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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

夢に想う

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────『とんだ茶番……な……が……気付か……ったわけない……だ』
いつもより俄に、己の発声が低く感じる。言葉の使い方も冷たい。ぼんやりと浮かぶ紺色のシルエットに向かって話しているようだが、音声がノイズのように途切れ途切れに返ってくる。
────『彼らの……と知っても尚……を続け……つもりで……』
女性の声が耳に届く。どうやら紺色は服のようだ。同じくぶつ切りで聞こえてくるため会話の内容は良くわからない。だが決して穏やかな雰囲気ではない。
可笑しな夢だ。夢ならばもう少し鮮明でも良いはずなのに。己が見ているのだから。
(……、夢……?)
本当に夢なのか、これは。どこかで見たことのある光景ではないのか。
────『むしろ……良い機会……親……責任は……が……べきもの』
────『それは違…………彼らには……の人生……ります』
────『ならば……こう……継がれて……いる』
会話というよりも口論に近い。女性の声がした後すぐに自分の声帯が動く。
上手く聞き取れずもどかしい。きっと何か重要なことを話しているはずなのに。夢の中の自分と同様に思わず顔を顰めた。
「っ……」
口の中が乾燥している。チクリとした空気が喉を刺す。だから発声がいつも通りにいかないのか。
違う、違う。こんなこと言いたい訳ではない。これは自分の本心ではない。これは。
────自分ではない。
「!  っは……!」
慌てて飛び起きた。こうして目が覚めるのもここ最近頻繁だ。だが無論慣れるはずがない。寝覚めの悪さがずっと尾を引いている。
日の出前のようで部屋の中は当然薄暗い。12月が近いせいで段々と朝の空気が冷たくなってきた。それなのに額には汗が滲む。握りしめている手のひらも同様だ。
(っ……、なぜ……)
前髪を巻き込むようにして手で顔を覆う。先日急に体調が良くなったのだが眠りに関しては改善されないままだ。仕事やプライベートで特出して受けるストレスはないはずなのに。なぜこんなに夢見が悪いのか。
最近は思ったようにピアノが弾けない。指が固まっていくようだ。無意識にそれに焦っているのだろうか。
高階はそのままゆっくりと上半身を起こす。もう寝られそうにないと考えそのまま床に足を付けた。
不意にピアノの足元に落ちていた楽譜が目に入った。昨日何か譜読みでもしていただろうかと疑問に思い、拾い上げて確認する。
「愛の夢、第3番……」
なぜ今この楽譜がここにあるのか。わからない。この曲は暗譜している。わざわざ譜面を出してくることはしていないはずだ。
なぜ。どうして。わからない。これはなんだ。
「──っ……」
心臓が早鐘を鳴らす。何かの合図のように。





久しぶりに穏やかな日常を過ごした。美都は職員室に向かいながら今日一日を振り返った。
普通に授業を受け、クラスメイトと談笑する。何の煩いも無く日常が楽しめたのはいつ以来だろう。昨日は病み上がりで遅れていた分を取り戻すのに必死だった。思えばこうして一人で廊下を歩くことも久しい。今までは必ず四季か水唯が共に行動してくれていた。身近な脅威がなくなった今、それも一時解除となったのだ。
今回の件が自分で思った以上に多くの人間に気を揉ませていたのだと知ったのは、昨日今日の話だ。まずは昨日、病み上がりの自分に開口一番「だから言わんこっちゃない」と呆れ気味に息を吐いたのは和真だった。さすがは幼馴染みと言うべきか。
『ちゃんとフォローしてやったってのによぉ』
『ほんとーにごめんなさい』
『だからお前はいつまでも手のかかる妹なんだよ。わかったか?』
そう言われて言い返すことが出来るはずもなかった。実際迷惑をかけてしまったことは否めない。四季と喧嘩した日に話を聞いてくれたのも和真だった。聞けばその後、水唯を介してフォローを入れてくれていたのだと言う。これでまた頭が上がらなくなってしまった。だが断じて妹だと認めた訳ではない。そう思っておかねばこれからも彼をずっと身内のように思って甘えてしまいそうだからだ。
(そう言えば、愛理にも話しておかなきゃ)
