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お届け物と対人スキル

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崎坂裕介さきさかゆうすけ
 目の前のドアにぶら下がっているネームプレートを確認する。次に今抱えている荷物の宛名と見比べて、篠井しのいハルキはひとりで小さく、ウンと頷いた。そこは間違いなく目的の人物の研究室だ。
 しかし部屋の中から話し声が聞こえてきたのでそっと耳を澄ませた。けして盗み聞きしたいわけではない。あくまで配慮のためだ。
 このこぢんまりとしたミッション系の女子大学で、篠井は事務職員として働いている。もし崎坂と在室しているのが大切な客人であれば、無粋に声をかけない方がいいだろう。

「ねえ、サキセン、一緒にランチ行こうよー」
「あ、それいいー!」
「でしょ? ほら、私たちがちゃんとレポート出せたご褒美ってことで!」

 軽い口調に甲高い声がふたり分、ドアを隔てた向こうから響いてきた。どうやら崎坂准教授と一緒に中にいるのは、彼の講義だか演習だかを履修している学生らしい。

「いやいや。学生はみんな、与えられたレポートは提出するものだからね。そもそもその『サキセン』って何なの?」
「えー? 崎坂せんせーだからサキセン!」
「先生の名前を勝手に略すんじゃないよ。とりあえず君たち、休み時間が終わらないうちに早くご飯を食べに行きなさい」

 耳触りがよく低い男の声は、きっと崎坂本人のものだ。以前、同僚の女性職員たちが「見た目ももちろんかっこいいんだけど、声までイケボで完璧なんだよねえ」と噂していた。
 見た目がイケメン、という評価にも異論はない。三十代後半らしいけれど実年齢より若々しく見えるし、いずれは教授になる可能性が濃厚で、おまけに独身。そんな優良物件に女性たちが喰いつかないわけがない。

 今、崎坂にキャアキャアと話しかけている学生たちも、やはり彼との距離を詰めて、特別扱いしてもらいたいのだろう。大人の男が魅力的に見えるお年頃だ。恋人の座を狙っていてもおかしくはない。
 彼女たちは〈若さ〉を自らの武器だと確信しているし、「自分には価値がある」と無邪気に自惚れている。そして実際、それは事実だ。だから年上の教員相手にもああして馴れ馴れしいほど、強気で接することができるのだろう。
 篠井が彼女たちと同じ年齢の頃はむしろ、〈若さ〉を持て余していたように思う。たぶん男女差の問題ではない。篠井は昔から派手なことが苦手で、地味な陰キャというやつだった。華々しい青春の思い出なんか、記憶をいくらたぐっても出てこない。自己肯定感の低い篠井にとって、〈若さ〉は〈未熟〉の証しにすぎなかった。

「でも崎坂先生もこれからランチでしょ? 一緒に学食行こうよー」

 なおも重ねられた、甘ったるい誘いの声にハッとした。学生たちのリア充パワーに圧倒されて、一瞬立ち尽くしてしまっていたようだ。
 こんな廊下の片隅でグズグズしている場合ではなかった。ありがたいことに目的の崎坂は在室中だ。聞こえてくる会話からして、声をかけることに遠慮もいらない。
 昼食前に押しつけられた雑用は、幸いにも最短スピードで終えられるだろう。

 篠井は小さく息を吐き、気合いを入れる。そうして目の前の扉をノックしようとした――はずだった。
 しかし中指の背で叩くつもりだったドアは突然、内側から勢いよく開かれた。外開きの戸が顔面にぶつかりそうになる。篠井は慌てて身を引きながらたたらを踏んだ。
 その結果なぜか、扉の陰に隠れるような恰好になってしまった。

「学食でゼミ生とご飯食べてる先生、結構いるよ?」
「ね、おねがーい!」
「急いで目を通したい資料があるから、僕は昼食を取りながらお仕事です。ほら、早く出てって」

 断られてもなおぐいぐいと迫る女の子たちの明るい声と、欠片も狼狽せずいなす男の声。どちらの立場になったとしても、篠井には絶対そんな振る舞いはできない。
 もし篠井が彼女たちなら、少しでも拒絶の意思を示された時点で委縮して、速攻で逃げ出す。そもそも好意を寄せる相手を誘うだなんて芸当自体、できる気はしない。
 反対に崎坂の立場だったら動揺して、困惑して、一方でチョロいくらい舞い上がりもして、石像のごとくカチコチにフリーズする。しかも爪先からつむじまで、情けないほど真っ赤に染まるだろう。
 結論、人間関係――特に恋愛沙汰の実戦をあまたくぐり抜けてきたリア充は、篠井にとっては理解の範疇外すぎる。彼らと比べたら篠井の心臓など、よわよわのおぼろ豆腐だ。

