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ヤズ (1)

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ヤズと初めて会ったのは「ペパーミントライノ」という香港のバーで、そのバーは、酒場というよりは売春宿だった。大倉研究所は香港にある。定期点検、検査、その他の調整のために、ミロは3か月から4か月に1回、必ず香港の大倉研究所に立ち寄らなければならない。ミロは「バリアント」だ。遺伝子レベルでの生体組み換えを施されているバリアントは、世界でも恐らく150体未満だと言われている。藤永研究所は、ヨーバリンダテクノロジーからの支援を受け、世界でももっとも早くバリアントの研究を開始している。藤永ロイド博士の死後、その成果と遺志を受け継いだのは、大倉研究所を主催する大倉孔明だった。藤永、大倉の両研究所には、二階堂家から巨額の資金が長期にわたって投入され続けている。

忍が、どこかの財閥の女性と逢瀬を重ね「結婚するかもしれない」という噂が、日本のマスコミに流されてしばらく経つ。「結婚する」ということはどうでもよかったが、忍がそれなりに浮かれていることだけは伝わってきた。ミロにとって、それは何らかの変化を意味する。忍の両親は「結婚」していなかった。忍の父親は、盆の時期と年末に忍と葵を連れて「妻」である坂本雅子のところに出向いていた……それがミロにとっての結婚の理解だ。
忍が結婚した後、自分はどうなるのだろう…? というのがミロの懸念だった。忍の両親は、結婚していなくても同居していた。だから、ミロが「ホーム」に隔離されていたときのように、忍から引きはがされることはないだろうとはわかっていた。けれども、ミロは今の忍との関係が変化することそれ自体が嫌だった。