己が抱えていたものについて四季たちに話したということを。近況報告は和真がしているだろうが、これは自身のことだ。特に愛理が一番気にかけてくれていた。これでようやく少しは愛理に安心させられるだろうか。
(次は年明けって言ってたっけ)
親の都合で海外を飛び回っている愛理が帰って来るのはいつも定かではない。年明けという予測も恐らくは前後するはずだ。だが彼女が元気でいるのならばそれで良い。離れているおかげで甘えすぎずにいられたのだ。そんなことを言ったら呆れられそうだが。
年明け、という単語を脳内に思い出していよいよ実感する。月日はあっという間に過ぎていく。すぐに12月に入り期末考査が始まる。終われば冬休みだ。クリスマス、年末年始。新しい年になり卒業が迫る。中学生でいられるのも本当にわずかなのだ。
(わたしのやりたいこと、か)
これから羽鳥に進路の相談をしに行くところだった。明確にやりたいことは決まっていない。先日まではそれで焦っていた。しかし今は違う。ちゃんと見えてきたからだ。己の進みたい道が。
(──あ……)
換気のために開けている窓からピアノの音が届く。愛の夢第3番だ。だが高階の音色でないことはすぐに分かった。軽快で少し辿々しく感じたのだ。不意に立ち止まって視線を音楽室の方へ向けると、女子生徒二人が和気藹々と弾いている姿が目に入る。恐らくこの曲を練習中の生徒なのだろう。
(すごいなぁ。同い年であんなに弾けるんだ)
ただただ尊敬の念を抱く。あんな風に弾けたらどんなに素敵かと少しだけ羨ましく思う。やってみたい、とさえ微かに感じる程に。
(…………うん)
美都は一人でに頷いた。以前羽鳥に言われたことを落とし込むように。
そんなことを考えて廊下で立ち止まっていると見慣れた教師が職員室の扉から出てきたことに気付いた。音楽教諭の高階だ。声を掛けようと思い足を動かそうとした瞬間、ふと違和感に気付いた。
(……──?)
こちらに歩いてきているのに、彼は前を見ていない。どころか顔色が蒼白にも見える。疲れが表れてしまっているのだろうか。ひとまずは呼び止めてみなければ、と無心で歩を進める高階に声をかけた。
「先生……?  高階先生!」
「──!  月代さん……。こんにちは」
やはりいつもと違うと感じたのは、声を掛けられても数秒応じなかったからだ。更に呼び止めた人物が美都だと気付くのにも時間が掛かった。
「どうか……されたんですか?  顔色が良くないようですけど……」
「あぁ、いえ。気にしないで下さい。ただの不摂生ですから」
苦笑しながら肩を竦める高階は、やはりいつもより生気が薄く感じられる。元々華奢なせいかより一層際立って見えるのだ。
「月代さんは……体調が戻ったみたいですね。良かったです」
「!  あの、その節は本当にご迷惑をおかけしました……!」
これも後になって聞いたことだが新見の襲撃を受けたあの日の朝、高階は自分の体調の異変に勘付いていたとのことだ。彼からの進言で羽鳥が保健室へ誘導するに至った。加えて美都にはそれ以上に高階に頭を下げなければならないことがあった。
「先生、あの……すみませんでした。心配して頂いたのに、お言葉を返すようなことを言ってしまって」
あの踊り場での会話。抱えていた悩みを指摘され、思わず境界線を作ってしまった。今思えば子ども染みた意地だ。それでもあの時には己を支えるために必要だった。そうしなければ自分が立っている場所が揺らいでしまいそうで。
「──わたし、怖かったんです。自分の弱さを認めてしまったら立ち行かなくなりそうで」
一歩間違えれば崩れそうな足場で、必死に己の領域を守っていた。誰にも立ち入らせないように。
「でも間違ってました。高階先生の言うように、強くあろうと思い過ぎて周りが見えなくなっていました。お気遣いいただき、本当にありがとうございました」
礼を伝え頭を垂れる。
他人からの想いを見ないようにしてしまった。それは目の前にいる高階からの想いも同様だった。弱さを隠そうとしただけの浅はかな行いに過ぎない。ここ数日でようやく溜飲が下った。
すると頭上から高階の柔らかい声が耳に届く。美都は目線を合わせるために顔を上げた。
「強さや弱さというのは形では見えません。己の弱さを感じながらも前に進もうとする姿勢は、必ず月代さんの糧になるはずです。それに、そう思えることが君の強さだと思います」
