11 / 14
第十一回 涅槃
しおりを挟む
目が覚めると、首が視界に飛び込んできた。
わざとそうなるように仕向けられていたのだろう、目の前に置かれていたのだ。
首は、為松のものだ。激しい拷問の痕跡があった。右眼は潰され、左眼は抉られて洞穴のように空洞なっている。耳も鼻も削がれ、半開きの口には歯も舌も無い。
無言の警告のつもりなのだろう。追うな。関わるな。さもなくば、お前もこうなる。
そんな事をしてしまうほど、俺が怖いのか。情けない。情けないのは、この俺か。激しい憤怒に駆られても、飛び起きて後を追う気力が湧かない。
薬の影響だろう。頭は緩慢としていて、とりとめのない事ばかりが、頭の中で浮かんでは消えた。奴らが俺を恐れる事はないはず。俺は負け犬だ。大事なものを、一度に全て奪われてしまった。
「すまねぇ」
敷かれた畳に転がりながら、次郎八は口に出していた。
布団に包まっても、為松の笑顔が瞼に浮かぶ。抜け忍として追われていた所に出くわし、助けてやった。嘉穂屋に話をまとめてもらい、抱えた借金の為に相棒にした。多くの仕事を一緒に踏み、苦楽を共にした。酒も一緒に飲んだが、阿芙蓉だけは口煩く止めるように言われた。
思えば、唯一の親友だった。弟分であり、親友だった。この世で、最も俺を案じてくれていた。その男を、持ち込んだ厄介事に巻き込み死なせてしまった。
「兄貴。どうして、あの姫様を助けようと思ったんで?」
二人になった時、為松に訊かれた事だった。
「わからん。わからんが、助けたい」
そう答えると、
「兄貴も人の心が残ってたんですねぇ」
などと嘯き、嬉しそうに笑っていた。
涙も出なかった。その資格もなかった。多くの人間に、同じ想いをさせてきたのだ。人間である事を禁じ、走狗である事に徹していると言ってもいい。
目が覚めて、どれだけ経っただろうか。重い頭を抱えて起き上がった時、外は夕暮れに染まっていた。
寺の中を見て回ると、庫裏に似正と小坊主の骸があった。二人とも裸で、一枚の布団の上で横たわっている。死後に知りたくもない秘密を晒される皮肉は、笑いたくても笑えもしなかった。
次郎八の視界に、徳利が目に入った。似正が、般若湯と称して飲んでいたものだ。
「生臭坊主め」
徳利を手に取ると、中身は並々と入っていた。
それを幸運だと思ってしまった自分が情けないが、その徳利を手放す事は出来なかった。
持ったまま、中庭に出た。適当に薪を組み、火を起こした。腹は減ったが、食い物を探す気にはなれなかった。酒だけがあれば、それでいい。
徳利の酒を、胃に流し込んだ。薬の影響からか、酔いが強烈に回ってくる。
俺は何をしているのだ? という気になる。情けなくて、涙が零れる。それでも、酒を飲む事は止められなかった。
「どうして、俺は生きているんだ」
声を漏らした。死なないから生きている。それは確かだ。多くの人間を死なせてきた。今更、死は怖くない。生きる方が辛い。特に、親友を喪った今は。
無限の闇の中に、焚火の炎がゆらゆらと揺れていた。この中に顔を入れれば、俺は死ねるかもしれない。そんな事を考えて顔を近づけたが、熱くてすぐに身を逸らしてしまった。
今度は着流しを帯をすっと解き、首に巻き付けた。力を込めて、左右に引っ張る。息が苦しくなり、視界が暗くなる。これを越えれば、死が待っている。しかし、気付けば手を放していて、酒をまた流し込んだ。
死のうと思えば、簡単に死ねる。匕首を首に突き刺せばいい。そして、その匕首はすぐそばにある。
手を伸ばそうとしたが、その手は徳利を握った。
「死ぬ事も出来ない負け犬か」
また酒を呷った。酒を飲み干すと、徳利を投げ捨てた。
まだ飲み足りなかった。あの似正の事だ。何処かに酒を隠しているに違いない。
立ち上がろうとした時、首にぶら下げていたお守り袋が視界に入った。
中身は、僅かな阿芙蓉だ。それも粗悪なものではない。混じり気がない、上物である。何度吸おうと思った事か。しかし、その度に次郎八は耐えた。この阿芙蓉は、死ぬ前に吸うものと決めていたのだ。
どれほど前だったか。嘉穂屋からの依頼で、江戸で阿芙蓉を流していた男を斬った時に手に入れたものだ。
男は公儀直参の旗本で、所領に阿芙蓉を製造する〔隠れ村〕を一つ抱えていた。密貿易で手に入れる粗悪な阿芙蓉と違い、男が作る阿芙蓉は少量ながら上質だと評判で、嘉穂屋の商売を圧迫していた。
言わば商売敵。次郎八は男の屋敷に忍び込んで暗殺し、嘉穂屋が隠れ村を接収した。その時に、報酬と一緒に嘉穂屋に貰ったものなのだ。
「吸えば極楽。売っても極楽……」
次郎八は、渡す際に言った嘉穂屋の言葉を口にした。
「なら、俺を今すぐ極楽に連れて行ってくれ」
お守り袋を引きちぎり、火の中に投じた。
死ぬ前に吸うと決めた阿芙蓉だった。どうしてそんな事をしたのか、自分でもわからない。今が死ぬ時だと思ったのか。或いは、単に酔いのせいなのか。そんな事はどうでもいいと思ったのは、阿芙蓉の微かに甘い匂いを嗅いでからだ。
