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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-
あなたとの繋がり
しおりを挟む美都の告白に、弥生は目を見開いた。予想だにしなかった出来事に、口から疑問の言葉が零れる。
「──どうして……」
弥生からは動揺が隠し切れない。「どうして」には様々な意味が含まれているのだろう。
どうして知ってしまったのか。どうして今なのか。どうしてそれを告げたのか。
美都は弥生から目を背け、天井を仰ぎながら応える。
「新見先生に、無理やり記憶を覗かれたの……。いろんな記憶の断片が見えて──そこに、中学生くらいの弥生ちゃんの姿があった。やっぱり──……そうなんだね」
弥生は声を詰まらせる。どう応えてよいのかわからない様子だ。
ただ、依然否定の言葉はない。突然の事態に戸惑いながらも、決して否定はしない。
しばらくその大きな瞳を見開いたまま硬直する。そしてその後、項垂れるようにストンと先程まで腰かけていた椅子に座った。
「──美都ちゃんの、言うとおりよ……」
弥生の声はか細く、いつもよりも覇気がない。俯きながらたどたどしく話を始めた。ゆっくりと、言葉を探すように。
「私の旧姓は……『立花』。立花弥生」
その姓に反応し、美都は横目で弥生を見つめた。馴染みがある苗字ではない。けれどもその響きは憶えている。
少しだけ顔を上げた弥生の表情に、朧気な面影が重なる。
「私は……──あなたの母親の、……妹よ」
そう美都に告げると弥生は再び顔を伏せて膝の上で両手を強く握りしめた。
美都はその表情を見ていられず思わず目を逸らし、ゆっくり息を吐く。
「黙っていてごめんなさい」
「……──なんで、弥生ちゃんが謝るの? 弥生ちゃんはわたしのために言わないでいてくれたんでしょ……?」
彼女からの重々しい謝罪にすかさず美都が反応する。
優しい弥生のことだ。今まで事実を伝えなかったのは、まず第一に自分の心情を考えてのことに違いないと判断した。恐らくその見解は間違っていない。
だからこそ美都にとって、己の不甲斐なさが赦せなかった。
尚も重たい身体のまま片腕を持ち上げると、美都は顔を隠すように手のひらを上にして額に乗せる。
「……ずっと苦しかったよね。……ごめんね」
「違うっ! 私は……!」
突如弥生が声を荒げ顔を上げる。次の瞬間には正気に戻り、美都を見つめた後フッと視線を床に落とした。
そしてポツリポツリと心境を話し始める。
「──あなたが一番辛かった時期に何もしてあげられなかったことの方が、よっぽど苦しかった……!」
語られることに耳を傾けながら、美都は額に乗せた手を口元へ移動させる。
彼女の言う『一番辛かった時期』は見当がついた。それでも弥生が苦しむ必要なんてない。これはあくまで自分の──家族の問題だ。
美都は困ったように笑いながらそう伝える。
「……弥生ちゃんは、関係ないのに」
「関係無くないわ! だって私は──、っ……私はあの時あなたの一番近くにいたのに……」
悲痛な面持ちで、先程から己を責めるように声を発する。
弥生が指し示すのは物理的な距離ではなく血の繋がりの話だ。
ずっと自分を責めていたのだろうか。弥生の表情が物語っているようにも見える。普段は穏やかな彼女から笑顔が消えてしまった。そんな彼女を見ている方が今は心苦しい。
美都は枕に頭を乗せたまま小さく首を横に振る。
「それこそ弥生ちゃんが気にすることないんだよ。弥生ちゃんだって、まだ今のわたしと同じくらいだったでしょ? わたしだったらきっと何もできない。だって自分のことで精一杯だもん」
弥生の瞳が揺れる。おそらく彼女はそれをわかった上で己を責めているのだ。
どうしたら彼女を苦しみから解放できるのか考えた末、美都は弥生に問う。
「────ずっと、後悔してたの……?」
膝の上で作ったままの握りこぶしは未だ開かない。それどころか今の質問を噛みしめるように更に固くなったように見えた。
弥生は結んでいた唇を開き、か細い声でその問いに応える。
「……ずっとあなたのことが気がかりだった。あのとき、私が異変に気付いていればもっと何かできたんじゃないか、って。それでも私は……──自分の生活が忙しくなって円佳お姉さんに全部任せてしまった。そんな自分が情けなくて、赦せなかった。……あなたにも円佳お姉さんにも合わせる顔がなかったの」
