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ランチタイム
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促されるまま応接用らしきソファへ座ると、崎坂もその対面へ腰を下ろす。崎坂の部屋は全体的にすっきりと整理されていた。
「篠井くん。これからまたどこかへ移動してランチ広げて、とかやってると、どんどん食べる時間なくなっちゃいますよね。だからお昼もここで食べて行ってください」
「えっ!? で、でも……」
「僕もどうせ今からお昼ご飯だから。さっき言ってたデザートに行き着く時間がなさそうなら、おみやげに持たせてあげますよ」
崎坂はにっこりと微笑みかけながら、ふたりの間のローテーブルへ、彼のランチが入っているらしいビニール袋を取り出した。
「でもあの、昼休み中に資料を確認したいんじゃ……?」
「ああ、聞いてたのか。そんなの適当な断り文句ですよ。気にしないで」
口調も声も優しいのだが、いかんせん有無を言わせてもらえない。優秀でイケメンで、自分に自信しかないだろう男だからこその、この押しの強さなのだろうか。
それでも実際、彼の提案は篠井にとってありがたいものだった。
これから事務室に戻って自席で昼食を取るだなんて、雑用を押しつけてきた主任への当てつけのようだ。しかしわざわざ別棟の学食へ向かうのも時間がかかるし億劫だ。新緑が気持ちのいい季節になったキャンパス内では、屋外のベンチもあらかた埋まっているだろう。
しかしこうして強引に引き止めてもらえなければ、遠慮や恐縮が身についている篠井は、きっとむにゃむにゃと言い訳をして逃げ出していた。
「ありがとう、ございます……」
「うん。さ、早く食べましょう」
篠井はその言葉に頷いて、コンビニのビニール袋の中からお茶のペットボトルと、おにぎりをふたつ取り出した。
片方の包装をぐるりと剥いて、「いただきます」と小声で言ったあとにかぶりつく。もぐもぐと咀嚼しながら、研究室の中をこっそり見回した。
この大学は文系学部メインの、こぢんまりとした女子大だ。よって「研究室」とは名ばかりで、実際は教員個人に与えられた小さな執務室、といった方がしっくりくる。けして理系学部のラボのように、大がかりな設備や面積を持つ部屋ではない。
片づけベタな先生の場合、室内は乱雑に置かれた資料やら何やらで、溢れ返っている場合も多い。某テーマパーク通いが趣味だと公言している先生は、いたるところにキャラクターグッズやぬいぐるみを置いている。
似たような間取りでも、結構その主の色が出るものなのだ。
もちろんこの部屋だって、壁面の本棚には専門書がぎっしりと詰まっているし、殺風景というわけではない。ただ、快適で機能的な空間、という印象だ。小物類をモノトーンで揃えていることも、その雰囲気づくりを手伝っているのだろうか。
要するにスマートで大人っぽいというか、上品で垢抜けた感じというか。崎坂本人のイメージ通りだった。
女子大生諸君がこんなにもかっこいい大人の男を前にして、まだまだ子供な同い年の異性と見比べて、あげく崎坂に執心しまうのもわかる気がする。
「おにぎり、具は何が好きなんですか?」
黙ってコンビニおにぎりを齧っていると、崎坂が尋ねてきた。
「え、あー……これは鮭ですね」
「もう一個は?」
「こっちは昆布です」
「へえ。結構渋いのが好みなのか。若い子は絶対、ツナマヨ的なの選ぶのかと思ってたんですけど」
「絶対って……」
ふ、とその言い草に思わず笑ってしまう。若い子呼ばわりされたことも照れくさかった。
もう二十六歳の篠井も、一応アラサーに足を突っ込んでいる。対して崎坂は四十近いらしいけれど、すっきりとスマートな体形を維持しているせいか、実年齢より若く見える。
ひと回りほど年上であることは知っている。けれどこんな美丈夫におじさんぶった言い方をされると、何となくくすぐったいような違和感があった。
