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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-

彼女のいない日

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入室の挨拶をして職員室へと進み出る。馴染みの無い空間なので果たしてどこだったかと辺りを見渡すと該当の人物が手を挙げて場所を示してくれた。煩雑とした雰囲気の中、真っ直ぐに彼女の元へと歩く。
「悪いな、わざわざ」
「いえ。大丈夫です」
そう言葉少なに会話を交わすのは四季と担任である羽鳥だ。5限目の前にある長い休み時間に、伝言があるからと職員室へ呼び出しが掛かった。内容についてはある程度予測できていたため特に何も気にする事なくこうして羽鳥の前に立っている。
「これ。渡しといてくれる?  今日のプリント」
誰に、と言わずとも互いの中で思い浮かべる人物は同じだった。風邪のため今日授業を欠席している美都へ。羽鳥が自分に頼むのも、昨日あったことに加えて諸事情を理解しているからだ。
そう言えば、とその事を思い出し四季はふと口を開いた。
「昨日はありがとうございました」
「あぁ。ま、あれくらいしか出来ないけどね」
新見に襲撃された後。気を失って目覚めなかった美都を家まで送り届けてくれたと聞いた。どう足掻いても自分では為す術がなかったので助かったのだ。大人の力を借りなければ到底無理な話だった。
「あの後は──大丈夫だったの?」
「はい。目も覚まして……ちゃんと話せました」
とは言え熱はまだ下がりきってはいなかった。今朝登校する前に一度様子を見に彼女の部屋へ入ったが、疲れと風邪薬が効いていたようで人の気配に気づく事もなく眠り続けていた。ようやくまともな睡眠が取れているのだから当たり前だ。ここ最近の彼女は随分と根を詰めていたのだろう。昨日より幾分かマシになった寝顔を見て安心し、そのまま家を出たのだ。
「最近努めて明るく振る舞ってたからちょっと心配だったんだよね。もう少しちゃんと見ておくべきだったわ」
羽鳥からの悔いるような言葉に四季は首を横に振った。ただでさえ彼女は30人強の生徒を抱えるクラス担任で、この数日は期末考査の準備に追われている姿を目にしている。本来ならば自分が気付いて支えるべきだった。それが出来なかったことは己でも十分に反省している。
ふと自分で考えたことで思い出した。期末考査だ。だからこんなに職員室内が煩雑としているのか、と。期末考査期間中は職員室への生徒の出入りが禁止されるため、始まる前にという状況なのだろう。
「話した、って言ったけど──何か聞いた?」
神妙な顔付きで不意に羽鳥が疑問を投げかけた。
「進路のこと……ですか?」
「もちろんそれもあるけど──どっちかって言うとあの子自身のこと」
ちょうど期末考査の事を考えていたため思考が進路の方へ寄っていたところだった。それについては羽鳥も気にしているらしい。恐らくはまだ彼女から明確な意志を聞いていないからだろう。だが今の問いはそちらではなかったと言える。
美都自身のことについて。それはこれまで彼女が過ごしてきた環境や生い立ちの話だろうと察することが出来た。
「いえ。一応今日聞くことにはなってます」
昨晩会話をした際に「一日纏める時間が欲しい」と美都から申し出があった。彼女が話すことに覚悟を決めてくれたのだ。そこに異論はなかった。
四季の返答に「そう」とポツリと呟くと羽鳥は何かを考えるように眉間にしわを寄せる。その反応が気掛かりで四季はふと疑問を口にした。
「羽鳥先生は──どこまで知っているんですか」
