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本編

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 瀧川藤兵衛たきがわ とうべえがその男を見たのは、神田駿河町かんだするがちょうから日本橋を渡り、呉服町へ到ろうとした時だった。

西春与一郎にしはる よいちろう……)

 顔は薄汚れ、月代は伸びに伸びているが、険のある目つきと前突した下顎は、まさしく与一郎であった。
 藤兵衛は、肺腑を突かれたような衝撃を覚えたが、さも自然な動きを装って、表店おもてだなの陰へと逸れた。

(とうとう来てしまったか)

 何故? という疑問は湧かなかった。いつかは出会う事になるだろうと思っていたのだ。当然、その時が来る事の覚悟はしていたが、やはりそれでも衝撃だった。
 五年前。藤兵衛は故郷の夜須藩やすはんを、与一郎の妻だった糸と共に出奔していたのだ。藤兵衛が二十五、糸は二十一の時だった。
 有り体に言えば駆け落ちであり、脱藩。しかも、他人の嫁した女である。人倫にもとる非道。そして藩法に触れる重罪ではあるが、藩からの討っ手は少ないと、藤兵衛は踏んでいた。
 それは藤兵衛も糸も、そして与一郎も、武士ではない〔伊川郷士いがわごうし〕と呼ばれる苗字帯刀を許されながらも謂れなき差別を受ける身分であり、しかも今の藩内は、藩政改革推し進める一派とそれに反対する一派の対立で忙しく、〔犬侍〕と侮蔑される伊川郷士に割く人員は無いからだった。もし討っ手があるとすれば、与一郎と西春家のみであろうと考えていた。そして今の所は、その通りになっている
 出奔して一年半ほど関八州を流浪した後に、藤兵衛と糸は江戸に辿り着いた。今は、藤兵衛の光当流こうとうりゅうの腕前を活かした用心棒稼業と、小間物屋の加賀屋かがやに糸が女中奉公へ行き、何とか糊口を凌いでいる。
 江戸での暮しは、けっして豊かとは呼べるものではないが、早くに両親を亡くし長く独り身だった藤兵衛にとって、糸と二人で過ごす生活は幸せと呼ぶべき時間だった。
 しかし、与一郎が現れてしまった。いよいよ、この日が来てしまったのだ。

(長い旅をしたのだろうな)

 打裂羽織ぶっさきばおりと野袴はおろか、脚絆も籠手も煮しめたように汚れ、髷も乱れている。まるで襤褸雑巾を纏ってい乞食浪人のようだ。その姿だけで、長く険しい旅路だった事を思わせる。
 もし、与一郎が目の前に現れたら、潔く立ち合おうと決めていた。そうしなければ、真の意味での安寧は訪れないからだ。そう覚悟はしていたが、その日が来てしまうと、固めていた意志も揺らぐものである。

(大丈夫だ。与一郎には負けぬ)

 光当流を学び、免許も得ている。真剣での立ち合った経験も、人を斬った事もある。一方の与一郎は大した腕ではない。一度、白山神社はくさんじんじゃの奉納試合で立ち合いを見た事があるが、人より多少出来るぐらいだと記憶している

(よし、やろう)

 声を掛け、適当な場所で立ち合う。それで全てが終わるはずだ。
 意を決して表通りに出ると、与一郎の姿は何処かに消えていた。藤兵衛は思わず自嘲した。無理もない。ここは天下の日本橋の袂なのだ。人の往来は激しく、立ち止まる人などいない。

(残念だ。しかし、また出会う日もあろう)