「崎坂先生のランチ、豪華ですね」
「ああ、このお弁当ね。今日は二限目からの講義で余裕もあったので、たまたま近くを通りかかったキッチンカーで買ってみたんです。結構有名なホテルのシェフが調理したらしいですよ」
「……納得です」
彩りが綺麗でボリュームもあるそれは、どう見てもコンビニやその辺の弁当屋で買えるようなシロモノではない。篠井にとっては給料日のご褒美に、ちょっと奮発した夕食、くらいのクオリティだ。こんなド平日の昼休み、ただ空腹を満たすために購入するような弁当ではなかった。
「篠井くんは、食べ物の好き嫌いとかあるんですか」
そういえばいつの間にか、崎坂が篠井へ呼びかける際、「さん」ではなく「くん」づけになっていた。しかし年下の自分に相変わらず敬語ではあるし、きっと彼の場合もっと砕けた口調になったとしても、篠井を下に見ているとかそういういうことではないのだろう。
自分と違う人種の他人を信じることは、篠井にとって苦手なことのはずだった。けれどこの短時間で篠井はなぜか、崎坂が自分を軽んじたり、虐げたりなんてするはずがないと、どこか信用し始めていた。
「えっと……好きな物はいっぱいありすぎて。……嫌いな食べ物、かあ……」
「何かあります?」
「たぶん、すぐに思いつくようなものはないです。……あえて言うなら、生のトマトかな……でも食べられないわけじゃないし。肉も魚も野菜も、だいたい好きです」
「そう。健康的でいいですね。じゃあ、ハイ。あーん」
どういう流れでそうなったのか。肉を摘まんだ箸が目の前に伸ばされる。篠井は右手に鮭おにぎりを持ったまま固まってしまった。
「え? えっ……!?」
「このローストビーフ、美味しいですよ」
「いや、あの……?」
「あ、潔癖症ですか。他人の箸とか無理なタイプ?」
「そう……いう、わけでは、ないんですけど……」
綺麗な桃色に染まったローストビーフは、もちろんとても美味しそうだ。しかも鼻先にぶら下げられて、香ばしく甘いソースの匂いだって漂ってくる。
相手が学生時代の男友達なら、何も戸惑うことなくぱくりとかぶりついているだろう。
「いい……ん、ですか……?」
「どうぞ。召し上がれ」
崎坂は何も臆することなく即答した。これくらいのコミュニケーションなどさも当然、というべき態度だ。困惑している篠井を急かすことなく、眼鏡越しに垂れ目がちの瞳を細めて、ただにこにこと笑いかけてくる。
こうなると、変に意識している自分の方がおかしいのでは、という気にすらなってきた。崎坂にすれば野良猫か何かに、気まぐれで餌づけしようとしているだけかもしれない。
それでもやっぱりほぼ初対面のようなもので、しかもいい年齢の男同士で、おかしくないことはないと思う。
先ほど学生たちに対応している崎坂からは、変な誤解を生まないよう、それなりに警戒している空気を感じた。しかし彼が今対面している相手は、しがない事務職員の男だ。微塵も間違いの起きそうもない相手に、ガードがゆるゆるになってしまったのだろうか。完全に距離感がバグっている。
「……ん、いただき、ます」
艶々したローストビーフの魅力に負けて、篠井は素直に口を開いてしまった。それにしても、崎坂の容姿と声から繰り出される「あーん」は破壊力が強すぎる。
しかし食い意地に敗北した自分自身へ消沈したのは一瞬だった。
「え、これ、すごい美味しいです! 肉柔らかっ! そもそもこのソースだけで白米食べられる……さすがホテルクオリティ……」
噛み締めながら幸福に浸っていると、崎坂が心底おかしそうにくすくすと笑い出す。
「気に入ってもらえたならよかった。もう一枚食べます?」
「いやいや、そういう意味じゃ、……ていうかそれって崎坂先生のランチですよね。厚かましすぎます」
「うーん。そんなに喜んで食べてもらえたら、この牛さんも本望だと思うんですけどねえ」
「牛さん、って……」
「それにコンビニおにぎり二個だけじゃ、足りなくないですか。いつもお昼はそんな感じ?」
「……えっと、今日は少し寝坊して、あまりゆっくり選ぶ暇もなかったので」
