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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

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フッと目を開けると調光されてほの明るい自室の天井が目に入った。いつの間にか寝ていたのか、と美都はぼんやりした頭で考える。
なぜだか不思議と心と体が軽い気がする。
(そう言えば……久々に夢見なかったな……)
最近は寝つきが悪く、度々夢も見ていた。夢を見るのは眠りが浅いからだとどこかで聞いた事がある。それが今の睡眠にはなかった。熟睡出来たことで疲れがとれたのかもしれない。
そうだ、と急に頭が冴えた。眠る前の出来事を思い出したのだ。全てを話し終えた後緊張の糸が切れ、そのまま倒れるように寝てしまったのだと。あの後一体どうなったのか聞かなければ。それに今一度四季と水唯に謝らなければと身体を起こす。すると枕元に置かれていたスマートフォンに通知が来ているのが確認出来た。慌ててその内容を開くと、
【今日は話せて良かったわ。また明日学校でね】
そう綴られていたのは凛からのメッセージだった。一刻前の出来事を思い出すと、やはりどう足掻いても凛の強い意志には太刀打ち出来なかったと思わざるを得ない。本当にいつの間にあんなに逞しくなったのかと驚いた程だ。
続け様に未読メッセージを開く。今度は円佳からだった。
【凛ちゃんから色々聞いたわ。ひとまず今日はゆっくり休みなさい】
その文面に首を傾げる。円佳からのメッセージは凛の後のものなので、自分が眠った後彼女たちが顔を合わせたということなのだろうか。これはまた明日凛に聞くしかない、と考えていたところ円佳からもう一通メッセージが届いていることに気付いた。
【それと、そういう人が出来たんならちゃんと言いなさいよね】
思わず眉間に皺を寄せる。”そういう人”という曖昧な言葉の意味が理解できなかったからだ。しばらく唸るようにして考えてみたがやはり分からない。こちらもまた後日円佳に意味を訊ねるしかないかと軽く息を吐く。
(そう言えば、円佳さんも守護者だったんだ)
改めて昼間のことを思い出す。当初円佳が口を閉ざしていた理由がようやく理解できた。
彼女もまた守護者であったため、この使命の大変さは十分に把握していたのだろう。だから余計な情報を与えないようにしていた。守護者になったばかりの頃は右も左も分からず戸惑いがあったが、恐らくは円佳なりの配慮だったのだろう。菫のように小出しにしてもらう方が心構えがしやすい。
(……今度ちゃんと聞いてみたいな)
円佳が守護者だった頃のことを。もう話してくれるはずだ。そうすれば何かまた良い方法が見つかるかもしれない、と。状況は違えど”先輩”としての助言も聞きたいところだ。円佳の頃の所有者はどんな人だったのかも気になる。今の自分と似たところはあるのか。はたまた全く別のタイプなのか。
(──どうしてわたしなんだろう)
何度考えても結局この疑問に行き着く。なぜ自分が守護者であり所有者なのか。以前菫からは所有者に共通点はあまりなかったと説明を受けた。だが同時に自分たちの代は全てがイレギュラーであるとも。加えては。
(わたしが特異、か──)
彼女曰く、不思議な気に包まれていると。それを感じたことは無かった。だが最近思うことがある。
夢で響くあの声。そして守護者の時の自分に似たあの女性。
この二つが何か関連しているのではないかと考えることが出来る。そしてそれは己の中にある強い力の要因にもなっているはずだ。
「……────」
瞬間、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。今日のことで手一杯で後回しにした問題を思い出したのだ。昨日水唯から言伝に聞いたあの事を。
美都ははぁと深い息を吐く。一つの問題が終わると次の問題が出てくる。テストのように終わりがないのだな、と。そんなことを考えていたら今度は期末考査の事を思い出し頭を抱えたくなった。本当に問題は果てしない。
ひとまず気分を変えるために身体を動かさなければとベッドから立ち上がった。喉も乾いているし水分も補いたい。そう思い覚束ない足で自室の扉に手をかける。
