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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

碧い小鳥は

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やはり水唯には敵わないな、と思った。だから早くその場から立ち去りたかったのだ。この計画が破綻する前に。
────わたしが、凛を解放してあげなきゃいけない。
彼らに話すと決めた時から、ずっと考えていたことだ。
日中まで遡る。美都は食卓テーブルで円佳へこれまでの経緯を説明していた。同席する弥生が補完しながら話は進む。遂には前夜、少年達と過去の話をすると約束をしたところまで行き着いた。
「あんたはそれで大丈夫なの?」
「……わかんない、けど──後ろめたいわけじゃないし」
そうは言いつつも美都の顔は晴れやかなものではない。彼女の過去を知っている二人にとっては、それが彼女にとってどれほど口に出しづらいことか把握していた。だから円佳は念の為訊いたのだろう。
「それに隠してたわけでもない──ただ、負担にさせたくなかったから」
伏し目がちにポツリと呟いた。それはずっと美都が考えてきたことだ。
確かに安易に踏み込まれる事は避け続けてきた。それは事実を知った人間がどのような反応を見せるか不安だったからだ。事によっては負担にもなる。どのみち気を使わせてしまう事になるのだろう。無論それは今でも思っている。だから、決めた事がある。
「……あのね。わたし、ずっと考えてるの。”わたしの幸せ”って何だろうって」
唐突に美都が話し始めたことに、二人は再び耳を傾ける。
夢の中で聞いた天から響く柔らかい声。「君の幸せは何だ」と問われた時、咄嗟に答えが出なかった。出せなかった。正解が分からなかったから。だから今でも考えている。正解を探す為に。
「今までだって日常の些細な事に幸せを感じてきたの。でもいざ問われてみると明確な答えが直ぐに出なくて」
常盤の家で過ごした日々も、弥生の家で誕生日を祝ってもらった時間も。自分にとっては余りある幸福だった。だがそれとはきっと違うのだ。
「わたしが”感じる”幸せと、わたしが”考える”幸せって、似ているようでちょっと違った。──ううん、考えた先に感じる幸せがあるんだって思ったの」
まるで言葉遊びでもしているかのように美都は考えを口に出していく。グラスを手にし、その水面の波紋を見つめながら。
「わたしにとっての幸せは──大切な人たちが幸せであること。ただそれだけ。そう考えた時に、今のわたしには何が出来るんだろう。何をすれば良いんだろうって思って……」
それが自分が行き着いた答え。自分にとっての幸せだった。それ以上他に何も望まない。だからこそ今のこの現状は打破しなければならない。こんな生産性のない独りよがりの考えで、周囲の人たちの幸せを壊すことは出来ない。
「わたしは大切な人を守りたい。守護者になったのだってそういう思いからだった。でも所有者が自分であった時点で、もう立場が変わっちゃった──みんながわたしのことを守ってくれようと動いてる。危険をおかして」
自分は守ってもらえるような大層な人間ではない。それが苦しい。自分のために他人が時間や労力を割くようになっている現状を受け入れる事は出来ない。
「そんなこと望んでない。わたしはもう自分のせいで誰かに迷惑をかけたくない。傷ついてほしくないの」
ずっとそう考えながら生きてきた。誰にも迷惑をかけず、我儘を言わず、良い子でいる。そうしなければいけなかった。
「誰もあんたのせいなんて──」
「言ってないよ。言われてない。だけどもう嫌なの。自分のせいで誰かが傷つく姿を見るのが」
円佳の言葉を鋭く遮る。最近の出来事を思い返すだけで胸は締め付けられる。自分が所有者であるという事がこんなにも周りへ影響を及ぼすのだと考えていなかった。判明した時にもっとちゃんと距離をとっておけばこんな事にはならなかったかもしれないのに。
だが今更仮定の話をしたところで現実は覆らない。だとしたらどうすれば良いか。それをずっと考えてきたのだ。
「守護者が所有者を守る役目を負っているのならば、わたし一人で何とかしようって思ってた。でも鍵を守れなければ意味がないんだって……昨日は運が良かっただけで、もしあのまま鍵が他の人の手に渡っていたらって考えると──怖かった」
だから意識を失う間際、「ごめん」と呟いた。鍵を守りきれなくて。自分自身を守ることすらこんなにも難しい。そう知ってしまった。
ただ”守護者だから”という理由で四季に重荷を背負わせたくはない。しかし彼を頼らざるを得ないのもまた事実なのだ。自分の無力さを苛む。守りたいのに守れない。なんて中途半端な想いなのかと。