 今後もこういう人種とは、できるだけ関わらずに生きていきたい。篠井がそんな決意を固めている間に、女子ふたり組はようやく諦めたらしい。「今日の学食、日替わりメニュー何だろー」なんてお喋りをしながら廊下を遠ざかって行った。
 その後ろ姿をこっそり眺める。男ウケのよさそうな、華やかだけど派手すぎない綺麗めな服装と髪型。顔は見えなかったけれど、あきらかに異性からチヤホヤされ慣れていそうな子たちだ。スクールカーストで言えば一軍、もしくは二軍の上位層か。
 篠井自身はファッションにさほど興味がない。流行り廃りの早い女性の服なんてなおさらだ。しかし女子大の職員として毎日たくさんの学生を見ているから、何となくの系統は察せられる。
 ただし系統立てられるというだけだ。ほとんどの女性、特に勤め先の学生たちは、篠井にとって異星人でしかない。

 やっと嵐が去ったとばかりに、ドアを隔てた向こうで部屋の主が溜息を吐いた。もちろんその裏に隠れている事務員の存在になど、気づいていない。
 今篠井が抱えている箱の中身は、崎坂が仕事で必要としているものだ。また邪魔が入る前にさっさと渡してしまわないといけない。
 ドアが閉まりかけたタイミングで、篠井は意を決して飛び出した。

「あのっ! 崎坂先生!」
「えっ、……は、はい?」

 当然のことだが、崎坂をひどく驚かせてしまったらしい。細いメタルフレームの眼鏡の向こうで、いつも涼しげな眼を見開いている。
 そうして呆気にとられている時ですら、彼の姿は美しく絵になった。
 すっきりとした輪郭に、通った鼻筋。整った顔貌には嫉妬するどころか、「この人は神様に特別愛されて造形してもらったのかなー」なんてふわふわした感想しか出てこない。
 背が高く、スタイルもシュッとしていて、一定年齢以上の男にありがちな腹部の緩みとも無縁らしい。今日は水色のボタンダウンシャツに、紺色の柔らかな素材のセットアップをあわせていた。カジュアルながら上品で、崎坂によく似合っている。
 シャープな顔立ちと長身のイメージに反し、どこか甘さが滲むのは、柔和な目元のせいだろう。ビターブラウンに染められた髪はパーマをかけているのか、柔らかなウェーブを描いている。優しげな垂れ目の印象を後押ししていた。

 篠井はというと、紳士服量販店で買った「二枚目半額」的な吊るしのスーツで彼と対峙している。一応ちゃんとした社会人に見えていればいいや、と選んだものだ。
 しかしこうして容姿どころか、ファッションセンスも抜群らしい崎坂と並ぶと、生物としての圧倒的な差がかさ増しされるようで、ますますつらい。

「え、えーと、すみません……その……」
「うん?」

 自分が声をかけたくせにオドオドしている篠井に、崎坂は小さく首を傾げながら微笑んでくれた。
 本当はただ荷物を渡せば済むだけのことだ。しかしできれば、ドアの死角に不審者よろしく潜んでいたことは弁解したい。タイミング的に、会話を盗み聞きしていたこともバレているだろうから、余計に気まずかった。緊張で言葉が詰まる。
 崎坂は「一緒にいたい」と食い下がる女の子たちを、やっと帰したところだ。そんな彼の一分一秒を、自分がさらに消費してしまっている焦りも湧く。

「……ああ。もしかして、お待たせしちゃいましたか」

 柔らかな声で尋ねられて、びくっと肩が跳ねた。崎坂は眼鏡越しにまっすぐ視線を合わせてきつつ、申し訳なさそうに眉を下げている。むしろこちらの方が、いろいろと申し訳なさでいっぱいだ。
 それにしても、地味な男性職員の篠井ごときへの対応にもそつがない。篠井の挙動不審さをそっとスルーし、自分に否があるような言い方で、会話の糸口を作ってくれる。さすが女子大生からも好意を寄せられるモテ男だ。