「!」
「水唯……!」
戸を開けるとちょうど今しがた自室に戻ろうとしていた水唯と重なった。彼は突然扉が開いたことに驚いて肩を竦めたがすぐにこちらへ身体を向けた。
「──具合はどうだ?」
「あ……うん。もうすっかり平気」
そう答えると彼は「良かった」と言ってふわりと微笑んだ。その笑顔に安心してしまいそうになるが、その前に美都にはまず襲いかかってくる感情があった。
「──水唯、……あの……」
彼から目を背け顔を俯かせる。だがここで口籠もっても仕方のないことだ。自分がしたことは変えようのない事実なのだから。そう思い喉元をグッと締めた。
「……ごめんなさい」
言うなれば今回水唯は完全に第三者だった。敢えて自分が巻き込んだのだ。これからも共に行動するのであれば、知っておいてもらえた方が良いと。彼の古傷に塩を塗り込むことになっても。それ以上に、察しの良い水唯には数刻前の出来事でかなり気を揉ませたことだろう。
罪悪感から顔を上げられずにいると、彼の柔らかい声が耳に届いた。
「俺は別に謝られるようなことは何もされていない」
「でも……!  あの時水唯が止めようとしてくれたのに、わたしが強引に遮ったんだよ?  あんなに……気にかけてくれたのに……」
いち早く自分の計画に気付いた水唯が、どうにかして止めようとしてくれていたのは分かっていた。だがこちらも譲ることが出来ず彼の言葉を強く遮ったのだ。彼の好意を無下にして。
「美都……──顔を上げてくれ」
低く響く声に応じるように美都はおずおずと顔を持ち上げる。段々と先ほど目に入っていた光景が戻ってくる。水唯はずっとその金色の瞳を彼女に向けたままだった。
「あの時一番苦しんでいたのは君だろう?  俺はただそれに気付いただけだ。そこからは何も出来ていない」
「……ううん、違うよ。わたしが水唯の優しさに甘えたの。水唯ならきっとわたしの意図を汲んでくれるんじゃないかって──思って……」
もし仮にあの時凛が止めに入らず美都の計画が成功していたら。恐らくは水唯があの場を宥めることになっただろう。放心状態の二人に対して水唯は終始ずっと冷静だった。元より彼は的確に物事を判断することに長けている。だから彼になら任せられると考えたのだ。
「君は──それでいいんだ」
「え……?」
再び首が下がろうとした時、不意に水唯から出た言葉に思わず視線を向けた。
「どんな形であれ君が望むことのために俺が必要なら、いつでも傍に置いてくれ」
「っ……だめだよ。水唯の意志じゃないのに──こんなこと本当は赦されないよ……」
彼からの優しさを素直に受け取ることが出来ない。酷い事をした自覚があるからこそ、責められこそすれ赦されることなどないのだ。
「美都違う。君の意志こそが、俺の意志なんだ」
重ねて続く水唯の言葉に美都は不思議そうに首を傾げた。彼の言い分はとても哲学的に聞こえたのだ。その真意が分からず眉を下げる。
「俺は君に救われたから……苦しい時に何か役に立てるのであればそれが俺の本望だ」
「そんな……!  でもそんなの……水唯に負担が掛かるだけだよ」
「そうでもないさ」
水唯の説明を聞いて尚腑に落ちず、また首を横に降る。すると今度は間髪入れずに彼から返答がきた。その答えにまた彷徨わせていた視線を戻す。
「もしあの時、あの二人のどちらもが止めに入らなかったらあのまま君の思惑通りになっていただろう?」
「?  ……うん」
「そうなったとしたら俺だけが君の理解者だった──って、そう思ったんだ」
きょとんと目を瞬かせる。まるで少し言葉遊びのような意味合いを持たせたようにも感じるところだが恐らくこれは素直に受け取って良いものだろう。だがまさか水唯がそんな打算的な考えするとは思わず驚いてしまったのだ。
「──役得だろ?」
フッと息を吐いて水唯が微笑む。
「……水唯もそんなこと思ったりするんだね」
本心か、はたまた自分に気を遣っての言い回しかは解らない。だがいつもより柔らかく、少しだけ彼の核の部分が見えたことに嬉しくもなりクスクスと笑みを零す。
すると水唯は一旦姿勢をただし、再び美都へ向かい合った。
「俺は君の幸せのために、俺が協力できることは何でもしたいと思ってる。だけど一つだけ──先程の話と矛盾するが看過できないものもある」
「……なに?」