篠井は手元のおにぎりへ視線を落としながら、ぎゅっと胸が軋むような、情けない気持ちになった。
寝坊したのは本当だ。昨夜は趣味のゲームに熱中し、夜ふかししてしまった。社会人として恥ずかしすぎる理由だ。
今朝かけていたアラームも無意識に止めてしまったらしく、飛び起きたのは通勤時間を加味してギリギリの時間。当然朝食を食べる余裕もなかった。
顔を洗って、慌てて身支度を整えて家を飛び出た。出勤途中のいつものコンビニで、いつものおにぎりを引っ掴んでレジに駆け込んだ。普段はそこにサラダを追加するか、昼休憩で学食に行く余裕があれば、総菜の小鉢を買い足したりする。けれど今日はそんな余裕もなかった。
よりにもよって、めずらしく他人と昼食を共にするタイミングで、ひとり暮らし成人男性の寂しい食生活を露呈してしまった。
まあ本当に仕事が切羽詰まる年度末のランチなんて、ゼリー飲料オンリーの場合もある。よって今日は自分史上最底辺、とまではいかないけれど。
ううう、と自身の不甲斐なさに唸っていると、二枚目のローストビーフが唇に突きつけられた。
「はい、タンパク質」
「え、ええー……」
困惑しつつ視線を上げる。すると眼が合った崎坂は愉しげな顔で、ぐいぐいとローストビーフを押しつけてきた。抵抗のつもりで閉じた唇へ完全に当たっている。
ここで拒否したら、篠井の口に触れてしまったそれを崎坂が食べるのだろうか。それはそれで、何だか申し訳ない気持ちになった。
根負けしたのが半分、先ほどの美味が忘れられないのが半分。餌を待つ雛鳥か、と自らに内心悪態を吐きながら、おずおずと口を開く。
「ね、美味しい?」
「……はい。めちゃくちゃ美味しいです」
このローストビーフ、たぶんどっかのブランド牛とかA5ランクとか、そういう高級な肉なんだろうなあ。そう思いながら味わった肉を飲み込んだ。
手にしていたおにぎりをすぐさま齧る。こんなハイクラスなメインディッシュがおかずだなんて、コンビニおにぎりにはきっと荷が重すぎる。それでも俺はお前も大好きだぞ、いつもありがとうな、と心の中でおにぎりへ語りかけた。
「篠井くんに喜んでもらえてよかったなあ。ご飯を幸せそうに食べる人は、周りの人も幸せにするからね」
「え?」
「うーん、あと、少しは野菜も食べてもらいたいかな。はい、スナップエンドウ」
「む、……うん、何かこれ初めて食べました。ポリポリして美味しい、です」
「こっちはたまねぎのローストだって」
「うっわ、とろとろ。たまねぎってこんな甘くなるんですね」
崎坂は自分の弁当を手ずから与えながら、篠井の漏らす感想にいちいち微笑んで頷いた。同級生の男友達とだって、こんなやり取りをしたことなんかない。やっぱり距離が近すぎると思う。
けれどもし、年相応に幾人かの恋人と、それなりに深い付き合いをしていたら。友人間でもこの程度などたいしたことのない、取るに足らない行為に思えるのだろうか。
もしくは篠井が崎坂よりだいぶ年下だからという理由で、ただ子供扱いされているだけの可能性もある。
「あ、ポテトサラダも好き?」
「……はい」
崎坂の甲斐甲斐しい態度も、甘い笑顔も、自分に向けられているのがむず痒くて恥ずかしくなる。それ以上に、崎坂の優しさを突っぱねて、彼の笑顔を崩す方が嫌だとも思った。
地味な事務員の自分なんかが傲慢かもしれないが、崎坂は確かに今、篠井がこの場所で楽しく過ごすことを望んでいる。
この時だけの気まぐれかもしれない。それでも上司から理不尽な用事を押しつけられ、心がささくれ立っていたさっきの篠井を、崎坂が助けてくれたことは事実だった。
「……ん、このポテサラ! 胡椒効いてて大人っぽい味だ……えー、うわ、めっちゃうまい! ……わ、あっ、す、すみません……」
思わず口調が砕けてしまった。予定外の美味しいランチでテンションが上がっているのと、崎坂がいつの間にか敬語を崩していたことにつられたのだと思う。
