上 下
2 / 91

忘れたかった恐怖

しおりを挟む
悲鳴と怒号が古城から響き渡る。

そして無数の蝙蝠こうもりたちが、空を埋め尽くすように飛んでいくのが見えた。

変身して逃げているのだわ……!! 
純血の吸血鬼たちが逃げ惑うなんて、あり得ない。

吸血鬼は魔物の中でも最上級のはず。
そんな彼らを襲えるなんて、何者?

人間? ワーウルフ? それとも他の恐ろしい悪魔?

私は震えながら、モーガンを懐に入れて身を縮める。

しばらくすると、古城の方から気絶した吸血鬼たちを抱えた集団が、山を降りてくるのが見えてきた。

その中の一人に、私は見覚えがある。

先頭を歩くその男性は……!

「ディミトリ!! 今日はなかなかの収穫だったせ! 純血どもの危機感のなさには、呆れ果てるなぁ、おい」

気絶した吸血鬼を四、五人抱える巨漢の男性が、先頭の男性に声をかけた。

ディミトリ!! やっぱり!! 
長く封印していた記憶が、蘇ってくる。
膝が震えて、痙攣しそうになるのを必死で抑えた。

ディミトリと呼ばれた、美しく若い男性は、ピタリと足を止める。

音もなく巨漢の男性の方を振り向き、白金の長髪を優雅になびかせていた。

けれど、その口からは優雅さとは相入れないような、冷たい声が聞こえだす。

「イァーゴ、私は全員捕まえろと言ったはずだ。それなのに、たったこれだけだなんて、どれほどがっかりしているか、わかるか?」

威圧的にイァーゴを睨みつける。
イァーゴは、怯えたように二、三歩下がった。

あの男の声……怖い!
私まで恫喝されてるみたいで、余計に緊張してしまう。

「……まったく、ディミトリを失望させないで。今度彼にこんな思いさせたら、私があんたを始末するわ」

ディミトリの隣から、さらに氷のような声がして、ムチを持った金髪で隻眼の美女が現れる。

彼女も知ってる……。ディミトリの恋人を自称して、彼が好意を寄せる女性を陰でズタズタにしようとする人だ。

「イシュポラ、その時はお前に任せる」

ディミトリはそう言って、彼女と濃厚なキスを交わす。お互いの唇を噛んで血を飲み合う姿も、変わらない。

いつ見てもゾッとする。

ディミトリはイシュポラから離れると、イァーゴの様子に興味を無くしたように、今度は後ろからついてきている“しもべ”たちの方を見た。

“しもべ”たちは、主人である吸血鬼が意識を失っている間、その支配下から解放されて、自由意志で動く。

つまり、今は自分の意思でものが言えるの。

“しもべ”の一人が、ディミトリに跪いて見上げた。

「純血の吸血鬼の支配からお助けくださいまして、ありがとうございます。本当に、私たちは解放されるので?」

ディミトリは顎を軽く上げると、ニヤリと笑った。

「あぁ。お前たちはただ解放されるだけじゃない。今よりも、遥かに強いこの世の覇者の一人となる。さぁ、私と共に来るがいい」

“しもべ”たちは、魅入られたように喜んで感謝の言葉を言いながら、ディミトリを賛美している。

解放ですって?
一度咬まれて“しもべ”になれば、主人格の吸血鬼が死ぬ時は共に消滅するのに。

ディミトリはそのままみんなを連れて、私の横を通り過ぎようとした。

早く……早く行って!
私は緊張のあまり、奥歯をガリッと噛み締めてしまった。

いけない!! 

私は吸血鬼としての牙が、一番奥にある。

牙が歯茎に刺さって、痛みで思わず口を開いた。
口の中に鉄の匂いが溢れて、慌てて飲み込む。

「……ん?」

ディミトリが、私が隠れた茂みの横で足を止める。

ひ! その時茂みの中から、私はディミトリの顔をはっきり見た。

まるで人形のように整った顔立ちと、陶器のような肌。
そして、鋭い両目の魔眼。

同じだ……あの時と同じ……。

恐怖で震える私の方に、ディミトリは歩いてくる。

傷ついた歯茎は、吸血鬼の再生能力のおかげでもう塞がってる。

でも、さっきの一咬みで、血の匂いが届いてしまったんだ……!! 