「……鍵は守らなきゃいけない。ならそれは守護者だけで──守る力がある人だけで十分。だから──……」
守るものの代価は最小限でいい。ずっと考えてきたことだ。水唯に話をした時は自分ひとりで十分だと思っていた。だがそれが困難だと理解した今、少年らの助力が必要となる。自分が前線に立つ前提で、そう何とか自分の中に落とし込んだ。
美都は接続詞の後、一旦目を瞑る。決めたことを口に出すことがこんなにも怖い。だが紛れもなく自分自身で選んで決めたのだ。これが”最善”だと。自分にとっても、彼女にとっても。
呼吸を整える時間は思っていたよりも一瞬だった。美都は瞼を上げ、その内容を口にする。
「────凛とは離れる。ううん、離れてもらう」
「──⁉︎」
突然美都が発した別離宣言に二人は驚いて目を見開いた。
「ど……どういうこと?  凛ちゃんから離れるって……」
動揺したまま弥生がその意味を問う。恐らく円佳も似たようなことを考えているのだろう。この場は弥生に任せたようだった。
美都は目を伏せる。思い出すのはあの時のことだ。
「……前に一度、わたしのせいで凛がスポットに巻き込まれたの。その時は何事もなかったけど、わたしは気が気じゃなかった。わたしのせいで凛が危険な目に遭うかも知れない。そんなの耐えられない──」
眉間にしわを寄せ、コップを握り締める手にも力が入る。あの時は生きた心地がしなかった。あんな感覚もう二度と味わいたくない。
「何の力も持たない凛が巻き込まれたのは、わたしの近くにいたせい──だからもう、あの子はわたしの近くにいちゃいけないの……!」
凛は何も関係ないのだ。何の力も持っていない。巻き込まれるべき人間ではないのだ。
「だから……どんな強い言葉を使ってでも、凛は引き離す。それがわたしの所有者としてのけじめ」
「っそんなの……!  凛ちゃんは望まないわ!」
すぐに反論として弥生が声を上げた。見れば顔は蒼ざめている。事の重大さを少しずつ理解してきたのだろう。それでも美都は冷静だった。この反応が来ることが解っていたかのように。
「凛の意志は関係ないよ。わたしが一方的に切るんだから」
「……っ!  だって……親友なんでしょう?  その子を──自分から切るって言うの……?」
親友、という単語に美都の瞼がピクリと動く。その単語は自分にとって似つかわしくないと思っていた。親友とは、何でも言い合える関係の友人のことを指すはずだから。だが自分と凛の関係はそうでは無い。ずっと過去の秘密を抱えて付き合ってきた。彼女はそう思ってくれているのかも知れないが、自分は彼女にとって”親友”などという枠組みには入ることは出来ないのだ。
無言でそう考えていたところ、それまで沈黙を保っていた円佳がようやく口を開いた。
「弥生ちゃんの言う通り──凛ちゃんがそれを承諾するとは思えないけど?」
「……──」
円佳の言葉には説得力がある。それは幼少期から自分達の関係性を間近で見てきたからだ。憶測ではなく、起こり得る事実としての見解だろう。
実のところ美都にとってはこれも想定済みだった。やはり円佳の目は欺けないのだと思い知らされる。だが回答はもう用意してあるのだ。
「──あの子は……ずっとわたしに囚われているの」
美都がポツリと呟いた。不意に脳裏に凛の姿が浮かぶ。何も聞かず傍にいてくれた、大切な一人の友人。あの子をこれ以上、巻き込むわけにはいかない。
「わたしが手を離さないと、凛はきっとこれからも傍にいてくれる……わたしだって本当はずっと一緒にいたい。でも──……ダメなの」
言葉にすると胸が押し潰されそうだった。それでも自分が選択した内容を説明しなければ。グッと喉を引き絞り、美都は声を押し出した。
「何があっても凛だけは守りたい──守らなきゃ……!  あの子がまた傷つくのはもう絶対に嫌……っ!」
思い起こせば、自分が守護者の力を得たのは凛が襲われた時だった。あの時、もっと早くに自分が覚醒していればと後悔ばかりが己を苛んだ。加えて結局は鍵の所有者が自分であったこと。彼女には不要な苦痛を与えてしまったことになる。ただ、自分が弱かったせいで。
「……凛がいたから、わたしはわたしでいられた。あの子がいつも”わたしらしく”させてくれた」
これは皮肉などではない。凛という守るべき対象が近くに在ったおかげで、弱い自分を隠すことが出来た。無論利用していた訳ではない。彼女はかけがえの無い存在だ。
だから怖い。失うことが。傷付くことが。彼女は、彼女だけは安全な場所にいて欲しい。心からそう願っている。だから──。
「────わたしが凛を解放してあげなきゃ」