「────はい。ありがとうございます」
自分の弱さを認めて、強さを自信にしていく。言葉では簡単に感じるのに実際思うのは容易ではない。しかし気付けた時点で高階の言うように前に進めるのだ。
ふわりと微笑む彼の笑顔を見るとやはり安心する。担任でも顧問でもないのに、彼には頼ってばかりだ。
不意にまた耳にピアノの音が届いた。話に夢中になっていたため気にしていなかったが、先程の生徒がまだピアノを弾いているらしい。高階も気付いたようで窓の外に見える音楽室に首を捻った。
「愛の夢、ですね」
「…………えぇ」
高階と共にこの曲を聞くのは珍しい。いつもは彼が奏でているからだ。この曲がきっかけで彼と親しく話すようになった。あの時の些細なきっかけがこうして関係を繋いでくれているのだと思うとタイミングとは面白いものだなと感じる。
他人が弾くこの曲を高階はどう感じているのだろうと目線を彼に移すと、何やら表情が固い気がした。
「先生?  どうかされたんですか?」
「──……いえ」
珍しく歯切れ悪く高階が応答する。先程までは彼に謝ることに気を振っていたため一時頭から抜け落ちていたが、やはり今日はいつもに比べて顔色が良くない。本人は不摂生だと言っていたがそれだけではないように感じる。まるで何かに怯えているかのように。
「……先生、ちゃんと眠れていますか?」
ふと心当たりを探ってみることにした。以前彼は寝付きが良くないと溢していたことがある。もしやと思って口にしたところ困ったように眉を下げた顔が見てとれた。やはり十分な睡眠が取れていないのだと美都も釣られて顔を顰める。
「前に──あまり夢を見ない、というお話をしたことを覚えていますか?」
不意に高階が独り言のように呟く。だがそれはしっかり疑問文になっておりこちらに掛かっていることは明白だった。彼の質問内容の答えを頭の中で手繰り寄せ「はい」と短く頷く。
「最近は逆なんです。寝付きが良くない、と言うよりいつ眠りについたか覚えていないんです」
「覚えていない……?  いつの間にか寝ていたということですか?」
「えぇ……寝室へ向かった記憶も無く──そのせいか、立て続けに夢を見ているようでして」
高階の説明はどことなく他人の事のような言い方だ。己の身に起こっていることであるはずなのに、事態が把握しきれていないような話に聞こえる。彼自身戸惑っているのだろうと察することが出来る。
「その夢が……あまり良くない夢、なんですね?」
「──……夢、なのかさえ自信がないんです」
その返答にどういうことかと首を傾げる。
「これはもしかしたら実際に起きていることで、ただ自分が憶えていないだけなのかも知れない、と……。夢ではなく、記憶のようにも思えてきて……」
「そう感じる心当たりが何かあるんですか?」
一つ一つの事象を紐解いていくように、気に掛かったことを疑問として呈する。すると高階は更に難しい顔をして一瞬口籠った。口の中で何かを反芻した後、フッと息を吐く。肩の力を抜くと再び困ったような笑みを浮かべた。
「……いえ。夢遊病かも知れません。すみません、こんな話を月代さんにするつもりはなかったんです。聞き流して下さい」
「でも……」
「最近ピアノを思った通りに弾けない焦りが、無意識に夢に表れているのでしょう。僕もまだまだです」
己の技術不足が問題であるという答えを出して、高階はやや強引に話を終わらせようとした。食い下がろうとしたが、彼がこの話を切りたがっているようにも見えて追及は出来そうにない。それに知っているのだ。今彼がした行動は自分も良くしていたから。よく分かっている。これ以上は己の領域だという線引きだ。だから踏み込んではいけないのだ。
しかし、とそうは言っても初めて弱音を吐く高階を目の当たりにしてこのまま溜飲が下るはずもなかった。加えて彼の体調は芳しくない。精神面からも影響が出ているのだ。このまま彼を見送ることは、自分の中の何かが赦さなかった。とは言え、今の自分に一体何が出来るのかと美都は頭で瞬時に考える。
「わたし……」
ポツリと一人称を呟く。会話が続けば彼も立ち去ることはしない。そして己が先程まで考えていたことを伝えるならば今しかないとさえ思った。
「先生のピアノが好きです。先生の奏でる音が、すごく好きなんです」
もう何度も彼の演奏を耳にした。その度に心が温かくなって音が世界に広がっていくようだった。繊細で優しくて心地良い。ピアノの音が美しいと感じたのは、紛れもなく高階の音を聞いたからだ。