謝罪の言葉と共に背を丸めた篠井の頭上に、「美味しく食べてくれる人にお裾分けできて、僕も嬉しいよ」と柔らかな声が降る。
篠井は照れ隠しに、ふたつめのおにぎりへと手を伸ばした。
「篠井くん。これからまたどこかへ移動してランチ広げて、とかやってると、どんどん食べる時間なくなっちゃいますよね。だからお昼もここで食べて行ってください」
「えっ!? で、でも……」
「僕もどうせ今からお昼ご飯だから。さっき言ってたデザートに行き着く時間がなさそうなら、おみやげに持たせてあげますよ」
崎坂はにっこりと微笑みかけながら、ふたりの間のローテーブルへ、彼のランチが入っているらしいビニール袋を取り出した。
「でもあの、昼休み中に資料を確認したいんじゃ……?」
「ああ、聞いてたのか。そんなの適当な断り文句ですよ。気にしないで」
口調も声も優しいのだが、いかんせん有無を言わせてもらえない。優秀でイケメンで、自分に自信しかないだろう男だからこその、この押しの強さなのだろうか。
それでも実際、彼の提案は篠井にとってありがたいものだった。
これから事務室に戻って自席で昼食を取るだなんて、雑用を押しつけてきた主任への当てつけのようだ。しかしわざわざ別棟の学食へ向かうのも時間がかかるし億劫だ。新緑が気持ちのいい季節になったキャンパス内では、屋外のベンチもあらかた埋まっているだろう。
しかしこうして強引に引き止めてもらえなければ、遠慮や恐縮が身についている篠井は、きっとむにゃむにゃと言い訳をして逃げ出していた。
「ありがとう、ございます……」
「うん。さ、早く食べましょう」
篠井はその言葉に頷いて、コンビニのビニール袋の中からお茶のペットボトルと、おにぎりをふたつ取り出した。
片方の包装をぐるりと剥いて、「いただきます」と小声で言ったあとにかぶりつく。もぐもぐと咀嚼しながら、研究室の中をこっそり見回した。
この大学は文系学部メインの、こぢんまりとした女子大だ。よって「研究室」とは名ばかりで、実際は教員個人に与えられた小さな執務室、といった方がしっくりくる。けして理系学部のラボのように、大がかりな設備や面積を持つ部屋ではない。
片づけベタな先生の場合、室内は乱雑に置かれた資料やら何やらで、溢れ返っている場合も多い。某テーマパーク通いが趣味だと公言している先生は、いたるところにキャラクターグッズやぬいぐるみを置いている。
似たような間取りでも、結構その主の色が出るものなのだ。
もちろんこの部屋だって、壁面の本棚には専門書がぎっしりと詰まっているし、殺風景というわけではない。ただ、快適で機能的な空間、という印象だ。小物類をモノトーンで揃えていることも、その雰囲気づくりを手伝っているのだろうか。
要するにスマートで大人っぽいというか、上品で垢抜けた感じというか。崎坂本人のイメージ通りだった。
女子大生諸君がこんなにもかっこいい大人の男を前にして、まだまだ子供な同い年の異性と見比べて、あげく崎坂に執心しまうのもわかる気がする。
「おにぎり、具は何が好きなんですか?」
黙ってコンビニおにぎりを齧っていると、崎坂が尋ねてきた。
「え、あー……これは鮭ですね」
「もう一個は?」
「こっちは昆布です」
「へえ。結構渋いのが好みなのか。若い子は絶対、ツナマヨ的なの選ぶのかと思ってたんですけど」
「絶対って……」
ふ、とその言い草に思わず笑ってしまう。若い子呼ばわりされたことも照れくさかった。
もう二十六歳の篠井も、一応アラサーに足を突っ込んでいる。対して崎坂は四十近いらしいけれど、すっきりとスマートな体形を維持しているせいか、実年齢より若く見える。
ひと回りほど年上であることは知っている。けれどこんな美丈夫におじさんぶった言い方をされると、何となくくすぐったいような違和感があった。
「崎坂先生のランチ、豪華ですね」
「ああ、このお弁当ね。今日は二限目からの講義で余裕もあったので、たまたま近くを通りかかったキッチンカーで買ってみたんです。結構有名なホテルのシェフが調理したらしいですよ」
「……納得です」