 しかし対する篠井はといえば、さらにどう返答すべきか困ってしまった。
 崎坂の「待たせたか」という問いに、YESと答えるのは人としてどうかと思う。しかしNOと答えれば、ドアの陰で不審者となっていた言い訳は立たない。
 いっそ聞き流してしまい、荷物を渡したら即逃げ出してしまうのはどうか。一瞬頭をよぎった選択肢は、きっと一番だめなルートだ。死角に身を潜め、会話を盗み聞きし、あげく何の説明もなく小包を押しつけて逃走する、名乗りもしない男。本気で通報されるレベルの不審者に格上げされてしまいそうだ。
 ぐるぐると考えすぎて言葉を発せないでいると、崎坂が歩み寄ってきて距離を詰めた。

「ねえ、きみ。大丈夫?」

 崎坂はそう囁きながら、人差し指の背でそっと篠井の頬へ触れてきた。心配そうに顔を覗き込まれる。
 皮膚の表面をひどく優しく滑る感触に、間近で見る美貌に、全身の肌がぞわっと粟立った。



「あ、ねえ! 篠井くん、今日の休憩って早番だよね?」

 そもそものことの発端は、いざ昼休憩という時に、教務課事務室の主任から声をかけられたことだった。性別や年齢で人を揶揄するのは篠井自身苦手な行為だが、彼女は同僚職員たちからいわゆる「お局」呼ばわりされている――要するに少し癖のある上司だ。
 実際彼女は、目上の職員や教員たちには媚びた態度で接する。しかし立場が自分より下と見れば、あからさまに態度を変えるところがある。
 この事務室内では若手なうえに内気な篠井など、パシリか何かだと思われている節すらあった。当然嫌な予感しかしない。

「えっと、……はい。今からですけど……」
「ああ、ちょうどよかったー!」
「えっ?」
「そしたらついでに、英文科の崎坂先生の部屋にこれ、持って行ってくれる?」

 差し出されたのは段ボールの小包。要するに崎坂の研究室へ送付物を運べ、という雑用の指示だ。
 あまり社交的ではない篠井のランチなど、ほとんどが今座っている自分のデスクで買ってきた物を食べるか、たまに学食へ足を向ける程度。対して崎坂の属する英文科の研究室は、別棟の上層階にある。
 要するにこれは、昼休憩の一部を潰して配達してこいという意味だ。
 理不尽すぎるだろ。ていうかパワハラだぞ。そんな言葉が胸の中に湧き、腹の奥で燻るが、悔しいかな態度として表には出せない。大人しく荷物を受け取ってしまった自分の気弱さを呪う。

「篠井くんほんと優しいよねえ。ジェントルマンで助かるわあ」

 主任は強引に雑用を押しつけておきながら、そう言ってわざとらしく笑った。
 もしも自分を紳士と呼ぶなら、そちらも淑女の気遣いを持ってくれませんかね。そう言って荷物を投げつけたい気持ちを、無理矢理に飲み込んだ。
 篠井は空腹のはずの胃の底がモヤモヤと重苦しくなるのを感じながら、小さな声で「いってきます」と呟いた。



 そんなわけでこれは、イレギュラーの雑用だった。篠井の今の目標は、抱えているこの荷物を確実かつ早急に崎坂へ受け渡し、自分のランチ時間を確保することだ。

「ええと、ノック……しようとしたら、突然ドアが開いちゃって……その、うまく出て行けなくなっちゃって。……びっくりさせて、すみません。お疲れ様、です……」
「うん、お疲れ様です。事務室の篠井さん、ですよね?」

 崎坂は困惑混じりだった表情をサッと収めてから、穏やかに微笑みかけてきた。
 今の篠井のしどろもどろな説明で、自分が扉の陰から突然、RPGのザコモンスターよろしく飛び出てきた経緯を、理解してくれたかは不明だった。
 それでもさすがはモテモテ色男の崎坂先生。きっと篠井が口下手なことをわかった上でサラリと流し、こちらが名乗る手間まで省いてくれた。こういうスキルがモテ偏差値を上乗せするんだな、と心の中で頷く。
 そもそも職員が教員陣を把握しているのは当然として、崎坂の方もこんな地味な下っ端職員の顔と名前を、ちゃんと記憶に留めてくれていたらしい。その事実に、内心かなり驚いていた。

