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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧上-

因果の巡り合わせ

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生徒がしきりに時計を確認し始めた。ということは間もなくチャイムが鳴るのだろう。
羽鳥がそう思った瞬間に黒板の上に設置してあるスピーカーから授業終了を知らせる鐘の音がけたたましく響き渡った。
何度か中断したもののとりあえず目標としていた場所までは教科書を進められたから上出来か、と己を労う。
羽鳥は教卓に向かい姿勢を正した。
「それじゃ、各自復習はしっかりしておけよ。わからないところがあったら聞きに来るように」
はーい、と間延びした声が重なる。それもそのはずだ。育ちざかりの彼らには待ちに待った昼食タイムなのだから。
日直から号令がかかり、一瞬で教室内は賑やかになった。喧騒の中後方に座っている一人の生徒に声をかける。
「川瀬、悪いがあとで月代の鞄持ってきてくれるか?  昼食後でいいから」
「わかりましたー!」
小間使いの様にしてしまい申し訳ないと思いつつ、足早に教室を後にした。
立場上仕方がないが、勘付いていながら新見と美都を二人きりにさせた。授業の途中で慌てて出て行った二人の生徒が戻らないのも気がかりだ。彼らの様子を早く確認しなければという思いで早歩きでカウンセリング室へ向かう。
ちょうど渡り廊下に差し掛かろうというとき、甲高い声が響いてきた。
「あの子に何をしたんですか……!」
向かい合わせで何か話している二人の人影が目に入った。話しているというよりも言い合いに近い。
一人は後ろ姿だが目立つ容姿のためすぐに分かった。4組の夕月凛だ。
普段はひどく大人しい生徒だ。彼女が激昂するのは決まっていつも美都のことである。美都と凛の仲の良さは教師のコミュニティでも広まっていた。
冷静な彼女が感情を露わにして噛みついている人物は、紛れもなく新見香織だった。凛もおそらく授業が終わってすぐに向かう予定だったのだろう。その途中で新見に遭遇したようだ。
あれだけ派手に四季と水唯が廊下を駆けていったのだ。他クラスの生徒でも異変に気付く者もいて当然だ。それに彼女は美都のこととなると途端に鼻が利く。新見は何かを思うように、無言のまま目を細め凛を見つめていた。
不穏な雰囲気を察知し、羽鳥は背後から凛に声をかける。
「夕月」
「!  羽鳥先生……」
不意に名前を呼ばれて、驚いたように凛が振り返った。新見も同じくして羽鳥の存在に気付く。羽鳥は凛に近づきながら新見と視線を合わせた。それに応えるように新見も羽鳥を見据える。
互いに無言のまま、冷ややかな空気が流れた。凛が困惑気味に羽鳥を見上げる。
「早く月代のところに行ってやりな。私は新見先生と話があるから」
そう促すと凛は少し躊躇いながらも小さく頷き、羽鳥に会釈をした後パタパタとカウンセリング室に向かい走っていった。
少女の走り去る姿を見送った後、再び新見と顔を合わせる。新見は無表情だった先程とは違い、いつも通りの笑みを浮かべていた。
この笑顔がいつも違和感の象徴だった。上辺だけ取り繕っているかのようで。
「……月代の容態はどうですか?」
高熱で苦しそうにしていた美都の姿を思い浮かべた。すると新見はふっと笑い、その質問に回答する。
「眠っていると思いますよ。
引っかかる言い回しだ。到底先程まで付き添っていた教師の言葉ではない。
羽鳥は極めて冷静を保ち、次の質問をぶつける。
「うちの生徒が2人、そちらに向かったと思いますが。……なぜ追い返さなかったんですか?」
「もちろん、注意はしましたよ。でも頑なに動かなくて。よっぽど彼女が心配だったんでしょうね」
新見の返答には掴みどころがない。当たり障りのない答えばかりが返ってくる。
「……普通、授業の最中に生徒が2人も慌てて入ってきたら不思議に思いませんか?」
おそらく何かを隠している。否、隠しているというよりも自分からは言及しないようにしていると言う方が正しいか。
羽鳥があまりにも食い下がるからか、新見はわざとらしく大きく息を吐いた。
「随分とあの子の事を気に掛けているんですね。彼女の家庭環境のせいですか?  それとも……何か他に理由が?」
新見の目つきが変わった。何かを探るような瞳だ。
しかし羽鳥は動ぜず、毅然とした態度でその質問を受けた。
