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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

呪いの言葉

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それは小学2年生の時。常盤の家での暮らしもすっかり慣れた頃だった。ある日起こったとある事件。クラスメイトから唐突に問われたことに動揺した。
────美都ちゃん、悲しくないの?
その日、クラスで飼育していた小鳥が逃げた。籠の清掃後、小鳥を戻す際に上手くいかず飼育当番の手からすり抜けそのまま窓から飛び立ったのだ。
無論当番はクラスメイトから執拗に詰られる。なぜ窓を開けておいたのか、なぜもっと注意しなかったのか。突然それまで愛でていた小動物が消えたことに、多くの級友は幼いながら悲しみに暮れ大半の生徒が泣き出したのだ。
その際に不意にその質問が自分に向かって投げられた。
『か……悲しい、よ……』
美都はそう答える。
真っ白な小鳥だった。籠の中でも軽快に飛び回る姿が好きで、美都も可愛がっていた。彼女自身その話を聞いた時はショックを受けた。あの子を見ることはもう出来ないんだ、と。そう思うと寂しかった。
だからなぜその質問が飛んできたのか解らなかった。悲しいに決まっている。今まであんなに可愛がっていたモノが唐突にいなくなってしまったのだから。
────じゃあなんで泣いてないの?
『え……?』
級友も悪気があって言ったわけではない。ただ大多数が泣いている中、美都が顔色を変えず佇んでいる様が気になったのだろう。
美都は、そう言われ戸惑った。確かにそうだったからだ。なぜ悲しいのに泣けないのだろう、と。
もちろん他にも泣いていない生徒はいた。美都だけではなかった。それに泣くことを強要されたわけではない。
しかし周囲と合わせることが出来ず思わず動揺する。「泣かなければ」と思う程、瞳が乾いていく感じがした。焦燥感から瞬きが多くなり、遂には潤むことはなかった。
この時、『自分は何かが違う』と美都はそう感じた。
その後茫然自失のまま帰宅する。「ただいま」と小さく呟き、夕飯の支度をしている最中だった円佳に徐に声をかけた。
『────ねぇ、円佳さん。わたしが……──』
その言葉を言い切った後、円佳は目を見開いて手を止めた。彼女自身も驚いた表情を見せる。すぐさま美都と向き合うように目線を合わせた。一体学校で何があったのかと。美都はたどたどしくその経緯を説明していく。その間、円佳は幼子から目を逸らすことなくただ不安そうな面持ちでじっと聞いていた。時折、苦しそうに顔を歪めてはグッと堪えていた。
一通り説明を終え、美都は一時視線を彷徨わせる。円佳へ説明しながら自身も事実を反芻していた。なぜこうなったのかを。だがすぐ答えを出すことが出来ず再び円佳と目を合わせ、こう問いかける。
『わたし、どこか変なのかな──?』
真っ直ぐに目の前の女性を見つめる。彼女の瞳にはうっすらと自分の姿が映っていた。直ぐに円佳は美都の肩に手を置いて語りかける。
『いい?  美都。これから苦しいこと、辛いことがあったらすぐ言いなさい。それと学校から帰ってきたらその日あったことを必ず私に話すの』
『……?  どうして?』
訳がわからず美都はきょとんと小首を傾げた。なぜ突然そんなことを言い出すのかと戸惑ったのだ。
すると円佳は唇を噛み締めて項垂れる。
『────……ごめんね』
彼女は己のこれまでの行動を省みた。美都の話を受けて、彼女を預かるようになってから今日までのことを。なぜ気付かなかったのかと苛む気持ちで。
『なんで円佳さんが謝るの?  やっぱりわたしどこかおかしいの?』
もちろんこの時の美都は気付いていない。円佳が自身に感じた呵責など分からずただ純粋に疑問を口にした。その邪気の無い問いにまた胸が苦しくなる。
『おかしくないわ。あなたはあなただもの』
『……わかんないよ』
『自分は自分でしかなくて、他人は他人でしかないの。あなたと他の子は違って当然なのよ』
円佳の説明は幼い美都には俄に難しかったようだ。怪訝そうに呟くと、もう少し噛み砕いた言い方に直った。
『でもみんなみたいに出来ないんだよ。わたしはみんなと同じになれないの?』
諭されたことを上手く飲み込むことが出来ず、再度美都が質問を重ねる。不安だったのだ。他の子と同じように出来ないことが。自分はどこか間違っているのかと幼心に怖かった。そして、ともう一つ思うことがあったのだ。
『それにね、わたし約束したの。だからみんなと同じじゃなきゃダメなの』
『約束……?』
今度は円佳が怪訝な顔をする番だった。誰と何を約束したのか。それはいつ。その答えは直後の美都の言葉で判明する。