ディミトリは茂みに手をかけて、中を覗き込もうとする。

ひ!!

その瞬間、恐怖のあまり動けなくなっていった。

怖い……怖い……誰か……見えなくなりたい……空気のように透明に……。

私は目を閉じて、祈るように願った。
やがて茂みの中に、ディミトリが入ってくる。

もうダメだ!! 
そう思った時……。

「なんだ、誰もいないな」

そんな声が聞こえて、私はハッと目を開く。

気がつくと、ディミトリは私の体を通り抜けて、茂みの向こう側へと行ってしまった。

私は慌てて自分の体を見た。
透き通ってる!! 

指先すら、そばに生えている草にも触ることができない。ほ、本当に空気みたいになってるんだ……。

驚いたことに、触れていたトランクまで透明化している。

驚愕している私の前を、もう一度ディミトリは通り抜けて、イァーゴたちの元へと戻った。

イァーゴは、首を傾げてディミトリのほうを見る。

「なんだ? 何かいたのか?」

「いや、懐かしい香りがしたから、見に行ったんだが、誰もいなかった」

「懐かしい?」

「あぁ、『小さなシルヴィア』の香だ」

「!!!」

私はその声に、激しく動揺して叫び出しそうになった。

あ……あ……覚えてるんだ。
彼はまだ忘れてないんだ……。

イァーゴは、怪訝な顔でディミトリの方を見ながら片眉をあげる。

「『小さなシルヴィア』? あー、そういや十年前にそんなガキがいたな。お前はえらく気に入ってたのに、仕留め損ねて逃げられたよな」

それを聞いたイシュポラが、激しい嫉妬心を表情に滲ませた。

「あなたが愛していたあの小娘? どこにでも連れ回してたわね」

ディミトリは、彼女の表情には目もくれず、恍惚感を浮かべた顔で空を見上げる。

「そう、あの日逃してしまった唯一の獲物……。生きていれば、『大きなシルヴィア』と同じくらいの年頃のはずだ……」

『大きなシルヴィア』!! 

頭の中に、同じ名前の年上の女性の顔が浮かんでくる。

『逃げて! あなただけでも!』

あの日、もう一人のシルヴィアに言われた言葉を思い出して、気を失いそうになった。

ダメ……あいつらがいなくなるまで、気を失っては!! 