「────独りを選ぼうとすることだ」
独り、という単語に反応し目を見開いた。それは彼らに話をする前にずっと考えていたことだ。自分のせいで他の誰かが傷付くのならば、周りに誰もいてはならない。だから離れなければと。そう考えていた。
「──『ひとりにさせたくなかった』って。自分の存在意義について考えた時に、美都だけが俺のことを”大切だ”と言ってくれた。それが嬉しかったんだ。ここにいて良いんだと、初めてそう思えたから」
そうだ、と彼の言葉をきっかけに記憶を手繰る。あの時水唯にかけたことは気休めなどでは無い。独りでいることは苦しいのだと知っていたからだ。だから必死だった。
「わたしは──水唯に、わたしのようになって欲しくなかったの」
似ている、と思った。彼の境遇が。何となく重ね合わせていたのだ。あの頃、透明だった自分に。
「独りは寂しくて苦しいって、知っていたから」
愛された記憶がない訳ではない。それでも一度穴が空いてしまえば、完全に修復することは困難だと知ってしまった。そうなる前に何とかしたかった。
「……わたしのエゴだったんだ」
救いたいと願ってしまった。どうしようもなく自分のエゴで。呆れる程に自分勝手だ。
言いながら視線を落とすと水唯の柔らかい声が耳に届いた。
「でも俺は、そのエゴに救われたんだ」
ハッとして息を呑む。再びゆっくりと彼へ視線を戻した。
「君が全部くれた。救いも、赦しも、誰かを想うということも。美都じゃなければ意味がなかった。君が俺の名前を呼んでくれた──間違いを気付かせてくれた」
柔らかな表情で彼が尚続ける。あの時彼が思っていたことを一つずつ思い出していくように穏やかな顔で。
「だから、もし君が間違った方向に進もうとしたら──今度は俺が美都の名前を呼ぶ。……君を守りたいんだ」
金色の瞳が、淀みなくただ真っ直ぐに美都へ向けられる。
「俺は──君が好きだから」
「!」
唐突に告げられた想いに、美都は驚いて頬を赤らめる。水唯に直接言われるのは二度目だ。一度目こそ唐突だったが、以前聞いているだけに今回は彼の想いを再び実感する。
胸が温かい。これが周りからの想いなのだ。こんなにも贅沢な温もりが、今自分に向けられている。
美都は胸に手を当てると、自らの心音をその手に伝える。この鼓動こそが、これまで歩んできた自分自身なのだと確認するように。
「……ありがとう、水唯」
きっとこれからも苦しいことや辛いことはたくさん訪れるだろう。それでも、と目を閉じて暗闇を作る。
過去の痛みは簡単に拭えるものではない。それでも今は、あの頃とは違う。透明だった頃とは違う。周りにいる大切な人の想いが分かるから。だからもう、大丈夫だ。
美都は瞼をゆっくり上げ、水唯と視線を交わす。自然と口角が上がっていくようだった。
彼女の表情を確認した水唯も優しく微笑む。すると彼が続け様に口を開いた。
「四季に風呂の順番を知らせてくれるか?  俺はもう部屋に戻るから」
「あ……うん。伝えておくよ」
不意に出た名前に、少しだけ心臓が跳ね上がった。だが悟られないように平静を装い、水唯の依頼を承諾する。これも恐らく彼なりの配慮なのだろう。今度は自分と四季が一対一で話し合えるようにと。
「おやすみ。また明日」
「おやすみなさい」
それぞれ就寝の挨拶を交わし、水唯はそのまま自室へと姿を消した。彼の姿を見送ると、美都は目線を廊下へと移す。そしてゆっくりと歩を進める。そして数歩もしないうちに足を止めた。
身体の向きを変え、変哲も無い扉を見つめる。今から話をする人物を頭に浮かべた。
「……──」
以前彼は、赦されようと思っていない謝罪はただの自己満足だと述べていた。確かにその通りだと今の心持ちになってようやく理解する。だが自己満足であったとしても、何も言わないという選択肢は無かった。先刻の己の愚行を改めて謝らなければ、と。
美都は一度大きく深呼吸する。少しだけ躊躇いがあることを知りながら、それに気付かないフリをして心を落ち着ける。抑え込むのは得意なのだから。
指の甲で彼の部屋の扉を二度ノックした。この緊張感には既視感がある。そうだ、と思った瞬間にガチャリと音がして扉が開いた。
「あ……」
ハッとして目を開き、どちらからともなく声が漏れる。美都の目の前に佇む四季も同じように驚いた顔をしていたから。