「月代の担任として、です。教師が生徒の事を気に掛けるのは当たり前のことです」
望んだ答えが得られなかったのか、新見はつまらなそうにそっぽを向いて再び息を吐いた。
彼女と初めて顔を合わせたとき、感じられたのは空虚さだった。初対面の人間に思うことではないと思ったが、年の割に妙な雰囲気を併せ持っていた。カウンセラーという職業故かとも考えたがこういう時の己の勘はよく当たる。彼女は何か目的を持ってここに居て、それ以外は眼中にないのだと。
その内に一部の生徒がカウンセリング室を利用しているという情報が内山から共有された。利用した生徒から特に異変は感じなかったため、気を揉む程でもないかと己に言い聞かせようとしたこともある。
しかし美都たちも何かを感じていたのか、新見に近づくことは一切なかった。それどころか避けているようにさえ見えたのだ。
それを察することまでは出来ていたのに。今回ばかりは手に負えなかった。
美都の安否をまだ確認できていないため追及もできない。だが四季と水唯が帰ってこないということは何かがあったという証明だ。
「しばらくは起きないと思いますよ。かなりの熱ですので」
また会話を遮るような返しだ。暖簾に腕押しとはまさにこのことだと思った。
新見からは感情が感じられない。ありのままの事実を述べているだけのようだ。このまま問い続けても堂々巡りだと悟る。
そしてそのまま、いつものように柔らかく微笑んだ。
「それでは私は内山先生に報告してきます。羽鳥先生、後はよろしくお願いします」
それ以降の質問には応じないような態度で会釈をし、羽鳥の横を颯爽と通り過ぎる。
直感でしかないが、新見の目的は果たされたのだろう。その目的は定かではないが、美都が関わっていることは確かだ。加えておそらく美都にとっては芳しくないことなのも。
最近の美都の様子が、幾分か普段と違っていたのが気掛かりだった。
だからこそ何か助けになれればと思ったのだが、今回は全くの誤算だ。内山に共有しておくべきだったと後悔が残る。
美都は普通の生徒とは違う。その事に気づいているのはごく僅かだ。それに彼女はおそらく人に言えない何かを抱えている。
(担任だから、とは良く言ったな……)
建前も含まれている自分の回答に苦笑した。
もちろん教師として、彼女のことを気にしているのは確かだ。だがそれ以外にも理由がある。
美都は昔の自分と似た境遇にいるのだと感じている。これは感覚的なものだがおそらくそうだろうと確信めいたものがあった。
とりあえずは美都の無事を確認しなければ。
羽鳥は横切った新見を煮え切らない表情で見送ると自身も向きを変え、再びカウンセリング室へと歩を進めた。





「────っ……!」
「水唯⁉︎」
突然眩暈のようなものが襲ってきて、水唯は膝から崩れた。ふらついた身体を留めるように、膝をついて美都が寝ているベッドの端に手をかける。
驚いた四季が咄嗟に水唯の身体を支えた。
原因は解っている。
「──……大丈夫だ。美都に力を分けたからだろう」
「……!」
力を奪い尽くされた美都は今にも呼吸が止まりそうな状態だった。水唯は新見の指示で少女の生命活動を繋ぎとめるため、己の力を分けたのだ。そのせいで倦怠感が急激に水唯を襲った。だがそれでも美都にとっては足りていないのだろう。なんとか繋ぎとめることは出来ているものの、回復は見られない。美都の力はそれ程までに強い。そして日に日に強くなっている。
「力って一体──。美都の力が強いのは所有者で守護者だからなのか……?」
「それはもちろんある。だが彼女の場合、それだけじゃない」
走った後のように少し荒く呼吸をしながら水唯が疑問に応える。続きがあると悟ったのか、不思議そうに四季が首を傾げた。
「新見はそれを確かめるために美都に接触したんだ。強すぎる力の原因を知る為に」
水唯は考察を口にしながらゆっくりと立ち上がり、眠っている美都を見つめる。
今回の件で合点がいった。宿り魔を送り込んでいたのは美都の力を更に強固なものにするためだ。
新見は自身が得意とする「記憶の呼び起こし」を使い、美都の記憶を垣間見ていた。彼女がその原因を知れたのか定かではないが、記憶を見た後は明らかに様子が違っていた。
「美都の力はそんなに強いのか?」
「桁違いだ。一般人と比べ物にならないくらいには。俺たちでさえおそらく半分にも及ばない」
その言葉を聞いて四季は息を呑んだ。この小さい身体にどれほどの負荷がかかっているのか。隣では水唯が苦虫を噛み潰したような顔で説明を続ける。