そう訊ねてみたものの、どこまでという範囲を示すのは何処となく難しいことは把握している。美都を取り巻く環境について。以前和真が言っていた彼女のパーソナルな部分について。
「まぁ表向きくらいはね。個人情報シート提出してもらってるし。それと、保護者とは旧知の仲でね」
「親と……ですか?」
素朴な疑問なはずだった。だがその単語を口にした一瞬、羽鳥が声を詰まらせた。逆に四季はその反応に目を見開く。彼女が声を詰まらせた理由を頭の中で瞬時に巡らせる。答えは一つしかなかった。
「保護者、って言うのは……親じゃないんですか──?」
確認のための問いかけだ。その問いに羽鳥は目を逸らし顔を顰めている。彼女がわざわざ”保護者”と言う単語を用いたのだから肯定文を聞かずともそうなのだろうという予測は出来ていた。
「──それも……知らなかった、か……」
少しだけ据わりが悪そうに羽鳥がポツリと呟いた。突然降りてきた情報に四季も動揺する。やはり自分は美都のことに関して何も知らないのだと。その事実に改めて愕然とした。
「まぁあんまり人に言うものじゃないしね。知らないのも無理は無いわ。それこそ知ってるのは夕月と中原くらいのものだろ」
まるで慰めとも取れるような形で羽鳥は肩を竦める。美都を昔から知る友人らの名前を出したのは羽鳥も少なからず動揺しているからだろう。確かに彼女の言うことも頷ける。「普通」の家庭でない場合、自分の口から他者に説明することは憚られるに決まっている。そこに何がしかの理由がある限り。水唯の背景を聞いた際もそうだった。あの時は半ば強引だった為今になって後味の悪さが尾を引いてくる。
「──あの子は、たぶん思っている以上に隠すことが上手いんだ。いや、それが当たり前になってるって言うのかな」
無言のまま先程の事実を反芻していたところに、羽鳥から補足のような説明が入る。今度はそちらに耳を傾けた。
「二学期始まってすぐ、そこで話したことがあってね。──あぁ、そういや誕生日の時だったかな」
自身の背後にある職員室のベランダを視界に入れながら記憶を手繰る。
誕生日、といえば始業式の日だ。あの日は色々なことがあった。それこそ美都のパーソナルな部分を意識した日でもある。あの日和真に言われたのだ。「美都の事をどれくらい知っているのか」と。そのことについて彼女に訊く前に、宿り魔の襲撃がありおざなりになったままだった。
「普段は割と感情豊かだろ?  でもふとした時に危なっかしく見えることがあるって伝えたんだ。人を信じて疑わないところとか、あの子が傷付くようなことがあってからじゃ遅いと思って。そしたら──」
────『大丈夫ですよ、先生』
そう言って微笑みを返したのだと言う。おどけるような感じでも、本当に心配ないという雰囲気でもなく、ただ「大丈夫」と。
「あれは、自分を守るために無意識に身に付けたすべなんだと思う。すぐにそういう反応が出来るくらいだ。相当長い期間──抱えてるんだろうね」
「口癖──なんですよね、あいつの」
「あぁ。そうやって他人との距離を測ってきたんだろう。15歳の子がする顔じゃなかったよ」
羽鳥は当時の状況を思い出したのか、口の中の苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。美都の口癖となっている一つの言葉。それは「これ以上踏み込むな」という彼女なりの無意識の警告なのだ。決して他人を自分の領域に入れさせないように。それ程までに彼女が抱えているものは、簡単に口に出来ることではないのだろう。
「咄嗟に私も引いちゃってね。これ以上は過干渉になるかも、と思って。それにあの時はまだ取り立てて気にする程じゃなかったように見えたからさ」
見解を述べた後、申し訳なさそうに肩を竦める。彼女の判断は間違っていない。
「その時はまだ──判る前でした。その次の日です。所有者だと判明したのが」