彼の顔を見たら、一瞬で何を言おうとしていたのか忘れてしまったのだ。言葉に詰まり、思わず視線を逸らした。
「あ、の……」
謝らなけらばいけないという意識があるため何とか口だけは動く。それでも極度の緊張で上手く声が出てこなかった。今更罪悪感を抱くなど都合が良すぎるのに。それでもまともに四季の顔を見ることが出来ずにいた。
すると頭上から唐突に彼の声が耳に届く。それに応じるように顔を上げた。
「……水唯は、寝たのか?」
「え……?  あ、……うん」
答えながら再び目線を落とそうとした際。不意に視界が動いた。
「……!」
強く腕を引かれ足がもつれそうになる。声を上げるより先に顔全体が四季の胸へと当たり口が封じられた。彼は片手で美都の身体を覆いながら、もう一方の手で自室のドアを閉めるとそのまま扉に寄りかかるようにして項垂れた。
突然の出来事に四季の腕の中で目を見開く。どちらのものか分からない心音が、しばらく耳に届いていた。いつもより俄に早く鳴っている。それを紛らわすためなのか、一度四季の腕が強く締まった。
「──……!」
彼の体温が直に伝わってくる。吐息が耳を掠める。そのことが嬉しくて、苦しい。
「し、き──っ……」
なんて自分は愚かだったのか。悔やんでも悔やみきれない。四季はずっと手を伸ばし続けてくれていた。それを振り払ったのは自分なのに。なのにこの温もりを愛しいと感じてしまう。離れたくないと感じてしまう。こんなの我儘だ。
「ごめん、なさい……!」
謝っても、傷付けたことは消えない。四季の想いを無碍にした瞬間は絶対に消えないのだ。それでも、彼に謝らなければと思っていた。信じることが怖くて、距離を取ろうとした。裏切られるのが怖くて、全部無かったことにしようとした。全ては自分の弱さだ。
「俺は──……お前のために何が出来る?」
苦しそうに絞り出したような声が耳に届く。そのことにハッとして首をもたげた。
「ずっと考えてた──俺が出来ることは何なのかを。でも……考えれば考える程分からなくなるんだ──本当に俺は必要なのかって」
胸が苦しい。四季にそこまで思わせてしまったことに。そんなことを考えさせてしまうのは望んでない。むしろそう結論付けたのなら自ら身を引くべきだと。自業自得なのだ。彼こそ一番無関係な人間だ。たまたま守護者になっただけの。
今ならまだ戻れる。たまたま自分の過去を知ってしまっただけ。初めて出会った頃の、守護者というだけの対等な関係に。
「四季……、もう──いいんだよ……」
グッと喉を引き絞り、彼の名前をなぞる。これ以上背負わせてはいけない。余計な苦しみから解放しなければ。そうしなければ彼が可哀想だ。
「もう、いいの。四季がそんなに苦しむ必要ない。だからもう──」
「──違う……!」
終わりにしようと。そう言って離れようとした。この温もりをいつまでも自分が感じていてはいけないのだと思ったから。だが言葉の途中で四季に遮られる。離れようと彼の胸に当てた手も巻き込んで、再び抱き締める力が強くなった。
「違う……俺は──お前のことを離したくない」
「……!」
顔面に振動する鼓動が俄に速くなった。美都も今の一言に目を見開く。
「俺は何も解ってなかった。美都がずっと抱えてきた痛みも、苦しみも。今日初めて知って、自分がどれ程無力なのかを痛感した」
ズキン、と胸が痛む。己の過去の痛みは自分で昇華すべきものだ。その話が原因で誰かを揶揄させるものになってはならないと。恐らくはその背徳感から来る痛みだった。
「──っ……それでも」
耳元で深呼吸の音が聞こえる。四季の荒い息遣いが。
「どんなに不甲斐なくて、どれだけ情けなくても俺は……っ!」
矢継ぎ早に彼が想いを口にする。己に対する苦々しさを伴いながらも己の心情を吐露していく。
瞬間、四季が息を呑み込んだ。精一杯を吐き出すように。
「美都から離れたくないんだ──!  傍に……いたいんだ……!」
絞り出すような彼の声を聞き、瞬間胸が詰まった。
どうしてこんな自分を繋ぎ止めてくれるのか。どうして見限ろうとしないのか。なぜなのか解らない。それでも──否、それなのに。胸の奥が熱くなる。
「頼むから……独りでどこか行こうとするなよ──……」
小さな身体を覆いながら、懇願のように四季が耳元で呟く。その言葉に美都は顔を歪めた。
「わたし、は──……」
