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第一章 峠雨
第二回 悪癖
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翌日も雨だった。
伊之助は払暁間もなく目を覚ますと、一階の食堂に降りて戸を開けた。
深呼吸を一回。頭が些か重い。昨夜の寝酒が過ぎたのかもしれない。
それにしても、この雨だ。空は鈍色で、今日一日は止みそうにない。客足も鈍いだろう。
ただ、長雨にはならない。空を見ていると、それが何となく判るのだ。言葉では説明できないが、こんな空で、長雨にはなった試しはない。
釜戸に火を点け、湯を沸かした。お紺はまだ寝ているが、伊之助の一日はここから始まる。
それから、朝餉の準備に取り掛かった。献立は、もう決めている。料理に関しては、自分の裁量で何もかも決めていた。もとより自分の店なのだから、お紺に了承を得る必要はない。ただ、それ以外の事は任せていた。
お紺が起きた後、あの親子が二階から降りてきた。
「おはようございます」
少年が、慇懃に頭を下げる。名は、平山小弥太だったか。
躾が行き届いている。そう感じたが、武士に頭を下げられる事は滅多にないので、伊之助は、愛想笑いで返した。
そして小弥太は、朝餉を待つかのように席に座った。その姿勢は良すぎるぐらいに正しい。
(不気味だ)
若者が持つ、軽々しさや溌剌さが無い。
「雨は上がるだろうか?」
清記が、板場に顔を出した。
「どうですかねぇ。今日は無理でしょうけど、明日には止むかと思いますよ」
伊之助は、箸を置いて答えた。
「ほう。長年の経験ですかな。そうした天気も判るのは」
清記が、自分の言葉を疑わない事に、些か驚いた。
普通は、
「どうしてそれが判る?」
と、聞いてくるものだ。
「言葉じゃ上手く説明出来ませんがね、空で判るのです。雲の形とか、それが峰にどう掛かっているかとか」
「なるほど」
清記が頷く。
「旅の中で、そうした話をよく耳にする。在所の者だからこそ判るもの。明日はきっと晴れろう」
そう言って、清記は小弥太の待つ席に向かった。
息子の小弥太は不気味だが、清記は清い男だと感じた。そして、嫌な客ではない。今まで、武士の客は扱いにくいのが多かった。
朝餉を拵えながら、伊之助はこの二人がどうして旅をしているのか、気になってきた。
これは、癖だ。旅の理由や、身の上話を聞きたがる。
その癖を、お紺は悪癖と言い、自分でもその自覚はある。しかし、峠の旅籠に居ては、このぐらいしか楽しみがないのだ。
ただ、無理には聞かないようには注意している。一人一人抱えているものがあり、話したくない事もある。
(しかし、この二人の話は聞きたいものだ)
伊之助は、強い好奇心を自覚した。きっとのっぴきならない事情を背負っているのだろう。小弥太という少年の双眸を見れば判る。並みの育て方では、こうはならない。
(仇討ちかもねぇ)
そうした話は、伊之助の好物だった。
もう一人の客が降りてきた。
坊主だ。顔だけ見れば、四十後半。ただ、僧体なので歳は測れない。本当はもっと若いかもしれない。
名は、芳雲。江戸まで旅をしているらしい。芳雲は、伊之助と平山親子に挨拶をして席に座った。
朝餉は、麦粥。香の物。山菜のおひたし。味噌汁。それを、お紺が運ぶ。
相変わらず、無言だった。芳雲も多弁ではない。聞こえるのは屋根を叩く雨音と、麦粥をすする音だけだ。
重苦しい。お紺に目をやると、呆れたように苦笑いを浮かべていた。
伊之助は払暁間もなく目を覚ますと、一階の食堂に降りて戸を開けた。
深呼吸を一回。頭が些か重い。昨夜の寝酒が過ぎたのかもしれない。
それにしても、この雨だ。空は鈍色で、今日一日は止みそうにない。客足も鈍いだろう。
ただ、長雨にはならない。空を見ていると、それが何となく判るのだ。言葉では説明できないが、こんな空で、長雨にはなった試しはない。
釜戸に火を点け、湯を沸かした。お紺はまだ寝ているが、伊之助の一日はここから始まる。
それから、朝餉の準備に取り掛かった。献立は、もう決めている。料理に関しては、自分の裁量で何もかも決めていた。もとより自分の店なのだから、お紺に了承を得る必要はない。ただ、それ以外の事は任せていた。
お紺が起きた後、あの親子が二階から降りてきた。
「おはようございます」
少年が、慇懃に頭を下げる。名は、平山小弥太だったか。
躾が行き届いている。そう感じたが、武士に頭を下げられる事は滅多にないので、伊之助は、愛想笑いで返した。
そして小弥太は、朝餉を待つかのように席に座った。その姿勢は良すぎるぐらいに正しい。
(不気味だ)
若者が持つ、軽々しさや溌剌さが無い。
「雨は上がるだろうか?」
清記が、板場に顔を出した。
「どうですかねぇ。今日は無理でしょうけど、明日には止むかと思いますよ」
伊之助は、箸を置いて答えた。
「ほう。長年の経験ですかな。そうした天気も判るのは」
清記が、自分の言葉を疑わない事に、些か驚いた。
普通は、
「どうしてそれが判る?」
と、聞いてくるものだ。
「言葉じゃ上手く説明出来ませんがね、空で判るのです。雲の形とか、それが峰にどう掛かっているかとか」
「なるほど」
清記が頷く。
「旅の中で、そうした話をよく耳にする。在所の者だからこそ判るもの。明日はきっと晴れろう」
そう言って、清記は小弥太の待つ席に向かった。
息子の小弥太は不気味だが、清記は清い男だと感じた。そして、嫌な客ではない。今まで、武士の客は扱いにくいのが多かった。
朝餉を拵えながら、伊之助はこの二人がどうして旅をしているのか、気になってきた。
これは、癖だ。旅の理由や、身の上話を聞きたがる。
その癖を、お紺は悪癖と言い、自分でもその自覚はある。しかし、峠の旅籠に居ては、このぐらいしか楽しみがないのだ。
ただ、無理には聞かないようには注意している。一人一人抱えているものがあり、話したくない事もある。
(しかし、この二人の話は聞きたいものだ)
伊之助は、強い好奇心を自覚した。きっとのっぴきならない事情を背負っているのだろう。小弥太という少年の双眸を見れば判る。並みの育て方では、こうはならない。
(仇討ちかもねぇ)
そうした話は、伊之助の好物だった。
もう一人の客が降りてきた。
坊主だ。顔だけ見れば、四十後半。ただ、僧体なので歳は測れない。本当はもっと若いかもしれない。
名は、芳雲。江戸まで旅をしているらしい。芳雲は、伊之助と平山親子に挨拶をして席に座った。
朝餉は、麦粥。香の物。山菜のおひたし。味噌汁。それを、お紺が運ぶ。
相変わらず、無言だった。芳雲も多弁ではない。聞こえるのは屋根を叩く雨音と、麦粥をすする音だけだ。
重苦しい。お紺に目をやると、呆れたように苦笑いを浮かべていた。
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