手を掴んだままでいてはいけない。求めてはいけない。自分の我儘で、引き止めておくことは出来ない。彼女を自由にしてあげなければ。
そう言うと美都は俯いて唇を固く結んだ。円佳と弥生は、その強い想いにしばらく呼吸を忘れたかのように押し黙る。
彼女たちへ話すことは、罪の意識の共有になることを理解していた。だが彼女たちさえ知っていてくれれば、少しは救われる気もするのだ。そうすればこの気持ちも昇華できるのでは無いかとも考えてた。どんな反応が来てもこれだけは揺るがない。過去のことを話すと決めた際に、覚悟した。何があっても譲歩はしないと。それはただ凛を守るために。
守りたいから傷つける。大切だから傍にいちゃいけない。
「……だから、絶対に何があっても守ってみせる」
今度こそ、自分から遠い場所で。





だからあの後、弥生に事後の処理を頼んだのだ。凛に対するアフターフォローを。
全てを言い終わったため自室へ戻ろうとした。この場にいたままだと水唯のように見透かされてしまうかも知れないと思ったのもある。だがそれ以上に、この陰鬱とした空気に耐えられなかった。無論そうしたのは自分だ。過去を語る上ではこうなることは覚悟していたが実際こういった場面が訪れるのは心苦しいものだ。それさえも隠さなければと急いで踵を返したはずなのに。
不意に腕を掴まれ、足が留まる。彼らに背を向けたまま目を見開いた。以前体感したものとは違う、弱い力だった。布ごしから感じる手指の細さも、四季のものとは別物だ。紛れもなくこの行動を起こしたのが凛なのだということを確信する。
「……──」
だが振り返ることはしない。これ以上話をすることは無いからだ。だから無言を貫いた。
しばらく膠着状態が続く。必死に腕を掴んだ少女も何を口にしようか迷っているのだろう。そう考えていた。
「っ、……!」
時折吸い息に嗚咽が混じる。何かを言いかけては閉ざすようにも聞こえたが彼女の挙動を確認していないため断言は出来ない。
「……もう話は終わったでしょ?  そろそろ部屋に戻りたいんだけど」
振り解くには俄に力が強かったため、凛の意志で手を離してもらえるよう示唆する。先程までのトーンは変えず淡々と用件だけ伝えた。これが一番効果的だと知っているからだ。何事もまず自分を優先してくれるのだと、長年の付き合いで彼女の動きは把握していた。
「────っ、……いや、よ……」
か弱く呟く様に対して、凛は頑なに手を離そうとしない。むしろ握る手に力が入ったようにも感じる。
「それは──美都の本心じゃないもの……!」
その言葉に小さく息を呑んだ。凛が誰よりも先にそう言うとは思わなかったからだ。気付かないとたかを括っていた。否、気付いたとしても何も言えはしないと。そう考えていた。それにまだ自分の思惑を察したと決まった訳ではない。ただ引き留めるための口実かもしれないのだ。
「わたしはずっと本当のことしか話してないよ。凛がそう思いたいだけでしょ?」
美都がそう切り返すと、案の定凛は声を詰まらせた。
これは一種の言葉遊びに近かった。確かに本心かと訊かれれば肯定は出来ない。だが口にしてきたことは全て事実だ。嘘偽りなどではない。だから凛には”本当のことだ”と伝えたのだ。己の心に思っていることは排して。
すぐに返答がなかったためやはり口実に過ぎなかったのだと思った時、再び背後から凛の声が届いた。
「……そうよ。美都の言う通りだわ。だって──このままじゃ納得出来ないもの……!」
甲高い声が耳に刺さる。彼女には珍しく食い下がっている。聞き返されたことを肯定しながらも、納得するまで引き下がらないという意志にも近い。
「そう言われてもわたしから話すことはもう何も無いよ。全部伝えたもの」
「嘘よ!  美都はまだ何かを隠してる。だからこの場から離れたいんでしょう?」
凛が放った鋭さにギクリと身体を硬直させた。とりつく島を与えなければ、凛はすぐに引き下がると踏んでいただけに予想外の出来事だった。それに彼女が言うことは的を射ている。引き留めるための口実などではなかったのだ。
「──凛はわたしから何の言葉を期待してるの?  何て言えば満足なの?」
「話を逸らさないで!  お願い、私から逃げようとしないで……!」
「逃げようとなんてしてないよ。もう終わったことについてこれ以上話す時間は無駄だって言ってるの」
言い合いに近い形で互いに言葉を重ねていく。どちらも譲ることはしなかった。語気が強くなっても相手に怯んでは立ち行かないからだ。
「無駄なんかじゃない──話はまだ終わってないわ……!」
一際強い感情で、凛が噛み締めるように呟く。いつも以上に感情の起伏を露呈する彼女に、美都は目を細め虚空を見つめた。
「……じゃあどうするの?  わたしからはもう何も出てこないよ」