彩りが綺麗でボリュームもあるそれは、どう見てもコンビニやその辺の弁当屋で買えるようなシロモノではない。篠井にとっては給料日のご褒美に、ちょっと奮発した夕食、くらいのクオリティだ。こんなド平日の昼休み、ただ空腹を満たすために購入するような弁当ではなかった。
「篠井くんは、食べ物の好き嫌いとかあるんですか」
そういえばいつの間にか、崎坂が篠井へ呼びかける際、「さん」ではなく「くん」づけになっていた。しかし年下の自分に相変わらず敬語ではあるし、きっと彼の場合もっと砕けた口調になったとしても、篠井を下に見ているとかそういういうことではないのだろう。
自分と違う人種の他人を信じることは、篠井にとって苦手なことのはずだった。けれどこの短時間で篠井はなぜか、崎坂が自分を軽んじたり、虐げたりなんてするはずがないと、どこか信用し始めていた。
「えっと……好きな物はいっぱいありすぎて。……嫌いな食べ物、かあ……」
「何かあります?」
「たぶん、すぐに思いつくようなものはないです。……あえて言うなら、生のトマトかな……でも食べられないわけじゃないし。肉も魚も野菜も、だいたい好きです」
「そう。健康的でいいですね。じゃあ、ハイ。あーん」
どういう流れでそうなったのか。肉を摘まんだ箸が目の前に伸ばされる。篠井は右手に鮭おにぎりを持ったまま固まってしまった。
「え? えっ……!?」
「このローストビーフ、美味しいですよ」
「いや、あの……?」
「あ、潔癖症ですか。他人の箸とか無理なタイプ?」
「そう……いう、わけでは、ないんですけど……」
綺麗な桃色に染まったローストビーフは、もちろんとても美味しそうだ。しかも鼻先にぶら下げられて、香ばしく甘いソースの匂いだって漂ってくる。
相手が学生時代の男友達なら、何も戸惑うことなくぱくりとかぶりついているだろう。
「いい……ん、ですか……?」
「どうぞ。召し上がれ」
崎坂は何も臆することなく即答した。これくらいのコミュニケーションなどさも当然、というべき態度だ。困惑している篠井を急かすことなく、眼鏡越しに垂れ目がちの瞳を細めて、ただにこにこと笑いかけてくる。
こうなると、変に意識している自分の方がおかしいのでは、という気にすらなってきた。崎坂にすれば野良猫か何かに、気まぐれで餌づけしようとしているだけかもしれない。
それでもやっぱりほぼ初対面のようなもので、しかもいい年齢の男同士で、おかしくないことはないと思う。
先ほど学生たちに対応している崎坂からは、変な誤解を生まないよう、それなりに警戒している空気を感じた。しかし彼が今対面している相手は、しがない事務職員の男だ。微塵も間違いの起きそうもない相手に、ガードがゆるゆるになってしまったのだろうか。完全に距離感がバグっている。
「……ん、いただき、ます」
艶々したローストビーフの魅力に負けて、篠井は素直に口を開いてしまった。それにしても、崎坂の容姿と声から繰り出される「あーん」は破壊力が強すぎる。
しかし食い意地に敗北した自分自身へ消沈したのは一瞬だった。
「え、これ、すごい美味しいです! 肉柔らかっ! そもそもこのソースだけで白米食べられる……さすがホテルクオリティ……」
噛み締めながら幸福に浸っていると、崎坂が心底おかしそうにくすくすと笑い出す。
「気に入ってもらえたならよかった。もう一枚食べます?」
「いやいや、そういう意味じゃ、……ていうかそれって崎坂先生のランチですよね。厚かましすぎます」
「うーん。そんなに喜んで食べてもらえたら、この牛さんも本望だと思うんですけどねえ」
「牛さん、って……」
「それにコンビニおにぎり二個だけじゃ、足りなくないですか。いつもお昼はそんな感じ?」
「……えっと、今日は少し寝坊して、あまりゆっくり選ぶ暇もなかったので」
篠井は手元のおにぎりへ視線を落としながら、ぎゅっと胸が軋むような、情けない気持ちになった。
寝坊したのは本当だ。昨夜は趣味のゲームに熱中し、夜ふかししてしまった。社会人として恥ずかしすぎる理由だ。
