような花を咲かせていた。冬の訪れが近いのだろう。八手の葉は天狗の葉団扇に似ていて、それ故に魔除けや薬用にも利用されていると、芳野に聞いた事がある。

(魔除けなど迷信だろうに)

 現に、求馬にとって魔と呼べる追跡者の視線は消えない。この尾行は、勤王派の失踪と何か関わっているのだろうか。或いは、西谷義一郎の仲間による意趣返しか。先日、奉行所で土鮫の一味が、珂府勤番の役人に壊滅させられたという報告を受けた。主立った幹部は斬り捨てられたらしいが、そこから脱出した手下もいて、羽合から領内の警備に力を入れろという達しが来ていた。

「少し休みましょうよ」

 と、辻村が音を上げたので、途中にある茶屋に入った。求馬は店番の少女に銭を渡し、茶を三つ、そして辻村の為に団子を頼んだ。

(そろそろ、正体を確かめねばなるまい)

 悩んでいても、気を病むだけだ。何かあれば、切り抜けるだけの剣もある。そう思い立って席を立つと、何事かと辻村が訊いた。

「小用を足すのだ。団子でも廉造と食べて待っていろ」

 そう言って、視線を感じる茶屋の裏手に回った。だが、そこには誰の姿もない。氣はその先、鬱蒼としている藪の中から感じる。

(仕方ない)

 と、求馬はその中に分け入った。倒木を跨ぎ、枯れ枝を踏み折る。そう進むにつれ、氣に含まれた敵意の存在が明確になった。殺気。求馬は息を呑み、二刀の重さを意識した。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 藪を抜けると、拓けた場所に出た。そこに男がいた。武士だ。倒木に腰掛けている。

「あなたは」

 男は、金橋忠兵衛だった。

「貴様」

 金橋の眼には、何故か憤怒の色で満ちていた。

「どうしたのです。合田沢に行かれたのでは?」
「どうしただと? それは貴様が一番知っておろう」

 金橋の突然の豹変に、求馬は言葉を詰まらせた。

「いえ……、私にはさっぱり」
「では教えて進ぜよう。貴様を斬りに来たのだ」
「私を? 何故」
「知らばっくれるな。貴様が同志を売ったのだろう。尚憲殿も山藤殿も、そして近郷の同志も、次々と消えている。私の手下も昨夜消えた」
「それは」
「言い訳しても無駄だ、裏切り者め。貴様は、宇美津奉行である羽合掃部の覚えめでたく、自宅では夜須の者を預かっていると聞いた。同志面をして潜り込み、我々を売ったに違いない」
「違う。私は誰も売ってはいない。そもそも、私は同志ではないのです」

 そう言うと、金橋の顔の動きが一瞬止まった。
 しまった。思わず、口を滑らせてしまった。言い繕おうとしても、もう遅い。金橋の顔が、凶悪なものに一変していた。

「同志ではない? 同志ではないだと? つまりは、裏切ったと認めたのだな」
「いえ。私は、尚憲先生に誘われていましたが、その意志は無く断るつもりでした。しかし、その決断を伝える前に先生が姿を消されて」

 そう言うと、金橋が低い声で笑った。

「判ったぞ、滝沢求馬。貴様は偶然にも義挙の計画を知り、それを手柄にしようと羽合に売ったのだろう? 出世の為に自らの師をも売るのか、忘恩の狗め」

 金沢は、腰の一刀を抜き払った。

「金橋殿、私の話を」
走狗いぬの戯言を聞く耳などない。そこになおれ、成敗してやる」

 と、金橋は上段に構え、打ち込んできた。
 一撃目は身を反らして躱し、二撃目は後方に跳び退いて避けた。

「無益な争いだ」
「ええい、まだ言うか」

 三撃目、四撃目と躱しながら、求馬に妙な感覚を覚えた。金橋の太刀筋には剣氣が満ちていて、人を斬るに能う十分な力強さがある。おそらく、人を斬った事があるのだろう。しかし宇美津を出て以降、付きまとっていた氣とは違う。何より金橋の腕では、尾行をしながら相手を氣で責めるような真似が出来るとは思えない。

(しかし、まずは話を聞かねば)

 七撃目を求馬は居合で払い、峰を返して金橋の小手を軽く打った。

「くっ」

 たまらず刀を落とすと、求馬は金橋に刀を突きつけた。

「私はあなた達を売ってはおりませぬ」
「何を」
「信じて下さい。その証拠にあなたを捕えれば、私は莫大な恩賞を得るでしょう。それを私はしない。それが何よりもの証しだと思っていただきたい」
「誓えるか、お父上の名誉に賭けて」
「勿論です」

 求馬の即答に、金橋は鼻を鳴らした。

「……判った」
「ありがとうございます」

 求馬は一礼し、刀を納めた。

「お前が裏切り者でない事は信じよう。だがな、我々を追う捕吏はお前も同志だと思っているはずだ」
「どうして」

 すると金橋は、人の不幸を嘲笑うように一笑した。

「私もお前を同志だと信じていたのが証拠だ。尚憲殿は、お前も同志だと言っていた。『あの滝沢作衛門の息子も同志』だと、方々でなぁ。それは当然捕吏の耳に入っているだろうし、今頃は捕縛された誰かがお前の名前を出しているに違いない」
「馬鹿な」

 血の気が引き、目眩がした。返す言葉が出ない。

「残念だが諦めろ。お前は既に同志なのだよ。宇美津に残っても捕縛されるだけだ」

 違う。俺は、同志ではない。叛乱には加わるつもりは毛頭無いのだ。どうすればいい。羽合に身の潔白を証明するか?

「どう思案しても無駄というものだ。あの羽合に弁明するという手もあるが、それは止めていた方がいい」
「何故です?」
「お前の父親も、勤王の為に働いた志士。志士の息子が『私は勤王ではない』と言って、果たして信じるかどうか。しかも相手は、佐幕色が強い羽合だ。……所詮、お前はこうなる運命さだめだったのだ」
「そんな」
「明日の夜、舟で逃げる。その手配はしているから、お前も来るのだ。死にたくなければ」

 罪人の子は罪人。人斬りの子は人斬り。かつて、そう嘲笑された日々があった。宇美津に移り住むと表立った誹謗は止んだが、結局あれから何も変わっていないのだと、求馬は絶望した。
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