まさか凛がここまで食い下がるとは思っていなかったのだ。完全に美都の読み違えだ。だが現状も膠着状態なのにこれ以上話し合ってもどちらかが折れない限りは平行線だということも理解している。凛には納得する理由が必要なのだ。それでももうこちらが持つ情報はない、と手の内を明かした。何としてでも彼女に諦めてもらわなければと。しかし。
「──……っもう一度、ちゃんと説明して。私の目を見ながら最初から全部──じゃないと……絶対にこの手は離さないわ……!」
握りしめている凛の手の神経が、言葉に反応するようにピクリと動いた。そして先程までは真っ直ぐ聞こえていた声も俄に震えている。
やはり泣くんだな、と美都は頭を過ぎった。これは呆れなどではない。自分自身でこれが弱点だと知っているからだ。昔からただ一人、この少女の涙だけには弱い。
だが、とグッと喉を引き絞った。今更心が揺らぐこともない。逆に既に泣いているのだと分かっているのならば対策が出来る。例え目を合わせて話をするからとは言え、彼女の瞳に映る自分を見ていれば良いだけのことなのだから。焦点を合わせないように話すのは今までずっとやってきたことだ。
そう考え、半ば観念した様子を見せ美都は肩の力を抜いた。そしてゆっくり足元を見ながら振り返る。
「じゃあ、もう一度初めから──」
こんなこと早く終わらせてしまおうと振り向きざまに開口した。もう一度同じことを言えば良いのだから、と心を無にしていた。しかし。
「…………!」
息を呑んだのは、凛の碧い瞳が真っ直ぐに自分を捉えていたからだ。目線を上げていく際、一瞬だけ視界に捉えた彼女の瞳に全て意識を奪われた。予想外だった。瞳を潤ませてはいるが涙を零してはいない。グッと堪えるようにしてただ強く自分を見つめている。
「……やっとこっちを見てくれた」
涙するのを我慢しながら、凛は自分の瞳を見ながら微笑む。
この子はこんなに強い瞳をする子だっただろうか、と。一寸前に考えていたことが全て崩れた。何も言えなくなってしまったのだ。だがそれでも説明を繰り返さねばと意識が訴えている。だから開けた口から声が出かかっては引っ込むのだ。
透き通るような碧い瞳の前に、声が上手く出ない。ここで留まってはいけないのに。
「────美都。私はあなたのことが好きよ」
その体勢のまま、瞳を捉えられたまま、凛の声が真っ直ぐに届く。今まで何度も聞いてきた言葉のはずなのに、ここに来てその強さが変わったように感じた。目を逸らしたくとも彼女の瞳がそうさせない。ただ黙って立ち尽くすしかなかった。
「今まであなたが話をする時、時々私を見ていないことは分かっていた。誰よりも近くにいたはずなのに、ずっとどこか遠くにいるような感じがしてた」
ポツリポツリと凛が呟く。彼女の長年の想いを紡いでいくように。
「それでも私は──事あるごとに美都が私のことを気にしてくれたから。それで良かった。それで安心出来た。不意に遠くなる視線は、きっと胸の奥に何かを抱いているからなんだって」
美都は僅かに目を見開く。凛が今語ったことは、自分でも無意識の所作だった。他人を近づけまいとして不意にシャッターを下ろす。ここまでだと線を引かなければ深入りしてしまうから。そうすることで領域を守ってきた。凛はずっとそれに気付いていたのだ。気付いていながら傍にいたということだ。
「私ね、待とうって決めてたの。あなたから話してくれるまで。だってそうすれば、この関係を続けていける──何も知らずに傍にいることが出来るでしょう?」
凛は眉を下げて微笑む。きっとこの考えを美都は知らなかっただろうという意思の表れに近い。現に美都は先程から身体を硬直させたままだ。
「でも……やっぱり後悔したわ。今、美都の話を聞いてどうしてもっと早く聞いておかなかったんだろうって。どうしてあなたが抱えている痛みをそのままにしておいたのかって。だから私は、愛理みたいになれないのね」
後悔の念を吐露する凛に、思わず「違う」と口が出そうになった。だがそれさえも喉から声が出てこない。何かに堰き止められているかのように彼女が語ることをただ呑み込むことしか出来なかった。
愛理は全てを知った上で自分のことを気にかけてくれていた。それは彼女がまるで姉妹のように育ってきた幼馴染みで、唯一気を許せる同世代の同性だったからだ。だが凛は違う。凛にはそんなこと元より望んでいない。だから彼女が愛理と比べて卑下する必要はないのだ。
凛は不意に目を伏せる。そしてまた俯きながら言葉を続けた。
「私……ずっと怖かった。美都の本心を聞くのが。いつ私に呆れて去ってしまうのかわからなくて。だから今まで聞かなかったの。……ずるいでしょう?」
既に合っていない視線の位置を変えることも出来ない。彼女が発する一声一声が背けてはいけないと諭しているかのようで。