「その、お届け物です」

 篠井はおずおずと、運んできた段ボール箱を差し出した。両手で難なく抱えられるその荷物は、大きさも重さもたいしたものではない。上司の説明によれば、中身は崎坂が取り寄せた資料書籍とのことだった。

「ああ、そうか。ありがとうございます。連絡をもらえたら自分で取りに行ったのに」
「いえ、そんな……」
「これ、注文してからなかなか届かなかったんですよ。待ちきれなくて、僕が何度も事務室に問い合わせてたから、きっとこんな時間にお使いに出されちゃったんですよね?」

 崎坂は荷物を受け取りながら、笑顔のまま困ったように眉を下げる。眼鏡レンズ越しの視線が一瞬チラリと、篠井が腕に下げているビニール袋へ向けられた。篠井の置かれている立場などお見通しらしい。
 イケメンでスタイル抜群なだけではなく、若くして大学准教授となっただけあって、当然非常に賢い人なのだ。出世の早さからして、お勉強スキルだけでなくコミュニケーション能力もあるのだろう。

 本来、この大学関係者宛に届いた荷物は、午前中を締め切りとしてすべて仕分けられ、宛名の人物の元へ運ばれる。急ぎでない限りそのルーティーンで、昼休み前にはすべて届け終わることになっていた。
 ただし急を要する場合や、予め指示があった場合は別対応だ。何度か事務室へ問い合わせていたという崎坂の荷物も、事務方の配慮でその扱いになったのだろう。

「急ぎだったのに、その、遅くなって申し訳ありませんでした」
「いや、そういうことじゃなくて!」

 少しだけ大きな声を出した崎坂が、気遣わしげな目で見つめてくる。
 正直こんな時、教員側から「ありがとう、助かった」のひとことでもあれば充分だと思う。私用の届け物ならまだしも、仕事で必要な荷物であるなら、それは間違いなくサポート側の自分の仕事だ。
 それに篠井の休憩時間に雑用を押しつけたのは、あくまで事務室の主任だ。誰かに転嫁して腹を立てるつもりもない。

「あの、崎坂先生が、気にされることではないので……」
「でも篠井さんのランチ休憩、まさかこの配達時間も含めて、なんてことにはなりませんよね?」
「う、……えっと……」

 注がれる真摯な眼差しにドキドキして、上手な嘘がつけなかった。
 死角のないイケメンというのはどこまで完璧なのか。あまり接点のない、こんな影の薄い事務職員にまで優しく、気を使ってくれるらしい。
 篠井は見た目からして地味な陰キャだと思う。学生時代から拗らせている人見知りもあり、他人に踏み込むことがひどく苦手だ。当然友人もある意味少数精鋭で、これまでできるだけ気配を消して生きてきた。馴染みがない人間とのコミュニケーションなんて、苦痛でしかない。
 ましてや「モテ要素全部詰め選手権、アラフォーの部優勝!」みたいな崎坂とこうして押し問答をしているだなんて、篠井には荷が重すぎる。
 うまい方便でも何でも使って逃げ出したい。しかし篠井がそんなコミュ強の高等スキルを持ち合わせているわけがなかった。
 うろうろとさまよわせた視線は、最終的に自分の足元へと落ちる。縮こまって背を丸めた。何を言えばいいのか焦れば焦るほど、言葉は喉の奥に引っかかってしまう。

「……ちなみに、スイーツは好きですか?」

 唐突な問いかけだった。いっそ泣き出したい気持ちになっている篠井の頭上に、ふわりと降ってきた声。思わず顔を上げると、眼鏡の向こうでふんわりと細められた眼が篠井を捉えている。
 予想もしなかった質問への戸惑いと、不可解すぎる問答の意図に、ますます返答ができなくなった。はくはくと声の出ないまま唇を開く。
 そんな篠井を見下ろす崎坂は、ぐずる子供を前にしたように苦笑した。

「ねえ。篠井くん。甘い物、好き?」

 ぎくしゃくと反応の悪い篠井に焦れたのか、いよいよ幼児に語りかけるような口調になる。

「えと、すき、……です」
「それはよかった」

 崎坂の整ったかんばせが嬉しそうにほころんだ。
 何がいいのだろうか。たぶんよくはない。絶対、何もよくない気がする。それなのに引き寄せるようにスーツの背中に手を置かれて、ジャケット越しに感じる大きな手の温度や、感触に脳内が大混乱している間に、篠井はなぜだか彼の研究室の中へと誘導されてしまった。
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