「!  ……なるほどな」
合点がいったように四季の言葉に頷いた。宿り魔の襲撃に遭うまでは、至って変わったところはなかったはずだ。しかし今思えば気掛かりな点もある。美都の「誕生日」に関する価値観だ。気を遣わせたくない、いつも通りでいい、と。そう口にしたのは家庭環境のこともあったのだろうか。
「その──保護者、っていうのは親戚ですか?」
この先は美都のプライバシーに関わることだ。そう思いながらも訊ねずにはいられなかった。羽鳥も同様の考えを持っていたからか、答えを迷って口元に手を当てる。
「そう。あの子にとっては伯母に当たるんじゃないかな」
ここだけの話にしておいてね、と最後に付け加えられた。やはりあくまでプライバシーの範囲らしい。状況を汲んで、自分に教えてくれたのだろう。
まだ血縁者で安心した、と言うべきか。様々な考えを巡らせていたお陰で、一つそれが判っただけでも大きい。それにその保護者とは仲が悪いわけではないはずだ。度々実家──と言うべきか疑問は残るが──に帰る姿を目撃している。和真とも家族ぐるみで付き合いがあるような話し方をしていた。その為美都にとっては悪くない環境だったはずだ。
「今日たぶん様子を見に行ってるはずだよ。帰ったら会うかもね」
「先生にとってはどういう知り合いなんです?」
旧知の仲と言う程だ。それなりに親しい友人だったのだろう。
すると羽鳥は、瞳の奥に何か情景を浮かべるようにして目を細めた。
「同級生だよ。それと、昨日話したろ?」
「──?」
昨日、と言われて不意に記憶を遡る。なぜなら昨日一日だけで得た情報量が多すぎるからだ。情報量というよりも、情報処理能力を駆使したと言うべきか。確かに羽鳥とはちょうど24時間前にあのカウンセリング室で話をしている。懸命に記憶を呼び起こしていると、見兼ねた羽鳥から助言が入った。
「関係者、って話だよ」
「!  それがその人なんですか⁉︎」
「そ。だからさ──」
ようやく思い出した。羽鳥の周りに、鍵に関わっていた人物がいたという趣旨の話だ。よもやそれが美都の保護者だとは思わなかった。驚いて声を詰まらせると、まだ話が続いていたようで羽鳥は接続詞を用いた。しかしその割には表情が芳しくはない。むしろ何かを訝しんでいるように見える。
そして口の中で反芻したであろう考察を小さく声に出した。
「……もしかしたら、血縁で受け継がれてくものなんじゃないのかって思って。その守護者っていうシステムは」
「──!」
羽鳥の言葉を受けて、四季は大きく目を見開いた。言われてみれば確かに、と目から鱗が落ちるようだった。そしてそれは恐らく。
「向陽の方は心当たりないの?」
「──あります。恐らくは両親のどちらかがそうだったんじゃないかと」
詳しくは聞いたことがない。だがこうして自分が守護者になることを予見していたのだ。だからこの街に帰ってきた。そして突然離れて暮らすことになっても特に異議を唱えずありのまま受け止めていた。それはどちらかが経験していたからに違いない。そうなってくると羽鳥の見解は当たっているのかもしれない。
守護者に選ばれるのは指輪次第だ。指輪が「守る力が必要だ」と判断した者を選ぶと。それが少なからず代々血を引く者に関わっているのだろう。
羽鳥が納得したように「なるほど」と呟くのを耳にした。だが次の瞬間には再び難しい顔に戻り頭を掻く。
「でも、やっぱり所有者の方はわかんないね。あの子の時は全然関係ない子だったし」
当時の所有者は、羽鳥の友人だったという。それでもやはり近場にいるということには変わりないらしい。どんな人物だったか訊ねたところ、曰く「普通の子」だったそうだ。正義感は人並みにあったけれど、と付け加えて。その端的な説明に眉根を顰める。だとしたらやはり美都が所有者であることは偶然なのではないか、と。だが偶然にしてはイレギュラーすぎるのだ。そこが懸念する点でもある。