どこにも行けないと思っていた。行く場所なんてないと。それでも今の場所に居続ける事は出来ないと。だから暗闇をずっと歩くのだと思っていた。それでも、また。
「っ……いいの──?」
光を示してくれる。彷徨わせていた手を、何度でも繋いで光のあるところへ導いてくれる。
「ここに、いて──……四季の隣にいてもいいのかな……」
こんなの我儘だ。こんな我儘が罷り通るはずないと分かっているのに。
彼の温もりを知ってしまったから。欲張りになってしまった。この光を離したくないと思ってしまった。
すると四季の大きな手が片方美都の頭へ移動する。いつも以上に優しい手付きで、美都の頭を抱えた。
「いてくれないと俺が困る。もうお前がいない生活なんて考えられないから」
「……!」
ずっと探していた場所だった。ずっと自分には所在がないと思っていた。
父と死別し、母と別離し、ただ運よく伯母夫婦の家が引き取ってくれただけで。今までだって一度も「ここだ」と感じたことはなかった。いつかはきっと出ていかなければならないと知っていたから。だから違うんだと。そう自分に言い聞かせることで、いつでも何処へでも行ける準備をしていた。だから4月──守護者の使命で急に四季と暮らすようになった際も対応出来た。それが変化の始まりだったのだ。初めこそ戸惑ったが、彼と暮らす中で様々な変化が生まれた。
(……あぁ、そうだ──……)
先程、四季の部屋に入る前に考えていたこと。あの緊張感は初めてこの家のインターフォンを鳴らした時のものによく似ていた。あの日が始まりだった。そしてこの半年で多くのことがあった。
上手く距離感が掴めず言い合いをした。知らない想いに戸惑った。不安を和らげるため傍で一夜を明かしてくれた。優しく包み込んでくれた。
初めてのこと。初めての感情。全部がここにある。ここにいても良いのだと、ここにいて欲しいのだと四季が言う。
ずっと我儘を言ってはいけないのだと思っていた。自分の我儘で誰かを繋ぎ止めておくことなど出来ない。それは”良い子”のすることではないから。
(だけど、わたしは────)
手前に置いていた手を動かし、四季の背中へ腕を回す。自分よりも大きい、彼の背に。
「……ここにいたい。四季の傍に、いたいの。四季のことが──っ……、好きなの……!」
初めて”好き”という感情を知った。こんなにも苦しくて、こんなにも愛しい。
初めて譲りたくないと思ってしまった。この場所も、彼からの想いが自分以外に向くことも。
だから、初めて我儘を言う。きっとこれが彼に対する最初で最後の我儘だ。
「お願い──……ずっと、──傍にいて……!」
この温もりを失いたくない。この光が必要なのだ。暗闇の中、ずっと彷徨っていた自分を掬い上げてくれた。
ここが、居場所なんだと。彼の隣が、居場所なのだと。今はそう思える。
きっと”永遠”や”ずっと”なんてものは無い。そんなことは自分が一番良く解っている。それでも口に出さずにはいられなかった。言えば何かが変わるかもしれないと思ったから。もう二度と、後悔したくないと思ったから。
「っ──当たり前だろ……」
そう言って更に強く抱き締められる。当たり前だと言ってもらえることが奇跡なのだ。
信じることが怖かった。だからいつも線引きをしていた。本当の自分を知ったらきっと、離れてしまうと思っていたから。それなのに。
こうして抱き締め返してくれる。自分の全てを包み込んでくれる。
そんな人に出逢えたことが、自分にとって何よりの幸福だ。
四季の腕の中で彼の心音に耳を傾ける。心地よいリズムが繰り返し鳴っている。
「……あのね」
美都は徐に力を抜いた。するとそれに応じるように四季もまた腕を緩める。
息を整えて顔を上げた。これからする話のため、四季の瞳を見たかったのだ。
「壊れた感情はきっと、簡単には戻らないの──……今だってこんなに胸が熱くて張り裂けそうな程なのにそれが上手く感情と結びつかない」
泣くことはまだ出来ない。やはり”涙を流す”という脳の指令が上手く働かないのだ。こんなに胸がいっぱいでも所謂”感極まる”ということにはならない。今まではそれが苦しかった。
「でも──四季が隣にいてくれるなら……わたしは大丈夫だって思う。そう思えるの。きっとこれからもたくさん迷惑をかけるだろうけど……」
後ろめたさで顔を下げようとした時、彼の大きな手が頬に添いその行為を妨げる。