「高階先生のおかげでクラシックに興味を持って、音楽が身近になって。『愛の夢』だって先生があの時弾いて下さらなかったらきっと今でも曲名は知らなかったと思います。ただ綺麗な曲だなって思うだけで……」
要点を纏められず、これまでのことを思い出しながら辿々しく口にしていく。偶然楽譜を拾った時から。偶然音楽担当教師が変わった時から。偶然高階が「愛の夢」を弾き始めた時から。運よく偶然が重なったから今に至っているのかも知れない。しかしきっかけなど些細なことだ。そのきっかけをどうしてきたかは自分が良く解っている。
「先生と話していると、ふと心が安まるんです。それにわたしが悩んでいる時にいつも道を示してくれたのは高階先生の言葉と音楽でした」
「それは君が素直だからですよ」
「ふふ、前にも仰ってましたねそれ」
聞き覚えのある言葉選びになんだか可笑しくなりフッと笑みを漏らす。そう言えばあの時もこの場所だったと徐に思い出した。高階から自分に対する評価が「素直だ」というのはありがたいことだがそれは一旦横に置き、今目の前にある問題を見据える。あの時とは立場が逆に近いのだ。あの時貰ったものを返す時だと。
初めて言葉にする。初めて人に伝える。だから少しだけ緊張する。それでも”勇気は汝を正しい道へ導く”のだと教えてもらった。そう落とし込んで一度グッと喉を引き絞り高階の瞳を捉える。
「先生、わたし────音楽の道を目指してみたいんです」
心音が一つ大きく鳴る。そしてその言葉を合図に、ずっと大きく鳴り続ける。言い切った瞬間の高階の表情を逃すことはしなかった。驚いて小さく息を飲み、目を見開いていた。少しだけこちらの顔が強張る。緊張して声が震えそうだ。
「プロの演奏家になりたいとかそう言うのじゃなくて……えっと、ただ単純に音楽に関わる仕事がしたいなって。実はそれすらも何が有るのかよくわかってないんですけど。でも──……今更音楽を知らなかった頃には戻れないじゃないですか。だって高階先生のピアノに心を動かされたんですから」
やたらと饒舌になってしまうのはやはり恥ずかしさからなのかも知れない。初めて己の”将来の夢”の話を他人にしているのだ。これまで考えたことのなかった話を、それもきっかけとなった本人に。当の高階はこちらの話を真摯に聞いてくれているのか無言を貫いたままだ。
「わたしに何が出来るのかわからないし、これから勉強を始めるので本当にゼロからなんですけど──どんな形であれ音楽という分野に関わってみたいんです。だから、高階先生────」
現時点での音楽の知識はほぼゼロに等しい。楽譜を読むことだって儘ならない。それでもきっと今からだって遅くはないはずだ。それにこの気持ちを無視してはいけないのだとなんとなく分かる。それは日々を過ごす中で──最近起こった出来事からもようやく感じ取れるようになった。己の想いを無碍にしないことを。それを目の前にいる人物にも知って欲しいと。彼もおそらく己と似ている。彼の優しさをずっと見て、それに救われてきたから。
「これからもわたしに音楽を教えて下さい。……なんて厚かましいお願いなのは分かってるんですけど──わたしは先生のピアノが聴きたいんです」
お願いします、と伝えて頭を垂れる。高階がどんな反応を示すのか気掛かりだったが一通り己の考えは口に出して伝えることが出来た。ここで是と言われずとも想いを形に出来ただけでひとまずは一歩前進したと感じることが出来る。今まではそれさえも儘ならなかったのだ。すると頭を上げる際にちょうど声がこちらに届いて来た。
「そう言ってもらえて……本当に教師冥利に尽きるなと思えました。ありがとうございます」
いつもの彼の優しい微笑みだ。ふわりと口角が上がる様に安心する。
「音楽の道に限らず、何を選んでも専門性がある分野は大変かと思います。それでも何事も遅いことはありません。僕で良ければいつでも相談に乗りますので、一緒に考えていきましょう」
「!  ……はい!  ありがとうございます!」
一緒に、という言葉がただ嬉しかった。己で選択した道だがやはり一人で考えるには心細かったのだ。無論これから話をする羽鳥は相談に乗ってくれるだろう。しかしやはりその道の専門分野に長けている人物がいてくれると途端に心強くなる。それに彼から学ぶことは多い。卒業までにもっといろんなことを知りたいと考えた結果だ。