『うん。あのね────って』
幼子が放った言葉を耳にして、円佳は目を見開いて硬直する。まさか、と。
『それを……ずっと守ってるの……?  だからっ……そうしてるの?』
『うん。だって約束したんだもん』
次の瞬間には円佳が美都の腕を強く引く。身体を覆われるようにして抱き締められる。
『円佳さん……?』
抱き締められる前の表情が、普段見ることのないものだったことに動揺して肩越しにその名をなぞった。俄に震えるその肩に見覚えがあった。あの時と一緒だ、と。
『泣いてるの……?』
ポツリと呟いた言葉に息を呑む音が聞こえた。必死に体裁を整えるようにして深呼吸を繰り返す。そして再び美都と向かい合った。
『みんなと同じじゃなきゃダメなんて──……そんなことないわ。美都は美都でいいの。それが自分らしさよ』
『自分らしさ……?』
聞き慣れない言葉に戸惑い眉を下げる。まだ少しだけ目が赤い円佳にオウム返しで訊ねた。
『出来ないことも、みんなと違うことも、全部まとめて”美都”という人間なの。私と美都も全然違うでしょう?  だからいいの。あなたは──……』
それまで真っ直ぐに言い聞かせてきた円佳が一旦口籠もる。何かを考えているのか、その考えた内容をどう伝えようか反芻しているのか。そしてグッと喉を引き絞り、美都の瞳を捉える。
『みんなと同じじゃなくて苦しい時、悲しい時。周りの人の光になれるよう……出来るだけ笑っていなさい』
不意に美都の紫紺の瞳が大きく揺れた。
『決して笑い者にするということじゃないわ。寄り添ってあげるの。あなたが微笑むことで救われる人がいるはずだから』
小さい脳で必死に考えている幼子の頭を円佳が撫でた。どうか”約束”に囚われないでいて欲しかった。気付くのが遅くなった以上、今目の前で感情に戸惑っている少女に掛けられる言葉には限りがある。決して否定せず、尚且つ彼女らしくいられるようにと。
『美都は優しい。その優しさが、絶対に誰かの助けになるわ。それを忘れないで』
円佳の言葉を聞いて、美都が小さく復唱する。笑う、ということについて。
ずっと母親が泣いていた。その時に自分が笑うことで彼女にも笑みが戻ったのだと。そうだ、と思い出した。
『……うん。わかった』
少女は力強く頷いて微笑む。自分が笑うことで周りの人が悲しくならないのなら。迷惑をかけないのなら。
────それが一番”条件”に近いはずだ。
そう信じて。





この時、初めて自分が他人とは違うのだと知ってしまった。だがそれは他の誰をも責めることではない。ただ自分自身に課した無意識の縛り。
小鳥が逃げたとき、羨ましいと思ってしまった。あの子を縛るものはもう何もないのだと思うと。その思考さえ恐らくは周りとは違うものだったのだろう。
真っ白で小さなあの鳥はどうなったのだろうか。自由を手に入れて幸せだろうか。それとも籠の中の方が幸せだったのだろうか。もし自分があの小鳥だったら、と考えた日もあった。それでも答えは出せなかった。自分はあの小鳥では無いから。
小さな嘘を吐いた。同級生に問われて「悲しい」と口にしたこと。本当は悲しみよりも動揺の方が勝っていた。だから円佳に聞いたのだ。
『──ねぇ、円佳さん。わたしが最後に泣いた日を覚えてる?』
と。その行為について、自分の中の記憶が欠如していた。円佳に問いながら自身でも考えていた。果たしてそれはいつだったか。だが答えはいつまで経っても出なかった。
────思い出せない。
同じく円佳も狼狽しているようだった。彼女も答えを出せなかったのだ。否、彼女こそ恐らく自分のその姿を見ていない。答えなど出ようはずがない。だから円佳はあの言葉を投げかけたのだ。他人と同じように出来なくて苦しい時にどうすれば良いか。
その言葉に従ってきた。無論それは自分の意志だ。円佳から強要されたわけではなくれっきとした己の意志で。どんな時でも笑うことを決めた。それが正しかったのかは分からない。それでもそうするより他に苦しみを鎮める方法がなかったのだ。それに自分が笑うことで”あの条件”の補助にもなった。
「……約束を、したでしょう?」
誰にかけるともなく、俯いたまま美都が小さく言葉を発した。これまでのことを頭に思い浮かべそれを少しずつ、ぶつ切りに説明を加えながら。
「わたしはその約束が出来たことが誇らしかった。だから絶対守らなきゃって思ってたの」
”約束”についての説明は為されていない。なので聞いていた三人はそれぞれ困惑した。何に対する、誰と交わした約束なのかを計りきれずに。だが美都はそのまま淡々と続ける。
「その時からわたしは、交わした約束を守るための行動を無意識的にしてたんだと思う。自分でも驚くくらい真っ直ぐに──」
だってそうしなきゃ。約束は守らなきゃ。だから迎えにきてくれないんでしょう?