「迷惑だなんて思ってない。そう言っただろ」
「……本当に?  わたしすごく面倒だよ?」
「知ってるよ。鈍感で、向こう見ずで、危なっかしくて、いつも他人のことばっかりで。本当に手が掛かる。でも──いや、だからか……」
赤茶色の瞳が向けられる。目を細めながら添えている手の親指を顔面へ動かした。
「俺は美都じゃなきゃダメなんだ。美都以外考えられない」
「……!」
瞬間、目を見開いた。彼の気持ちが真っ直ぐ届いたから。
いつも自分らしくいさせてくれる。いつだって自分の存在意義を与えてくれる。
────ここにいて良いんだ。
美都は添えられている手に己の手を重ね合わせた。その温もりを確かめるように。
「……ありがとう」
ようやく心から安心出来た。自然と笑みが溢れる。美都の微笑みにつられるように四季も柔らかく口角を上げた。
これでやっと一歩踏み出せるような気がする。今まで感じていた後ろめたさを昇華出来たことが己への救済だ。ほぅ、と深い息を吐く。
「ほんっとに、お前は──」
「え?  あ、わ……!」
その呟きからすぐ、四季の方も息を吐きながら脱力する。突然重力がかかったため驚いて声を上げた。そのまま身体を沈み込ませるように二人して床に腰を下ろす。
「……めちゃくちゃ心配したんだぞ」
「う……本当にごめんなさい」
座り込みながらも尚もがっしりと抱き締めたまま、四季がポツリと言う。彼には本当に酷いことしたという自覚がある。だからこそ何度も謝りたい。
「お前、俺のことも諦めようとしてただろ」
「……はい」
事実を指摘され口籠ながらも肯定した。その答えに彼はまた深く息を吐く。
「いや──お前の話を聞いたら解らなく無いなって思った。自己評価が低いのも納得出来たし。信じるのは……怖い、よな」
「……うん。人は変わっちゃうから──信じてた人が、また自分の傍からいなくなっちゃうのが怖い。だからもう、やめようって──」
「お前なぁ」
理由を説明すると、四季が呆れたように息を吐きその手の甲でコツンと頭を小突いた。
「俺は絶対手を離さないって言ったろ」
「そう、だけど……わたしの我儘で四季のことを縛りたくなかったし……それに四季だっていつ他の子に目移りしちゃうかわからないし」
「待て。なんで浮気前提なんだ」
「そうやって思っておいた方が万が一の時に楽かなって」
「捨てろそんな思考は。万が一なんて無い絶対に」
いつの間にか言い合いのように会話が次々に重なる。このテンポ感も考えてみれば久しい。ここ数日の出来事に加え、新見が来てからどちらとも気を張っていてまともに会話していなかったからだ。
「だって四季モテるんだもん。やっぱりわたしと四季じゃ釣り合わないよ」
「まだそんなこと気にしてたのか。大体釣り合うってなんだよ。どうすれば俺と釣り合ってることになるんだ」
「……頭が良くて、美人で、背が高くて、運動が出来て、えっと──とにかく何でも出来る人」
美都が出した釣り合うことの諸条件──の人物像──に、四季は思わず深い溜め息を吐いた。
「──頭は良くなくていいし、美人より可愛い方が好きだし、小さい方が抱き締めやすいし、運動が出来ることなんて全然気にしてない。だからその条件は意味がない」
「でもわたしは偶々守護者で同じ家で暮らし始めただけで、本当なら四季の目には入ってなかったかもしれないんだよ」
「だから俺の勘違いだってか?  だったらそれこそ運命的だろ。その偶々で心から守りたいって思える人間と出逢えたんだから」
「──……!」
四季からのストレートな言葉に思わず赤面する。これまでの不安を一気に払拭してくれるようで同時に堪らなく嬉しくなった。
「それに──」
「わっ!」
唐突にグイッと引き寄せられ驚きの声が出る。先程よりももっと近く、四季が美都の肩に顔を埋めるような体勢だ。
「────……悔しかった。お前を引き留めたのが俺じゃないってことが」
まるで独り言のようにぽそりと呟く。聞こえてきた内容に目を見開いた。だがすぐに四季が顔を上げ、その苦々しい表情で説明を追加していく。
「でもお前と凛とのやり取りを見てたら、あれは俺じゃ出来なかったって腑に落ちた。ずっと近くにいた凛だからこそだって。とは言え悔しいもんは悔しい。俺だってもっと────お前に必要とされたいんだ」