「まぁここで論議してても埒は明かないよ。月代でなきゃいけない理由が何なのか、なんてさ。本人も交えてみなきゃね」
「……そうですね」
「それに──今日、話聞くんだろ?」
羽鳥が示唆する内容は、詳細を語られずとも理解できた。なので無言のまま頷く。今まで語られることのなかった、美都自身の話。彼女がこれまで口を頑なに噤んできた過去のことを。
柄にもなく緊張している。無論何があっても、どんな話を聞いても受け止める。その覚悟は出来ている。だが昨日の彼女の姿を──苦しみの中、拒絶を繰り返していた姿を目の当たりにするとどうしても構えてしまう。本人でさえ思い出したくないことなのだ。それは相当、彼女にとって繊細な部分なのだろうと。
「──向陽」
思考に耽っていたところ、不意に名前をなぞられてハッとする。
「大丈夫です。ちゃんと……手を離すつもりはありませんから」
美都のことが大切だ。昨日の出来事で嫌というほど身につまされた。失いたくない。何があっても決して。それだけは自信を持って言える。
「あんまり気負いすぎないようにね。中原なんかは知っててあの態度なんだから」
フォローするように羽鳥が口を挟む。だがその言葉に思わず苦笑し肩を竦めた。
和真はあれでいて面倒見が良い。それに幼い頃から美都のことを見てきているだけあって度々自分たちの様子を気にかけている。それこそ彼女のことが心配だからだろう。そうでなければただの幼馴染みがあそこまで干渉はしないはずだ。無論迷惑というわけではない。むしろ彼の気遣いに助けられている。それよりも問題は。
(──凛にも話してないこと、か)
美都にとって一番親しい友人のはずだ。それなのに昨日の口振りからするに、凛にも詳細は話していないということになる。彼女自身も「詳しくは知らない」と口にしていた。
あれだけ側にいる凛にさえ伝えていない、ということが懸念事項でもある。話すタイミングは今までいくらでもあったはずだ。何か理由があってのことなのか。だとしたらなぜ今なのか。それを測りかねている。
「……月代はさ」
不意に羽鳥がポツリと彼女の名前を口にする。そのことによりまた思考に耽っていた意識を呼び戻した。
「他人のことには一生懸命で、自分のことは疎かにしがちなんだ。というよりも『自分が周りに与える影響』っていうのを推し量れてないんだと思う」
羽鳥は伏し目気味に彼女なりの考察を述べていく。否、考察ではない。実際に見ていて感じたことだろう。受け持つ生徒の一人としての美都の評価だ。
「自己評価が低い、っていうのはだいぶ前から感じてました」
「うん。人見知りもしない、物怖じもしない、とりわけ聞き分けが良い。で、怖いくらいに素直。なかなかね、そんな風になるのは難しいと思うんだ」
度々美都については自己評価の話が挙がる。それは彼女が自信を持っていないからだ。周りの人間がそれを評価していても、美都自身が肯定しない。出来ない。散々訴えかけてきたつもりだったが人間の性格を変えるのは殊に難しいと実感した。
「よっぽど育ての親がしっかり見てきたんだろう──って考えも出来るんだけど恐らく月代の場合はさ、自分で自分を限っているように見えてね。コントロールというのかな」
「感情のコントロールが上手い、ってことですか」
「うーん、感情はどうかな。ただ近いものはあるだろうね」
例えで出した単語に反応し疑問を投げてみたものの、やはり羽鳥も量りかねているようだ。確定とは言えないのか濁した答えが返ってくる。腑に落ちない表情を汲み取ったのか、次いで説明がすぐに入った。
「なんというか、『この人はここまで』みたいな。その『ここまで』っていう基準が、無意識のうちにあるのかも知れない。加えてその基準は──割と誰に対しても同一なんだと思う」
