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特別

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「あっ、篠井くん! お疲れー!」

 事務室へ向かう途中の廊下で、背後から女性の声が投げかけられた。篠井が振り返ると、声の主はひらひらと手を振りながらこちらへ駆け寄ってくる。

立花たちばなさんもお疲れさまです」
「あのさ、今っておたくのとこの林さん、在席してるかなあ」
「あー、たぶんいると思いますよ」

 話しかけてきたのは同僚で経理の立花奈子なこだ。別フロアで業務にあたっている彼女は、ちょうど篠井の属する教務課の事務室へ向かうところだったらしい。
 立花は篠井の二個先輩だ。見た目こそ綺麗なOL風だが、中身はサッパリと朗らかな性格をしている。
 職員同士の飲み会に参加させられた時、たまたま隣席になったことが知り合うきっかけだった。以来こうして顔を合わせれば、挨拶や立ち話くらいはする。女性に苦手意識のある篠井でも自然体で接することのできる、数少ない相手だ。

「俺ももう戻るとこなんで、林さんに何か渡しましょうか? もしくは伝言とか?」
「ううん。こないだもらった領収書のことで本人にちょっと訊きたいから、自分で行くよ」

 立花は手にしていたクリアファイルを、ぴらっと顔の横へ掲げた。結局そのまま廊下を連れ立って歩く。

「そういえば篠井くん、もう見た? 今年も体育館の軒下に、ツバメが巣を作ってるって」
「うわー、そっか。ちゃんとまた来てくれたんだ……楽しみですね」
「おっきい口で赤ちゃんがピイピイ餌ねだってるの、可愛いもんねえ」

 廊下に面した大きな窓越しに、気持ちのいい陽射しを感じられる初夏の午後。他愛もない会話をしながら、のんびりと歩を進める。
 そのまま階段の前を通りすぎようとした時だった。

「篠井くん!」

 今度は柔らかく響く男性の声で名前を呼ばれた。聞き覚えのある声に、そちらへ顔を向ける。
 すると案の定、崎坂が笑顔を浮かべながら階段を降りてくるところだった。
 彼の研究室があるのは別棟だ。今はもう四限目が始まっている時間だから、きっと三限目にこの本館で授業があったのだろう。

「お疲れさまです」
「うん、お疲れさま。もしかしてこれから事務室戻るところ?」
「はい」

 崎坂と顔を合わせて話すのは、先週のあの時以来だ。家へ泊めてもらった翌朝、彼の車に同乗して出勤し、教職員用の駐車場で「じゃあ、また」と別れた。

「ちょっとおつかい頼んでもいい? これね、そちらの主任さんに渡す書類なんだけど」
「ああ、はい」
「よかったあ。渡してもらえたら、それで用件はわかるはずだから」

 A4サイズの茶封筒を差し出されて、受け取ろうと一歩近づいた。しかし指先が封筒へ触れる前に、突然二の腕を掴まれ、ぐいっと強く引き寄せられた。
 ふたりの間の距離が詰まる。必要以上に近い。

「え、え……!?」

 ぎょっとして飛び上がりそうになった。それでも腕をがっちり捉まえられていては、後ずさりもできない。
 触れているのは掴まれた腕だけなのに、こんなに近距離にいると服越しの体温も、香水だか柔軟剤だかの甘い香りも感じ取れてしまうらしい。叫び出したい衝動を懸命に呑み込む。
 そもそもここはキャンパス内だ、という焦りも渦巻く。さっと視線を巡らせると、一応周辺に人はいないようだった。けれどいい歳の男がふたり、べったりと身体を寄せ合っているように見える光景は、この場に似つかわしくなさすぎる。
 学生が友人同士で手を繋いだりハグしたりなんて姿は、わりと目にする日常茶飯事だ。ただし若い女の子だから許される。

「あの、崎坂先生……?」

 腕を離して欲しくて名前を呼んだのに、崎坂は篠井の耳元へと顔を寄せてきた。さらに近づいた自身の口元と篠井の耳を隠すように、そっと大きな手を添える。

「面倒頼んでごめんね。あの主任さんお喋り好きだから、いったん捉まっちゃうと長いんだ」

 声をひそめて囁かれたのは、まぎれもなく内緒話だった。
 眼鏡フレームが当たりそうな近さに動揺しつつも、言葉の内容を咀嚼する。つ、と視線を横へ流して表情を窺うと、崎坂は眉を下げて苦笑していた。
 自分の上司であるお局さま主任を思い浮かべれば、何となく事情は理解できた。彼女は元々、教員陣にはわざとらしく媚びを売りがちな人だ。加えてイケメン芸能人が好きなミーハー体質で、旬の俳優やら男子アイドルやら、流行りの恋愛ドラマなんかにも詳しい。
 当然、一般人離れした見た目の好青年、崎坂のことはお気に入りなのだろう。