 そう思っても、ホッとしている自分がいる事に、藤兵衛は気付いていた。
 与一郎が再び目の前に現れたら、その時は天命と思って潔く立ち合おう。それまで、俺は与一郎を探さぬ。立ち合わぬのもまた、天命なのだ。もし見つからなければ、与一郎も江戸を去るはずである。無駄に争い、血を流す必要は無い。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 糸は四歳年下で、幼馴染のように育った遠縁の娘だった。
 寡黙だが心根が優しい糸を、藤兵衛はいつしか愛すようになり、糸もまたその気持ちに応えた。
 いずれ夫婦にという話が内々にはあったが、糸の父親は瀧川家より豊かで、代々伊川郷士の組頭を務める西春家に嫁がせてしまった。
 その時は、仕方ないと藤兵衛は諦めた。両親もなく、家も貧しい瀧川家と西春家では比べようもないのだ。ただ、糸の幸せだけを藤兵衛は祈った。
 だが、西春家で糸を待っていたのは、激しい折檻だった。与一郎は酒乱の気があり、容赦なく殴る蹴るの暴力を振い、それを家族は止めようとしない。その上、義母からの冷たい言葉の数々が、糸を追い詰めた。子宝に恵まれない糸を、義母は石女うまずめと詰るのだ。
 白山神社の裏で、顔を腫らして泣いている糸を藤兵衛は見掛け、彼女の苦境を知った。

(やはり、与一郎を斬る他に術はない)

 与一郎を見掛けた日の夜、布団を並べて眠る糸の寝息を聞きながら、藤兵衛はそう考えていた。
 与一郎の件は、糸に伝えていない。もし知れば、ひどく心配するからだ。江戸から出ようとも言うだろう。しかし、藤兵衛は今の暮しが気に入っていたし、糸も奉公先の加賀屋で深く信頼され、大切に扱われている。それにこれ以上逃げても、逃げ出した先に安住の地があるとは限りない。
 秘密裏に与一郎を始末し、病で死んだと伝えれば、それで万事が収まるはずである。

(しかし、探すとなると骨だな……)

 人探しを請け負う稼業もあるそうだが、頼むにも元手が無い。勿論、自分でそれをするほどの暇もない。貧乏暇なしというものだ。やはり、待つしかないのか。
 堂々巡りの思念の中、藤兵衛は眠り込んでいた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 翌日は、両国広小路りょうごくひろこうじにある両替商・嘉穂屋かほやの隠居、宗右衛門そううえもんの用心棒を務める日だった。
 丸一日で一両飯付きという、中々の手間賃であるが、それだけに危険が多い。嘉穂屋の隠居だと知って、拉致さらおうとする者もいれば、商売上の遺恨から命を奪おうとする者までいるという。

「それだけに、瀧川様しかいないのですよ」

 と言ったのは、仕事を世話してくれた、浅草の手配師・栄三郎えいざぶろうだった。栄三郎が紹介する仕事ヤマは、危険は多いが手間賃がいい。どうしても銭がいる時に、藤兵衛は栄三郎を訪ねていた。
 藤兵衛が嘉穂屋の用心棒を務めだして、まだ一度も襲われていない。それは隙を見せないように用心しているからであるが、前任者は肩を斬られ右腕が使い物にならなくなったそうだ。更にその前の用心棒は、嘉穂屋を庇って死んでいる。

「お前さま、いくらお手当てが良くても、危ないお仕事はお止めくださいませ」

 朝餉の給仕をしながら、糸が言った。嘉穂屋の用心棒は、これで五回目になる。用心棒はいつもというわけではなく、必要な時に呼び出しを受けるのだ。

「しかし、正月に向けて何かと入用だろうしな」

 既に、秋が深まりつつある。朝晩の江戸は冷え込み、火が無ければ過ごせない季節だった。

「掛かりの心配はしないでくださいまし。何とかやっていけますから」
「しかしな。俺はお前に銭の苦労は掛けたくないのだ」
「そのお気持ちはありがたいのですけど……」
「まぁ、心配するな。俺は光当流の免許持ちだぞ」

 そう言って、湯漬けを流し込むと、藤兵衛はおもむろに立ち上がった。

「戻りは明日だ。戸締り気を付けるのだぞ」

 用心棒は一日仕事だ。糸もそれはよく弁えていて、事も無げに頷いた。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 不穏な気配を感じたのは、下谷根岸にある斯摩藩しまはん下屋敷を出てすぐの事であった。
 この辺りは百姓地が多く、人通りも夕暮れ時の時分には少ない。

(三人か……)

 藤兵衛の感覚で察する事が出来るのは、その位だ。他にも潜んでいるかもしれない。
 嘉穂屋の護衛は、藤兵衛一人だった。付き従う者はあと三人いるが、全員が嘉穂屋の者で腕の程は知らない。