だんだんと震えるその声を聞きながら、美都も声を詰まらせる。
この人は重ねすぎだ。身内の罪をまるで自分のことのように感じている。思った以上に苦しんでいたに違いない。
弥生には弥生の生活ある。差異はあるだろうが、おそらく時期的に弥生が鍵の守護者になったときだ。以前少しだけ聞いたことがある。弥生たちのときには前任からの引継ぎがなかったと。何もわからない状態のまま、守護者として使命を全うしなければならなかったのだ。
それがいかに大変だったか今の自分になら解る。その状況でまで、こちらのことを考えてくれていたのか。
「わたしと……また会うのは、いやだった?」
「そんなことない! でも……今更身内だなんて名乗れない。名乗ったところであなたを動揺させてしまうって。──これ以上、あなたを苦しませたくなかった」
すぐさま否定し俯いたまま首を横に振った。
「私は……お姉ちゃんのことが赦せない。でも私にもその血が流れてるの。そんな私が……あなたの傍にいていいのかって……っ──!」
初めて弥生の口から聞く、身内への憤りだった。
やり場のない感情をまるで手の中に押し込めているかのように、弥生は更にきつく握る。
優しい人だ。まるで尋問の様に問いを投げ続ける自分が鬼のように感じる。
「私たちのサポートを引き受けてくれたのは……罪の意識から──?」
その問いに弥生は肩をすくませる。酷い質問だと我ながら思う。
だが確かめねばならないことだ。もしそうだとしたらこれ以上は頼れない。頼ってはいけない。
弥生は口元に手を当て、途切れ途切れに言葉を繋いでいく。
「それが……、全くなかったと言えば嘘になるわ……」
息を整えながらバツが悪そうに呟いた。
罪悪感から来る行動。贖罪のための接触。
やはりそうなのだ。もうこれ以上は、と息を吐いた時だった。
「でも、今は……!」
それまでずっと伏せたままでいた顔を上げ、弥生は美都を真直ぐ見つめた。
その挙動に驚いて美都も咄嗟に彼女を見る。
「──今は違う! 春からあなたのことをずっと見てきて私は……私はあなたのことを守りたいって思ったの! 守らなきゃって」
その真剣な眼差しが美都を突き刺した。
目を逸らすことができない。彼女の瞳には強い意思があるから。
「血の繋がりとか鍵がどうとか関係ない。私にとって美都ちゃんは、大切な子なの……!」
弥生の口から自分の名前が出たことに、訳もわからず胸が詰まった。
彼女はそのまま布団の上に出たままの少女の手を握る。美都は驚いて目を見開いた。
「──……!」
「あなたが考えていることはなんとなく解るわ。だからこそ私は……──何があっても傍にいる。例え何があっても美都ちゃんの味方よ」
今度は美都が硬直する番だった。
この人は、全て解っているのだ。自分が他者を遠ざけようとしていることを。あるいは今、弥生とも距離を取るつもりだったことも気付いたのだろう。解っていて尚、繋ぎとめようとしてくれている。頑なに手を離そうとせず、真直ぐに自分と向き合って。
彼女の想いは強い。その強さにたじろいでしまう自分がいる。
美都の胸の内に、言い表す事が出来ない感情が広がった。戸惑いともどかしさが同時に押し寄せる。弥生に返す言葉を必死に探しては口を小さく開閉させた。
まだ自分の気持ちに折り合いが付いていないことは確かだ。だが真正面から向き合ってくれている弥生の気持ちをこれ以上おざなりには出来ない。
乾いた空気が喉に張り付いている。そのまま一回息を呑んだ。布団に入れたままの腕にグッと力を込め上半身を浮かせる。
「──! だめよ、まだ起きちゃ……!」
「……っ、だい……じょうぶ──」
まだ身体には熱が籠っている。皮膚も乾燥しているのかヒリヒリと痛んだ。あるだけの力で、呻きながらもなんとか起き上がる。
弥生は美都の行動をすぐに把握したらしい。握っていた手を肩へスライドさせしっかり支えると、枕をクッション替わりにしてベッドに上半身を添わせた。
走った後の様に浅い呼吸を繰り返す。身体が万全でない証拠だ。だがそれ以外にも理由があった。
鼓動が早くなる原因は、緊張と不安。弥生にちゃんと自分の気持ちを伝えられるか。伝えてしまえばもう戻れない。それに、先程から自分を心配する彼女の視線を感じている。
