迷探偵湖南ちゃん

迷井花

文字の大きさ
上 下
26 / 35
7.告発する男

しおりを挟む

 いつもの倍以上の時間をかけて、ようやく北の研究棟が見えてきた。棟の前はまるで池のように水が溜まっている。あれを超えて中に入るのは難儀だなと思いながら、一度立ち止まった。足を止めた理由はもしかすると、今から対峙する事への重責からきているかもしれない。ふと、一太にしては弱気な考えが過ぎった。

 あの時休憩部屋に飛び込んだ一太は、怒鳴りつけたい衝動を抑え、寝ている坂浦を起こした。
 
『んあ、一太か』

 寝ぼけまなこの顔に握りしめていた実験メモを叩きつけた。だが坂浦には届かず、二人の間を虚しく舞い落ちた。一体なんなんだよ、とまだ眠そうにしている坂浦は実験メモを拾い上げ、次第に顔色が変わった。それを見て一太は悔しそうに俯き、唇を震わせた。

『なんだよこれは』

 顔を上げて坂浦を睨みつける。への字に引き結んだ唇の横にあるえくぼは、いつもなら一太の朗らかさを強調するのだが、今日はそこに込められた力の強さを感じさせるだけだった。

 忘れていた呼吸を取り戻し、肩の力をわずかに緩めた一太に坂浦は『あーこれね』とへらりと笑った。

『あー……とりあえず決め置きで、数字だけ入れといたの忘れてたわ』
『とりあえず?この量を? 見つけたのはこのグラフデータだけじゃない。エクセル関数も都合よく操作してるだろ。バレないようあちこちに偽装を忍ばせたこれがとりあえずだと?』

 喉の奥がつまって、掠れた声しか出ない。一太は坂浦の反応に戸惑ってもいた。

 改ざんの証拠を突きつけられた坂浦は取り乱すと思っていた。これほどの大規模な改ざんをしでかして発覚すれば、研究者生命を絶たれたも同然だ。だから一太は己は冷静であろうと身構えてきた。そして坂浦を宥め、贖罪から復活への道筋を探すのだと。

『俺はお前を責める為に来たわけじゃない』 

 一太は、坂浦のこの反応もまた彼なりに動揺しているからかもしれないと思い直し、坂浦を熱心に説得しかかった。一刻も早く動くべきだ。

 まずは真摯に罪を認めるところからでないと始まらない。だが一向に噛み合わない会話に一太は焦りを覚え始めた。

『一太そういうことじゃないんだよ。俺の研究テーマはさ、そこに秘められた将来的な可能性が評価されてるわけであって、実験の出来は問題じゃない。みんなが俺の論文の仕上げを待ってるんだ。大丈夫だ、体感的にはそれほどずれちゃいねーから』

 そういうことじゃないのはこっちのセリフだ。焦りは失望へと変わっていったが、一太はなんとか声を絞り出した。

『データに振り回されてはいけないと教えてくれたのは坂浦さんでしょ。あるがままに記録しろと』

 思わず先輩後輩であった頃の呼び方が口をついて出た。

 まだ実験に不慣れな学部3年の時の話だ。皆が通る道だが、実験そのものに慣れないうちは思う通りに実験データが取れない。取れるべき値はわかっているのだから、取れたことにしたくなる。焦れる一太を先輩である坂浦が諭したのだ。
 
 外は大型台風が接近中だとかで、4月だというのに妙に蒸し暑く額に浮かんだ汗が目の中に垂れてくる。それを拳で拭って、目を合わせない坂浦を見つめた。
 
 ふぅ、と息を吐いた坂浦はようやく一太にその目を見せた。

 目はいつもより窪み、その下には青いクマが目立つ。同じ研究者だから、仲間だから、坂浦の葛藤は理解できているつもりだった。一太だってポスドクのかかった論文に取り掛かっている時は妙な焦燥感にかられた。

 まして坂浦は一太より年上でもう後がない。そんな時に今回の論文の将来性が認められた。目の前にエサがぶら下がっているのだ、何としてでも完成させたい。手に取るように理解できるのに、目の前にいる坂浦とはまるで畑違いの人間と話してるように噛み合わなかった。

 だが一太は譲る気はなかった。だから坂浦が根負けしたように『わーった、わーったって』と言い出した時は内心ホッとした。けれど、続けられた言葉に絶望した。

『俺の立場は一太もわかってくれてるだろ?だから、今回だけ見逃してくれたら俺はもうやらないって言ってんの。ほんとごめんって。研究費出たら少しはそっちにも回すしさ、これ以上俺を追い詰めないでくれよ。どうせ一太も今まで気づいてなかったんだ、黙ってたって大して変わらんて』

 聞き分けのない子を諭すように言う坂浦の理屈は、一太には全く理解できなかった。

『もしこのまま隠蔽するというなら……』

 一太は乾き切った唇を舐め、一息おいて通告した。

『俺は坂浦を告発する』

 怒り任せのように部屋を出たが、本気だった。坂浦はわかってくれると信じていた。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