「嘉穂屋殿、止まらずに聞いて貰いたい」

 藤兵衛は、嘉穂屋に並び寄ると、そっと呟いた。

「曲者がおります。三名ほどが、背後に」
「ふむ」

 嘉穂屋は、総白髪の老爺ろうやである。歳の頃はわからないが、身体は細く小さくなっていて、老いが深いという事は一目で判った。

「背後からなら、斯摩藩邸に駆け込めんですねぇ」
「その藩邸からやもしれません」

 すると、少し嘉穂屋は考えて笑った。

「面白い考えですが、それはありませんよ。儂を斬れば、困るのは渋川様のご家中ですのでねぇ」

 斯摩藩下屋敷で何の話をしていたのか、藤兵衛にはわからないし、興味もない。しかし、斯摩藩主・渋川堯春しぶかわ たかはるが直々にお出ましになり、また両替商が藩邸に招かれるのだから、その内容は察せられる。

「まぁ、よいでしょう。逃げようにも私の足では無理でございます。瀧川先生、曲者を討ち払えますかな?」

 相手は三人。一対多数は初めての事だ。しかし、用心棒として嘉穂屋の護衛になった以上、他に選択の余地は無い。

「特別に、十両」

 嘉穂屋が、不敵に微笑む。藤兵衛は、その笑み気圧され頷いていた。

(糸。力を貸してくれよ)

 藤兵衛は踵を返す。その間に、嘉穂屋と付き従う三人は、路傍に隠れた。
 曲者は、やはり三人だった。
 見るからに浪人。しかし、自分と似たようなものだと、藤兵衛は思った。おおよそ、銭で頼まれたのだろう。

「何者かね?」

 そう訊いても反応は無い。しかし、返事とばかりに、三人は一斉に抜いた。有無を言わさず、斬る腹積もりのようだ。
 藤兵衛は、腰の大刀に手を回し、鯉口を切った。
 来清衡らいきよひら。伊川郷士には不釣り合いの銘刀である。代々、瀧川家に受け継がれた家宝で、元服した時に、父から譲られた。
 それなりに使った。しかし、人を斬れば斬るほど、その鋭さが冴えてくるから不思議である。
 藤兵衛は、柄に手を回したまま、重心を落とした。そして大きく息を吐く。人を斬るのは、初めてではない。もう三度も人を斬ったではないか。そう自分に言い聞かせた。
 一度目は、夜須で賊退治をした時。残りはは江戸に出てからで、用心棒をしていた時だ。どちらも斬った後の気持ち悪さに耐えきれず、盛大に反吐をまき散らした。しかし、その経験は大きい。
 正面と左右に一人ずつ。正面の男は正眼だった。
 裏だけは取られまいと、気を張った。一向二裏いっこうにりになっては、ますます勝機が失われる。
 正面の男の正眼が、僅かに上がろうとした。そのまま斬りかかるつもりなのか。
 藤兵衛は裂帛の気勢と共に、一息に踏み込んだ。浪人の切っ先は、上がりきっていない。
 来清衡を抜きながら、脇をすっと通り抜けた。そのまま右の男に駆け寄って袈裟斬りを放ち、振り向いた所にいた最後の一人の胴を、返す刀で薙いだ。
 まず最初に斬った男が、垂れ落ちた臓物を抱えながら蹲り、残りの二人が音を立てて斃れた。
 居合からの連撃。これは、〔鎌鼬かまいたち〕と名付けた藤兵衛の秘奥である。光当流にある居合に、独自の妙意を加えて生みだしたもので、実戦で使ったのは初めてだった。

「お見事でございました」

 隠れていた嘉穂屋が、現れて言った。莞爾として笑っている。

「いえ。紙一重でした」

 身体からは大粒の汗が噴き出している。それでも、以前に感じたような吐き気は無い。

「しかし、惚れ惚れするような腕前ですな。人品も申し分ない」
「いえ……」
「ん。この嘉穂屋宗右衛門。瀧川先生が気に入りましたぞ。何かありましたら言うてくだされ。何でも協力いたしましょう。そこらの手配師には入らない、お手当ていい仕事など紹介しますよ」
「それはありがたい事です」