「弥生ちゃん……、わたしは──……」
本当は。本当なら巻き込みたくない。これ以上は。それでも。
美都は布団をぐっと強く握りしめて弥生の視線に応える。
「もう誰も傷ついてほしくない。わたしのせいで──……みんなが傷ついている姿を見るのが嫌なの」
「美都ちゃんのせいじゃないわ……! あなたは何も悪くないでしょう?」
水唯にも言われた言葉だ。だがずっと問い続けている。
自分は何者で、自分がいる意味は何なのかを。
美都は苦い顔で視線を逸らし、胸に手を当てながら首を横に振る。
「……わかってるの。こんなことは不毛だって。わたしの中に鍵がある限り、狙われ続けることもわかってる。それでも自分の気持ちと折り合いがつかなくて──……」
繰り返される自問自答。いつまで経っても答えはでない。だから苦しい。
美都は自分の手を見つめる。夢の中で空を切ったその手を。
噛みしめるように、浅い呼吸を繰り返しながら呟く。
「だから……離れなきゃ、って──。求めてはいけないんだって。そんなのずっと……わかってた、のに……!」
記憶を呼び起こされたことでいろいろなことがフラッシュバックする。
それは呪いの様に、10年間自分の内に沁みこんでいる。これは、罰だ。
差しのべられた手を振り払いたかったわけじゃない。でも、その手をとってはいけないのだと。
美都は目を細めて息を呑む。
「わたしは……──怖いの。信じることが。信じて──……裏切られる、ことが……怖い」
周囲を牽制するのは、自分が傷つきたくないからだ。
その恐怖を知っている。気付かないふりをしてきたが、しっかりと覚えているのだ。あの人の“呪い”を。
だから強くあろうとした。自分の弱さを隠したくて。他人には言えない。言ってしまったら認めてしまうから。
それは美都が初めて見せる弱さだった。
美都の独白を聞いていた弥生は、ベッドの脇に崩れ落ちるように膝をつく。少女の震える手を強く握りしめて。
「……っ──ごめんなさい! わたしが気付くべきだった……あなたの優しさに甘えてしまっていたの……! あなたはまだ──たった15歳の女の子なのに……!」
いつも笑顔で大丈夫だという目の前の少女を。どうして強いと思っていたのだろう。
頼る人間がいなかったのだ。その生い立ちから、周囲に気を遣って己の弱さを見せることが出来なかった。唯一信頼していたであろう円佳も今は近くにいない。ずっと不安だったはずだ。
この少女の境遇を知っていたのに。こんなに近くにいたのに。
弥生は己の甘さを苛む。すると美都は一連の謝罪を否定するかのように首を横に振った。
「弥生ちゃん──っ……違うの、わたしは……!」
美都は嗚咽を飲み込み込んだ。手を握りしめながら俯く弥生の手にさらに自分の手を重ねる。
これ以上弥生に己を責めて欲しくない。その一心で。伝えなくては、と。
「わたしは──いま、このタイミングでよかった……!」
突然降りかかったその言葉に弥生はハッとして顔を上げる。一体どういうことかと、そのまま不思議そうに美都を見つめた。
「だって……お互いがお互いの気持ち知らなかったんだよ。わたしも弥生ちゃんが苦しんでるのに気付けなかった。そのことがすごく、苦しい」
「いいえ、それは……!」
「──それはわたしが弥生ちゃんと血が繋がってるって知らなかったから。……でも弥生ちゃんが言わなかったのは、わたしが気にすると思ったからでしょう?」
弥生が言おうとしたことに被せるように、おそらく後に続くであろう内容を置き換えた。
そうしなければ弥生はきっと抜け出せない。重ねたままの手を強く握り返す。
美都は間髪入れず話を続ける。
「それにね──弥生ちゃんが、自分の道を選んでくれてよかった」
予想だにしなかったのか、弥生は驚いて目を見開く。彼女の大きな瞳に美都の姿が映った。それが少しだけこそばゆくて視線を手元に置いた。
「もし弥生ちゃんがわたしのことに責任を感じて自分の生きたいように生きられなかったらって考えたら……わたしはその方が耐えられなかった。きっとわたしがその罪悪感で潰れてしまってたと思う」
口に出しながら、自分にも納得させるように呟く。