彼の包み隠すことのない思いが伝わってくる。言動からも表情からも。
「十分頼ってるよ」
「足りない。もっと我儘を言って欲しい。それで俺が迷惑に感じることなんてないから。お前の傍にいる意味をくれ」
「……難しいなぁ」
彼の様子はまるで拗ねて駄々をこねる子どもにも似ていた。少しだけ、不謹慎にも可愛いと思ってしまったのだ。だから言いながら不意に手が伸びてしまった。
サラサラな黒髪に手櫛を通す。すると今度は彼が手を伸ばし、自身に触れている手首を掴んだ。そのまま彼の顔面へと手が誘導される。
「!」
「お前の隣を誰にも譲りたくない。独占欲の塊なんだよ、俺は」
「……じゃあ──」
掌から、彼の熱が伝わってくる。指に触れる彼の首筋もまた熱い。
欲が出てしまう。そうでなくとも彼と付き合って以降は欲張りになった。恐らく四季はその欲を口に出して欲しいと願うのだろう。
「この温もりを────ずっとわたしだけにくれる?」
「お前が望むなら、いくらでも」
そう言って四季は美都の掌に口付ける。それだけで心音が高まる。こうして彼と触れ合うのはいつ以来だろう。懐かしささえ覚える程には期間が空いていたのだ。だからこそ一層愛おしいと感じるのかもしれない。ふと以前千咲が言っていたことを思い出した。愛情というものは果てが無いものなのだと。それは与える側も受け取る側も同じだ。ようやくそのことに気が付いた。
そう言えば、とそのことをきっかけに思い出したことがあった。千咲たちのことだ。
「あのね、今まで言ってなかったんだけど──」
「待った。────もうちょっと」
このまま、と呟き彼の腕に身体が引き寄せられた。今度は首筋に四季の唇が触れる。驚いて肩を竦めるが距離は一向に離れない。心臓が一度跳ね上がる。いつもより長く同じ箇所にあるその感触がくすぐったかった。
「ま──まだ……?」
「ん……なに?」
要件を聞くような受け答えではあるが、尚も彼の吐息が素肌にかかる。だが仕方ない、このまま話すしかないかと美都も観念した。
「あのね、実は千咲さんたちはこの事知ってるの」
瞬間、それまでもぞもぞと動いていた四季がピタリと止まる。不意に出た名前のせいだろう。情報処理するのに少し時間がかかったようだ。美都の両肩を掴み真正面から向き合う姿勢になった。
「────……は?」
「千咲さんたちは同級生なんだって、わたしの親と。だからなんとなく概要は知ってたみたい。前にね、そんな話をしたの」
「それってまさか……夏休みのあの日のことか……?」
「うん。なんかわたしは昔会ったことがあるみたいだよ。四季も一緒だったかはわからないけど」
それこそ自分も覚えていない程幼い頃なのだろう。恐らくはまだ父親が生きていた頃だ。そうなってくると流石に記憶にはない。だがこうしてみると縁は不思議だなと思う。記憶になくても互いに会っていたのかもしれないのだ。先程彼が運命的だという言葉を使ったがあながち間違ってもいないのかもしれないと感じる。当の四季は初めて知る事実に思いっきり深い息を吐いていた。
「蚊帳の外だったのは俺だけってことか……」
「や。だってあんまり四季の負担にさせるのもなって……千咲さんからもわたしが大丈夫になったら話してあげてって言われてたし」
「だからって──…………マジで俺は自分が情けない……」
四季は、はあぁと地の底に着くくらいの溜め息を吐きながら頭を抱えた。その様子を見て宥めるために頭を撫でる。気休めなどではなく本当に彼が気にする必要は無いのだという意味を込めて。
「今度千咲さんたちも交えて詳しく話聞いてみようよ。透さん守護者だったみたいだし。何かわかるかもしれないじゃない」
「まぁいいけど……でも守護者ってんならお前の伯母さんもそうだったんだろ?」
今度は美都が目を瞬かせる番だった。突然身内の話を振られきょとんとしてしまった。
「わたしそこまで話したんだっけ?」
「あー、いや。これは羽鳥先生からの情報。と、さっき話した時に言ってた」
先程の四季と同様、美都が硬直する。四季のように瞬間に情報処理が出来ずなんとか得た情報から背景を作っていくしかなかった。羽鳥の話も気になるがその前に彼が出していた後者の事実を確認せねばと口をパクパクと開閉する。
「さっき、って……まさか……会った、の……?」
「お前が寝てる間にな。本当にちょっとの時間だったけど。お前によろしくって……えっと──円佳さん?  が」