その鋭さにハッとした。心当たりがないわけではない。
「他人を自分の領域に入れないようにしている、って事ですよね」
「そう。意識にしろ無意識にしろそこまで徹底してやるって事は……多分月代自身、何かを恐れているんじゃないかな。多分それが、月代が抱えているものに繋がるんだろうね」
その通りだ。美都は己に課した暗黙のルールで、他人を領域内に入れないようにしている。それは自分を守るために。怖いから遠ざけようとするのだろう。
「──……?」
そう言えば、と四季は己の思考に耽る。似たようなことを誰かが言っていなかっただろうかと。誰が、どのタイミングで。
「っと、ちょうど川瀬が来たみたい。あれ?  寺崎も一緒か」
考えていたところに、次客の来訪を知らせる羽鳥の声が耳に届いた。思った以上に長時間話し込んでいたらしい。自分が立ち去ろうとするより先に彼女たちがいち早くこちらに到着した。
「何もテスト期間直前に二人で来ることないだろうに」
「別に私は頼んだわけじゃないんですけど」
「だって話し相手がいなくなっちゃうんですよー。今日は美都がいないし」
三者三様。苦言を零す羽鳥に春香が言い訳をし、あやのが理由を述べていく。昨日美都の付き添いで抜けた時間の授業内容の確認として来た春香に、あやのが付いて来たのだ。
不意に出た美都の名前に目を伏せる。この二人は彼女と仲が良い。クラス内でも特に良く話す方だ。何かと行事があれば三人で行動する姿を目にしている。それが一人欠ければ日常の些細な事も狂ってしまうらしい。特に5限目前のこの時間は給食からの流れもあるだろう。
「確かに美都がいないとねー。なんか教室も静かだなーって感じするよね」
「うん。別に普段の美都の声が大きいってわけじゃないんだけど……なんだろうね。パズルのピースが欠けた感じ?」
「お、上手いこと言う」
茶化さないでよ、とあやのが反論する。
「美都は大丈夫なんですか?  昨日辛そうにしてたから心配で……」
「あー……まぁ今日一日休めば大丈夫だろ」
一瞬羽鳥が四季に目配せを送った。どう返答したものかと迷って当たり障りの無いように彼女たちに伝えたようだ。恐らく羽鳥自身も昨日の美都の様子を見ているからだろう。顔面蒼白とした昨日の彼女の姿を思い出す度に胸が締め付けられる思いだった。
「……ねぇ四季。美都と仲直りしたの?」
ちょうど良いと言ったタイミングでクラス委員のあやのと羽鳥が学級内の話を始めると、横にいた春香が小声でこちらに訊ねてきた。彼女は察しが良く、昨日美都と口論し膠着状態になっていた際に「ケンカでもしたのか」と問われたのだ。その際は肯定しなかったものの、春香はそうだろうと半ば決めつけているようだ。あながち間違ってはおらず苦い顔を浮かべる他ない。それに。
「……ちゃんと謝った。から、もう大丈夫だって」
「もう。ケンカしたことないって言ってたから安心してたのに。それにしてもタイミング悪すぎでしょ」
ごもっとも、と言わざるを得ない。美都の体調の変化に気付けなかった自分にほとほと辟易とする。むしろあの言い合いの後彼女の体調が悪くなったのならば自分のせいではないだろうか、という自責の念もある。どちらにせよ自分が責められることに反論は出来ない立場だ。
「まぁでもちょっと嬉しかったんだけどね、実は」
「?  なんで」
何故春香がそう口にしたのかさっぱり理由が分からず眉根を顰める。
「美都は聞き分けが良い、って話したでしょ?  でも四季にはちゃんと自分の意見言ってるみたいだからさ。上手いこと信頼関係築けてるのかなーって」
彼女の説明に面食らう。信頼関係、という単語に思わず声を詰まらせた。
確かに、他のクラスメイトに比べればそういった評価になるのかもしれない。だが実際は昨日の事が起こるまで、彼女が自分に対して全幅の信頼を置いていたわけではないのだと身につまされた。
