迷探偵湖南ちゃん

迷井花

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9.サブローという幽霊

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「お前、帰ろうとしてただろ」
「そっ、そんなことないですよ」

 眞木の研究室から帰宅しようとしていた湖南は、熊田編集長のメッセージに気づき、再び編集部へと戻ってきていた。
 20時も回っているというのに、あちこちで電話の声やキーボードを叩く音が聞こえ、幻怪編集部は昼間みたいな活気を宿している。
 
「別に帰っても構わなかったが、佐久間から資料が届いてたから一応な。これが認められたら異動の道筋も見えるだろ」
「すぐ確認します!」

 湖南が飛びつくようにPCを開けるのを横目に、「現金なやつだな」咥えタバコの熊田は喫煙所へと吸い込まれていく。

 あやめの資料は、旗一太に関しての情報をまとめたものだった。
 おそらく学生の読者から寄せられたものだろう。
 一太の死因は表面的に知られていることばかりで、研究に行き詰ったことやデータ改ざんを悔やんでの自殺となっている。

 一太さんはそんな人じゃない。
 逐一、レ点をつけて訂正したくなった。
 もしこのまま坂浦の関与を証明できなかったら、ペンという武器で追い詰める方法もあるのかも――。

『いいカオしてるじゃないの』

 はっとして顔を上げると、逆さ幽霊が真っ赤に避けた口をにぃっと上げて、こちらを見つめていた。
  
「幽子さん……」
『さっきぶりね……って何よ! 勝手に変な名前つけるんじゃないわよ』
「だって、名前がないと話しにくいじゃないですか」 
『まぁいいわ。アタシには名前なんかどうでもいいから』
「じゃあ、何ならどうでもよくないんですか?」

 ふと気になって、湖南は彼女の暗褐色に染まった瞳を見つめた。
 彼女も何か思い残したことがあって、ここに留まっているのだろうか。

『さあね。そんなこと考えたこともないわ。でもアンタのその野心で溢れかえった顔には興味があるわね』

 驚いて、両手で頬を抑えた。

「私、そんな顔してます?」
『昨日初めて見た時の情けない顔よりはね……一応、褒めてるわよ』
「今の私の顔っていいカオっていうんですか?」
『貪欲でスクープを取る為なら手段を択ばない――編集者には大事な要素よ』
「でもそれって、いい編集者ですか?」
『あんたさっきから質問ばっかりね。アタシはしがない地縛霊よ。幽霊に何を言わせたいワケ?』

 幽子のいう通りだ。

 『天才研究者の悲劇』

 PCに打ち込んだタイトルを見つめた。
  
 一太の自殺をLuiにふさわしいおしゃれな幽霊話に仕立て上げる――生前の一太像を知れば、うまいこと書ける気がしていた。むしろ一太にとっては汚名返上の機会になる。

 あるいは、たった今湖南が考えたように、ドラマチックな告発仕立てにして、暗に坂浦を弾圧するとか――。

 それでこの記事が成功したら、Lui編集部に引き抜いてもらえるかもしれない。それは湖南の入社以来の夢だ。

 夢の象徴でもある、膝の上のエディターズバッグを抱き抱え、湖南は深く嘆息した。
 
 頑なに自殺を続ける一太の幽霊は、まるで永遠の研究室にこもって実験を繰り返しているみたい。それは誰かに何かを訴えたいというよりも、自身のやりたいことを追求しているかのようで、一太を知れば知るほど、湖南が書こうとしている天才研究者の悲劇とはかけ離れている気がした。
 
 その時突然、『天才研究者の悲劇』というタイトルがゆらゆらと揺れた。三白眼の和装ポルターガイストの仕業だ。

「サブロー、やめてよ」

 揺すられている机とPCを手で抑え、たった今サブローと名付けた幽霊と奪い合う。にらみ合いながらもサブローの三白眼は湖南を見ているようで見ていない。

 現れた時と同じように突然、サブローは消えた。
 
 今は幽霊の残像のような彼も、かつてははっきりした思いを抱えた幽霊だったかもしれない。湖南や眞木が一太にそうしたように、サブローに想いを馳せる人間もいたかもしれない。

