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第三章 蒼い月

第十二回 臆病者の剣

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 五日後になった。
 尚憲に決断を伝える日である。
 奉行所での仕事を終えた求馬は、その足で今山の慈恩密寺へ向かった。

(大丈夫だ。もう揺ぎはしない)

 求馬は自分に言い聞かせ、深く頷いた。
 迷いは無い。芳野と共に、宇美津で生きる道を選んだのだ。父は志士であったが故に、痴情の縺れによる殺人という不名誉な罪を着せられ、理不尽にも藩によって殺された。夜須藩は言わば仇ではあるが、喩えそうであっても、この藩で芳野の為に生きようと決めた。

(山藤殿も、この決断に賛成してくれた)

 父の志は父だけのものである。父が考え、悩み、辿り着いたものだ。その志は崇高であるが、それは俺の志ではない。それに生きる事こそ、父は願っているはずなのだ。
 慈恩密寺への石段を登っていると、前方から武士が降りて来ていた。
 背が低く、肩幅は狭い。地味だが上質な着物。塗笠で顔は見えないが、子どもか男装の女武士のように見える。

(墓参りだろうか)

 気にせず通り過ぎ去ろうとしていると、声を掛けられた。
 振り返り、その武士は塗笠の庇を摘まみ上げた。表情の薄い、色白の美少年。平山小弥太だった。

「もしや、滝沢殿」
「小弥太君か。どうして此処に」

 求馬は、些か驚いて訊いた。

「この寺院にお住いの、尚憲和尚にご用がありまして」
「何と? 君も先生とはお知り合いなのか?」
「私ではなく、父が」
「なるほど。清記殿と先生は見知った仲だったのだな」

 小弥太が頷いて応えた。

「和尚は、我が家に逗留された事があるのです」
「ほう。それは知らなかった」
「今日は父の遣いで訪ねたのですが、どうやらご不在のようでして」
「不在? 話には今日帰ってくる筈なのだが。まだ戻ってはおらぬのかな」
「ご住持によれば、今朝帰宅されましたが、すぐに出掛けられたとか」
「忙しいお人だ。私は私でご住持に挨拶をしておこう」
「判りました。では、私は」

 と、小弥太は深く一礼をして踵を返した。
 平山清記の息子だけに、礼儀正しく慎みがある。しかし、それは年頃の男子らしくないという事でもあり、快活さが無い。小弥太の薄く頼りない背中を眺めながら、これからの行く末に一抹の不安を覚えた。

(……俺らしくない事を)

 求馬は自笑し、慈恩密寺の山門を潜った。
 案の定、小弥太が話した通り留守だった。住持に話を聞いたが、尚憲は一度戻ってふらっと居なくなったらしい。時々そういう事があるとかで、住持は気に止める様子もなかった。きっと、同志の間を奔走しているのだろう。

「何か言伝てはありますかな?」

 住持が皺深い顔に笑みを浮かべて訪ねたが、求馬はそれを丁寧に固辞した。
 不用意な事は口に出来ない。いつそれが、自分の運命を左右するか判らないからだ。義挙と言えば聞こえが良いが、要するに叛乱であり、おおやけになれば重罪である。幾ら義士と称しても、世間的には叛徒に過ぎない。そう考えると、参加しないと決めて良かったと心底思った。

(俺には、その汚名を背負う覚悟がない)

 結局流されていたのだと、痛感する。

◆◇◆◇◆◇◆◇

 自宅に戻ると、平山親子が既に帰宅していた。小弥太は庭に出て木剣を振り、それを清記が見ている。

「ほう」

 その姿を見て、求馬は些か驚いた。思ったより、出来そうなのだ。素振りから、鋭さが伝わってくる。空気を切り裂く音も颯烈さつれつとしていて、まだ荒削りな所はあるが、確かな技倆を身に付けているのが見て取れた。

(陰間のような奴と思っていたが、中々どうして)

 求馬は、清記の横に並んだ。

「ご子息は、良い筋をしていますね」
「まだまだです」
「いや、同年代ならまず負けはありますまい」

 そう言うと、清記が横目で一瞥した。

「小弥太の剣は、臆病者の剣なのです。いざという時に決めきれないのですよ。畏れて」
「臆病さは、美徳でもあります。果敢さだけでは、自分より強い相手に必ず負けます。臆病さがあればこそ、万が一を考えられます」
「なるほど」

 臆病さを活かせれば、相手の太刀筋を見極め、寸前で躱す事が出来る。つまり、果敢なだけの子どもより、伸びしろが十二分にあるのだ。

「滝沢殿も、かなりの腕前と聞きました。確か管亥流だとか」

 管亥流は、北陸の戦国武将・高梨大膳太夫たかなし だいぜんたゆうを祖とする無亥流むがいりゅうに、管沼右京すがぬまうきょうが妙意を加えて生まれた流派である。

「ええ。剣は好きですね」
「一つ、稽古を付けて下さいませんか? 勿論、竹刀で」

 稽古を付ける。他流派同士に於いて、それは試合を意味する隠語でもある。

(まさかね)

 求馬は、内心で苦笑した。相手は子ども。しかも、仰ぎ見るような身分の客人である。迷っている求馬の心情を見透かしてか、清記は軽く微笑んだ。

「遠慮は無用です。愚息の修練ですので、手加減も結構」
「判りました。やりましょう」
「小弥太。滝沢殿が稽古を付けてくださるそうだ」

 清記がそう言うと、小弥太は手を止め深く一礼した。
 襷で袖口を絞り、竹刀を手に取った。

(これで負けたら、洒落にならんな)

 そう自嘲したが、負ける気はしなかった。先程の素振りで、小弥太の力量は掴んでいる。
 茜色の夕陽の中、求馬は小弥太と向かい合った。
 相正眼。二人の間には、三歩ほどの距離がある。
 向かい合うと、清記が臆病者の剣と称する理由が判った。剣先に、相手を捩じ伏せようとする覇気がないのだ。相手の出方を、怯えながらうかがっている。そのような印象を受ける。

(では……)

 求馬は、腹から氣を放ち圧力を掛けた。すると、小弥太はあからさまに動揺する気配を見せた。
 しきりに、気勢を挙げている。圧力を跳ね返そうとしているのだ。もう勝負は決したと言っても過言ではない。

(一つ、捻ってやろう)

 そう思い、求馬は一歩前に出た。
 すると、小弥太が一歩下がる。
 求馬は、更に一歩前に出た。
 小弥太が、更に一歩下がる。
 背後は、壁。もう逃げられない。
 視界に、縁側から息を飲んで見つめる芳野が入った。

(これは、手加減せねばならぬな)

 そう思考した不意を突いて、小弥太が踏み込んできた。
 裂帛の気勢。下から伸びてくる、変化を効かせた斬り上げだった。
 悪くない。筋はいい。だが、踏み込みが甘かった。
 求馬は斬撃を軽く受け流し、小手と首筋に当てた。軽く添えるようにである。

「それまで」

 清記が止めると、小弥太が跪いた。

「技倆はあるが、小手先で捏ね繰り返しただけだ。もっと剣を持つ者としての、心構えを大事にされよ」
「……はい」

 小弥太が下唇を噛んで俯いた。
 求馬は踵を返し縁側に上がると、芳野が声を掛けてきた。

「あなた」
「何も言うな」

 背後から、小弥太が頬を張り倒される音がした。

「武士ならば、仕方のない事なのだ」

 求馬は、芳野の肩に手を置いて奥に下がった。
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