「だって──あなたのことが大切だから。あの時から誰よりもあなたのことを見てきたのよ。他の人になんて譲りたくない。だからどんな言い方をされても私……私は──……!」
途中で時折嗚咽を混じらせる。段々とまた声が震え出す。だが凛はそれらを全てグッと堪え、喉を引き絞り顔を上げた。
「今だってこんなに────あなたの傍にいたいっ……!」
「……──!」
凛の大きな碧い瞳が、真っ直ぐに美都を捉える。先程と違うのは、既に彼女の目には涙が溢れんばかりに溜まっていることか。それでも健気に、泣くのを堪えるようにして彼女は意志をぶつけた。初めてと言って良い程、ありのままの彼女の言葉で。
遂に留まらなくなった涙が滴り落ちる。同時に崩れるように、凛は美都の胸に顔を埋めた。
美都は慰めるでもなく拒否するでもなく、目を見開いたまま立ち尽くす。一拍置いた後にようやく視線を胸元に──凛の頭上に動かした。
真っ直ぐな──真っ直ぐすぎる想いに何も言葉が出てこなかった。ただ一つ頭の片隅に「なぜ」という二文字が浮かぶ。
なぜ彼女はこんなに自分のことを想ってくれるのか。わからない、どうして。自分は最低な人間なはずだ。彼女のことを傷付けて離れようとしている。その言葉を聞いて尚、傍にいたいと言うのか。
空のまま下ろしていた手がピクリと動く。離れさせなければ、と脳に無理やり命令する。だが上手く実行に移すことは叶わない。意識と無意識が戦っているかのように。
「……っ、だめ……だよ──……」
違う。だめだ。言葉にしてはいけない。ここで終わらせなければ。それなのに閉まった喉の奥から声が漏れる。意に反して自分の声が留まることはなかった。
「わたしのそばに……いちゃ……だめ……っ──!」
それでも己に抵抗するように音が途切れる。本心など言うつもりはない。言ってはだめだ。これまでやってきた意味がなくなる。だからダメだ。
「……──どうして……?」
呼吸を整えながら凛が顔を軽く上げる。今の彼女の問いは悲観的なものではない。ただ純粋な疑問だ。微かに漏れ聞こえた言葉に言及するかのように。そしてそれは美都にとってもただの問いではなかった。既に彼女の頭の中は意識と無意識、感情と論理が鬩ぎ合い混乱していた。一つ一つのパズルのピースを素早く上手く嵌め込んでいくことが出来ない。その問いにどう答えるのが”正解”なのか分からなくなっていた。
「っ……!」
何か答えなければと思った時に、凛の前髪に付いているヘアピンが目に入った。
────あの時、自分があげたものだ。
凛を初めて見つけた日。小学校2年生の帰り道。それは自分が周りの人間と違うと悟って間も無くだった。まだ幼過ぎてあの頃は今みたいに感情のコントロールが上手くいかなかった。円佳との話し合いがあり、それを自分の中にゆっくりと落とし込んでいる期間のことだ。だからなんとなく真っ直ぐ家に帰りたくなくていつもと違う道を歩いた。
その際に出逢った、一人の少女。みんなと違うことが嫌だと泣いていた女の子。不意に自分と重なった。だから声をかけたのだ。
『わたし、好きだよ!  りんちゃんの髪も瞳も!  だってそれはりんちゃんだけのものだもん!』
みんなと同じじゃなくて良いと。そう凛に言うことで、自分にも言い聞かせるように。今思えばなんて浅はかだったんだろうと悔やむ。あの時声を掛けなければ、今こんなことにはなっていないのに、と。それでもあの時。あの瞬間から決めたのだ。
────この子は自分が守ろうと。
クラスで飼っていた小鳥が逃げ出した時、あの小鳥の幸せについて考えた。逃げ出した小鳥は自由を得ただろう。だがそれが本当に幸せだったのかはわからない。なぜなら外敵が潜んでいるからだ。対して籠の中は安全が保障されている。守られる存在だと認識があるから。それは自由と引き換えに。だから解らなかった。何が小鳥にとっての幸せなのか。
差別に苦しめられている凛を見たら、自分が守らなければと思ったのだ。今このか弱い存在を守れるのは自分だけだと。何となく小鳥と重なった。だから自分が彼女の自由を奪った。だからもう解放されるべきだと悟って籠の扉を開けたのに。
どうして、逃げ出さないのか。どうして逃げてくれないのか。ここにいてはダメだと言ったのに、どうして。
碧い瞳が訴えてくる。逃げるなと。向き合えと。上手く息が吸えない。
「──……っ、傷付けたく、ない…………!」
気付けば声に出ていた。思い切り顔が歪む。胸が詰まる。こんなにも苦しい。
言うつもりなんてなかったのに。言ってはいけなかったのに。傷付けておきながらどの口が言うのか。
美都はそう絞り出した後、奥歯を噛み締めながら顔を俯かせた。
「それが……あなたの本心なのね……?」
柔らかい声で凛が言う。ただ真っ直ぐ目の間にいる少女を見つめ優しく微笑む。