「……どうなんだろうな」
春香に聞こえないくらい小さな声で独りごちる。今日美都に話を聞くまでは何もわからないのに。それでも考えるのは、ここにいない彼女のことばかりだ。
本当は今すぐにでも会いたい。ずっと側にいたい。今更離れることなんて出来るはずがない。
そう思うのは自分だけなのだろうか、と思ってしまう。少しだけ不安に感じる。
『みとちゃん、どこにもいかないよね?』
昨晩、那茅がそう問いかけてきた。その時に何も答えることが出来なかったのだ。弥生は幼子の勘違いだと言っていたが那茅がそう考えるに至った要因が必ずあるはずだ。弥生も話したいことがあると言っていた手前、それに関することなのかも知れない。
いや、と思い直して小さく頭を振る。ここで悶々としていても何の解決にもならない。そう考え羽鳥に「失礼します」とその場から去るための挨拶を送った。
踵を返し職員室の出入り口へと歩く。するとちょうどその際見知った男性教諭の姿が扉から入ってくるところだった。すれ違う際に会釈をすると、彼もニコリと微笑んで自分に応じる。この時も始めに思い出すのは美都のことだった。彼女はこの男性教諭──高階と仲が良かったな、と。
職員室を出てからも深い溜め息を吐く。結局彼女中心に回っているのだと気付かされる。いつの間にこんなにも彼女の存在が根付いていたのか。そんなことは今更考えても仕方の無いことだ。
もし美都がどこかへ行こうとしているのなら、自分が全力で引き留める。繋ぎ止める。それだけだ。





グラスの中の水が揺れた。それは美都が強く握りしめたせいもある。
揺れたのは水だけでなく、その話を聞いていた円佳と弥生の心もだった。
「っ……美都ちゃん──……本気、なの……?」
話された内容を反芻してしばらく黙っていた。否、口が開けなかった。しかしようやく弥生が疑問を溢す。美都が口にした”彼女の考え”について。
弥生の問いに美都は顔を俯かせながら静かに頷く。その反応を見て弥生は目を白黒させたまま、また声を詰まらせた。
美都の口から語られたことは、まず第一にこれまであったことの説明だった。これは主に円佳に向けて。その後は、昨日彼らと話したことについて。そして全ての説明を終えると今日この後の事をゆっくりと口にした。
問題は彼女の考えだった。美都が口にする彼女自身の考えに対して、弥生は肯定できなかった。
それは隣で聞いていた円佳もそうだったようで、美都が語り終えるとしばらく口を閉ざしていた。そして何かを思ったように円佳が美都に問いかける。
「……それは充分に良く考えて出した結論なの?」
「──……そうだよ」
美都の淀みない回答に、円佳は前髪をかきあげて苦い顔を浮かべた。この回答は恐らく何を言っても揺るがないと察してしまったからだ。
こうなってしまっては彼女は自分の回答を絶対に変えない。それ程の覚悟が声色から滲んでいた。
「納得、しないわ……──だって……っ、そんな──!」
一方、弥生は動揺を隠せず首を横に振りながら再び口を開いた。彼女が心を乱すのも無理はない。
美都から語られた彼女自身の考えは、大人でもそうそう考えが及ぶものではない。否、逆を言えばまだ子どもだからこその残酷さゆえか。
隣で静かに佇む美都を見ながら、円佳は考える。
昔から考えが読みにくい子ではあった。だから半ば無理矢理約束させたのだ。隠し事をしないと。そうでもしないと、この子は自分の悪い思考に縛られてしまう。そのまま成長すれば今後の人格形成に害を及ぼす。そう考えた。
普通の家庭のように、学校から帰ったらその日にあったことを話す。それを日課にすることでしっかりと自分の行動と考えを確立させようとした。