「新見は美都の力の搾取を『契約』だと言っていた。あくまで彼女の目的は『美都の記憶』だった。契約を結んだ人物が他にいる。そしてその人物は────既に美都の力に気づいている」
その人物が誰かは分かっている。だが何者であるかは知らないのだ。それに、と四季に悟られないよう瞳を曇らせた。
自分が進言したのだ。まだ宿り魔が憑いていた頃──『彼』の指示で美都に関することを調べていた。その際に気付いたのだ。彼女の不思議な力に。
だからこそその人物は新見に美都の力を調べるよう契約を結んだのだ。おそらくは彼女の知識欲との交換条件に。今までは、ただ人より強い力を持っているという漠然としていた秤が振れてしまった。
水唯は更に顔を歪ませる。
「今後──美都は二重に狙われるかもしれない。力と鍵。そのどちらもが彼女に有る限り」
「……────」
四季は言葉を失った。目の前にいる少女に、更に魔の手がかかるというのか。先程新見が放った言葉が脳裏を過る。
苦痛に耐えながら、その苦しみを誰にも共有できずにこの先生きていく事が本当に幸せなのか。
美都自身にしかわからない痛みと苦しみ。それを今後また味わう事になるかもしれない。身体だけではなく、おそらく心もだ。その負荷は他の人間にはわからない。
無力な自分を苛む他ない。代わってやりたくともそれが出来ないことが辛い。四季は唇を噛みしめた。
感傷に浸っているとガラッという大きな音を立ててカウンセリング室の扉が勢いよく開いた。
「!  四季、水唯──……っ!  美都!」
息を切らしながら凛が入ってくると少年二人の顔を確認してその名を呼ぶ。そして次の瞬間にはベッドに横たわる親友の姿を見つけて血相を変えてベッドに駆け寄ってきた。
美都の顔色の悪さに凛は息を呑む。何が起こったのかわからないという表情だ。
その意図を汲んで四季が凛に説明を加えた。
「38度の熱がある。それと……新見と戦った」
「──!  この状態で……⁉︎  美都は……大丈夫なの──?」
その問いに口を噤む。果たして凛にすべてを伝えてもいいものか。
これが美都に直接訊いていたならおそらくは「なんでもない。大丈夫だよ」と答えるだろう。凛を心配させないために。
しかしこの状況だ。加えて以前から注意対象としてきた新見と交戦したことを伝えてしまった。彼女も何か危害を加えられたことを前提にしているようだ。ならば正直に話すしかないと悟る。
「新見の狙いは美都の力と記憶だった。……全身の力を奪われたんだ。しばらくは目を覚まさないだろうって」
口に出すのも憚られる内容だった。あの場にいて苦しむ彼女を見れば誰だってそうなるはずだ。
その返答に絶句し、凛は己の口を手で覆う。不安そうに美都の顔を見つめた。
「記憶ってなに……?  どうしてあの人が美都の記憶を知りたがるの?」
「美都の力は強すぎるんだ。新見はその原因が、彼女の過去に関係していると考えて記憶から探ろうとした」
今度は水唯が口を挟んだ。同胞であった責任感からか、新見がしたことを凛に説明する。
凛は過去という単語に反応し、口を覆っていた手を顎に移動させるとその言葉を小さく復唱した。
「夕月は何か知っているのか?」
自身に投げられた問いに顔面を硬直させる。何か思い当たることがある、という反応だ。
目を伏せた後、凛は気まずそうにゆっくりと口を開いた。
「……美都の家は家庭環境がちょっと複雑なの。私も詳しくは知らないけれど……」
初めて耳にする情報に四季は目を見開く。美都は普段そんな素振りを一切見せていない。どこまで複雑なのかは定かでないが、凛が口を噤むほどだ。よほど深い事情があるのだ察する。
そういえば、と水唯は昨日の和真との会話を思い出した。美都は凛にも話していないことがあると。もしかしたらその内容が関わってくるのかもしれない。普段の様子から鑑みても、おそらく凛は美都に関する大方のことは知っているはずだ。その彼女でさえ知らされていないことがある。だとしたらそれは美都の根本に関わってくることなのだろう。
しきりに記憶を覗かれることを拒絶していた彼女の姿が思い出される。
「美都は……いつ起きるの?  ずっとこのままなの……?」
微動だにしない親友の姿を見て不安に思ったのか、凛が恐る恐る疑問を口にした。
「力が回復すれば目は覚ます。時間はまちまちだ。本人の自然治癒力による。……だが目を覚ましたところで、風邪による熱のせいでしばらくはうなされるかもしれない」