「テストが終わったら時間が取れると思うのですがどうでしょうか。急ぎでしたら今からでも──」
「いえ、そんな!  テストが終わってからで大丈夫です!  それまでに自分で調べられることはやっておきます!」
ありがたい申し出だったが、これから羽鳥の元へ行かなければならないことと高階の体調を鑑みて辞退することにした。特にやはり後者は気掛かりだ。少しだけ話している間に顔色が良くなったように見えるが積み重ねてきた疲労はそう簡単に抜けないものだ。
「では、月代さんが相談にいらっしゃる頃までにはピアノの腕を戻しておきます。それとまたクラシックのCDをお持ちしますね」
「どっちも楽しみにしてます。できればまた愛の夢を聴かせて下さい」
「……わかりました。改めて練習しておきますね」
恐縮気味に肩を竦めると、高階はこちらの願いを快く聞き入れてくれた。思うようにピアノが弾けない、と言っていた彼に不躾な申し出だっただろうかとふと脳裏を過ぎる。しかし彼はそんなことで咎めないだろう。もう十分に弾ける曲を謙遜してまでこちらに合わせてくれたようだ。
そのまま日取りを決める。テストが終わった週の業後。音楽室で資料を見ながら、また簡単に基礎的なことも教えてくれるとのことだった。ありがたすぎる申し出に何度も礼を伝える。
「じゃあこの日の業後に、音楽室にお伺いしますね!」
「えぇ。お待ちしています」
日程をすり合わせて互いが都合の良い日を選んだ。テストが終わり、冬休みに入る前の貴重な時間。すぐさまスケジュール帳に予定を書き込んだ。テスト後のご褒美が増えたような感覚だ。
高階を見送りながら再び職員室へ足を運ぶ。今度は担任の羽鳥と面談だ。その前に少しだけ心が軽くなった気がして嬉しかった。
これまでの自分はずっと一人で考えることが多かった。そのせいで答えが出ず、自問自答を繰り返す日々があったのも記憶に新しい。しかしそうではないのだと知った。周りにはちゃんと手を差し伸べてくれる人がいる。見ていてくれている人間がいるのだと感じることが出来た。あの苦い思い出も、まだ昇華できない想いも、全ては現在に繋がっているのだと。そう考えることができるようになった。同時に今までの己の視野の狭さを反省する。他人からの想いを無碍にしてきたことを。
(終わったら円佳さんに連絡してみよう。あと弥生ちゃんにも──……)
自分にとってはどちらも伯母にあたる人間。そして守護者の先輩にあたる存在だ。彼女たちの話を聞いてみたい。何かしらの糸口が見つかるかもしれないから。
所有者であり守護者である理由は結局わかっていない。それでもきっと何かしら意味があるのだと思う。やはりそれは追及していきたい。
職員室に入る前に足を止めて一度深呼吸をする。何にせよ、進むしかない。迷っていても事態は良くはならないのだ。まずは出来ることから一つずつやっていこうと己に言い聞かせた。
「──失礼します!」
そう言って職員室の扉を開く。すぐさま羽鳥が手招きをしてくれ、美都はそちらに歩を進めた。
11月の終わり。間も無く期末考査が始まる。この日はまだ他愛もない日常だった。


『────……さだめ、か』
長い時を経て、ようやく歯車が噛み合った。驚く程精密に。
口にした単語はかつてあの男が良く使っていたものだ。
『まさに因果応報だな』
さだめから外れることは出来ないと。全くもってその通りだと今この現状でなら思える。
闇の鍵を所有する少女。今までよく見つからなかったものだ。あの娘こそ一番重要な部分を担う歯車なのだから。
間も無く器の力も充足する。そうすれば後は用済みだ。だがまさか、と記憶を覗いた際に思わず笑みが漏れた。良い方向に計算違いだったことに。
扱いづらい身体ではあるが人当たりの良さには感謝すべきかもしれない。
冷たい空気が充満している。否が応でも思い出してしまう季節になったかと口の中で舌打ちする。
だがもういい。もう終わる。終わらせる時だ。
『────さぁ』
暗闇で一人、男が呟く。その顔に笑みを浮かべて。
『終焉を始めようじゃないか』
ずっと待ち望んでいた。本懐を遂げる時が来たのだ。
この世界を壊す。全てを裏切ったこの世界を。




────この先に待ち受ける運命を知らず。美都はただ、Xデーにコマを進める。



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