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始まりの時

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心を石にできれば、絶対に傷つかない。
毎日を懸命に生きていれば、必ずいいことがある。

辛い日々をやり過ごすための、自分を騙す呪文。

けれど、現実は……。

どんなに願っても心は傷つき、懸命さは利用したい人にとっては好都合でしかなく───むしろ、更なる努力を当たり前のように課してきた。

それは赤ん坊が、満たされぬ欲求を全力で求め続ける果てしなさに似ている。

赤ん坊はいずれ大きくなって、いつかは収まるものだけれど。

大人たちのそれは、止まらない。
受け入れざるを得ない立場の人間がいる限り。

それが単なる、ストレスのぐちだったとしても、“その環境”においての権力者相手に、何ができたというのだろう。

私の立場は、とても弱い。

───何をしようと、どう足掻あがこうと、評価し、物事を動かすのは結局は他人。その“他人”が変われば、私もまた立場を変えることができるのかもしれない───。



「絶対、嫌です!!」

「ウドレッダ姫、落ち着きなさい!!」

私が掃除をしていると、部屋に喧嘩しながら親子が入って来た。

この部屋の持ち主、ウドレッダ姫。彼女は髪を振り乱して、泣きながら父王にわめらす。

関わらないほうがいいわ。
こういう時は黙々と、手を動かすに限る。

粛々と掃除する私に気づきもせず、二人の言い争いはヒートアップしていった。

「これは決定事項だ! ウドレッダ姫!」

「誰が……誰が鬼のところへ人身御供ひとみごくうとして、行くものですか! すぐに引き裂かれて、殺されてしまうわ!!」

「これも、王国のためだとわからぬのか!?」

「自分のためでしょ!?」

「!!」

「鬼の宝珠ほうじゅなど、返してしまえばいいのに!!」

「ウドレッダ!! 生意気なことをっ……ん?」

王の視線が、背中に刺さる。嫌な予感…….。
カツン、カツン、カツン。
ともをつれた、王の足音が近づいてきた。

「おい、そこの侍女を立たせろ」

「は! 王様!! おい、立て!!」

「きゃ!!」

床の拭き掃除をしていた私は、無理矢理立たされた。

人身御供ひとみごくうは、王家の直系でなくてはならない……か。ここにもいたな、かつての姫君が」

「痛……!!」

「なあ? 廃嫡はいちゃくされた皇太子の娘、クローディア」

「……!!」

私の背筋が硬直し、恐怖から震え始める。
な、何? なんなの?

「本来であれば、権力闘争に負けたお前の両親ともども、始末しても良かったのだがな……まだ幼かったお前に情けをかけて、今日まで生かしてきてやった」

「お、おじ様……痛い!」

「王だ! テス王と呼べ!! お前の父親の弟とはいえ、今は私が王なのだ!!」

「も、申し訳ございません、テス王」

「クローディア……今日まで侍女として、ウドレッダにつかえさせてやった恩を返してもらおう」

「!!」

人身御供ひとみごくうとなり、鬼の一族に仕えるのだ。もちろん、この国の姫として」

「え!」

「うふふ、それは、いいお考えですわ、テス王。いいえ、お父様」

ウドレッダ姫が、テス王の後から顔を出して、嫌な笑顔で見つめてくる。

さっきまで泣き叫んでいたくせに、身代わりができてホッとしてるのね。

「あーあ、でもこれで私の玩具おもちゃがなくなるのね。みんなの前で小馬鹿にして、その顔を見るのは、とても楽しかったのに」

ペチ!

何かが顔に飛んでくる。
正装用の手袋。

下に落ちていくその手袋を、拾えば罵倒し、拾わなければもっと罵倒する。

こうやって、私の反応で楽しむのが彼女のストレス発散法。

他人を見下す快感がないと、自分を哀れんで被害者としてさらに私を痛めつけようとするし。

この無意味な仕打ちは、彼女が姫であるが故に誰にも矯正できず、テス王ですら個性として放任するばかり。

他の従者たちも、自分が標的にならないために、私を常にまとにするよう利用してきた。

彼女の侍女となって、十年。
またかと思いつつ、彼女は私を苦しめることに頭を使うことは惜しまなかった。

最近は、私に男性からのはずかしめを受けさせようと、酔っ払いの部屋に行くよう仕向けたり、わざと宿舎を素行の悪い兵士たちの近くに移動させたりと、ひどくなってきている。

先回りして、危機回避する。

これだけを頼りに、何とか乗り越えてきた。
でも、まさか、鬼の世界へ行けだなんて。

どうしたらいいの?
もう、逃げられないの?

「クローディア。私の代わりなんて、名誉なことよ? くれぐれも粗相そそうをしないでね」

ウドレッダ姫は、手袋を拾うよう背を押してくる。

手袋を拾う手を踏みつける気だわ。

こういうことなら、予測できるのに。

私は素早く手袋を拾って、踏みつける足をかわした。

「生意気ね」

ウドレッダ姫は、空を切る足を不満そうに踏み鳴らして、私を睨みつける。

「逆らうの? 家族がどうなってもいいの?」

「!!」

「家族を助けてくれるならなんでも言うことを聞くと、あんたが言ったのよ? そこに手を置きなさい」

「……」

私は渋々手を床についた。

ウドレッダ姫は、満足そうに足で踏みつけてくる。

「もう、何度言わせるのよ。ここまでやらせるまでが、あんたの仕事なのに。頭悪ぅい」

ギリギリと足を動かして、ニヤニヤ笑いだす。我慢よ……一日中踏むなんてできないんだから。

「もう、こんなこともできなくなるのね。つまんないなあ。あんたにするのが、一番気持ちいいのに」

「……」

「まあ、向こうに行ってもやることは変わらない。一切逆らわず、命令に従っていれば、命を取られることもないでしょう。ふふふ」

ウドレッダ姫は、震えを耐える私の顔を軽く膝で蹴って、満足そうに笑って離れていった。

そこへ、テス王が近づいてくる。

私は怖くて、怯えながら彼を見上げた。逃げ出したいけれど、そんなことをすれば家族の命はなくなる。

私が無償でウドレッダ姫に仕えているからこそ、家族は地下牢に投獄されるだけで済んでいるのだから。

でも、鬼の一族に捧げられるなんて……。

何をされるのか、わからないのに。

「安心しろ、すぐには殺されないようにしてやる」

「……?」

テス王が手を叩くと、長いローブを身に纏った、小柄な人物が入ってきた。

カチャリ、カチャリと首から下げた骨の首飾りが、不気味さを醸し出している。

だ、誰なの? まさか、シャーマン?

「うら若き乙女……清い乙女。陛下、本当によいのですかな?」

年老いた男の人の声だ。

「うむ、モノケロガヤ。そなたの呪力で、例のことを頼む。報酬は思いのままくれてやろう」

「わかりました」

モノケロガヤが腕を振ると、そこには城の玉座の間に飾られていたクリスタルの像が現れた。

どうして、これが、ここに?

戸惑う私の目の前で、モノケロガヤがチリーンと鈴を鳴らす。

その瞬間、意識が遠のくのがわかった。

いけない───このままじゃ!!

必死に足を踏ん張ろうとして、力を入れるけれど、目の前はどんどん暗くなっていく。

助けて……誰か……。

チリーン、チリーン。

涼やかな鈴の音が、頭に響き続け、私は意識を手放した。



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