その眼差しに美都はまた声を詰まらせた。顔を隠したくとも上手く腕が上がらない。苦しい。この感情が何なのかわからなくて。
「よかった……やっと──あなたを知ることが出来た」
言いながら胸元に置いていた腕を、美都の身体を抱え込むようにして背中に回す。瞬間彼女の身体が竦み、びくりと反応した。
「美都──あなたの感情は壊れてなんてないわ。今もこんなに苦しんでるのに」
「ちが、う……わたしは……!」
怖い。嫌だ。これ以上踏み込んで来ないで。
心臓が大きく鳴る。ただひたすらに苦しい。呼吸が上手くできない。
「違わない。あなたはずっとその痛みを抱えているせいで、麻痺しているだけよ。ずっと一人で抱えなきゃいけないって。だって──それが弱さだと思ってるでしょう?」
凛の言葉に目を大きく見開く。しかし何も言うことが出来ず美都はただ浅く呼吸を繰り返した。
「あなたはずっと私に弱さを見せなかった。だから不安だったの。いつか美都が壊れてしまうんじゃないかって。……でも、そんなことさせないわ」
いつも以上に凛の声が真っ直ぐに伸びている。否、いつも以上ではない。
こんな勇ましい彼女の姿を初めて見るからだ。
だから動揺する。彼女からの鋭い言葉に。
「私が何があっても傍にいる。何度拒絶されようと絶対にあなたから離れないわ。だってあなたがあの時、私にくれたのよ。”みんなと同じじゃなくていい”って。あなたが教えてくれた。認めてくれた。だから──……」
見つめている凛の瞳には再び涙が溜まり始めていた。それでもそれを零さないよう寸前で堪えている。時に優しく笑みを溢し、最後にはグッと喉を引き絞る。
「だからお願い──自分で自分を否定しないで……!」
その姿は彼女の名前のように。まるで名は体を表すという表現でもあるかのように。
凛と強く、勇ましい。声も表情も彼女自身を取り巻く全てが。
「あなたが自分を否定したら、今の私はどうなるの?  あなたが認めてくれた私は一体どうすればいいの?  あの時咄嗟に出た、私を宥める為の嘘?」
呆然と、混乱する頭で凛の言葉を反芻していた。自分自身を否定してはいけない、と。彼女の言う通り、自分を否定することは巡り巡って凛の存在を否定することに繋がってしまう。だから彼女からの問いに掠れた声で「違う」と呟いた。
するとまた安心したように凛が微笑む。
「美都が泣けないのなら私が代わりに泣くわ。あなたが心から泣けるようになるまで、今までと同じように。その為だけの存在でも良いの。だって私は────」
頬に滴が伝う。堪えきれなくなった感情が一気に溢れ出した。それでも笑みは崩さない。声を震わせながら、目の前の少女に届けようと懸命に。
「────あなたのことが大好きだもの。独りになんて、させてあげないわ」
「……!」
語り出しと同じ言葉であるはずなのに、どうしてこんなに違うものになるのだろう。
その姿、その声に息を呑まずにはいられなかった。ここまでして引き留められる人間ではないはずなのに。彼女が最後に放った一言が、美都に引っ掛かった。
一人になりたかった。自分のせいで他の人を巻き込んで、傷付けるくらいなら。被害は最小限で良いと。代価は最低限で良いと決めた。だからもう近付かない。近寄らせない。踏み込ませない。求めてはいけない。
そう自分に言い聞かせた。自分にとっての幸せはこうであると己に言い聞かせて。答えを出したはずなのに、ずっと暗闇を彷徨っている気がしていた。抜け出せない迷路に迷い込んだような気がした。だから何処へもいけないんだと。行く場所なんてない、居場所なんてないんだと。
「わたし、は──……」
閉まったままの喉から声を絞り出す。
「嫌なの……っ、みんな──傷付いて欲しくない……!」
「そんなの私たちだって美都に対して思ってるわ。大切なあなたが傷付くのなんて嫌。あなたが一人でそれを背負いこむのだって嫌よ」
どうして、と顔が歪む。全部一人で引き受けようと思っていたのに。
彼女の強い想いに抗えない。絶対に譲歩してはいけないのだと決めていたのに。
何を犠牲にしても、凛が傷付くことだけは絶対に嫌だった。だから離れようとした。今までずっと、自分こそが彼女に依存していたのだ。ずっと傍にいてくれた彼女に。ずっと救われていた。自分が自分でいられる唯一の拠り所だった。
「っ……!」
失いたくないと思ってしまった。自分の我儘で誰かを引き留めておくことなどしてはいけないと知っているのに。目の前に立つ彼女がただ眩しくて。その光に縋りたくなってしまった。
胸が苦しい。ずっと鬩ぎ合っている。押し込めた感情と隠した本心が。瞬間こめかみに鈍痛が走り、目眩のようなもので視界がぼやけた。
────囚われないで。見失わないで。あなたは独りじゃないでしょう?