実際、もし弥生の存在を自分が覚えていたらどう思っただろう。きっと春に再会したときに件のことを訊いてしまっていたかもしれない。それは互いに辛く、気まずくなるだけだ。
恐らく今日までの関係性を築くことは出来なかっただろう。だからこそ弥生の判断は正しかった。逆に弥生を苦しませていたのだとしてもそれ以上にはならなかったはずだと。
尚も視線を落としたまま、美都は自分の想いをたどたどしく伝えていく。
「弥生ちゃんが想ってくれていたこの10年間……わたしは、不幸じゃなかった。円佳さんが──常盤の人たちが、本当の家族のように接してくれたから」
言葉を選びながら、途切れ途切れに口に出していく。
10年の間、何不自由なく過ごしてこられたのは常盤家のおかげだ。本来ならば自分の所在は無いところだったのに。思い返せば充分すぎるほどの環境だった。
回想に浸りそうになるのを振り切るため一時目を瞑り首を横に振る。
そして強い意志の元、目線を徐々に上に向ける。尚も戸惑いの表情を浮かべる弥生と瞳を交わした。
美都は喉元にぐっと力を込める。
「わたしは誰の事も恨んでない。それどころか、充分すぎるほどの想いをもらってるの。だから弥生ちゃん──お願い。これ以上、自分のことを責めないで……!」
「────……!」
少女の想いを耳にした瞬間、弥生の瞳が揺れ動いた。再びその眼に水分が溜まり始める。そして大きく息を吸った後身体を硬直させた。
────ずっと、負い目を感じていた。
姉の異変に気付いていたのに、どうすることもできなかった自分に。義兄の姉に預けたと聞いたのは、しばらくしてからだった。
数回しか顔を合わせたことのなかったまだ幼い姪っ子。
ただ当時の姉を責めることは出来なかった。自分にもどうすることも出来なかったからだ。あの子にとってはこれでいいのだと言い聞かせて。やるせなさと申し訳なさでいっぱいで会いに行くこともできなかった。もう会うこともないのかもしれないと思った。
時が経ち自分にも娘が出来て、ふと面影を重ねることがあった。あの子は元気でいるだろうかと。思い出す度に罪悪感が増した。
「私、は──……」
声は掠れる。あの日のことを思い出して。
目の前の少女をじっと見つめ、やがて取り込んだ息をゆっくりと浅く吐く。
春に連絡が入ったとき、心臓が止まりそうだった。守護者の務めだとしても、再び関わる日が来るとは思っていなくて。
サポートを引き受けたのは後ろめたさがあったからだ。これが今まで目を背けてきた罰なんだと。だから甘んじて受けた。
責められるのも、咎められるのも覚悟の上だった。しかし。
────『あっ、は、初めまして……! 月代美都です!』
久しぶりに会ったあなたは無邪気さとあどけなさを残したままで。
憶えていないことに、少しだけほっとしてしまった。
でもそれならば余計な情報を与えて動揺させないようにと。血縁者であることは伏せる事にした。
『弥生ちゃん!』
同じ時間を共有していくうちに後ろめたさが大きくなっていった。
それでも、また名前を呼ばれることが嬉しくて。
過去の事が何も無かったかのように。痛みをまるで抱えていないかのように。
彼女の笑顔は眩しかった。
「あなたに──……救われてた」
とうとう瞳に収まらなくなった水滴が、弥生の頬を伝い床に落ちる。
赦されなくても当たり前だと思っていた。
それなのに────。今も、また。
「救われてたの……っ!」
嗚咽を堪えきれず美都から顔を逸らす。
俯いたまま肩を震わせた。その瞳からは涙がとめどなく溢れている。
「ごめんなさい……! 私、知ってるのに……っあなたのこと──!」
円佳から、美都に関しての仔細は聞いている。彼女の抱えているモノについて。
甘えているのは自分だ。この少女の優しさに。もう自分を責めなくていいのだと少女は言う。
それは、ずっと胸の中に押し殺してきたものからの解放の言葉だった。
頭上からは美都の柔らかい声が響く。
「わたしも弥生ちゃんに救われてた。ありがとう、ずっと傍にいてくれて──」
思わず首を横に振る。傍にいられなかった期間の方が圧倒的に長いからだ。
美都にとっては複雑な立ち位置にいるであろう自分。彼女の方が何倍も辛いはずなのに。それなのに他人の痛みに敏感に反応して包み込む。自分の痛みを後回しにして。
少女の優しさこそ強さだ。その強さに救われてきた。
弥生は手に力を込めて顔を上げる。すると美都は瞳を交わし優しく微笑んだ。
