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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧下-
微睡みの淵
しおりを挟むこれは、夢だ。
そう判断できるのは、煩わしく思っていた身体の重さが今は無いからだ。
目が覚める前に感じていた身体の痛みも幻だったように思える。
────またここだ。
視界に広がるのは、果ての無い暗闇。幾度も繰り返されるのは、自分が作り出している空間ということだろうか。
(……静かだな)
音も光も無い世界。それ故に少しだけ冷たく感じる。だがそれが心地よくもある。
自分が立っている場所に地面があるのかさえわからない。ただ漂っているだけなのかもしれない。
だが、不意に気配を感じた。この気配には覚えがある。その気配を頼りに振り向くと、先程までなかったはずの水面が揺れた。
目線の少し先に、女性が一人佇んでいる。
あの人だ。今朝見た夢と同じ。黒髪の女性。
「──あなたは、誰……?」
相変わらず顔ははっきり見えない。ただぼんやり浮かぶその容姿は守護者のときの自分に似ている。
女性はゆっくりと口を開いた。
────“と” “も” “え”
声は聞こえない。だが口の形がその名を示した気がした。
やはりそうだ。彼女は巴のようだ。
「わたしに何か伝えたいことがあるの?」
自分で自分に話しかけるなんて変な感じだ。それでも立て続けにこうして夢に現れるということは、何かがあるからに違いない。
しかし声が聞こえないことには訊いても意味はないのかもしれない。その考えが過ぎりながらも、訊かずにはいられなかった。
もちろんその質問に回答は無い。
(そうだよね……)
彼女が巴だとしたらとっくに自分で解っているはずだ。わざわざ伝えなくても良いだろう。
可能性として考えられるのは「美都」と「巴」の人格が乖離していて、自分ではない方に意志が働いていると言うことか。もしかしたら無意識のうちに「巴」という別人格を作り出しているのかもしれない。
そう思うのは、「巴」は守護者であり「美都」は所有者であるからだ。
同じ人間でありながら役割が違う。だから自分でも混乱しているのだろうか。
『──違うわ』
「え……?」
突然、声が聞こえた。それは紛れもなく女性が立っている場所から聞こえてきた。
凛と大人びた声色だ。自分と似ていなくもない。しかし、普段の巴とは違う。
美都は驚いて目を見開く。
『あなたはわたしじゃない。わたしはあなたかもしれないけど、あなたは違う』
「どういう、こと……?」
その女性は繰り返し否定の言葉を用いた。
よく見ると巴よりも背が高く、身体つきもしっかりしているように感じる。何かを伝えようとする意思だけはわかるが、何を示しているのかはさっぱりわからない。
意図がわからずに美都も混乱しながら訊き返す。彼女の言葉は、まるで言葉遊びのようだ。
『──だから囚われないで。見失わないで。あなたは──……』
そこでまた、音は途切れた。
彼女もそれに気づいたようだ。目元が見えないため明確な表情はわからないが、落胆しているように感じる。
必死に自分に語りかける様を、困惑しながら聞いていた。何に囚われて、何を見失うのか。心当たりが無い。それでも胸騒ぎがする。これはきっと悪い予感だ。
美都は思わず胸元を押さえた。無意識に鍵が関係しているような気がしたのだ。
その姿を確認すると、彼女は俯きながら小さく口を動かした。
────“ご”“め”“ん”“な”“さ”“い”
(……なんで──)
なんであなたが謝るの? あなたは悪くないのに。
心の中でそう思った瞬間、女性は首を横に振る。
巴が自分に謝らなければならないことなど無い。むしろ逆だ。守護者の力を与えてくれて感謝している。それなのに。ねぇ。
なんでそんな辛そうにするのだろう。悪いのはわたしなのに。
(そうだよ……)
わたしのせいだ。みんなが苦しそうな顔をするのは全部わたしのせいなのに。
四季も、水唯も、凛も。円佳さんも、弥生ちゃんも。
わたしの存在が、みんなを苦しめている。
いなければ、よかった? そうすればみんな幸せになれる?
ここから動きたくない。目を覚ましたくない。
(わたしがいる意味って、なんだっけ……)
わからない。鍵を守るため? わたしの中に鍵が宿っているから?
水面が揺れる。目の前にいた女性はいつの間にか消えていた。
美都は無意識に暗闇の方へ手を伸ばした。しかしその手は当たり前のように風を切る。手のひらには何も掴むことは出来ない。
手を握りしめたまま腕をだらんと降ろし、項垂れる。
知ってたのに。求めすぎてしまった。期待してしまった。
もうやめよう。こんな気持ち。もう終わりにしなきゃ。そうすればもう誰も傷つかずに済む。だから。
『────本当にそれでいいの?』
再び水面が揺れる。今度は先程と違った声がした。
(……誰──?)