「あー……、わかりました。では、お預かりします」
「助かるよ。ありがと。それと、これあげる」

 てのひらを出すように促され、ポンと載せられたのは個装されたお菓子だった。パッケージに記されているのは、篠井もよく知る有名な仙台銘菓の名前。カスタードクリームをふわふわのスポンジでくるんだお饅頭だ。

「え? いいんですか?」
「うん。でも横流しだから、こっそり食べてね」

 横流しと言うからには、きっと学生か誰かからのおみやげだったのだろう。
 篠井はそのブツを、ジャケットのポケットへ慌てて突っ込む。そのようすを見た崎坂は、くくっと喉の奥で笑った。
 腕を掴む手は離されても相変わらず距離が近い。篠井へと注がれる眼鏡の奥の瞳は、悪戯っぽく細められている。大学教員仕様の、柔和な爽やか色男のそれではなかった。篠井が何度か垣間見てしまった、優しいけれど強引な、素の崎坂の表情だ。
 キャンパス内の、こんな廊下のど真ん中で。居たたまれない気持ちに息を呑む。体温がどんどん上がって前髪の内側、隠れた額にじんわりと汗が滲んだ。

「じゃ、よろしくね」

 崎坂はにこやかにそう言って、ポンと篠井の肩を叩きながら身体を離した。ただの知人、顔見知り、同僚、と言える程度の距離を取り、誰が見ても清涼感を覚えるだろう、パブリックイメージ通りのスマイルを作る。
 その変わり身の早さに、咄嗟に反応なんてできるわけがなかった。篠井はぽかんとして数秒固まってしまったが、正気を取り戻してから「え、あ、……はい」とだけ搾り出すように返事をした。
 崎坂は微笑んだまま頷き、くるりと背を向ける。長い廊下をゆったりと遠ざかっていく、長身のジャケットの背中をぼんやりと見送った。
 きっと振り返ったりせず、そのまま行ってしまうだろう。そう思っていたのに、崎坂は曲がり角に差しかかったタイミングで、こちらへと視線を寄越した。遠い距離ながら、目が合っていることはわかる。慌ててぺこっと会釈した。崎坂は胸元で小さく手を振ってから、そのまま壁の向こうに消えてしまった。
 口惜しいような、ホッとしたような、自分でもよくわからない高揚感に息を吐く。

「……ん? あっ!」

 そういえば、と我に返った。崎坂に声をかけられるまで自分と談笑していたはずの立花がいない。
 不思議に思って見回せば、彼女は近くにある柱の陰へ身を潜めて押し黙っていた。壁と柱に挟まれた狭いスペースに、いっそめり込むように隠れている。

「あの、……立花さん?」

 恐るおそる声をかけてみた。この距離で聞こえないはずはないだろう。
 呼びかけて数秒経って、ようやく眼が合う。普段は快活でころころと表情を変える人なのに、表情筋がすべて固まってしまったような真顔を向けられて驚いた。
 しかし篠井の呼びかけで我に返ったらしい。最初の一、二歩こそゾンビ映画よろしくのろのろと這い出る足取りだったのに、すぐいつものキリッとした顔に戻った。そこから再起動がかかったらしく、すごい勢いでこちらへ駆け寄ってくる。

「篠井くん、崎坂先生と仲いいの!?」
「え……えーっと……」

 立花の語気に若干のけ反りつつ、何と答えるべきなのか考えた。
 崎坂の篠井に対する態度を目の当たりにして、他人が驚くのも無理はないと思う。
 なんなら篠井自身がまだしっかりと戸惑っている。
 ただの〈顔見知り〉で済まない程度に崎坂と親密になってしまった自覚はある。毎度押し切られる形だったとはいえ、コミュニケーション下手な自分にしては、たくさんの言葉を彼と交わした。なかには互いに普段誰にも見せず隠している部分、胸の内の柔らかなところをかすめるような、そんなやり取りもあった気がする。
 それでも回数で言えば、たった二度のことだ。ついさっきの会話を入れても三度。それを〈仲がいい〉と表すのは言いすぎではないだろうか。