「────”良い子で待ってる”、……って。約束、したから」
その言葉を耳にして三人は同時に目を見開く。それは先程彼女の口から語られた、彼女と母親の最後の会話。
────『良い子で、待てるわよね?』
約束をした。別れ際、声を震わせながら母親はそう言った。
「良い子でいなきゃって。それが約束だったからわたしは────……」
ずっと考えてたのかもしれない。その約束を守るためにしなければいけないことを。
「誰にも迷惑をかけないように、我儘を言わないように。そうしてきた。そしてもう一つ」
だから気付かなかった。それが呪いの言葉だったのだと。
「────泣かないように」
きっと彼女は呪いをかけたつもりはないはずだ。ただ自分がそう受け取っただけで。
だって、泣けば誰かが心配するから。迷惑がかかるから。そう思ってきた。
いつからか染み込んでいたのだ。彼女が去り際に残した言葉が。それはやはり、呪いのように。それがきっかけなはずだから。
「わたしは──」
あの時クラスメイトが自分にそう訊くまで気にしたことはなかった。気付かせてくれたあの子には感謝すべきなのかもしれない。
悲しいという感情が、解らないわけではない。それでもその感情が、いつからか行為に直結しなくなっていた。
感情が壊れている。まるで心は空虚だ。
「────わたしはこの10年間、一度も泣いたことがないの」





「────どうして美都ちゃんを止めなかったんですか?」
不意に弥生から率直な疑問が飛んでくる。円佳はティーカップへ落としていた視線を上げた。すると弥生が怪訝そうな顔でこちらを見ている。まるで納得がいかない、と言われているようだ。
昼食を終えまた少し閑談し、まだ本調子でない美都を寝かしつけて隣の家を去った。日暮れ前だ。今は場所を移動してこうして弥生の家に留まっている。紅茶を振る舞ってもらいながら、食卓テーブルに彼女と向かい合って座っていたところだった。
その真っ直ぐな瞳に眉を下げる。子どもの成長は早いな、と思いながら。
「あそこで私が止めても、あの子は多分折れなかったでしょうね。意外と頑固だから」
「でも……美都ちゃんを止められるのは円佳さんだけなんですよ──?  このままじゃ……」
弥生はこの後のことを考えて苦しそうに目を伏せた。美都から話された内容を反芻しているのだ。その様を如何ともし難い表情で円佳が見つめる。彼女も同じように、先ほどの光景を思い出していた。目を伏せて淡々と自分の想いを口にしていた少女。離れている間に、思考が良くない方へ助長してしまった。ずっと懸念していた方へ。
「──……あの子は、暗闇に囚われているの」
ふとその言葉が溢れた。驚いた弥生が円佳を見る。
「私のところに来た時から、美都はもう自我を確立してた。聞き分けが良くてすごく素直な子。全然手がかからない子だったわ」
当時のことを瞼の奥に思い浮かべているのか、円佳が懐かしそうに微笑む。彼女こそこれまで少女を一番近くで見てきた人間だ。5歳だった幼子を、10年間実の子どもと遜色なく育てた。本当の親子のように。
「だから私も最初の頃は油断して気付けなかった。あの子が囚われているものに。……情けない話よね」
「円佳さんのせいじゃありません……!」
つい弱音を吐いてしまった。だがすかさず弥生からフォローが入る。恐らく彼女も同様の感情を抱えているはずだと見て眉を下げた。
「ありがとう。確かにこれは誰の責任でもないのかもしれない。あの子の心の問題だから」
それに、と過ぎたことを後悔する。自分が気づいた時にはもう遅かったのだ。あの時に美都が母親からの″あの言葉″をどう捉えていたのかなんて、全く気にしていなかった。親子の別離の会話をただ側で聞いていただけだ。はぁ、と重い息を吐く。
「あの子は私たちが思っているよりも想像以上に深い闇にはまっているわ。私たちではどうすることも出来ない闇に。悔しいけれどね」
「……っ、本当にどうすることも出来ないんですか?  何か方法はないんでしょうか」
