走狗(いぬ)の名は

筑前助広

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第十一回 涅槃

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 目が覚めると、首が視界に飛び込んできた。
 わざとそうなるように仕向けられていたのだろう、目の前に置かれていたのだ。
 首は、為松のものだ。激しい拷問の痕跡があった。右眼は潰され、左眼は抉られて洞穴のように空洞なっている。耳も鼻も削がれ、半開きの口には歯も舌も無い。
 無言の警告のつもりなのだろう。追うな。関わるな。さもなくば、お前もこうなる。
 そんな事をしてしまうほど、俺が怖いのか。情けない。情けないのは、この俺か。激しい憤怒に駆られても、飛び起きて後を追う気力が湧かない。
 薬の影響だろう。頭は緩慢としていて、とりとめのない事ばかりが、頭の中で浮かんでは消えた。奴らが俺を恐れる事はないはず。俺は負け犬だ。大事なものを、一度に全て奪われてしまった。

「すまねぇ」

 敷かれた畳に転がりながら、次郎八は口に出していた。
 布団に包まっても、為松の笑顔が瞼に浮かぶ。抜け忍として追われていた所に出くわし、助けてやった。嘉穂屋に話をまとめてもらい、抱えた借金の為に相棒にした。多くの仕事ヤマを一緒に踏み、苦楽を共にした。酒も一緒に飲んだが、阿芙蓉だけは口煩く止めるように言われた。
 思えば、唯一の親友だった。弟分であり、親友だった。この世で、最も俺を案じてくれていた。その男を、持ち込んだ厄介事に巻き込み死なせてしまった。

「兄貴。どうして、あの姫様を助けようと思ったんで?」

 二人になった時、為松に訊かれた事だった。

「わからん。わからんが、助けたい」

 そう答えると、

「兄貴も人の心が残ってたんですねぇ」

 などと嘯き、嬉しそうに笑っていた。
 涙も出なかった。その資格もなかった。多くの人間に、同じ想いをさせてきたのだ。人間である事を禁じ、走狗いぬである事に徹していると言ってもいい。
 目が覚めて、どれだけ経っただろうか。重い頭を抱えて起き上がった時、外は夕暮れに染まっていた。
 寺の中を見て回ると、庫裏に似正と小坊主の骸があった。二人とも裸で、一枚の布団の上で横たわっている。死後に知りたくもない秘密を晒される皮肉は、笑いたくても笑えもしなかった。
 次郎八の視界に、徳利が目に入った。似正が、般若湯と称して飲んでいたものだ。

「生臭坊主め」

 徳利を手に取ると、中身は並々と入っていた。
 それを幸運だと思ってしまった自分が情けないが、その徳利を手放す事は出来なかった。
 持ったまま、中庭に出た。適当に薪を組み、火を起こした。腹は減ったが、食い物を探す気にはなれなかった。酒だけがあれば、それでいい。
 徳利の酒を、胃に流し込んだ。薬の影響からか、酔いが強烈に回ってくる。
 俺は何をしているのだ? という気になる。情けなくて、涙が零れる。それでも、酒を飲む事は止められなかった。

「どうして、俺は生きているんだ」

 声を漏らした。死なないから生きている。それは確かだ。多くの人間を死なせてきた。今更、死は怖くない。生きる方が辛い。特に、親友を喪った今は。
 無限の闇の中に、焚火の炎がゆらゆらと揺れていた。この中に顔を入れれば、俺は死ねるかもしれない。そんな事を考えて顔を近づけたが、熱くてすぐに身を逸らしてしまった。
 今度は着流しを帯をすっと解き、首に巻き付けた。力を込めて、左右に引っ張る。息が苦しくなり、視界が暗くなる。これを越えれば、死が待っている。しかし、気付けば手を放していて、酒をまた流し込んだ。
 死のうと思えば、簡単に死ねる。匕首ドスを首に突き刺せばいい。そして、その匕首ドスはすぐそばにある。
 手を伸ばそうとしたが、その手は徳利を握った。

「死ぬ事も出来ない負け犬か」

 また酒を呷った。酒を飲み干すと、徳利を投げ捨てた。
 まだ飲み足りなかった。あの似正の事だ。何処かに酒を隠しているに違いない。
 立ち上がろうとした時、首にぶら下げていたお守り袋が視界に入った。
 中身は、僅かな阿芙蓉だ。それも粗悪なものではない。混じり気がない、上物である。何度吸おうと思った事か。しかし、その度に次郎八は耐えた。この阿芙蓉は、死ぬ前に吸うものと決めていたのだ。
 どれほど前だったか。嘉穂屋からの依頼で、江戸で阿芙蓉を流していた男を斬った時に手に入れたものだ。
 男は公儀直参の旗本で、所領に阿芙蓉を製造する〔隠れ村〕を一つ抱えていた。密貿易で手に入れる粗悪な阿芙蓉と違い、男が作る阿芙蓉は少量ながら上質だと評判で、嘉穂屋の商売を圧迫していた。
 言わば商売敵。次郎八は男の屋敷に忍び込んで暗殺し、嘉穂屋が隠れ村を接収した。その時に、報酬と一緒に嘉穂屋に貰ったものなのだ。

「吸えば極楽。売っても極楽……」

 次郎八は、渡す際に言った嘉穂屋の言葉を口にした。

「なら、俺を今すぐ極楽に連れて行ってくれ」

 お守り袋を引きちぎり、火の中に投じた。
 死ぬ前に吸うと決めた阿芙蓉だった。どうしてそんな事をしたのか、自分でもわからない。今が死ぬ時だと思ったのか。或いは、単に酔いのせいなのか。そんな事はどうでもいいと思ったのは、阿芙蓉の微かに甘い匂いを嗅いでからだ。
 白い煙が立ち込める。大きく息を吸った。自分の両眼がゆっくりと反転していくのが、何となくわかる。
 身を横たえる。このまま落ちていくのか。極楽だと思う暇も無いな、と思った瞬間だった。白い光の中で、才之助の悲しむ顔が見えた。独りで立ち尽くし、頬を濡らして泣いている。
 俺は生かされた。その事に、猛烈な羞恥と後悔の激情に襲われた。
 人殺しに過ぎない、走狗いぬである俺を生かす為に、才之助が、いや理子が自らをにえに捧げたのだ。
 生かされた命だ。こんな糞のような命でも、まだ使いどころはある。ならば、やる事は一つではないか。
 次郎八は、まとわりつく阿芙蓉の煙を振り払おうと、腹の底から叫んでいた。
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