聖女の如く、永遠に囚われて

white love it
ミステリー
旧貴族、秦野家の令嬢だった幸子は、すでに百歳という年齢だったが、その外見は若き日に絶世の美女と謳われた頃と、少しも変わっていなかった。 彼女はその不老の美しさから、地元の人間達から今も魔女として恐れられながら、同時に敬われてもいた。 ある日、彼女の世話をする少年、遠山和人のもとに、同級生の島津良子が来る。 良子の実家で、不可解な事件が起こり、その真相を幸子に探ってほしいとのことだった。 実は幸子はその不老の美しさのみならず、もう一つの点で地元の人々から恐れられ、敬われていた。 ━━彼女はまぎれもなく、名探偵だった。 登場人物 遠山和人…中学三年生。ミステリー小説が好き。 遠山ゆき…中学一年生。和人の妹。 島津良子…中学三年生。和人の同級生。痩せぎみの美少女。 工藤健… 中学三年生。和人の友人にして、作家志望。 伊藤一正…フリーのプログラマー。ある事件の犯人と疑われている。 島津守… 良子の父親。 島津佐奈…良子の母親。 島津孝之…良子の祖父。守の父親。 島津香菜…良子の祖母。守の母親。 進藤凛… 家を改装した喫茶店の女店主。 桂恵…  整形外科医。伊藤一正の同級生。 秦野幸子…絶世の美女にして名探偵。百歳だが、ほとんど老化しておらず、今も若い頃の美しさを保っている。

無限の迷路

葉羽
ミステリー
豪華なパーティーが開催された大邸宅で、一人の招待客が密室の中で死亡して発見される。部屋は内側から完全に施錠されており、窓も塞がれている。調査を進める中、次々と現れる証拠品や証言が事件をますます複雑にしていく。

授業

高木解緒 (たかぎ ときお)
ミステリー
 2020年に投稿した折、すべて投稿して完結したつもりでおりましたが、最終章とその前の章を投稿し忘れていたことに2024年10月になってやっと気が付きました。覗いてくださった皆様、誠に申し訳ありませんでした。  中学校に入学したその日〝私〟は最高の先生に出会った――、はずだった。学校を舞台に綴る小編ミステリ。  ※ この物語はAmazonKDPで販売している作品を投稿用に改稿したものです。  ※ この作品はセンシティブなテーマを扱っています。これは作品の主題が実社会における問題に即しているためです。作品内の事象は全て実際の人物、組織、国家等になんら関りはなく、また断じて非法行為、反倫理、人権侵害を推奨するものではありません。

パラダイス・ロスト

真波馨
ミステリー
架空都市K県でスーツケースに詰められた男の遺体が発見される。殺された男は、県警公安課のエスだった――K県警公安第三課に所属する公安警察官・新宮時也を主人公とした警察小説の第一作目。 ※旧作『パラダイス・ロスト』を加筆修正した作品です。大幅な内容の変更はなく、一部設定が変更されています。旧作版は〈小説家になろう〉〈カクヨム〉にのみ掲載しています。

ミステリH

hamiru
ミステリー
ハミルは一通のLOVE LETTERを拾った アパートのドア前のジベタ "好きです" 礼を言わねば 恋の犯人探しが始まる *重複投稿 小説家になろう・カクヨム・NOVEL DAYS Instagram・TikTok・Youtube ・ブログ Ameba・note・はてな・goo・Jetapck・livedoor

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

【毎日更新】教室崩壊カメレオン【3月完結確定】

めんつゆ
ミステリー
ーー「それ」がわかった時、物語はひっくり返る……。 真実に近づく為の伏線が張り巡らされています。 あなたは何章で気づけますか?ーー 舞台はとある田舎町の中学校。 平和だったはずのクラスは 裏サイトの「なりすまし」によって支配されていた。 容疑者はたった7人のクラスメイト。 いじめを生み出す黒幕は誰なのか? その目的は……? 「2人で犯人を見つけましょう」 そんな提案を持ちかけて来たのは よりによって1番怪しい転校生。 黒幕を追う中で明らかになる、クラスメイトの過去と罪。 それぞれのトラウマは交差し、思いもよらぬ「真相」に繋がっていく……。 中学生たちの繊細で歪な人間関係を描く青春ミステリー。

ヘリオポリスー九柱の神々ー

soltydog369
ミステリー
古代エジプト 名君オシリスが治めるその国は長らく平和な日々が続いていた——。 しかし「ある事件」によってその均衡は突如崩れた。 突如奪われた王の命。 取り残された兄弟は父の無念を晴らすべく熾烈な争いに身を投じていく。 それぞれの思いが交錯する中、2人が選ぶ未来とは——。 バトル×ミステリー 新感覚叙事詩、2人の復讐劇が幕を開ける。

処理中です...