「なんかさ、崎坂先生って物腰柔らかいし紳士だけど、誰に対しても平等でしょ?」

 ぐるぐると考え込んでしまった篠井を気遣ったのか、立花が重ねて声をかけてきた。

「です、ね」
「それなのにあんな、見たこともない顔の崎坂先生浴びちゃって……びっくりしすぎて思わず隠れちゃったよ」
「それで壁と一体化してたんですか?」

 柱の陰にめり込んでいた立花の姿を思い出し、篠井はぷっと笑ってしまった。
 立花は一瞬恥ずかしそうに唇を尖らせた。けれどすぐに普段のサッパリとした表情に戻る。

「ね、コーヒー飲まない?」
「え?」
「奢ってあげるから、ちょっと休憩。どうせ私も一緒に教務課行くんだし、戻るの遅いって誰かに文句言われたら、『あそこの立花先輩に掴まってました』って丸投げしていいよ」

 言われるがまま、キャンパスの端に設けられたミーティングスペースへと移動する。自動販売機といくつかのテーブルセットが並ぶそこは、幸い他に先客もいなかった。
 立花はアイスの缶コーヒーをふたつ買って、片方を篠井へ渡してきた。まだ初夏とはいえ、太陽はすでにだいぶやる気を出している。カンカン照りではないにしても、ひんやりとした缶の冷たさが、てのひらに心地よかった。

「……それで?」
「はい?」
「さっきの続き、聴きたいに決まってるでしょ。崎坂先生の態度も驚いたけど、シャイボーイな篠井くんがそれを受け入れてるのにもびっくりしたよ」

 立花はそう言いながら、カシュ、と缶のプルタブを開けている。シャイボーイって……と思いながらも、話が進まないのでその謎ワードは無視することにした。

「いや、その……受け入れてはない、と思うんですけど……」
「何言ってんの。篠井くんのパーソナルスペース、人嫌いの猫くらいには広いでしょ?」
「ええ? そんな、突然シャーッてしませんけど」
「さっきだって最初こそ動揺してたっぽいけど、最終的には崎坂先生とあの距離で普通に喋ってるんだもん。そんなの、気を許してるんだなーってわかっちゃうよ」

 こういう時、やっぱり女性は鋭いと思う。火照る頬を落ち着けたくて、冷たいコーヒーに口をつけた。

「あの、立花さんに一応訊いておきたいんですけど」
「ん? どうぞ?」
「その……崎坂先生のことが好き、とかは、……ないんですよね……?」

 丸テーブルを挟んだ向こうへ、恐るおそる尋ねた。
 立花の指摘どおり、先ほどの篠井と崎坂はかなり親しい間柄に見えたのだろう。
 同性同士だから、一応嫉妬の対象にはなりにくいかもしれない。しかし崎坂はとにかくモテる。彼に特別扱いして欲しい女性が列を成している。その崎坂がなぜか至近距離で構っているのが地味な男の事務員だなんて、彼に想いを寄せる女性たちからすれば、きっとひどく不可解で目障りなはずだ。
 立花は篠井の言葉を聞いてフリーズしていたけれど、すぐに弾かれたように笑い出した。

「ないない! もちろんいっつも『崎坂先生、今日も顔面整ってんなー。目の保養だなー』とは思ってるよ。でも私のタイプとは全然違うし。篠井くんは私が結婚してるのも、何なら旦那だって知ってるでしょ」

 篠井の目の前に、ずいっと薬指にはめたプラチナが差し出された。
 立花の配偶者は今まさに目の前にある、自動販売機へドリンク補充をして回る仕事に就いている。ふたりの出会いも、担当エリアにこのキャンパスが含まれていた彼と、互いにひとめ惚れしたことがきっかけだった。
 学生時代はラグビー部で、今も趣味のクラブチームに所属している、ゴリゴリのマッチョ男子だ。屈強な体格と強面のせいで、街ですれ違う人には必ず道を譲られるらしい。確かに見た目からして崎坂とは正反対だろう。
 しかしその立花の夫は内面がとても繊細で、ものすごく優しい人だ。篠井も招待してもらったふたりの結婚披露宴では、要所要所で歓喜の涙を零す新郎が、ドン引き顔の花嫁に都度ハンカチで頬を拭ってもらっていた。
 見た目はフェミニンなのに気っぷのいい嫁とは正反対。だからこそうまくいっているらしい。
 ちなみに旧姓では〈斉藤奈子〉だったのが今は〈立花奈子〉となり、「旦那のせいで結婚したら〈バナナ子〉になっちゃったんですよねー!」と笑い飛ばすのが、最近の彼女の持ちネタだ。