黙したまま唇を噛み締めて円佳の話を聞いていた弥生から嗚咽に近いものが漏れる。口惜しそうに顔を歪めていた。美都もこうあれたら良かったのに、と弥生を見て不意に脳裏に過ぎる。悪あがきに近いが、感情を臆することなく出せたならどれだけ良かっただろうと。あの子は大人すぎるのだ。こうして感情を表に出すことを滅多にしてこなかった。だが道筋は作った。それが美都からその事実を聞かされた時だ。
「……闇からは簡単に抜け出せないわ。それに美都にとっては闇だと思ってないのかもしれない。ただの約束だから」
「約束──?」
ふと違う単語が漏れ聞こえ思わず弥生が反応する。何を以て約束なのか、と。
すると円佳が難しい顔をして目をティーカップに落とす。透明な茶色の湖面に浮かぶ、ぼんやりとした照明の光を見るように。
美都の闇は深い。それを知っているのはごく僅かな人間だ。弥生にも以前美都が抱えているものについては話をした。だがそれに至るまでの経緯は話していないのだと思い出した。それは弥生が、あの女性の妹だから。気にするかもしれない、と遠慮したのだ。だがもう頃合いか。彼女も大きくなった。知っておいても良いだろうと考え顔を上げる。
先ほど自らが口にした”約束”という単語についての説明。それは美都を縛り付けるモノ。
「────言葉の呪縛よ」
静かに響いたその声。澄んだ空気に円佳の言葉が反響した。
そのまま彼女がこれまでの内容を話す。弥生は初めて耳にする内容に動揺を隠せず時折目を見開いたり口を結んだりして感情を抑えていた。
一通り話し終えると、円佳が大きく息を吐いた。
「──だからね、やっぱり私にも責任があるわ。今のあの子がああいう対応しか浮かばなくなってしまったのは」
弥生は視線を下げたまま、口元を押さえ大きな瞳を潤ませている。到底予想の範疇を超えていたからだろう。
「美都ちゃんはずっと……その言葉を、信じて──っ……?  だから、なんですか……?」
堪えきれなくなったのか、彼女の声が震え始めた。少女のひたむきな想いを感じたのか或いは身内への憤りか。それは彼女にしか分からない。だが堪え難いといった風に顔を歪ませている。そしてその疑問はすぐに判明することになった。
「どうしてっ──……お姉ちゃん……!」
遂には両手で顔を覆い、小さく叫んだ。その瞬間、円佳は少しだけ後悔する。弥生はこれまでも実姉がした責任を己で感じているはずだと。彼女が苦しむ必要はないはずなのに、如何せん血縁というだけでその責任の重さが増す。そして弥生は殊更それを感じ取りやすいのだ。弥生のことを宥めようとした矢先、視界の端から辿々しい声が届いた。
「──……おかあさん?」
二人揃って声がした方へ首を捻る。するとそこには那茅が心配そうにこちらを見上げる姿があった。
「どうしたの?  くるしいの?」
幼子が弥生の元へ駆け寄る。すると彼女は娘を凝視した後、椅子から降りて那茅の身体をぎゅっと抱きしめた。
この間互いに口を開くことが出来なかった。恐らくは似たようなことを考えていたのだ。円佳にとっては記憶の中、弥生にとっては話に聞いた美都の小さい頃の姿。それが今の那茅と重なったのだ。だから余計に苦しくなった。こんな幼子の手を離したのかと。
「大丈夫。大丈夫よ」
「でも、おかあさんきのうからずっとかなしそうだよ。やっぱりみとちゃんどこかいっちゃうの?」
那茅は敏感に大人たちの雰囲気を感じ取っていたようだ。加えて昨日美都とした会話を思い出したのだろう。幼子自身気になっているようだった。
「っ……那茅は、美都ちゃんが好き?」
「うん。だからどこにもいってほしくないよ」
「そうよね──お母さんもよ……」
まだ震える声で娘と問答を交わす。弥生は那茅からの想いを噛み締めるように喉を引き絞った。
どうしても考えてしまう。何故姉は縋る我が子を置いて行けたのかと。こんなに小さな身体で必死に想いを表明してくれているのだ。無碍にすることなど自分には出来ない。だからなぜ、と。悔しくてやるせ無くて赦せない。円佳からの話を聞けば尚更だった。
「なち、みとちゃんとやくそくしたんだよ。はやくげんきになって、なちとあそんでくれるって!」
娘の口から出た約束という単語にピクリと反応する。あの時美都が一瞬躊躇いの表情を見せていたのは、そういうことだったのかとようやく理解した。