間違っていなかったはずだ。常盤家にいた頃は。目を離してしまったこの数カ月か。否、この思考に至ったのはここ最近の出来事ゆえだろう。
様々な事が重なった。重なりすぎた。
その出来事が美都の”良くない思考”を助長させた。
「──……話すって決めたときに、覚悟したの。何があっても、誰にどう思われても、これだけは譲れないものだって」
沈黙の中、彼女が自分の思考について補足のように説明を付け加える。
弥生は声を詰まらせながらそれでも美都に反論した。
「でもそれは──……!  あなたが一番したくなかったことなんじゃないの……⁉︎  それを、あなた自身がするの──……っ⁉︎」
悲痛な面持ちで必死に訴える。どうにか彼女の考えが変わらないかと必死に。
それでも美都は尚も冷静に弥生の問いに答えた。
「そうだよ。だからわたしがやるの。……わたしにしか、出来ないの」
一度は弥生を見つめ、その後すぐに目線を逸らし己に言い聞かせるように呟いた。彼女の紫紺の瞳は決意で固まっていた。
この子は。なぜそんな考えに至ってしまったのか。本当に他に方法はないのか。
弥生は頭を抱えて眉間にしわを寄せたまま瞳を閉じた。
「ダメよこんなの──……どちらも苦しむだけじゃない……っ……」
「……だから弥生ちゃんに頼みたいの」
ハッとして顔を上げる。美都はいつものように笑みを作ると続けて言った。
「わたしは大丈夫だから」
その表情に、言葉に、弥生は口を噤むしかなかった。
大丈夫なわけがない。今まで築き上げてきたものを、彼女は自分の手で壊そうとしているのだ。
それがどれほど決意のいる事で、どれだけ自分を痛めつける事か。彼女がわからないはずがないのに。
彼女の支えとなっていた一本の細い糸を切る事になるのだ。それも最悪の方法で。
どうにか止めたいと思うのに、これといった代替案も思い浮かばない。
だが、まだたった15歳の少女にこんな決意をさせていいはずがない。
「──……美都。あんたの考えを全部肯定することは出来ないわ」
それまで口を閉ざしていた円佳が腕を組んでおもむろに語りかけた。
円佳の言葉に、美都は少しだけ表情に影を落とす。
彼女はそう言うと思っていた。すると続けざまに円佳が口を開く。
「でも……その結論に至るまであんたも相当苦しんだんでしょうね。今も、きっと」
「わたしの覚悟は決まってる。だからわたしはもう苦しくないよ」
すかさず反論するように、美都が口を挟んだ。
弥生との会話は冷静に行えていたはずなのに、対円佳だとつい子どもらしさが滲み出る。
それは美都が円佳の出方を警戒しているからだろう。昔から彼女に強く言われては敵わないと知っている。
「まあ聞きなさい。……あんたが選んだ覚悟は、本当に正しいものかしら?」
その問いに美都は目を見開いた。
────選んで正しくなかったらどうするの?
脳裏にあの時の夢の、自分の言葉が思い出される。
何かを言いかけて美都は口を開閉させた。その様子を横目に円佳は話を続ける。
「あんたのそれはただの我儘よ。自分だけ苦しむように見せかけて、周りにも同じものを与えようとしてる。一時はそれで通じるかもしれない。それでもその選択は絶対に破綻するわ」
「……っそんなことない。これが最善だよ。誰も犠牲にしない、一番いい方法なはずだもん……!」
「誰も犠牲にしない、ね。それにあんたは含まれてないのね」
説得力の強い言葉で円佳が美都を御した。しかし再び美都が言葉を返すように食い下がる。彼女はどこかむきになっているようにも見えた。
正しいという思いの奥底に迷いがあるのかもしれない。それを円佳に遠まわしに指摘され動揺しているのだ。
弥生は二人の会話をハラハラしながら見つめた。
すると美都が奥歯を噛みしめ、手を強く握りしめると円佳の方へ向きあった。
「このまま選ばなかったら意味がなくなる!  それこそ全部失うんだよ──……!」