白い煙が立ち込める。大きく息を吸った。自分の両眼がゆっくりと反転していくのが、何となくわかる。
身を横たえる。このまま落ちていくのか。極楽だと思う暇も無いな、と思った瞬間だった。白い光の中で、才之助の悲しむ顔が見えた。独りで立ち尽くし、頬を濡らして泣いている。
俺は生かされた。その事に、猛烈な羞恥と後悔の激情に襲われた。
人殺しに過ぎない、走狗である俺を生かす為に、才之助が、いや理子が自らを贄に捧げたのだ。
生かされた命だ。こんな糞のような命でも、まだ使いどころはある。ならば、やる事は一つではないか。
次郎八は、まとわりつく阿芙蓉の煙を振り払おうと、腹の底から叫んでいた。
わざとそうなるように仕向けられていたのだろう、目の前に置かれていたのだ。
首は、為松のものだ。激しい拷問の痕跡があった。右眼は潰され、左眼は抉られて洞穴のように空洞なっている。耳も鼻も削がれ、半開きの口には歯も舌も無い。
無言の警告のつもりなのだろう。追うな。関わるな。さもなくば、お前もこうなる。
そんな事をしてしまうほど、俺が怖いのか。情けない。情けないのは、この俺か。激しい憤怒に駆られても、飛び起きて後を追う気力が湧かない。
薬の影響だろう。頭は緩慢としていて、とりとめのない事ばかりが、頭の中で浮かんでは消えた。奴らが俺を恐れる事はないはず。俺は負け犬だ。大事なものを、一度に全て奪われてしまった。
「すまねぇ」
敷かれた畳に転がりながら、次郎八は口に出していた。
布団に包まっても、為松の笑顔が瞼に浮かぶ。抜け忍として追われていた所に出くわし、助けてやった。嘉穂屋に話をまとめてもらい、抱えた借金の為に相棒にした。多くの仕事を一緒に踏み、苦楽を共にした。酒も一緒に飲んだが、阿芙蓉だけは口煩く止めるように言われた。
思えば、唯一の親友だった。弟分であり、親友だった。この世で、最も俺を案じてくれていた。その男を、持ち込んだ厄介事に巻き込み死なせてしまった。
「兄貴。どうして、あの姫様を助けようと思ったんで?」
二人になった時、為松に訊かれた事だった。
「わからん。わからんが、助けたい」
そう答えると、
「兄貴も人の心が残ってたんですねぇ」
などと嘯き、嬉しそうに笑っていた。
涙も出なかった。その資格もなかった。多くの人間に、同じ想いをさせてきたのだ。人間である事を禁じ、走狗である事に徹していると言ってもいい。
目が覚めて、どれだけ経っただろうか。重い頭を抱えて起き上がった時、外は夕暮れに染まっていた。
寺の中を見て回ると、庫裏に似正と小坊主の骸があった。二人とも裸で、一枚の布団の上で横たわっている。死後に知りたくもない秘密を晒される皮肉は、笑いたくても笑えもしなかった。
次郎八の視界に、徳利が目に入った。似正が、般若湯と称して飲んでいたものだ。
「生臭坊主め」
徳利を手に取ると、中身は並々と入っていた。
それを幸運だと思ってしまった自分が情けないが、その徳利を手放す事は出来なかった。
持ったまま、中庭に出た。適当に薪を組み、火を起こした。腹は減ったが、食い物を探す気にはなれなかった。酒だけがあれば、それでいい。
徳利の酒を、胃に流し込んだ。薬の影響からか、酔いが強烈に回ってくる。
俺は何をしているのだ? という気になる。情けなくて、涙が零れる。それでも、酒を飲む事は止められなかった。
「どうして、俺は生きているんだ」
声を漏らした。死なないから生きている。それは確かだ。多くの人間を死なせてきた。今更、死は怖くない。生きる方が辛い。特に、親友を喪った今は。
無限の闇の中に、焚火の炎がゆらゆらと揺れていた。この中に顔を入れれば、俺は死ねるかもしれない。そんな事を考えて顔を近づけたが、熱くてすぐに身を逸らしてしまった。
今度は着流しを帯をすっと解き、首に巻き付けた。力を込めて、左右に引っ張る。息が苦しくなり、視界が暗くなる。これを越えれば、死が待っている。しかし、気付けば手を放していて、酒をまた流し込んだ。
死のうと思えば、簡単に死ねる。匕首を首に突き刺せばいい。そして、その匕首はすぐそばにある。
手を伸ばそうとしたが、その手は徳利を握った。
「死ぬ事も出来ない負け犬か」
また酒を呷った。酒を飲み干すと、徳利を投げ捨てた。
まだ飲み足りなかった。あの似正の事だ。何処かに酒を隠しているに違いない。
立ち上がろうとした時、首にぶら下げていたお守り袋が視界に入った。
中身は、僅かな阿芙蓉だ。それも粗悪なものではない。混じり気がない、上物である。何度吸おうと思った事か。しかし、その度に次郎八は耐えた。この阿芙蓉は、死ぬ前に吸うものと決めていたのだ。
どれほど前だったか。嘉穂屋からの依頼で、江戸で阿芙蓉を流していた男を斬った時に手に入れたものだ。
男は公儀直参の旗本で、所領に阿芙蓉を製造する〔隠れ村〕を一つ抱えていた。密貿易で手に入れる粗悪な阿芙蓉と違い、男が作る阿芙蓉は少量ながら上質だと評判で、嘉穂屋の商売を圧迫していた。
言わば商売敵。次郎八は男の屋敷に忍び込んで暗殺し、嘉穂屋が隠れ村を接収した。その時に、報酬と一緒に嘉穂屋に貰ったものなのだ。