 そう考えて、湖南は苦笑いを浮かべた。
 全部、かもしれない、だ。
 
「結局、人間が幽霊の思いを記事にするなんて、烏滸がましいよね」
『まるで人間同士ならわかりあえるみたいな言い草ね』
 
 湖南はちらと幽子の吊り上がった赤い眼を見やり、再び『天才研究者の悲劇』というタイトルを見つめ、ため息をついた。
 
「一太さんはこんな風に記事にされるのを望んでないかも」
『どうかしら。幽霊に喜怒哀楽はないもの。うじうじ悩むのは人間だけよ。だから好きに書いたらいいわ。アンタの記事で傷つく人間はいないんだから』
「そうなの?」
『そうよ。すべてはアンタ次第』
 
 私次第――か。
 
 湖南は、頭に浮かんだ天秤に、Luiで華々しく活躍する自分の姿と、一太を乗せてみた。

 するとそれは思いの外、あっさりと一太の方に傾いた。

 Luiを選ぶ重石ならたくさんあるのに、変なの。
 
 だけど、今は夢の為に納得のいかない記事を書くよりも、書きたいと思うものを書きたい。
 そう気づくと、それは一太が研究する姿とどこか重なるものを感じた。

 湖南は晴れ晴れとした顔で『天才研究者の悲劇』という文字を消した。

 そしてすぐにその眉を思い切り八の字にする。

「あー……どうしよう。あやめさんに出す代わりの記事考えなくちゃ……」
『あら。イイ編集者の顔になったじゃない』
 
 ぶつぶつ言いながら頭を抱え始めた湖南の横顔を見て、幽子は吊り上がった眦を心なしか下げた。
 
 


 その夜、不思議な夢を見た。

「……ナミ、……ナミッ」

 誰かが名前を叫んでいる。
 体をガクガクと揺さぶられ、一体何事かと気にはなる。瞼の向こうもかすかに白んできている気がするけど、今日はもう少しだけ寝ていたい。

「ううん…………」
 
 けれど、あまりに必死揺さぶってくるので、薄目を開けた。わずかに開かれた視界を大きな三白眼が切羽詰まった表情で覗き込んできた。そして何度も叫ぶ。

「ナミ、起きろっ! 起きて逃げるんだっ!」
「……おにいちゃん、どうしたの」
 
 そう言った瞬間、ハッと目を覚ました湖南は、朝の白い光が差した編集部を見渡した。

「夢……?」
 
 鬼気迫る声は、過去の記憶を追体験したみたいにリアルで、まだ心臓がバクバクしている。
 
「……あなたが起こしてくれたの?」
 
 横にいたサブローに目を合わせると、彼は三白眼を細め、ほっとしたような表情で湖南を見つめていた。いつもの一方通行とは様子が違って見えて、湖南は首を傾げた。初めて血が通ったようなサブローの顔が、夢に出てきた兄の顔と重なる。湖南に兄はいない。ナミというのは彼の妹なんだろうか。

 もしかして、ずっとサブローは妹を揺り起こしていたのだろうか。

 尋ねようとして、湖南は息を吞んだ。
 
「サブロー、どうしたの?」
 
 掠れた声で、サブローが淡い光の粒子に包まれているのを見た。よく見るとその輪郭と光に境目はない。思わず手を伸ばすと、湖南が触れた肩の辺りは、朝の光に霧散するように消滅していった。
 
 同じように手足や身体が次々と光の粒となり、散りゆくさまを呆然と目で追った。
 最期に残ったのは、サブローらしい三白眼をくしゃりと崩した笑顔の跡。

『前にも一度だけ見たことがあるわ』

 幽子の声に、いつのまにか頬を伝っていた涙を拭いながら振り向く。

「成仏……できたんでしょうか」
『アタシにわかるわけないじゃない! あの時見たのも、同じように抜け殻みたいな幽霊だったけど。ただ、こんな笑顔は見せなかったわね』

 湖南にとってはあまりにあっけない出会いと別れだったが、サブローはたった今、長い幽霊人生を閉じたのだ。

 
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