香港基地に到着してから5時間の間、忍に3回電話して、3回とも留守番電話に切り替わった後、ミロは全部忘れることにした。「ペパーミントライノ」は、九龍の旧市街地にある。大倉研究所は、湾仔にあったが、ミロは九龍の雑然と混沌の中に身を置くと安心する。だから香港に滞在するときは、香港島で用を済ませるとすぐに九龍に移動する。
10年前にシンガポールに水爆が投下され廃墟となって以来、香港はアジアの金融中心街としてその機能を果たさざるを得なくなっていた。幾度もの中国本土からの干渉を受けながら、危ういラインで香港は独自の位置を維持し続けている。中国本土の政局の複雑さに翻弄され続ける香港は常に台風の目だ。
「ペパーミントライノ」は、世界中から香港に集まってくる人々とその財に集まる女性たちが毎晩のように祭りを繰り広げる舞台だ。
ミロが「ペパーミントライノ」に入ったのは23時前だった。日付が変わって少しした頃に、ミロはバーカウンターで、ロングアイランドアイスティーを3杯飲んでいた。
「このツォンズ(粽子)を一緒に食べない?」
泥酔したミロにそう誘ってきたのがヤズだった。ミロは、この2日ほど酒を飲み続けていてろくな食事をしていない。その男が手に持っている粽子は魅力的に見えた。
ミロの180cmに迫る身長と、国籍不明の顔立ちのせいで、アジアのバーでは、ミロが相手を見つけるのには時間がかかる。だから、ミロよりも背が高く体躯の良い男が、美味しそうな食べ物をもって目の前に現れたチャンスを無碍にはできない。ミロは、顔をあげてその男を見た。目が合うと、男は相好を崩した。その表情があまりにも無邪気で思わずミロは微笑んだ。ミロが緊張を緩めた様子を見ると、男は、無精ひげに覆われた口を大きく開けて笑った。
「軍人?」
「だね。」
恐らく軍人だろうな、と思っていたミロの予感は当たった。
「…名前?」
「…ああ、ヤズ・クローネンバーグ。」
ヤズは、ミロの隣のスツールに座ると、Zippoのライターでマルボロに火を付け、大きく煙を吐き出した。マルボロの独特の匂いに別の懐かしい香りがミロの脳髄を刺激する。「イヴ・サンローランのジャズ」とすぐにわかった。忍が好んでつけるオードトワレだ。
「日本防衛軍の外国人部隊、南方師団、香港大隊所属。准尉だ」
ミロの目を見てそう言った。日防が、外人部隊に破格の給料を出すことは、世界中に知られていた。日防の外人部隊にいることは、エリートの査証だ。しかし、ヤズは自分がなぜ本名と所属まで、彼女に言っているのかわからなかった。「ライノ」にいる女は、99%売春婦だ。
ミロは、ヤズのウィスキーのグラスを勝手に口に運んでぐいと飲むと、クスクス笑いながら言う。
「香港人には見えない」
「当たり前だろ。クローネンバーグなんて名前の中国人がいるかよ」
「…どこの国?」
ヤズは、ミロの顔をまじまじと見つめる。プラチナブランドと、アジア人の面影を残しながらも、緑色の瞳を持つミロは、まったく民族性がわからなかった。
「……お前がそれをきくのか? 俺は、見た目通りのドイツ人だ」
ミロはすました顔で、ヤズのウィスキーをすすりながら何も言わない。
「お前は?」
「私は、日本人だよ」
思いがけない返答にヤズは戸惑った。
「日本人? 冗談だろ、お前はどう見たって…」
言いかけたヤズの唇をミロが塞いだ。ミロはここに来る前に、本数を忘れるほどのビールにギムレットを3杯飲みほしている。すべてを忘れたかった。
ヤズは驚いたが、ミロの口づけにすぐに応えた。温かく湿った舌が口内を這いまわる。覆いかぶさってくるヤズの股間がこすりつけられる。固く大きなものをミロは下腹部に感じる。
「お前、名前は?」
日本人以外の男は、必ずミロの名前をきく。ミロは嘘をつかないし、つく理由もない。
「ミロ」
ヤズは、今度は自分からミロの唇に再び口づけして、ミロの肩を抱くと傍らを通りかかった年増の小姐に、ミロと「個室」に行くと伝えてチップを多めに握らせる。いつもの手順だ。ついでにボトルで飲み物を注文すれば、邪魔をされる頻度は格段に減る。ヤズは、その小姐にスミノフを1本注文するのを忘れなかった。
深夜1時を過ぎると個室に行く客が大半になり、店内に流れるバックグラウンドミュージックがスローテンポのムードミュージックに変わる。
ミロは、ヤズがたまに相手をする売春婦のように思い存分酔っていたが、ヤズはミロのその目に惹かれずにいられない。
「お前、ただの売春婦じゃないな?」
ヤズはそう言って、ミロの顔を覗き込む。ミロは、目を細めると唇の端をほんの少し上げて笑みを浮かべる。次の瞬間、溶けるような笑顔をヤズに見せた。ヤズも相当酔っていたが、ミロの微笑みに心を奪われるのは嫌だった。だから、ミロをソファに押し倒すと、すぐに彼女の長い足を折り曲げてM字に広げる。ピンク色のシルク下着のクロッチ部分を二本の指で何度かこすり上げると隙間から薬指を差し込む。潤いは十分どころか、思わずヤズの口元がほころぶほどになっていた。思わずそのまま下着を引き下ろすと、そこは手入れがよく行き届いていたので、欲望のままに舌を這わせる。ミロのその反応をみると、ミロが商売女ではないことは、ヤズにはすぐわかった。だから、ヤズは1回では終わらせることができなかった。
3回目か4回目の性交が終わった後、並んだ個室にいるのはミロとヤズだけになっていた。脳髄を引きずり出すほどに鳴り響いていた大音量の音楽はとっくに鳴り止んでいる。麝香の香りの代わりに、床を磨く洗剤と消毒薬の匂いが鼻を衝く。ソファを並べただけの狭い個室のカーテンの向こう側では、浅黒い肌の従業員が、黙々と動き回って片付けと消毒をしている。
ヤズは、ミロを引きずるようにして連れ出すと、黄色いタクシーを拾い、九龍地区にある自分のアパートに連れていく。タクシーを降りると通りには、ストリートフードの朝食粥の匂いが漂っている。ヤズが借りている42平米の2ベッドルームは、今にも崩れそうな48階建てアパートの18階にあって、その一室にはドイツから連れてきた父親違いの妹が眠っている。
ヤズは父親を知らない。父親は監獄で死んだと言われてきた。母親はヤズが物心ついた頃からアルコールと処方薬のオピオイドに夢中になっていて、ヤズが13歳のときオーバードーズで死んだ。親戚中をたらいまわしにされた挙句、ようやく高校を卒業した。ヤズが奨学金をもらって進学したのは軍事大学だ。就職先として、最高の給料を出すことを約束したのが、日防の外人部隊だった。
妹は、母親がオピオイド中毒になってから生まれた、オピオイド・ベビーだ。母親の胎内にいたときから、オピオイドに晒されて生まれたときに既に中毒になっていた。早産での生後直後から離脱症状に苦しんだ。体が弱く、大鬱と極度の不安障害の症状に苦しみ薬が欠かせない。妹の薬代やセラピーの治療代をねん出するために、日防の給料はヤズにとってなくてはならないものだった。妹を守ることは、ヤズが生き続ける目的だった。ヤズが軍事大学へ進むことを決意した唯一の理由は、最低賃金で働いていては、妹を支えることはできないのは明らかだったからだ。
ヤズはアパートメントに入ると、妹が静かに眠っているのを見届け、自分の部屋のベッドにミロをドサリと降ろした。ミロの半分眠りかけの朦朧とした様子は、ヤズの母親を思いこさせた。ヤズの母親も、ミロのようにベッドに雪崩れ込んでいたことを思い出す。
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