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第三章 蒼い月

第五回 志という名の血肉

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 出迎えたのは、妻と思われる妙齢な女だった。挨拶は丁寧だったが、笑み一つ浮かべず、どこか暗い印象がある。
 御徒町にある、山藤邸の門前だった。

「どうぞ」

 と、山藤の妻に導かれ門を潜ると、すぐ脇に菜園があった。それは横に細長く、生垣に沿って裏庭まで続いている。
 植えているものは、大根や白菜など冬野菜だろう。こうした菜園は、藩が奨励している事で、薄給な藩士の生計を補う為のものである。求馬の自宅にも勿論あり、芳野と下男が手入れをしている。芳野は、大庄屋とは言え百姓の出。畑仕事には慣れていて、近所の武家女房に指南する事もある。
 客間に案内され、程なく山藤が現れた。
 中年の男だった。腹には重そうな肉を帯びている。船手方の藩士は赤黒く潮焼けし逞しいが、この男は内勤なのだろう。恵比須顔を見ても、武士と言うより商人のような趣きがある。

「よく来てくださった」

 求馬が挨拶をすると、山藤が笑顔を浮かべて言った。

「昨日は申し訳ござらぬ。折角訪ねて来てくれたというのに」
「いや、私こそ急に訪ねたのですから」

 頭を下げる山藤を、求馬は手で制した。
 思いの外、下手に出ている山藤に戸惑いを覚えた。歳はかなり違うし、家格に大きな隔たりがあるわけでもない。年少の、しかも罪人の子である自分に対し、一段と身を低く置くような話し方をしなくてもよいはずである。

(ともすれば、人柄だろうな)

 と、中年男の態度に納得しつつ、求馬は懐の手紙を早速取り出した。

「尚憲先生から、手紙を預かって参りました」
「ほう尚憲殿から」

 山藤は受け取った手紙を早速開くと、しげしげと読みだした。
 手紙の内容について、求馬は何も聞かされていない。しかし、ある程度の察しはついていた。何しろ、あの話を聞いた後である。この山藤も尚憲の同志で、この手紙は何かの連絡文書に違いない。

「なるほどですな」

 山藤が手紙を畳み、求馬に目をやった。

「求馬殿の話は、尚憲殿より聞き及んでおりました」
「私の?」
「ええ。『宇美津の麒麟児』と申しておりました」
「それは言い過ぎというものです」

 求馬は苦笑いを浮かべ、謙遜した。自分の能力について、多少の自信は持ってはいるが、流石に麒麟児ほどではない。むしろ際立って見えるのは、周りが無能だからだ。夜須本藩の然るべき部署へ行けば、そう呼ばれる事もないはずであろう。

「これも、お父上の薫陶がよろしかったのでしょうな」
「父をご存知で?」
「ええ。私は作衛門殿……、いやお父上とは江戸で一緒だったのですよ」
「山藤殿が?」

 山藤は首肯し、

「求馬殿も勤王の志を抱いているとか」

 と、訊いた。

「え、まぁ……」

 だが、その志を捨てようとしている。妻の為に。そこまでは言わなかった。

「すると、その志もお父上譲りという事になりますな」
「え?」

 求馬は、思わぬ言葉に驚きの声を挙げた。

「おや、ご存知ではないのですか?」

 頷く。父が何を考えて何をしていたのか殆ど知らない。聞かされた事もない。
 すると、山藤は含み笑いを見せて口を開いた。

「お父上も勤王の志を抱いていたのですよ。そして、私や尚憲殿もその同志でございました」
「なんと」

 鈍器で頭を殴られたような、激しい衝撃だった。父が、勤王? そんな事がありえるのか。

「戯言ではございませぬ」
「……」
「宿命めいたものを感じますな。これが父から子への、志の継承というものでしょう」

 言葉が出ない。だが、じわじわと血が滾るのを、求馬は確かに感じた。身体が熱を放っているのである。父に与えられた血肉、そして志。そう思うと、息が切れすら覚える。

「父が、勤王を」

 求馬は、自らの袴を強く握り締めた。嬉しさと、驚きが混在しているのだ。

江上弥刑部えがみ やぎょうぶは存じておりましょう?」
「はい」

 小さく頷いた。
 忘れるはずもない。江上弥刑部は、父が殺したとされる江戸家老だった男だ。
 江上家は、戦国の頃より栄生家に仕える名門であるが、痴情の縺れという理由が憚れるものだけに、この事件の影響で失脚している。そして今もなお、その一門は未だ表舞台に復帰していない。

「お父上が、江上様を殺害したとされるのも、その勤王が故の事なのです」
「勤王が故? それはどういう事でしょうか?」
「大声では言えませんが」

 山藤の声が、一段低く潜んだ。

「清水徳河家騒動はご存知ですかな?」
「ええ、まぁ」

 時の帝が、老中の阿部福右あべ よしすけと清水徳河家に対し、勤王の志厚い徳河重好とくがわ しげよしを将軍職に継がせるように綸旨を発した事件だ。それにより、幕府や諸藩が二つに割れて暗闘を繰り広げている。