それでも彼女は、この幼子の小さな手を握り返した。約束の重みを知っているからこそ、その場凌ぎにはしないはずだ。
そう信じている。そう信じるしかない。
肩越しに聞いた声に応じるように、弥生は幼子の肩に手を置いて正面から向かい合う。
「大丈夫。美都ちゃんはちゃんと約束を守ってくれるわ」
「ほんとうに?  ぜったいだよね?」
那茅の邪気の無さが吉と出るか凶と出るか。少しだけずるい気もする。それでも彼女を繋ぎ止める手段はいくらでも欲しい。そうしなければ本当にどこかへ飛んでいってしまいそうで。
娘の頭を撫でながら弥生は強く頷いて見せた。始終を眺めていた円佳もようやく我に返る。
本当は当初懸念していた。この母娘が近くにいることは美都にとって良いことなのだろうかと。血縁関係だと覚えていないにしろ、彼女はこの二人に己のことを重ねフラッシュバックを起こさないかと心配だった。だが杞憂だったようだ。それどころか良い効果を生んでいる。それは偏にこの幼子の無邪気さのおかげかもしれない。それに、と今度は母親の方を見る。
「……弥生ちゃんも、本当に大きくなったわね」
我が子を抱きしめる背中が逞しく見えた。まさしく”守る者”の背中だ。
制服を着ていたあの少女が、今や一児の母となった。彼女の姉とは似ても似つかないくらい、真っ直ぐ凛と強く。
「10年……ですから。何も出来なかったあの頃とは違います」
10年という期間が、これほどまでに変化をもたらす。弥生を見れば当然の結果だった。だが逆も然りだ。10年経ても変わらないものだってある。
不意に彼女から出た言葉に引っ掛かりを覚えた。やはり彼女は10年前のことを気にしていたのだと。
「弥生ちゃんが責任を感じることじゃないのよ?」
「──同じことを美都ちゃんにも言われました。自分を責めないで欲しい、って」
眉を下げながら、振り返った弥生が肩を竦める。
「何も出来なかった自分に負い目を感じていました。でも美都ちゃんは──本当のことを知っても気にするでもなく、真っ直ぐに向き合ってくれて。私に責任を感じさせないようにしてくれて」
まだあどけない少女がまるで大人のような対応をするのは、自分のことを後回しにして他人を優先させる彼女の優しさだと。それどころか彼女は自分に赦しをくれた。それだけで十分だった。元よりずっと救われていたのだから。
だからこそ、ようやく今向き合える。
「……私は美都ちゃんの側にいたいんです。血縁とか関係なく私の意志で。それに守護者としても──」
言いながら胸元に光る指輪に触れる。
「私たちの代に所有者が現れなかったのは、きっとそういうことなんだろうなって。だからまだ力が残っているんだと思うんです」
「!  守護者の力が──残ってるの?」
その問いに弥生はこくりと頷いた。実際にその力を使って加勢したことがあるのだ。
円佳が驚くのも無理は無い。本来であれば次世代に受け継がれた時点で守護者としての力は徐々に失われていく。もしかしたら今がその段階なのかもしれないがそれでも残っている力を使わない手はない。そう考えている。
「だから私はこの力であの子を守ります。何があっても、手を離さない──大切な子です」
強く決意に溢れた眼差しが円佳に向けられる。その姿にまた息を呑んだ。
やはり子どもの成長は早いなと改めて感じた。色々なことに翻弄され動揺していた彼女がここまで強く凛々しくなるのか、と。彼女の口から語られた自身の意志を聞くことができて円佳はフッと笑みを溢した。
「……ありがとう。あなたが側にいてくれて良かったわ」
美都から目を離していたこの半年。弥生が側で見ていてくれたことは両者にとって大きかった。弥生は血縁というものに縛られることなく、「一人の人間」として美都を見てくれている。それが何よりも重要なのだ。なんの制約もなく手を伸ばしてくれる人間がいることが。
「美都ちゃんは……言っていたことを本当に実行するつもりなんでしょうか」
ふと目線を下げて弥生がか細く呟く。彼女が指すのは日中に美都から聞いた話のことだろう。少年たちに話をした後の──少女の身の置き方。ずっとそれを気にかけているようだ。弥生自身何とか止める方法はないのかと必死に画策していた姿が思い出される。
「やるでしょうね。あれだけ覚悟が決まっていれば」
あの時、美都自身の意見を尊重しようと決めた。彼女自身が悩んで考えたことだ。迷いはないと言いながらも自分からの言葉に揺らいでいる節が見てとれた。ならばあの瞬間に強引にでも止めるべきだったかと考えてしまうのも然りだ。だがどちらにせよ元の木阿弥だ。彼女があの思考を持ち合わせている限り。
「あの子は──守りたいものが近くにある程、弱くなってしまうの。だから遠ざけようとする。今のこの状況においては特にね」
所有者であるが故に、標的となる。その際に近くにいる人間に危害が及ばないとは言い切れない。まして自分を守るために他人が傷つくことを、美都は良しとしていない。それ程の人間でないと彼女自身が思い込んでいるからだ。だが。
「──所有者は守られるべき存在。それをあの子がちゃんと飲み込まない限り、話は永遠に平行線でしょうね」
それは美都自身の自己肯定感に関わってくる。加えて彼女も守護者であるが故に事態はここまで拗れているのだ。もう一人の守護者に負担を掛けまいとして。
「……弥生ちゃんみたいに、何があっても手を差し伸べてくれる人がいて──あの子がその手を振り払わなければ……──いいえ」
確かにそれもある。だが重要なのは。
「あの子が振り払ったとしても、何度でも手を握ってくれるなら──きっと」
15歳という多感な時期の子どもたちに果たしてそれが出来るのか。果たしてそれに気づくのか。
「それでも──私は信じています。あの子たちを」
黙って円佳の話を耳に流していた弥生から声が漏れ聞こえる。
「あの子たちなら──何があっても美都ちゃんを繋ぎ止めてくれるって」
ずっと側で美都のことを見てきた彼らなら。大丈夫だと。そう願っている。
「それに──美都ちゃんから頼まれたあのことを、聞くわけにはいかないので」
「……そうね」
美都はあの話の折、弥生に事後の処理を頼んでいた。だが弥生は納得していない。それは美都が考えた最悪のパターンだからだ。それから逃れるためには少年たちが美都の話を聞いた上で真正面から受け止めてくれるかにかかっている。
若い彼らにとって、美都の口から語られる内容は重いものかもしれない。だがそこで一歩でも引けば終わりなのだ。彼らがそれに気づいてくれるか。それに懸かっている。
「何にせよ今の私たちは結果を待つことしか出来ないわ。そしてあの子が……美都が選択したことを受け入れてあげる」
それが待つことしか出来ない者の役目だ。今さら干渉したところで変わりはしないだろう。渋々と同意するように弥生も小さく頷いた。
すると母親の身体に隠れていた那茅がおずおずと顔を覗かせる。今日初めて会話を交わした幼子は興味深そうに円佳を見上げた。
「おばさんは、みとちゃんのおかあさん?」
唐突に自分に向けられた問いに思わず声を詰まらせる。
那茅は今日一日の美都との接し方や話しぶりからそう判断したのだろう。幼子が勘違いするのも無理はない。
きょとんと目を丸くしたまま佇む幼子の姿が、どうしてもあの頃の美都と重なる。まるで当時の彼女と話をしているようで円佳は困ったように笑みを浮かべた。
「……──いいえ」
首を横に振って短く答える。その後の説明が続かず、グッと息を呑み込んだ。この関係性を幼子に解りやすく説明することが難しかったのだ。回答を聞いて、やはり那茅は不思議そうに小首を傾げている。その様を側にいた弥生が宥めるように頭を撫でた。
ずっと思っていた。自分があの子の母親であったならどれ程良かったか。なぜあの子は自分の娘じゃないのか。そう考える度、胸が苦しくなった。
それでも。それがどうしたというのか。あの子は大切な家族だ。実の母親でなくとも、実の娘でなくとも、家族であることには変わりない。だから支えて見守る。
それが、”育ての親”として出来ることだ。


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