「失ったっていいじゃない」
思いがけない円佳の返答に一瞬思考が停止したかのように美都の動きが止まった。そのまま見開いた目で彼女を見つめ返す。
今円佳は何を言ったのかと。
「失えばいい。あんた一人犠牲にしなきゃいけないなら、世界なんて滅んだほうがマシよ」
「っ、……まどかさ──」
「……なんてね」
鋭い眼差しで美都を見つめたかと思えば円佳は次の瞬間にはおどけるように眉を下げた。そして徐に、驚いて硬直したままの美都の頬に手を当てる。
「ねぇ美都」
あれは本心だ。この子を失うくらいなら世界なんて滅んでしまえ。そんな破滅論者の考えに至るのは、自分がおかしくなってしまったからなのだろうか。
それでもこの子だけに背負わすなんておかしい。そんな世界狂ってる。
「自分一人だけを犠牲にして頑張ったからって、えらいわけじゃないのよ──?」
目の前の子どもにあやすように円佳が美都に言った。
この子は暗闇に囚われている。その暗闇の中で一人立ち続けるのはあまりにも残酷だ。
虚を衝かれて美都はしばらく何も言えず彼女を見つめる。
円佳の想いが温かくて、痛くて。甘えてしまいそうになる。でもそれではダメだ。
美都はぐっと喉を締めると円佳から視線を逸らした。
「……犠牲にはしない。だから選んだの。わたしの──我儘で」
そう言いながら、美都は再び視線を足元に落とした。
円佳の瞳を見る事が出来ない。見透かされてしまいそうだから。頑なに自分の意見を主張しなければ揺らいでしまう。
その姿を見て円佳は息を吐くと今度はその頭に手を乗せた。
「──!」
「わかったわ。あんたの意見を尊重する」
「円佳さん──!」
2人の会話を見守っていた弥生がその言動に驚いて円佳の名を強く呼んだ。
彼女なら止められると、止めてくれると思っていた。美都の誤った選択を。
円佳は眉を下げてふっと弥生に微笑む。
その表情を見て弥生は声を詰まらせた。彼女は何かを悟ったのかもしれないと。
再び横目で美都を見ると語気を強めて彼女に問いかけた。
「ちゃんと──自分で話せるわね?」
円佳からの問いに、美都は無言のままコクリと頷いた。その仕種を確認すると円佳は乗せたままにした手で彼女の頭を撫でる。
そして徐に立ち上がり空気を換えるがごとく硬直する二人を見つめ言った。
「──さて、そろそろお昼ね。キッチン借りるわよ。何か食べたいものある?」
一言前とは打って変わって溌剌としたその言葉に美都もようやくまともに顔をあげる。
そうだ。円佳はこういう人だった。厳しくて優しい。懐かしさを思い出してふっと笑んだ。
「なんでもいい。円佳さんの作る料理はなんでも美味しいから」
「信用されたものね。なんでもいいが一番困るのよ?」
美都の言葉を受けて、ちょっと待ってなさいと言って円佳はキッチンへ回り込んだ。
その様子に弥生は何も口にすることが出来なかった。
彼女たちの信頼関係を目の前にして、自分はこれ以上言及は出来ないと悟ったのだ。しかしこのままにしておいて良いものなのだろうか。
美都の選択は、円佳の言うように綻びがたくさん見える。それをあの子たちが納得するとは到底思えない。円佳だって気付いているはずだ。それでも美都の意見を尊重すると言った。彼女には何か考えがあるのだろうか。
ぐるぐると考えていると、弥生の視線に気づいた円佳が肩を竦めた。
ハッとして我に還る。そして尚も口を噤んだまま息を呑んだ。
今は円佳の判断を信じるしかない。
それに正しいかどうかは、実際にその時になってみなければわからないのだ。
弥生はそう自分に言い聞かせると、少年らを思い浮かべた。
(──……お願いよ)
この子に最悪の選択にさせないで。
ただ、弥生にはそう願うしかなかった。


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