今朝かけていたアラームも無意識に止めてしまったらしく、飛び起きたのは通勤時間を加味してギリギリの時間。当然朝食を食べる余裕もなかった。
顔を洗って、慌てて身支度を整えて家を飛び出た。出勤途中のいつものコンビニで、いつものおにぎりを引っ掴んでレジに駆け込んだ。普段はそこにサラダを追加するか、昼休憩で学食に行く余裕があれば、総菜の小鉢を買い足したりする。けれど今日はそんな余裕もなかった。
よりにもよって、めずらしく他人と昼食を共にするタイミングで、ひとり暮らし成人男性の寂しい食生活を露呈してしまった。
まあ本当に仕事が切羽詰まる年度末のランチなんて、ゼリー飲料オンリーの場合もある。よって今日は自分史上最底辺、とまではいかないけれど。
ううう、と自身の不甲斐なさに唸っていると、二枚目のローストビーフが唇に突きつけられた。
「はい、タンパク質」
「え、ええー……」
困惑しつつ視線を上げる。すると眼が合った崎坂は愉しげな顔で、ぐいぐいとローストビーフを押しつけてきた。抵抗のつもりで閉じた唇へ完全に当たっている。
ここで拒否したら、篠井の口に触れてしまったそれを崎坂が食べるのだろうか。それはそれで、何だか申し訳ない気持ちになった。
根負けしたのが半分、先ほどの美味が忘れられないのが半分。餌を待つ雛鳥か、と自らに内心悪態を吐きながら、おずおずと口を開く。
「ね、美味しい?」
「……はい。めちゃくちゃ美味しいです」
このローストビーフ、たぶんどっかのブランド牛とかA5ランクとか、そういう高級な肉なんだろうなあ。そう思いながら味わった肉を飲み込んだ。
手にしていたおにぎりをすぐさま齧る。こんなハイクラスなメインディッシュがおかずだなんて、コンビニおにぎりにはきっと荷が重すぎる。それでも俺はお前も大好きだぞ、いつもありがとうな、と心の中でおにぎりへ語りかけた。
「篠井くんに喜んでもらえてよかったなあ。ご飯を幸せそうに食べる人は、周りの人も幸せにするからね」
「え?」
「うーん、あと、少しは野菜も食べてもらいたいかな。はい、スナップエンドウ」
「む、……うん、何かこれ初めて食べました。ポリポリして美味しい、です」
「こっちはたまねぎのローストだって」
「うっわ、とろとろ。たまねぎってこんな甘くなるんですね」
崎坂は自分の弁当を手ずから与えながら、篠井の漏らす感想にいちいち微笑んで頷いた。同級生の男友達とだって、こんなやり取りをしたことなんかない。やっぱり距離が近すぎると思う。
けれどもし、年相応に幾人かの恋人と、それなりに深い付き合いをしていたら。友人間でもこの程度などたいしたことのない、取るに足らない行為に思えるのだろうか。
もしくは篠井が崎坂よりだいぶ年下だからという理由で、ただ子供扱いされているだけの可能性もある。
「あ、ポテトサラダも好き?」
「……はい」
崎坂の甲斐甲斐しい態度も、甘い笑顔も、自分に向けられているのがむず痒くて恥ずかしくなる。それ以上に、崎坂の優しさを突っぱねて、彼の笑顔を崩す方が嫌だとも思った。
地味な事務員の自分なんかが傲慢かもしれないが、崎坂は確かに今、篠井がこの場所で楽しく過ごすことを望んでいる。
この時だけの気まぐれかもしれない。それでも上司から理不尽な用事を押しつけられ、心がささくれ立っていたさっきの篠井を、崎坂が助けてくれたことは事実だった。
「……ん、このポテサラ! 胡椒効いてて大人っぽい味だ……えー、うわ、めっちゃうまい! ……わ、あっ、す、すみません……」
思わず口調が砕けてしまった。予定外の美味しいランチでテンションが上がっているのと、崎坂がいつの間にか敬語を崩していたことにつられたのだと思う。
謝罪の言葉と共に背を丸めた篠井の頭上に、「美味しく食べてくれる人にお裾分けできて、僕も嬉しいよ」と柔らかな声が降る。
篠井は照れ隠しに、ふたつめのおにぎりへと手を伸ばした。
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