『本当に君は……それでいいの?』
姿は見えない。ただ声は男の人のようだ。いつも夢の中で聞く、柔らかい声。それは天から響いてきた。
しかしその声は自分の考えを責めているようだった。
「だって……わたしにはもう、これしか──」
『それが君の幸せ?』
その問いに思わず口を噤む。
幸せなわけがない。でも誰かを犠牲にしてまで自分の幸せを求めることなんてできない。
俯いたまま、水面に浮かぶ波紋を見つめる。
『じゃあ、君の幸せってなんだい?』
「わたしの……幸せ、は……」
オウム返しのように呟く。口にすることでその言葉を噛みしめるように。
頭の中でぐるぐる考える。不思議と心臓の音が早くなっていくようだ。
『もう一度、よく考えてごらん。大切なものは……──』
その声が飽和していくのと同時に、水面も大きく揺れた。
美都はハッとして顔をあげる。
「待って! わたしはまだ────!」
懇願するように必死に叫んだ。
これはおそらく終了の合図だ。目覚めなければいけない。現実に戻らなければいけないという。だがまだ何も答えが出ていない。それでも空間は容赦なく光に呑みこまれていく。
だんだんと濃く強くなっていく光に、美都はただ強く目を閉じた。
◇
「────っ……」
現実は残酷だ。まだ朧げな意識の中、身体の節々に痛みを感じる。
先程までの軽かった身体の方が幻なんだろう。現実の重力には逆らえないということか。
「美都ちゃん……!」
聞き慣れた声が、瞼の向こう側で聞こえた。その声に応じるようにゆっくりと目を開く。
「──や……よい、ちゃん……」
覚束ない視界のまま、目に入った情報をそのまま呟く。しばらく声を発していなかったからなのか、掠れたように小さい。心配そうに見下ろしている弥生の顔がぼんやりと見えた。
己の名を呼んだことに安心したのか、弥生は表情を緩める。
「よかった」
どうやら自分はベッドの上にいるようだ。弥生の顔の向こうには見知った天井がある。いつの間にか自室に戻ったらしい。
事態を把握すべく可能な範囲できょろきょろと辺りを見渡していると、それに気づいた弥生がベッドの横に添えられていた椅子に座りながら説明を始めた。
「担任の先生が送ってきてくださったの。……学校で倒れたんですって」
「羽鳥先生が……?」
最後に彼女に会ったのは、と記憶を巡らせる。
教室で話をして以来だ。あの後に羽鳥と会話した記憶がない。ここまで運んでもらったのに全く気が付かなかった。というよりもいきなり学校から自室へと風景が変わっていたことに驚いている。どれくらい眠っていたかはわからないが、その間に一度も目を覚まさなかったのか。
何が起こったのか目覚めたばかりの頭ではまだ把握しきれていない。そんな中、弥生が心配そうに美都に問いかけてきた。
「──学校で……何があったの?」
その質問の答えを探すべく、記憶を遡る。
────何があったんだっけ。
確か羽鳥と最後に交わした会話は、熱があるから保健室で休んでくるようにという内容だった。その後教室を出て春香とともに保健室へ向かって。
そこに新見香織がいたのだ。
「新見先生と戦って……」
目を細めながら更に記憶を手繰る。
そしてタイミング悪くカウンセリング室へ同行することになり、そこで新見と戦闘が始まった。高熱で動きが鈍り、宿り魔と対峙して捕まったのだ。
「力が……、どんどんなくなっていって……」
宿り魔に容赦なく力を奪い尽くされた。
まだ力が戻り切っていないのか、今も酷くだるい。だんだんと重くなっていく身体に耐えることに必死だった。
四季と水唯の姿は憶えている。新見の言葉に噛みついたことも。
それから? それから確か。
「記憶、を──……」
新見に記憶を強制的に覗かれたのだ。
ビデオフィルムのように巻き戻されていく記憶。コマ送りで映し出される、自分の思い出。様々な、記憶の断片。
──────そうだ。
美都は一瞬目を見開く。それに気づいたのか、今まで美都の呟きを静かに聞いていた弥生が不思議そうな顔をした。
「……? 美都ちゃん……?」
ゆっくりと弥生の方に顔を向ける。
────『今日は何して遊ぼうか』
あの人と、同じ声。記憶の中で見た映像と、今目に映している現実が重なる。
こんなに近くにいたのに。いてくれたのに。
「やよい、ちゃん──……」
喉を引き絞って彼女の名を呼んだ。
迷いはある。伝えてしまったら、何かが崩れてしまうかもしれない。
きっともう元には戻らない。それでも。
知ってしまった、思い出してしまった以上、何もなかったことには出来ない。だって。
「……ごめんね。ずっと、苦しめてたよね」
弥生から目を逸らす。
きっと弥生は知っていたはずだ。それを自分に伝えなかったのは彼女の優しさだろう。
自分の存在が、彼女を苦しめていたに違いない。それを解放しなければ。
「どうして気づかなかったんだろう、わたし──……。わたしは……知っていた、はずなのに──」
記憶を覗かれるまで、抜け落ちていた断片。
こんなに大切なことをどうして忘れてしまっていたのか。
先程までと様子が違う美都を懸念するように、弥生は立ち上がって再び美都の名を呼ぶ。
どこまでも優しくて、ずっとそばにいてくれたこの人を。傷つけたくない。
美都は声を詰まらせる。それでも言わなければと。
「わたしは……弥生ちゃんを知ってる。──ずっと昔から知ってた」
記憶の中で、今と変わらない笑顔で接してくれた彼女を。4月に出逢う前から知っていたのだ。
美都の言動に戸惑う弥生の顔を、今度はしっかりと見つめる。
「わたしと弥生ちゃんは……、昔逢ってる……よね。わたしがまだ……あの場所に、いたときに」
突然語られる美都からの言葉に、弥生は息を呑んだ。一瞬思考が停止したかのように彼女の動きが止まる。
無言は肯定を意味するのだろう。やはりそうだ。
4月に出逢ったときのこと。前任の守護者としてサポートする、と迎え入れてくれた。
新しい生活で悩んだときも、自分が宿り魔に襲撃されたときも。何かあればすぐに弥生に頼っていた。弥生といる時間は居心地がよかったから。
年の離れた姉の様に慕っていた。弥生もおそらく似たような立ち位置で見ていたはずだ。
──『知り合いよりも、親戚ってことにした方が動きやすいわよね』
そう彼女は言っていた。実際に、自分も四季もそう思った。だから快諾した。それがまさか。
「わたしたちは本当に──血が繋がっているんだね」
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