必死に呼吸して、早くいなくなってと願う。

やがて、イァーゴが呆れたように歩き出した。

「はー、まだ、あの日のガキンチョに執着してんのか? お前にそんな嗜好があったとはなぁ」

バキ!! イシュポラが鞭を両手でへし折り、忌々しそうに投げ捨てた。

「あの小娘……!! 今でもあなたを独り占めするの!? やっと大きなシルヴィアがいなくなってくれたのに!! ディミトリ、ねぇ、私だけを見てちょだい!」

縋り付くイシュポラを、ディミトリは振り払ってイァーゴの方に突き飛ばす。

「黙れ、イシュポラ。私とシルヴィアたちの間に入れるものは、この世にはない」

断言された彼女は傷ついたような顔をして、トボトボとイァーゴと共に歩き出す。

ディミトリは、早く行くようにみんなに向かって手を振ると、

「ふふふ……あの子は私のものだ。生きていたら必ず仕留めてやる。……私の中で『大きなシルヴィア』と一つにさせてあげるのだ……」

と、不気味に笑いながら言った。

ディミトリは集団の一番後ろを歩き、私の隠れている茂みの方をもう一度振り向いた。

気づいた!?
いえ……違うみたい。

彼は唇の周りを赤い舌でゆっくりと舐めて、軽く牙を見せると、背を向けて山を降りて行く。

私は体を抱き締めたまま、しばらく動けずにいた。どのくらいそうしていたのか……。

「ホーホゥ」

モーガンが、優しく鳴き声をあげて動き出す。

モーガンは懐から出てきた途端、透明な姿が元に戻っていった。

そして、クリクリの目玉で、首を傾げながら私を見つめてくる。

「モーガン……」

どんぐりまなこのモーガンを見ていたら、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

もう、彼らの足音も聞こえない。
遠くに離れていったんだ。

「はぁ……」

息を吐くと、透き通った体が元に戻っていく。
こんな力、私にあったんだ。

低木の枝に掴まりながら、ゆっくりと立ち上がる。まだ足は少し震えているけど、いつまでもここにいる方が怖い。

さっき捕まった吸血鬼たちの中に、お養母かあ様や、シングへルトやアリシアはいなかった。

あんな人たちでも、心配してしまう。
一応、ね。

それよりもディミトリが、まだ生きていたなんて。私をまだ覚えているなんて……。

古城に戻るべきかしら。みんなは大丈夫かな。
そんな私は、お養母かあ様に『二度と戻ってくるな』と言われたことを思い出した。

今戻っても、誰もいないでしょうね。
蝙蝠になって逃げ去っていたし。

私はチラッと古城の方を振り向いてから、急いで荷物を持って下山した。

忌まわしい過去の記憶から、逃れるように早足で。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

玲眠の真珠姫

紺坂紫乃
ファンタジー
空に神龍族、地上に龍人族、海に龍神族が暮らす『龍』の世界――三龍大戦から約五百年、大戦で最前線に立った海底竜宮の龍王姫・セツカは魂を真珠に封じて眠りについていた。彼女を目覚めさせる為、義弟にして恋人であった若き隻眼の将軍ロン・ツーエンは、セツカの伯父であり、義父でもある龍王の命によって空と地上へと旅立つ――この純愛の先に待ち受けるものとは? ロンの悲願は成就なるか。中華風幻獣冒険大河ファンタジー、開幕!!

【完結】私だけが知らない

綾雅(りょうが)祝!コミカライズ
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

御機嫌ようそしてさようなら  ~王太子妃の選んだ最悪の結末

Hinaki
恋愛
令嬢の名はエリザベス。 生まれた瞬間より両親達が創る公爵邸と言う名の箱庭の中で生きていた。 全てがその箱庭の中でなされ、そして彼女は箱庭より外へは出される事はなかった。 ただ一つ月に一度彼女を訪ねる5歳年上の少年を除いては……。 時は流れエリザベスが15歳の乙女へと成長し未来の王太子妃として半年後の結婚を控えたある日に彼女を包み込んでいた世界は崩壊していく。 ゆるふわ設定の短編です。 完結済みなので予約投稿しています。

女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。

矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。 女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。 取って付けたようなバレンタインネタあり。 カクヨムでも同内容で公開しています。

夫を愛することはやめました。

杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。

小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話

矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」 「あら、いいのかしら」 夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……? 微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。 ※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。 ※小説家になろうでも同内容で投稿しています。 ※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。

公爵様、契約通り、跡継ぎを身籠りました!-もう契約は満了ですわよ・・・ね?ちょっと待って、どうして契約が終わらないんでしょうかぁぁ?!-

猫まんじゅう
恋愛
 そう、没落寸前の実家を助けて頂く代わりに、跡継ぎを産む事を条件にした契約結婚だったのです。  無事跡継ぎを妊娠したフィリス。夫であるバルモント公爵との契約達成は出産までの約9か月となった。  筈だったのです······が? ◆◇◆  「この結婚は契約結婚だ。貴女の実家の財の工面はする。代わりに、貴女には私の跡継ぎを産んでもらおう」  拝啓、公爵様。財政に悩んでいた私の家を助ける代わりに、跡継ぎを産むという一時的な契約結婚でございましたよね・・・?ええ、跡継ぎは産みました。なぜ、まだ契約が完了しないんでしょうか?  「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいませええ!この契約!あと・・・、一体あと、何人子供を産めば契約が満了になるのですッ!!?」  溺愛と、悪阻(ツワリ)ルートは二人がお互いに想いを通じ合わせても終わらない? ◆◇◆ 安心保障のR15設定。 描写の直接的な表現はありませんが、”匂わせ”も気になる吐き悪阻体質の方はご注意ください。 ゆるゆる設定のコメディ要素あり。 つわりに付随する嘔吐表現などが多く含まれます。 ※妊娠に関する内容を含みます。 【2023/07/15/9:00〜07/17/15:00, HOTランキング1位ありがとうございます!】 こちらは小説家になろうでも完結掲載しております(詳細はあとがきにて、)

処理中です...