 そう返事をした藤兵衛は、骸の前にしゃがみ込むと、来清衡の刀身に纏った血と脂を浪人の着物で丁寧に拭った。
 来清衡の滑らかさが、尋常ではなかった。まるで、生き血を浴びて悦んでいるかのように思える。

(この刀は魔性かもしれんな)

 或いは、そう感じている俺自身が魔性なのか。艶やかな刀身に魅入られた藤兵衛は、何となく思った。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 十両を掴んで深川の自宅に戻ると、糸が台所で蹲っていた。
 側には、嘔吐した痕跡がある。ただ、それは酸味が混じった鼻に突くものではなく、先刻嗅いだばかりの血の臭いだった。

「糸、どうしたのだ?」
「お前さま……」

 今まで聞いた事のない、弱々しい声だった。

「苦しいのか? どこだ?」
「お腹が痛くて」
「腹か? いつからだ」
「少し前から。急に痛くなって」
「布団を敷くから待ってろ。それに隣のおゆうさんに頼んで、医者の所までひとっ走りしてもらう」

 藤兵衛は、まず布団を寝間に敷いて糸を寝かせ、次いでお由に医者を呼んで貰うように頼んだ。

「お前さま、申し訳ありません」

 寝かせられた糸が、ぽつりと言った。

「構わん。で、いつから痛むんだ? 少し前って、昨日今日の話ではないだろう」
「……」
「もっと前からだな?」

 お糸の目尻から涙が零れ、藤兵衛の胸を突いた。

「どうして言わなかったんだ?」
「ご心配をお掛けするかと思って」
「馬鹿だな、お前は」

 と、藤兵衛は糸の腹に手をやり、擦ってやった。腹痛はこれで治る事もある。

「俺とお前の仲じゃないか。昔からの幼馴染で、夫婦でもあるんだ。俺に言わなきゃ誰に言うつもりだ」
「そうですね。わたくしたちは夫婦ですもの」
「そうだ。幼馴染で夫婦だ」

 ふと、擦っていた手を掴まれた。蒼白だった糸の顔に、生気が戻りはじめたように見える。

「何だか、痛みがなくなったみたいです」
「そりゃいい。だが、動くなよ。医者に診てもらわねばならん。それに治るまでは、加賀屋さんの奉公は休みだ。いいな?」
「ですが」
「銭なら心配するな。今日手柄を立てて、手間賃を弾んでもらったのだ」

 糸がこくりと頷いた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 三人目の医者も、わからないと首を傾げるだけだった。
 それで、四人目は江戸でも名医と名高い、菱谷雲石ひしたに うんせきという四十路の男に頼んだ。雲石は高名な医者で浪人風情を診る事はないが、知人だという嘉穂屋に頼み込んで繋いで貰った。
 雲石は、糸を丁寧に診察してくれた。そして、土間に出た時に藤兵衛に話し掛けた。

