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第一章 峠雨

最終回 狼の貌

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 焦れたのか。隙を見つけたのか。先に動いたのは、清記だった。
 裂帛の気勢を挙げ、渾身の斬撃が繰り出された。
 それは、空を斬った。芳雲が、余裕を持ってて躱したのである。それだけではない。体勢を整えながらも首筋を狙う逆撃の一刀を放った。
 甲高い金属音が鳴り響いた。清記が、刀身を合わせて払ったようだ。

「甘いぞ、清記」

 そう声が聞こえた。
 そして、芳雲が続けざまに突きを繰り出した。清記は防戦していた。躱し、防ぐ事で手一杯のようだ。

(これでは平山様は)

 そう思った瞬間、清記が刀を横に薙いだ。
 芳雲はそれを受け止めると、鍔迫り合いになった。
 押し合う。どちらが優勢なのか? 膂力も技倆も、素人目には判らない。
 清記が、足蹴を芳雲の胸板に叩き込んだ。芳雲の身体が下がる。その隙。清記が下段から斬り上げた。

(斬った)

 伊之助には、そう見えた。清記の白刃が、芳雲の身体を捉えたのだ。
 が、芳雲は立っていた。

「むぅう」

 唸り声が響いた。
 人間の声とは思えない。手負いの獣が発するようなものに聞こえる。芳雲の左肘から先が無かった。腕一本を引き換えにして、致命傷を避けたのだ。
 横目で小弥太を一瞥した。拳を固く握り、息を呑む表情で魅入っている。
 芳雲は、片手で正眼を取った。清記は下段。
 再び、膠着になった。

(こりゃ……)

 伊之助は、全身が震えている事に気付いた。それは、自分でも止めようがないほどで、まるでおこりのようだ。
 小弥太が、袖を掴んできた。

「下がって」
「え」

 凄い力で、路傍ろぼうにへ押しやられた。
 その時、清記と芳雲が併走し坂を駆け下りてきた。
 二人が、伊之助の目の前で止まった。
 清記が手前、奥が芳雲。この位置からは、芳雲の顔だけしか見えない。
 芳雲は、鬼の形相だった。血を失い青白くなっているが、それでも気迫は十分にある。
 一方、清記は肩で大きく息をしていた。
 ひひゅう。
 息が漏れていた。どちらの息かは判らない。
 下段と片手正眼のまま不動。潮合を読んでいるのか。

(息苦しい)

 伊之助はそう思った。
 すると、

「陣内、もうこの辺りでよかろう」

 清記が言った。

「もう十分楽しんだ」

 芳雲の形相が、穏やかなものになった。

「ああ。思い残す事はないな」

 寂とした時が訪れた。風の音だけが聞こえる。他には何もない。時が静止した。そんな錯覚すら覚える。
 二人がほぼ同時に動いた。
 二つの、白い閃光。二人がどう動いたまで、伊之助には見えなかった。
 骨を断つ嫌な音と共に、芳雲の首が落ちた。
 そこには、静寂だけが残った。

◆◇◆◇◆◇◆◇

「小弥太」

 清記が、背を向けたまま叫んだ。
 伊之助は驚いた。木々の間から、武士がすっと現れたのだ。
 五人。芳雲の同志という連中だろうか。既に、抜いていた。

「斬れ。全員斬れ。一人も生きて残すな」
「はい」
「ただの、一人もだ」

 小弥太が、絶叫にも似た返事をして駆け出した。
 駆けながら、抜く。
 跳躍。着地と同時に、一人が倒れた。起き上がりざまに、また一人。斬り上げる。血柱が立つ。それが、小弥太に降り注いだ。
 咆哮が聞こえた。小弥太の声だ。獲物にありつけた狼の遠吠え。そう思えるものだった。
 自分は何をすべきか?
 血風の中で躍動する小弥太を眺めながら、伊之助は瞬時に思考を巡らせた。
 が、何も思い付かない。逃げる。隠れる。その選択肢すら選べない。恐怖で、足が動かないのだ。
 距離を取っていた残りの三人が、一斉に斬り込んできた。

「あっ」

 思わず声を挙げていた。だが、その全てを小弥太は躱していた。まるで風に乗る羽毛。すっと、刃を避けている。
 小弥太が、こちらに向いた。
 そのかおわらっていた。口元に冷笑を浮かべている。
 獣だ。この子どもは。いや、親子で獣なのだ。
 二日前、雨の夜に現れた親子。客として迎えた。それが、とんだ人斬りだった。
 気付くと、五人が倒れていた。ほんの僅かの間に全員を殺してのけたのだ。
 こんなはずではなかった。いや、興味本意で親子の因果に関わった事が間違いだった。
 小弥太が、こっちに向かって来た。既に、能面のような無表情に戻っている。

「斬れ。全員斬れ。一人も生きて残すな」

 清記の言葉が、脳裏で聞こえた。
 耳元で言われたように、生々しい。
 一人も、生きて残すな。
 一人も、だと。
 伊之助の目の前で、小弥太は止まった。柔白い顔に、返り血を浴びている。
 切れ長の、暗い双眸。その視線に、射抜かれた。

(何と美しいのだ)

 かつて抱いた少年達よりもずっと。
 恐怖が、興奮を加速させていた。


<第一章 了>
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