ハッと息を呑む。黒髪の女性。”ともえ”と名乗るその人がそうこちらに語りかける。
あの夢では彼女の言葉は途切れたままだった。それが今はっきりと脳内に浮かぶ。
『あなたは独りじゃないでしょう?』
聞こえなかったせいか、今になって繰り返される。目を見張ったまま不意に視線が動いた。目の前で自分を抱きすくめる凛、そしてこの事態をずっと静観している四季と水唯をゆっくりと見渡す。彼女が言ったことを確かめるように。
過去に囚われてはいけない。大切なものを見失ってはいけないと、果たして彼女は言いたかったのだろうか。独りでは立ち行かないと言う喚起だったのか。
その事を反芻しながら、美都はただただゆっくり深く息を吐いていく。
「──……ひとりに、なりたかったの」
ポツリと呟く声が聞こえた。俯いたままぼんやりとした眼差しで、そのまま続きを紡いでいく。
「わたしは……良い子でいなきゃいけないから──その為には周りの人を巻き込んじゃダメだって……そう、思って……」
だから離れようとした。嫌われる覚悟も出来ていた。その為の言葉も用いたはずだ。それでもこうして繋ぎ止めていてくれる。求めてはいけない、望んではいけないと解っていた。むしろそれを己に強いていた。だから苦しかった。でも本当は。
「……自分に嘘を吐いてた」
苦しくなるのは、どこかで自分が認めていなかったからだ。そんなの当たり前だ。
「わかってた、のに」
周りの人たちが自分に向けてくれている想いを。感じていた。それを蔑ろにしようとしたから苦しかったんだと。自分の幸せの為にはそれが正しいと思っていたから。でもそれが間違いだった。なぜならば、自分が”考えた幸せ”と現状が真反対だからだ。だから揺らいでしまったのかもしれない。自分を繋ぎ止めている強い意志に。
「……ばかだなぁ」
自虐のように、眉間にしわを寄せフッと口角を上げる。一人になりたかった。それでも孤独が苦しいことは解っていた。抑、自分がそう衣奈に語ったのに。その矛盾を抱えたままやり過ごすことなど出来はしなかったのだ。
胸に温かさを感じる。触れられている部分からようやく熱を感じ取ることが出来る。この温もりを知っていたはずなのに。どうして今更離れられると思ったのだろう。
「──本当にそうよ。美都って本当にばかなんだから」
彼女の口からこんな言葉が出るなんて思っても見なかった。妙に新鮮で驚きもあるが少しだけ微笑ましくもある。そんなことを言ったらまた怒られるのかもしれないが。
「……傍に、いてくれるの?  あんなに酷いこと言ったんだよ──?」
「当たり前じゃない。──いいえ、違うわね。逆だもの」
肯定した後、凛はすぐさま首を横に振った。まるで碧い瞳の中の虹彩が輝くように、澄んだ眼差しが美都に向けられる。
「だって、私がずっと美都の傍にいたいんだもの。傷付いても良いって思えるくらいに。だから、全部私の意志よ」
ふふっと戯けるように凛が笑う。あくまで己の意志で決めたのだと。そう言うことで美都の心の負担を和らげるかのように。
彼女のあどけない笑顔につられて、少しだけ表情が緩む。あの時捕まえた小鳥は、自分が思っていたよりもずっと強く可憐だったのだ。これからも己の意志で傍にいることを決め、羽ばたいている。
それがどんなに美都にとって大きいことか。
「でも確かに……さっきまでのことは謝ってもらわないといけないわね。ここにいる全員に」
続け様に凛から声が飛んで来る。恐らくは彼女が気を利かせてくれたのだろう。自分の非を先に出したことをきっかけに、場の空気を作り替える手筈を整えてくれた。加えて流石だったのは、凛だけではなくあくまで少年たちを含めての謝罪の要求だったことだ。今まで口を挟ませることなく主導権を握ったことに対しての礼とでも言うかのように。
そうだ、と思い至って美都はゆっくり顔を上げる。それまでずっと事の成り行きを黙って見守っていた四季と水唯に目を向けた。
「…………──ごめん、なさい」
言いながら顎を引いていく。
こんな言葉ではきっと足りない。たくさん傷つけた事だろう。たくさん気を揉ませた事だろう。ずっと引き留めようとしてくれていた四季も、第三者としてこの場にいてくれた水唯もそれぞれに苦しみを与えたに違いない。彼らには今一度謝罪の機会を設けなければ。