「吐血を繰り返し、腹が痛む間隔が長く多くなってはいないですか?」

 藤兵衛は頷いた。それに食は細くなった。最近は粥も満足に食べていない。体重も減ったようだ。

「そうですか」
「どこが悪いのですか?」
「やはり、腹ですね。そこに腫物があるようなのです」
「先生、どうにかなりませぬか」
「……残念ですが」

 目の前が、暗転した。絶望の谷へ突き落された気分だった。

「今の医術ではどうにも。せめて、早くに気付いていればよかったのですが」
「……」

 家を空け過ぎた。用心棒稼業では、手当ての多さから泊まりの仕事ばかりを選んでいた。つまり、糸を一人にさせ過ぎて、僅かな変化も気付けなかったのだ。

「しかし、痛みを和らげる事は出来ます」
「本当ですか?」
「嘉穂屋さんのご紹介ですから申し上げるのですが、ただ費用は掛かりますよ」

 そこまで言うと、雲石は藤兵衛に、

阿芙蓉あふよう

 と、この国では禁じられている、危険な名を告げた。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 身を切るような師走の寒風が、江戸の町を吹き荒らしていた。
 昼七つの鐘が鳴る頃に自宅に戻ると、襖を開けてそっと寝間を覗いた。
 薬湯の臭いが鼻を突く。それは阿芙蓉の、独特な香りでもあった。その中で、糸が寝息を立てている。
 藤兵衛は、居間で来清衡に打ち粉を叩いた。
 ここ最近は、特に使い込んでいる。それでも刃毀はこぼれせず、脂も巻かずに、斬れ味の冴えは増している。それを確かめる度に、藤兵衛は暗い悦びを感じつつあった。
 昨日、与一郎を斬った。目の前に現れたわけではなく、嘉穂屋の伝手ツテを使って探し出したのだ。
 糸の為に斬ろうと思った。少しでも、彼女の苦悩を取り払おうと思ったからだ。そして斬ったその日に、与一郎は酒毒に犯されて死んだと報告した。糸の表情は動かず、喜びも悲しみも無いように見えた。
 それは、藤兵衛も同じだった。骸となった与一郎を見ても、解放された喜びは微塵も浮かばなかった。
 全てが終わった。しかし、それ以上のものが終わろうとしている。
 声が寝間から聞こえた。
 寝間を覗くと、糸が目を覚ましていた。

「お前さま」
「どうした? ん?」
「目を覚ましたら、お前さまがいないから」
「ふふ。お糸。俺は側にいるぞ。ずっとな」

 と、藤兵衛は細くなった糸の手を握った。それは骨の硬さがわかるまでになっている。
 こうなるまでに二か月だった。阿芙蓉により痛みは紛れるようになったが、食欲は戻らず衰弱は進むばかりだった。
 いつの間に、糸は眠っていた。眼窩はくぼみ、乾ききった肌をしたその顔に、かつての面影は全く無い。あとは、その時を待つだけのような顔だ。それを思うと、どうしようもない悲しみが、双肩に重く圧し掛かった。

(そろそろ約束の刻限か)

 藤兵衛は糸の顔に頬寄せ、肺を圧し潰すような呼吸の音を聞いた。

(糸……、すぐに戻るからな)

 藤兵衛は心中で、そう念じた。
 これから、藤兵衛は働かねばならないのだ。
 銭が必要だった。嘉穂屋に貰った十両は、御禁制である阿芙蓉や医者への礼金に消えた。貯めていた銭をかき集めても、到底間に合う額ではない。
 しかも、これからもっと必要になる。糸が息を引き取るまで、阿芙蓉を与えねばならない。もし止めれば、糸の全身に苦痛が襲うからだ。
 糸を起こさぬよう、静かに自宅を出た。既に日は暮れて、空はみぞれ模様になっている。藤兵衛は傘を開くと、糸が眠る灯りが消えた家を一瞥して歩き出した。
 向かう先は、外神田。そこで、人を一人斬る約束をしていた。報酬は三十両。かなりの大物で、仕損じは許されない。それは、嘉穂屋に紹介された、殺しの依頼だった。
 濃い闇の中で、藤兵衛は自分の足音に耳を傾けていた。

〔了〕


◆◇◆◇あとがき◆◇◆◇
 本作は、僕にとって初めて「裏社会」を意識した、自身初となる暗黒小説。「 EdoNoir(江戸・ノワール=江戸の悪)」と呼ばれるシリーズの第一弾です。
 知らず知らず闇の世界に引きずり込まれている男を、病の妻との哀切を交えて描きました。
 限られた文字数でしたので、あれやこれや詰め込んだ感がありましたが、僕にとっては一番思い入れが深い短編作品となりました。
 また、この作品には別の側面もあって、投稿当時に「藤兵衛のその後が知りたい」という声が多く、その為(だけではないですが)に書いたものが、実は今回刊行される「谷中の用心棒 萩尾大楽」でした。
 同書には、藤兵衛の「その後」が描かれます。そうした意味で、この作品はプレリュードと言えるのではないでしょうか。
 そして今回、発売を記念して新しく書き直しました。読んでいただけますと、幸いです。
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