「吸えば極楽。売っても極楽……」
次郎八は、渡す際に言った嘉穂屋の言葉を口にした。
「なら、俺を今すぐ極楽に連れて行ってくれ」
お守り袋を引きちぎり、火の中に投じた。
死ぬ前に吸うと決めた阿芙蓉だった。どうしてそんな事をしたのか、自分でもわからない。今が死ぬ時だと思ったのか。或いは、単に酔いのせいなのか。そんな事はどうでもいいと思ったのは、阿芙蓉の微かに甘い匂いを嗅いでからだ。
白い煙が立ち込める。大きく息を吸った。自分の両眼がゆっくりと反転していくのが、何となくわかる。
身を横たえる。このまま落ちていくのか。極楽だと思う暇も無いな、と思った瞬間だった。白い光の中で、才之助の悲しむ顔が見えた。独りで立ち尽くし、頬を濡らして泣いている。
俺は生かされた。その事に、猛烈な羞恥と後悔の激情に襲われた。
人殺しに過ぎない、走狗である俺を生かす為に、才之助が、いや理子が自らを贄に捧げたのだ。
生かされた命だ。こんな糞のような命でも、まだ使いどころはある。ならば、やる事は一つではないか。
次郎八は、まとわりつく阿芙蓉の煙を振り払おうと、腹の底から叫んでいた。
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
異・雨月
筑前助広
歴史・時代
幕末。泰平の世を築いた江戸幕府の屋台骨が揺らぎだした頃、怡土藩中老の三男として生まれた谷原睦之介は、誰にも言えぬ恋に身を焦がしながら鬱屈した日々を過ごしていた。未来のない恋。先の見えた将来。何も変わらず、このまま世の中は当たり前のように続くと思っていたのだが――。
<本作は、小説家になろう・カクヨムに連載したものを、加筆修正し掲載しています>
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・地名とは一切関係ありません。
※この物語は、「巷説江戸演義」と題した筑前筑後オリジナル作品企画の作品群です。舞台は江戸時代ですが、オリジナル解釈の江戸時代ですので、史実とは違う部分も多数ございますので、どうぞご注意ください。また、作中には実際の地名が登場しますが、実在のものとは違いますので、併せてご注意ください。
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
土方歳三ら、西南戦争に参戦す
山家
歴史・時代
榎本艦隊北上せず。
それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。
生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。
また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。
そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。
土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。
そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。
(「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です)
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
北武の寅 <幕末さいたま志士伝>
海野 次朗
歴史・時代
タイトルは『北武の寅』(ほくぶのとら)と読みます。
幕末の埼玉人にスポットをあてた作品です。主人公は熊谷北郊出身の吉田寅之助という青年です。他に渋沢栄一(尾高兄弟含む)、根岸友山、清水卯三郎、斎藤健次郎などが登場します。さらにベルギー系フランス人のモンブランやフランスお政、五代才助(友厚)、松木弘安(寺島宗則)、伊藤俊輔(博文)なども登場します。
根岸友山が出る関係から新選組や清河八郎の話もあります。また、渋沢栄一やモンブランが出る関係からパリ万博などパリを舞台とした場面が何回かあります。
前作の『伊藤とサトウ』と違って今作は史実重視というよりも、より「小説」に近い形になっているはずです。ただしキャラクターや時代背景はかなり重複しております。『伊藤とサトウ』でやれなかった事件を深掘りしているつもりですので、その点はご了承ください。
(※この作品は「NOVEL DAYS」「小説家になろう」「カクヨム」にも転載してます)
時代小説の愉しみ
相良武有
歴史・時代
女渡世人、やさぐれ同心、錺簪師、お庭番に酌女・・・
武士も町人も、不器用にしか生きられない男と女。男が呻吟し女が慟哭する・・・
剣が舞い落花が散り・・・時代小説の愉しみ
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる