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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

まるで水彩画のようで

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隠していた訳ではない。
ただ誰の負担にもさせたくなかった。
気を遣わせたくなかった。
だから言わなかっただけの話だ。





ゴトッ、と床に落ちた花瓶が鈍い音を立てた。その白い床に無造作に花瓶が転がる。
「……────ごめん」
ベッドの背にもたれながら病院着の男性が呟いた。目線は下に置いたままだが、その言葉は今しがた花瓶を落とした女性に向けられたものだった。
謝罪の前に彼が内容を説明している。彼女はその内容を耳にして目を見開いたまま硬直したのだ。
「っ……、いや……!」
やっとの思いで絞り出した声は既に震えていた。次の瞬間には顔を歪め、その表情を隠すように両手で顔面を覆う。
「いやよ……っ!  どうして──どうしてなの……!」
彼女は無造作に頭を横に振る。受け入れ難い事として反芻しているようだ。
ここでまた自分が謝罪の言葉を出したところで彼女は更に泣いてしまうだろうと男性は考えていた。だからどう声をかけようか決めあぐねていたのだ。
その瞬間、男性の脚の上にちょこんと座っていたまだ小さな女の子が声を発した。二人はその高い声につられて少女を見る。会話の内容はまだ理解出来る歳ではない。それでもこの雰囲気を察してか、場の空気を和ませるように口元に笑みを溢していた。
「この子もっ……まだこんなに小さいのに──!」
娘の所作を見て、彼女は再び泣き出す。男性は昔から彼女に泣かれるのには弱い。そうならないようにとこれまで過ごしてきたが今回ばかりはそうもいかない。それに己でどうにも出来ないことは少し前から勘づいていた。
だから、ごめんと。今はただそう言うことしか出来なかった。奇跡でも起きない限り、事態は良い方向には進まないだろうと。
泣き続ける彼女を宥めようと声をかけようと顔を横に向けた際、目線の端に小さい手を捉えた。その手に導かれるように目を動かすと幼子が男性に必死に手を伸ばしている。
心残りは、たくさんある。傍にいられないこと。笑顔を見られないこと。共に歩んでいけないこと。
それでも、と目の前の少女を見る。小さい身体で必死に伸ばした手を取り握り返した。
────この子ならば大丈夫だ。
男性は眉を下げ、儚げに微笑む。大切な大切な、一人娘に向かって。
「……ずっと、見守っているからね」
そう言葉を遺して。





「──……一番古い記憶は、確かどこかの白くて殺風景な部屋。多分、病室だったんだと思う」
薄目で遠くを見つめながら、その眼差しの奥に記憶を呼び起こすようにして美都は語り始めた。
この記憶があること自体が不思議なのだ。自分が何歳だったかもわからない。ただぼんやりと、水彩画のようにふやけた映像だけが脳に残っている。
「わたしは誰かに抱かれていて、頭上で他の誰かと話をしていたの。何を話していたかまではさすがに覚えていないんだけどね」
ただその構図だけを憶えている、というだけの話だ。幼すぎてその時に誰がいたのか、そこがどこだったのか、何の話をしていたかなどは全く知らない。ただそこが後に病室だったのではないか、と思い至ったのはしばらく経った後円佳に理由を聞いたからだ。彼女にとっては弟に当たる人物。そして──。
「……多分お父さんがね、入院してた場所だったんじゃないかな。わたしが生まれる直前に大きな事故に遭って、後遺症で亡くなったらしいから」
息を呑む音が聞こえた。視線を床に置いているため誰のものかは不明だ。自分でも驚く程さらりと口に出来たのは、本当に”憶えていない”からだ。
「お父さんが死んだのは、まだわたしの物心がつく前で。写真嫌いの人だったらしいからほとんど当時の写真も残ってなくて、わたしもどんな人か知らないの」
あるいは円佳に聞けば、もう少し詳しい情報が得られるのかもしれない。だが敢えてそれをしなかった。興味がなかった訳ではない。彼女にとっても辛い出来事だったはずだからだ。それを掘り返すような真似はしたくなかった。
だから今も知らない。顔も、声色も。どんな性格だったのか、どんな口調で話すのか。自分にとっては、”父”と言う代名詞が付いた他人に近いのかもしれないとさえ思う。
「──だからお父さん……のことは本当に憶えてなくて。ただ漠然と『誰かがいなくなったんだ』って。そう考えるようになったのも、お父さんが死んでからしばらく経ってからだった」
あの時は幼すぎて、考えが及ばなかった。抑、”死ぬ”ということが何なのか知らなかったのだ。
「ちゃんとした記憶があるのは……この辺りからかな」
父と呼べる人物が亡くなって以降。少しずつ物心がつき始めた頃か。
人間の記憶は、嬉しかったことよりも悲しかったことの方が強く残ると言われている。皮肉なものだな、と感じざるを得ない。全くもってその通りだから。
「────ずっと……泣いている人がいたの」
その女性は、ずっと机に肘をつき俯いて肩を震わせていた。
「わたしはその様をずっと眺めていた」
悲しそうに、寂しそうに泣き続けるその人を。まだ低い位置にあった目線を上げて見つめていた。
「……もちろんその人は、わたしのお母さんでね」
美都は軽く口角を上げる。
お母さん、と口にしたのはいつ以来だろう。無論他人の母親を呼ぶ際に使用するものではなく、自分の肉親として紹介する際に表現したものを指す。久しく使っていないせいかぎこちなく感じる。呼ぶことも、説明することもなかったから。
その事実を反芻しながら、美都は一呼吸置いた。
「まだ小さかったわたしは、その光景について良く分かっていなかった。ただ『お母さんはどうしてずっと泣いてるんだろう』って。今思えば、お父さんが死んだからなんだってわかるんだけど」
当時はまだ理解できるはずがない。母親がずっと俯いて泣いている理由などわかるはずがなかった。
「わからなかった、けど──でも……その様子が、何だか悲しいってことだけは幼心に気付いたの。母親がずっと暗い顔をして泣き続ける様が、悲しいって」
だって。ずっと俯いて泣いているから。俯いていると、目が合わないから。それが寂しかった。
「だからね、笑って欲しくて。わたしが笑えばお母さんも笑ってくれる、って」
────『おかあさん、なかないで』
そう言い続けた。度々伏して泣いている姿を見かけては、その言葉を使うことで顔を上げてもらった。
「……存在の主張だったの。わたしはここにいるよ、だから泣かないでって」
自分に気付いて欲しかった。自分を見て欲しかった。子どもなりの独占欲のようなものだった。
「そう言うとその人は、ようやくわたしの存在に気付いたようにして。無理矢理笑顔を作って『おいで』って言って抱きしめてくれた」
その温もりが愛おしくて。たまに見せるその笑顔が好きで。ただそれだけでよかった。
何度も繰り返される光景。それは恐らく毎日のように。一人きりで泣かないで欲しくて、何度も何度も声を掛けた。その度に笑顔を作りながら。
覚えている。あの温もりを。だからずっと、引きずっているのだ。また、と。
温度の高いものは、いずれ下がっていく。冷えていくのだと知ってしまった。
美都は一度口を噤む。当時のことを思い出すようにしながら、目は細めたままだ。
「……それでもお母さんにとって、お父さんがいなくなったことは何よりも大きかったんだと思う。当たり前だよね。大切な人がいなくなるんだもん」
それは恐らくポッカリと穴が空いたように。その空いた穴を埋められるものは、全く同じものしかない。何かで取り繕ったとして所詮は代替品でしかないのだと気付いてしまった。否、それ以上に。
────代替品にすらなれなかったのだ。
「4歳の年、度々連れられてどこかへ預けられることが多くなったの。親戚の家だったり、保育所だったり。それを──何も疑問に思わなかった」
仕事だと思っていた。だから半日離れていても、何も気にすることはなかった。夜になれば必ず迎えに来てくれたから。一緒に手を繋いで歩いて帰ったことを記憶している。温かくて柔らかい手の感触を。その感触が自分の安心材料だった。
「そんなことが、多分1年くらい続いてた。わたしもすっかりそれに慣れていた頃の──夏の終わり。まだ暑かった8月の最終日」
黙って聞いていた三人は同時に息を呑む。まだ記憶に新しいその日付を思い出して。
8月31日。美都にとって4歳最後の日。
「夜ご飯がね、いつもより豪華で。わたしの好きな物ばっかり食卓に並んでた。どうしてって訊くと『だって明日は美都の誕生日でしょう?』って。……確かそう言った気がする」
サプライズのように祝われたことに驚きながらも、前日も祝ってもらえるなんて嬉しいという気持ちが勝っていた。そのことについて深く考えていなかった。その時、久々に心から笑む母の顔が見られたから。それだけで心は満たされた。
「──なんで前日に祝うのかなんて、考えなかった」
その日がとても楽しくて、嬉しくて。唯一と言って良い程、楽しかった思い出。
こんなにも早く唯一という言葉を考えるなんて、と美都は自虐的に苦笑する。
「……幸せだったんだ」
味が薄い料理も、甘ったるいホイップクリームも。”自分のこと”を祝ってもらえることが嬉しかった。自分だけを見てくれているんだって思えたから。夏の暑さなんて忘れるくらい、心の底から幸せだった。
だから、気付かなかった。否、幼すぎて気付くわけがなかった。
「この時にはもう、心が決まってたんだと思う」
そうじゃなきゃわざわざ誕生日の”前日”に祝うことはしないはずだ。それでもなぜ、と考えてしまう。なぜ誕生日でなくてはいけなかったのかと。
毎年、誕生日になると思い出してしまう。この時の出来事も。無論今年も例外無く。加えて今年に至っては、10年の区切りという点があった。
美都は一度仕切り直しをはかり、目を瞑って深呼吸する。その間も三人は無言を貫いたままだ。何も口に出すことは出来無かった。
ゆっくりと目を開く。そして再び彼女の口から語られていった。
「月が変わって、翌日……9月1日の朝。わたしはいつものように手を引かれて道を歩いたの────」
それは、残暑が厳しい日だった。





日差しは雲に遮られているのに、気温も湿度も高い。
蝉の声が耳鳴りのように響いている。油断するとその声に呑まれてしまいそうになる。
つないだ手を離さないように何度も上を見上げるが帽子のせいでよく見えない。ただ握っているという事実のもと歩を進める。
今日はやけに口数が少ない。
いつも多い方ではないが、こちらが話し始めてもどこか上の空といった相槌しか返ってこない。普段より荷物が多いから、会話が億劫なのだろうか。
今朝はいつも通りに起きて、いつも通りに一緒にご飯を食べた。
誕生日の朝だったので少し残念な気もしたが、昨日の出来事で心は満たされていた。
いつもと同じように出かける準備をして、いつもと同じ靴を履いた。
向かう場所はなんとなく予想できていた。
だからこうして、目的地へ歩いている。


ジメッとする空気が煩わしい。蝉の声がうるさい。
お願いその声を遮らないで。


────このとき何を考えていたのかなんて、今でもわからない。
ただいつもと同じだと思っていたのは自分だけで。
あの人だけが、いつもと同じではないと知っていたのだ。





アスファルトへ太陽が降り注ぎ、地面から受けた熱ですっかり顔は火照っていた。美都にとっては慣れた道だったが流石に歩くのも億劫になる程だ。それでもこうして目的地へ辿り着いた。
(きょうはまどかおばさんのおうちだ)
高く聳える扉を見上げると、帽子が落ちそうになる。しかし落ちる手前で後ろにいた母が美都の小さい頭ごと帽子を支え、難を逃れた。
彼女がインターホンを鳴らすとその扉がガチャリと開く。中からは二人の見知った女性が顔を出した。母が挨拶をしたすぐ後に倣って美都も溌剌と口に出す。
「こんにちは!」
そう言うと円佳はニコリと微笑み、二人を室内へ招き入れた。
この家の玄関は、二人の家に比べて広い。三人が立っていられるスペースがあるからだ。いつもであればすぐに母親を見送るのだがその日だけは違った。大人二人が美都の頭上で会話をしている。それも至って真面目な声で。
「……──本当にいいのね?」
「はい……よろしくお願いします」
円佳からのまるで念押しかのような問いに、美都の母は深々と頭を下げた。その瞬間の円佳が顔を歪ませたことなど知りもせず。そしてゆっくりと上体を起こすと、今度は美都の目線まで腰を落とした。
「──美都。お母さんね、これから……遠くへ行かなきゃいけないの」
突然そう言われたことに、美都はきょとんと首を傾げる。まだ小さい頭ではすぐに情報処理を行うことが出来無かった。だが「遠く」という響きに不安さを覚え、すぐに母親に向かって主張する。
「どこいくの?  みともいく!」
胸が騒ついた。子どもの勘は鋭いのだと美都自身後々感じることとなる。
しかし娘の返答にすぐ反応はせず、一度苦しそうに唾を飲み込んだ。
「っ……、あなたは──連れていけないの……!」
「……どうして?  みともいきたい」
美都にとってはただの素朴な疑問だった。なぜ一緒に行けないのか、という子どもながらのシンプルな疑問。駄々をこねるのが珍しかったからか、母親は声を詰まらせながら不意に美都の身体を覆った。抱きしめられる直前、美都はその女性の表情を見逃さなかったのだ。
(あ……)
ダメだ。このままじゃまた泣いてしまう。
現に抱き締める力は俄に強く、顔もロクに見えない。それでも彼女の肩が小刻みに震えているのがわかった。
ダメだ、ダメだ。自分が泣かせてはいけない。笑ってもらわなくては、と。
「……みと、わかった」
だから大丈夫だよ。だから泣かないで。
幼い時分では上手く言い換えることが出来ず、端的にそう伝えた。
それでもこれだけは言わなくては、と美都は小さな口を懸命に動かす。
「おかあさんきょうね、みとのたんじょうびだよ!  おうちかえったらまた、いっしょにごはんたべようね」
自分が生まれた日。一年に一度しかない記念日。特別だと、思っていた日。
誕生日でなくとも、特別な日でなくとも、一緒の時間を過ごせる日々が好きだった。
「──そう……、そうね……っ……」
彼女の声は甲高く、美都の耳を刺す。声の震えを抑えるために必死で言葉を捻り出したようだった。
しばらく温もりに包まれた。一向に顔を上げようとしないためさすがに美都も首を傾げる。
「おかあさん?」
そう呼びかけるとピクリと肩を竦めた。そして小さく、長い息を吐くと女性は美都の肩に手を乗せ身体を引き離す。普段は見上げる彼女の顔も、その日ばかりは目線の高さだった。視線を交えると美都に向かって静かに語りかけた。
「────良い子で、待てるわよね?」
真っ直ぐに目を見ながら言う母親からの言葉に、瞬間目を瞬かせる。言葉の意味を反芻するのに時間が掛かるのだ。そして一拍置いた後、美都は強く頷いた。
「うん、まてるよ!  みと、いいこでまってる!」
幼子の返事を聞くと、少しだけ安心したように女性は胸を撫で下ろした。そして美都の頭に手を乗せ優しく撫でる。
その手の温もりが心地良かった。ちゃんと約束出来たことも誇らしかった。だから何も疑わなかった。
頭を撫でた後、再びギュッと抱き締める。その際にふわりと香水の匂いが鼻に届いた。瑞々しい新緑のような香りだ。美都はこてん、と頭を預ける。


「おかあさん、みといいこでまってるからね。だから────」


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