あふれ出る涙をまだ止めることが出来ない。その微笑みにまた胸が熱くなる。
美都が微笑むのは、彼女がすべての痛みを受け止めているのだと知っているからだ。今までもきっとそうして来たのだろう。そうすることで自身の気持ちを昇華していたはずだ。それが自分の役割であるかのように。そう自分に刷り込んできたのかもしれない。
弥生は溢れる涙を抑えようと肩で深呼吸する。今度は自分の番だ。
先程見せた弱さを、見なかったことにするわけにいかない。彼女の痛みを知っているのは自分だけだから。
「美都ちゃん……──あなたは……」
まだおぼつかない声で美都の名を呼んだ時、遠くから小さな足音がパタパタと聞こえ間もなく部屋の扉が開いた。
「おかあさん。みとちゃん、おきた?」
少しだけ遠慮するように半分開かれた扉から那茅がそっと顔を覗かせる。それに反応して、美都と弥生もそちらに目を向けた。
看病のために部屋に留まっていた弥生に対して、那茅は風邪が伝染らないようにリビングにでもいたのだろう。
すると母である弥生の顔を見て、いつもと違う雰囲気を感じ取ったのか慌てて部屋に入ってきた。
「! おかあさんっ! どうしたの? どっかいたいの?」
「那茅──……。ごめんね、大丈夫よ」
直前まで泣いていた事を取り繕うように、弥生は目尻を手で拭った。何が起こったか理解できず、尚も心配そうに那茅は弥生を見上げる。母親が泣いている姿を目の当たりにして狼狽しているのだ。
────『おかあさん。泣かないで』
那茅のその様子が、幼少期の自分の姿と不意に重なった。唇を噛みしめて残像を振り払うように首を横に振る。
「なっちゃんごめんね。お母さん独り占めにして」
どれくらいの間付き添ってくれていたのかわからないが、那茅が呼びに来る程なのだろう。那茅はぶんぶんと勢いよく顔を横に振る。
「ううん、へーき! みとちゃんは、まだいたい?」
「……! ごめんなさい、私ずっと喋ってて──!」
那茅の言葉を聞いて思い出したのか、弥生が慌てて体調の事を気遣う。
話している間は気にしないようにしていたが、冷静になるとやはりどこか身体が重いようだ。
「大丈夫。それよりも風邪が伝染らないか心配だよ」
咳は出ていないが、学校で熱を測ったときは38度近かったはずだ。そこからおそらく急激には下がっていない。子どもの免疫力が気がかりだった。
「念の為那茅には簡易的な結界を施してあるの。だからちょっとくらいなら平気よ」
そっか、と呟いて那茅を見る。那茅は無邪気に弥生の膝の上に座ろうとしていた。その仕種に気づき、抱き上げて座らせると幼子は満足そうに笑う。
そんな様子を見ながら美都はぽつりと呟いた。
「従妹、なんだね」
「えぇ──……」
那茅と自分の幼少期の姿が重なるのはそのせいもあったのだろうか。周りから似ていると言われることは度々あったが、その理由が明確になった。
弥生は叔母で、那茅は自分の従妹にあたるということだ。おそらく瑛久も関係性については弥生に訊いているはずだ。守護者だからということだけでなく、知らないうちに親戚縁者として支えてもらっていたのだ。
「……さっきはああ言ったけど、やっぱり血縁だからこそ出来ることがあると思うの。私は円佳さんのようにはなれないけれど……今更あなたと離れることなんてできないわ」
「……でも──」
弥生の申し出を受けて、美都は視線を逸らした。
巻き込んではいけないという気持ちはずっと残っている。那茅のことを考えれば尚更だ。
すると子どもながらに普段とは違う気配を察知したのか、那茅が心配そうに美都を見つめる。
「みとちゃん、どっかいっちゃうの……?」
耳に届いた悲しげな声に美都は顔をあげた。那茅は弥生の膝の上でじっとこちらを見ている。
その表情に一瞬息を呑んだ。美都を見上げる瞳には幼いながらも不安の色を映していた。
「や! どこにもいかないで!」
何も答えない美都に対して不安に思ったのか、那茅は膝の上から飛び降りて美都の手を握った。
混じり気のない感情に胸が詰まる想いだった。真直ぐで純粋な瞳に自分の情けない姿が映し出される。
────『どこいくの? みともいく!』
どうしても那茅の姿が昔の自分と重なる。容赦なくフラッシュバックが起こった。
あの時、自分ももっと強く言っていればともう戻る事の無い時間に唇を噛みしめる。