「ならば、話は早い。そのお父上は騒動の渦中にあり、勤王派として戦いました」
「すると、父は清水徳河方に組みしたのですか?」
「如何にも。お父上は江上様の片腕として働き、私達はその下にいたのです。つまり、お父上と江上様は同志であった」
「待って下さい。江上弥刑部は父と女を取り合ったのでは?」

 そう言うと、初めて山藤の目が鋭くなった。

「求馬殿は、お父上が女を取り合って江上様を殺したと思っておられるのですかな?」
「いえ、全く」

 求馬は即答した。

「それなら良かった。ええ、思っている通り、真実は違います」

 求馬は、生唾を飲み込んだ。

「聞かせて下さい」

 暫しの間。見つめ合った。そして、山藤が目を伏せた。

「求馬殿は、知る権利がございますな。お父上は望まれね事でしょうが」

 山藤の明かした真実は、驚愕という言葉は数度重ねても余りあるほど、驚くものだった。
 それまで、父は痴情の縺れで江上を殺した、と聞かされていた。無論、そんな醜聞は嘘だと信じていたが、父は切腹し藩内では公然の事実として語られていた。それが違った。
 父は勤王派であり、江上の片腕として徳河重好擁立の為に奔走していた。だが、その動きを察知した本藩は、重好擁立に反対する佐幕的立場から、独走する江上を粛清した上で父を捕縛した。そして、江上殺害の罪を父に着せ、その理由を痴情の縺れにしたという。これにより、江上派は瓦解。夜須藩の重好擁立運動は頓挫した。

(そんな事があるのか)

 混乱していた。自分がそうであると、判るほど。父は冤罪だと信じていた。だが、こうした裏があるとは思いもしなかった。

(俺は裏切られたのか……)

 夜須藩に。聞かされた話が違うだけでなく、騙された事になる。父は藩によって殺されたのだ。その藩に今も仕えているのだから、どうもやるせない。
 ただ、どうしてか嬉しさもあった。父と同じ志を持つ。それは、今も父と繋がっているという気がするのだ。

「驚くのも無理はござらぬ」

 全てを語り終えた山藤は、冷めた茶に手を伸ばした。

「この事実を知る者は、一握り。今の殿様とて知りますまい。かつての同志ですら、お父上が女を取り合って殺したと信じているのですから」
「……」
「私はこの事実を皆に知らしめたかったが、明かせば……情けない話でございますが、私とて死ぬのが怖い」

 求馬は何と答えてよいか判らず、山藤が次の言葉を発するのを待った。

「だが、義挙が起こります。その事は既に知っておりますか?」
「はい」
「待ちに待った勤王の旌旗が翻る。私はそれに賭けようと思っております。尚憲殿も同じでお気持ちでございましょう。もう怖いだのとは言ってはおられません。今は朝廷の、帝の危機なのですから」

 真っ直ぐに向けられた視線が、強い光を放っている。山藤も燃えているのだろう。自分とて、燃えるものもある。

「そうだ。尚憲殿に返書を送りたいのだが、渡してくださいますかな? 私が行くと、色々と勘ぐられますからね。今はまだ目立ちたくありませぬ」

 かつての勤王派同士が通い合うのを、憚っての事だろう。

「監視されているので?」
「いや、それはないでしょうな。もう昔の事です。ただ用心に越したことはないと思いますので」
「判りました。ただ、今日明日というわけにはいきませぬが」
「構いませぬ。直接渡してさえ下されば」

 それから山藤が文机に向かい、暫く待たされた。
 その間、求馬は考えた。これからどうすべきか。考えたが、答えが出るはずもない。昨日、決起には参加しないと決めた。だが、その決意は大きく揺らいだ。その事実だけを、求馬は噛み締めた。
 山藤邸を辞去すると、辺りは夕闇に包まれていた。歩きながら、求馬は別れ際に発した山藤の言葉を思い出した。

「君はお父上とは違う。親の志を継いで、決起に参加する義務はない」

 繰り返し反芻し、咀嚼した。
 そうとは思う。

「君はお父上とは違う」

 呟いた。
 父と自分は違う。それに、父は「静かに生きろ」と言った。決起に参加する事は、父の願いに反する事だ。ただ、子は親から血肉を与えられた存在である。命を与えられたとも言っていい。親の無念を晴らすのが、子の務めではないのか? そして、このままでは武士の一分も立たない。
 これは、迷う。芳野がいる。芳野と添い遂げたい。決起に参加すれば、離縁したとしても、多大な迷惑をかけてしまう。

(山藤に会わなければよかった)

 さすれば、志を捨てる事が出来たというのに。
 悶々としながら帰宅すると、芳野が待っていた。
 笑顔だった。それが、胸に痛かった。
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