慣れ親しんだ名前を彼の口から聞き、なんとも面映くなり顔が熱くなった。同時に先程の円佳からのメッセージを思い出す。彼女が言っていた”そういう人”とはつまり恋仲である四季を指すのかと。
「い……言った?」
「俺じゃなくて弥生さんがな。ってか言ってなかったのかよ」
「言ったのぉ……」
何を、と具体的な話を出さずとも通じるのが彼らしい。以前にも同じような会話をしたことがあるからか。だがその時は立場が逆だった。やはり円佳からのメッセージの意味は四季との関係のことだったのだ。自分の口から伝えるのを躊躇っていたため機会を失っていたが、まさか他人から知らされることになるとは。どちらにせよ心持ちは変わらないか、と思いながらも妙な恥ずかしさで項垂れる。
「何の照れなんだそれは」
「だって……なんかこう気恥ずかしいんだもん……」
これまで色恋といった類の話は円佳としてこなかった。伯母とは言え育ての親である彼女に恋慕の話をするのはやはり気恥ずかしさがあったのだ。とは言え弥生が言わずとも多加江がいずれ口を滑らせるだろうと考えていたのでもはや受け入れるしかない。次どんな顔をして逢えば良いのかとは思うが。
四季は、項垂れる美都の頭を撫でながら中断していた話を続けた。
「まぁ身近に守護者経験がある人間が揃ってるってことが分かったんだ。そこから少しずつ情報を繋げていけば、お前が所有者な理由も見えてくるかもな」
「……うん、そうだね。あとは──……」
自分がイレギュラーであることの理由。それは今までの話からは判明しなかった。だから少しでも情報が欲しいのが本音だ。そのためにはまだ一つ手が残っている。先刻四季たちに話した己の過去のこと。それを話すきっかけを作った人物がいる。正直まだ自分から赴くのは気が引ける。彼女の行為を心から許すことができないでいるからだ。しかしここで立ち止まっていても仕方ないのも承知している。
「……何か考えてる?」
ふと急に黙り込んだ自分を心配したのか、四季が覗き込んできた。その所作にハッとして目を瞬かせる。
ここ数日ずっと単独で行動してきた。だからというわけではないがすっかり忘れていたことがあったのだ。こんなにも近くに味方がいることに。今までだって助けてもらっていたのに自分は非情だなと感じるところでもある。そんな己の思考に苦笑しながら彼の問いに答える。
「あのね……明日ついてきて欲しいところがあるの」
一人ではきっと難しい。だが共に行ってくれる人間がいればそれだけ安心することが出来る。もう後ろめたいこともないのだ。彼女からどんな話が飛び出たとしても対応出来るだろう。
そうお願いすると四季は推測ったように「分かった」と頷き了承した。その返答に礼を伝える。
一段落したらようやく頭が冴えてきたのかすっかり頭から抜けていたことをはたと思い出した。
「あ、そうだ。水唯からお風呂の順番伝えてって言われてたんだった」
「あー……まぁそうだよな。──でも……」
「!」
一旦は納得した様子を見せたがすぐに否定の接続詞を用いた四季に小首を傾げた瞬間だった。また不意に温もりに包まれたのだ。
「久しぶりだし……もうちょいこのままがいい。だめ?」
まるで子どものような可愛い我儘が頭上から降りてくる。低く響く低音が心地良い。互いの心音。息遣い。体温。それら全てを身体全部で感じられる。
「……だめじゃ、ない」
こんな贅沢、考えられなかった。それでもこの人に逢い、初めて愛しさを知った。
向けられる想い。大きな愛情。この人ならば大丈夫だと思える安心感。それが奇跡だ。
きっと永遠なんてものはない。ずっと一緒なんて、存在しない。それでも今この瞬間だけは。
彼の隣にいたい。この温もりを感じていたい。子守唄のような鼓動のリズムを刻んでおきたい。
大切な人が傍にいることがこんなにも嬉しい。大切だと言ってくれる人が傍にいてくれることがこんなにも嬉しい。
(これが……幸せ、なんだ)
ずっと考えてきた幸せはすぐ近くにあった。彼の幸せの先に自分の幸せがある。
この温もりを忘れずにいよう。迷った時の導にしよう。
そう考えると美都はまた確かめるように、四季の背に手を回しギュッと抱きしめた。


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