「えーと、たまたまなんですけど、最近崎坂先生と喋る機会が何度かあって……」

 コーヒーを飲みながら、ポツポツと説明する。さすがに「あーん」でランチを分けてもらったとか家に泊めてもらったなんてことは言えず、しどろもどろながらに無理矢理ぼかした。自身も腑に落ちていない経緯を、口下手な自分がうまく説明できる気もしない。

「その、結構いろんな話をしたから……何というか、あちらの距離感がばかになってるみたいで……」
「ばかって!」

 立花が声を上げて笑った。確かに崎坂を「ばか」呼ばわりする人間は、このキャンパス内にひとりもいないだろう。立花は肩を揺らしながら、篠井の言葉の続きを待っている。

「でも、どうして自分なんかがあんなに構われるのか、ほんとにわかんないんです。崎坂先生が言うには、うちの教職員の中では歳の近い男同士だから仲よくしたい、的なことらしいんですけど……そもそも人種っていうか、ヒエラルキーの差がありすぎて、俺の方はさっぱり親近感なんか湧かないのに……」

 ぼそぼそとした篠井の呟きに耳を傾けていた立花は、熟考するようにしばらく明後日の方向へと視線を流した。適当になだめたり茶化したりせず、こうしてきちんと考えてくれる彼女の高潔さが好ましい。

「うーん、……人間関係って絶対正解がないし、詳しいことは知らないからただの一意見なんだけど」

 立花は不明瞭な篠井の話を聴きながらも考えをまとめたらしく、聡明さを映すような大きな瞳を、キリリとまっすぐに向けてきた。

「お互いに相手のことを気に入ってるのは、紛れもない事実だよね」
「え?」
「篠井くんだって、相手が苦手だったらすぐに毛を逆立てて逃げちゃうでしょ」
「えー……、毛を逆立て……って、それさっきの猫の見立ての続きです?」
「まあね」

 立花はテーブルに頬杖をつきながら笑顔を見せた。崎坂は篠井を臆病なリスやらヤマネやらに喩えるし、今度は人見知りの猫。成人男子としては不服というしかない。

「でもねー、それも自分としっくり合う人の懐に入っちゃうと、一気に変わるんだよね。その人に対してだけ」
「え?」
「私も旦那と出会って、これまでの自分が相当崩れちゃった。旦那とふたりの時限定だけどね」

 そう呟きながら、立花は大きなガラス窓で切り取られた景色へと視線を移した。マスカラが縁取った瞳の先で、これから最盛期を待つキャンパスの庭の草木が、青々と生い茂っている。
 太陽光をはね返すような艶々した緑が、ひどく鮮やかで眩しかった。木漏れ日がさわさわと風で揺れ、思わず目で追ってしまう。

「だからね、篠井くんと崎坂先生も何となくそういう関係性なのかなって」

 独り言を呟くような、落ち着いた声だった。

「うーん、……わかんない、です。そういう人間関係の機微みたいなの、俺ほんとに苦手で」
「まあそこは、あちら次第でもあるんじゃない? 着地点がどこになるかは別として、嫌じゃないんだったら身を任せておけば」
「ええ? それってどういう……」

 立花はからかいを載せた軽妙さを含みつつ、澄ました顔で篠井に微笑む。まるで白状していないことまで見透かされているような態度だ。篠井はむず痒いような居心地の悪さに、眉根を寄せた。
 しかし立花を問い質す前に、スーツのポケットの中でヴーッとスマホが震え出した。すぐに鳴り止んだところを見ると、メッセージ着信の知らせだろう。

「ちょっと、すみません!」

 しばらく席を留守にしていることを思い出す。仕事関係の連絡だったらまずい。目の前の立花に断ると、「どうぞどうぞ」とジェスチャーをされた。
 スマホを取り出し、メッセージアプリを開く。とりあえず送信者をチェックした。しかしその名を目にした瞬間、篠井は「あー……」と唸りながら額にてのひらを当てた。まったくもって平常心に戻る隙がない。

「篠井くん。えーと、もしかして」
「……はい」

 画面に表示されていたのは崎坂の名前だった。
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