「これで衣奈ちゃんより、美都と言い合いが出来たことになるわね」
なぜだか誇らしげに凛がそう言う。衣奈と一戦を交えた際に言ったことを覚えていたのだろう。そんな事が嬉しいのかと可笑しくなる。
「変なの……」
「だってずっと羨ましかったのよ。今まで私に変な気を遣ってたでしょう?  私に怒ってくれたことなかったじゃない」
「衣奈ちゃんにだって怒ったわけじゃないよ」
「それでもよ!  それでも美都は対私になるとあからさまに何か遠慮してたんだもの」
それがずっと気掛かりだったの、と付け加えて凛が不服をあげつらった。そうだったのかと目を瞬かせる。
凛は背中に回していた手を離し、己の胸元へ移動させた。
「でも──これでようやく心から美都と向き合える。それがすごく嬉しいの」
顔を綻ばせ穏やかに口角を上げる。それが本当に心からの喜びだとわかるくらいに。
「わたしもだよ──」
こんな自分と向き合ってくれる事の方がこちらにとっての幸いなのだ。彼女が思う以上に、こちらも思っている。
ただ、無条件で傍にいてくれる人がいることが。こんなに嬉しいだなんて。”美都”という人間のために。
凛の表情を見ていたら、それまで張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れたように感じた。深く息を吐くのと同時にフッと膝から力が抜ける。
「──!」
それまで抱きすくめられていただけに、何の支えも無くなった自分の身体が重力に引っ張られるような感覚だった。驚いた凛が咄嗟に手を伸ばそうとした矢先。彼女の後方から届く素早い足音に身を引いた。
「っ……!  の、ばか──……!」
いち早く美都の挙動に気付いていた四季が、駆け付けて彼女の身体を抱き止める。そのまま彼の力強い腕に己の手を添わせるようにして、ゆっくりと床へ座りこんだ。
「……っ、ありがとう……」
これまでの話に夢中になりすぎて、誰もが美都が病み上がりだということを忘れていたのだ。今まで立っていられたのは、己の強い意志によるものだろう。
「少し休め」
「でも……っ、わたしまだ──みんなに……、……のに……」
途切れ途切れで美都が呟く。何とか意識を保ってはいるものの、もう脳が完全に働いていないようだった。
「後でちゃんと聞くから。今は安心して寝ろ」
「──っ…………」
催眠術にでもかかったかのように、四季の声を合図にして美都はフッと意識を手放した。
あっという間の出来事に、三者ともそれぞれほぅと深い息を吐く。四季の腕の中で彼の胸に身体を預けながら美都は既に寝息を立てていた。
「寝ちゃったの……?」
「あぁ」
ずっと気を張っていたのかもしれない。当たり前と言えばそうだろう。彼女の話は壮絶だった。彼女の半生から始まり、己の感情崩壊、そして偽りの意思表示。偽りというと語弊があるのかもしれないが彼女自身の心に背いているためあながち間違ってはない。
その全部を話すことに相当神経を使ったはずだ。或いは話すと決めた時からずっと緊張状態だったのかもしれない。だから眠れなかったのも無理は無い。
同時に三人も緊張から解放されたようだった。各々深呼吸を繰り返す。
だがこれでようやく一歩前に進めた気がする。美都の過去を知って、今まで見えなかった彼女の所作や仕種、考え方を知ってようやく。この小さな身体にどれだけの負荷を背負い込んでいたのか。そう考えるだけで胸が詰まる。
美都自身も心残りがあったようだが、話は一旦纏まったと見て良いだろう。無論全てが解決した訳では無い。結局最後まで美都は涙を流さなかった。長年積み重ねてきたことはそう簡単に変えられないということだ。
ならば凛が言ったように、美都が心から泣けるようになるまで。否、なったとしてもか。
「……絶対に離しはしないから」
ポツリとそう呟く。その時に自分が傍にいたいと願う。呆れる程貪欲に。


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