尚もベッドの脇で不安そうに見つめる那茅に、美都は困ったように微笑んで応えた。
「……行かないよ。わたしは……──どこにも行けない」
行く場所なんて無い。あの頃からずっと居場所を探している。
やっと見つけたと思った場所も、紛い物のように崩れそうだ。出口のない迷路で彷徨っている。光を見つけてはその方向に足を動かすけれど、一向に辿りつかない。
だからどこへ行けばいいのかわからないのだ。
「──っ……!」
瞬間頭に鈍痛が走り、こめかみに手を当て顔をしかめた。呼吸が浅くなる。
まただ。ここ数日、何かの警鐘かのように頭痛がする。この頭痛の原因は定かではない。何かに責められているような、そんな痛みだ。
その様を見ていた弥生が那茅を宥めるように立ち上がった。
「那茅、そろそろ戻りましょう。美都ちゃん、まだおからだ痛いって」
「うん……」
しぶしぶといった声で母親に応える。美都の返答を訊いたものの那茅はまだ納得できていないようだ。それでも美都の元気が無い様子は理解しているようで、弥生に促されて彼女の手を放した。
弥生は娘の頭を撫でながら美都に優しく伝える。
「何か口当たりの良いものを持ってくるわ。そしたら薬飲んで、ゆっくり休んで。ね?」
「……うん。ありがとう」
頭の痛みを堪えて、何とか弥生に笑みを向ける。
迷惑をかけてしまうことは本意ではないが、今の自分の状況を鑑みると頼らざるを得ない。束の間の休息だと思って今は休むしかないだろう。
弥生は美都の表情を確認すると那茅の背中を軽く押して扉へ向かう。
すると那茅が名残惜しそうに去り際に振り返り、不意に美都の名を呼んだ。
「みとちゃん!」
小さな足をパタパタと動かし、再び美都の元へ駆け寄ってくる。
「はやくげんきになって、なちとあそんでね! やくそく!」
そう言うと指切りの形を作った手を、力強く美都の前に差し出した。
美都は那茅の挙動に面食らい、目を見開く。
目の前に差し出された小さなその手を見つめながらまた息を呑んだ。躊躇う原因は『約束』という言葉だ。美都はそれがひとつの呪縛だという事を知っている。
それでも。知っているからこそこの手に応えないわけにはいかない。
「……──うん。約束」
美都はやっとの思いで那茅の手を取る。
これは自分への呪いなのか救いなのか今はまだわからない。それでも那茅の手を取らないという選択肢は無かった。純粋な思いを拒絶することは出来ない。
那茅は少しだけ満足そうに笑い手を放すと、扉の近くで静観していた弥生の元へ戻った。
じゃあね、と言って弥生が開けた扉を出て二人は部屋を後にした。
(────……約束、か)
美都は小さく息を吐く。
弥生と話したことで少しだけ肩の荷が降りた気がする。自分のことを知っている人がいてくれるだけでなんとなく心強いものだ。
願わくば弥生がこれ以上苦しむことが無いように。
互いに、話さなければ解らないことがたくさんある。他人の気持ちを理解するのは難しい。
────『言われなきゃわかんねぇだろ!』
ふと、昨日の四季との会話を思い出した。
確かに言わなければ伝わらないことがたくさんある。だが言えない理由もまたあるのだ。
四季と水唯はあのあと大丈夫だったのだろうか。宿り魔との戦闘で負傷しているはずだ。
起こってしまったことは変えられない。だがこれから起こるかもしれないことは防げる。
あんな思い、もう二度とさせたくない。だったら自分一人で充分だ。
────それが、君の幸せ?
「──っ……!」
脳内で再生される声にハッとした。夢で聞いたあの声。
もう一度考えてごらんと言っていた。
「わたしの……幸せは──」
美都は小さな声で呟く。まだ答えは出ない。
それでも今考えていることが自分の幸せでないことはわかる。弥生の気持ちも無下にすることになるのだ。
那茅と指切りした手を見つめる。このままではあれが優しい嘘になる可能性だってある。
だから考えなければならない。何が最善の策なのかを。自分にとっても、周りの人たちにとっても。
身体の痛みと連動してまた呼吸が浅くなる。
(……苦しいな)
自分の気持ちに折り合いをつけることが。
────このまま、生きていくことが。
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