力が戻ったところで風邪が治るわけではない。それこそ本人の自然治癒力にかかっている。
水唯のその説明を聞いて、二人は再び黙り込んだ。
苦しみから解放されたと思ったらまた次の苦しみが彼女を襲う。その辛さは本人でなければ計り知れない。
三人は暗い表情で各々の思考に浸っていた。
「──こら、そこの不良生徒二人」
「!」
一斉に声のした方をみると、開いたままの入り口には担任の羽鳥が立っていた。
その場で溜め息を吐くと、それぞれの顔を見ながら三人のもとへ歩いてきた。
「羽鳥先生……──すみません、でした……」
四季が居心地悪そうに謝罪の言葉を述べて目を伏せる。水唯も同じ意図で頭を垂れた。
「全くだな。まだ私の授業だったからよかったものの、他の先生だとこうはいかないぞ」
そう言いながら回り込むと、羽鳥はベッドで眠っている生徒の顔がよく見える前方に割って入った。
叱られると構えていた四季と水唯は予想外の返しに少しだけ戸惑う。羽鳥は彼らの反応を気にすることなく、そのまま美都の顔を覗き込むと少女の首筋に触れた。
顔色は悪いが辛うじて寝息ともとれる呼吸音を聞いてひとまずは安心した。ただ熱を帯びていることに変わりはない。思わず眉間にしわがよる。『眠っていると思います』とは、よく言ったものだと思った。
身体に触れても起きないのだ。これはまるで──。
「……気を失っているな」
「──!」
教師の意外な言葉に驚き、羽鳥に目を向ける。今度はその視線に勘付いたのか、彼女は息を軽く吐いた。
「なんとなく事態は把握した。だからあんたたちを止めなかったんだ」
話しながら優しい手つきで今度は美都の手首に触れ、脈を測り始める。
羽鳥が腕時計を見つめながら計測している間、四季たちは動揺を隠せずに顔を見合わせた。
普通の教師ならば、授業中生徒が何も言わず教室から出て行ったら咎めるはずだ。そこにどんな理由があろうとも、おそらく大半の教師は教育的指導の元そうするだろう。だが羽鳥は至って冷静に状況を分析し、現状に対応している。
堪えきれず四季が口を開いた。
「──何を……どこまで知っているんですか」
窺うように羽鳥に訊ねる。この状況では、味方かどうかもわからない。何せ美都を保健室に促した張本人なのだ。もしかしたらという仮定の元、少しだけ気を張る。
脈を測り終えた彼女は美都の衣服を正し、シーツをかけながら少し考えて応えた。
「関係者だ。もと、な」
「──関係者?」
「鍵の、と言えばいいか?」
文字通りのキーワードに三人は息を呑んだ。具体的な単語が飛び出すとは思っていなかったからだ。
羽鳥は一通り美都の状態を確認し終えると四季と向き合った。
「月代は……所有者なんだろ?  で、向陽は守護者。違う?」
「──……なんで」
次々に特定の者しか知り得ない単語を出す羽鳥に、四季は唖然といった様子で声を漏らす。否定も肯定もしない彼の雰囲気を察知し、羽鳥は横目で美都を見つめた。
「──鍵に関わってた人間が過去に近くにいた。だからあんたらの行動でなんとなくは察してたんだ。特に月代は──……」
一旦口を噤み、美都と同じ苗字だった旧友を脳裏に思い浮かべた。今は結婚して別の姓を名乗っているこの少女の保護者のことを。
「……月代はわかりやすい。まさか所有者だとは思わなかったけど」
少年たちは初めて知る情報にまた声を詰まらせていた。その様子に気付きふっと顔を上げる。
「安心しな、私は敵じゃないよ。味方と言えるほど、大してできる事はないけどね」
敵ではないと聞いて四季と凛から安堵の息が漏れた。一方水唯は羽鳥の言葉を反芻するように目を伏せて何かを考えている。ただ、考えがまとまらないのか沈黙を守ったままだ。一気に飛び出てきた情報に対応するには時間を要するのだろう。
敵ではないことが判明し安心したのも束の間、逆に羽鳥に訊きたい事が山ほど出来たのだ。自身が鍵の守護者でなくとも、過去に関わってたという彼女が知り得る情報もあるはずだと。
しかし混乱する彼らをよそに、先に疑問を口にしたのは羽鳥だった。
「だがわたしは最初、月代も守護者だと思ってたんだ。もう一人の守護者は夕月か?」
名前を出された凛は一瞬肩を竦める。すると躊躇いながら目を伏せて首を横に振った。
羽鳥は見当が外れ、不思議そうに眉間にしわを寄せる。
凛と四季は目配せをすると、押し計ったようにして四季が頷いた。それを確認すると凛は顔を上げて言い辛そうに声を発する。
「……美都なんです。守護者も、所有者も」
「────は……?」
今度は羽鳥が驚く番であった。凛の返答に思わず目を見開き美都を見つめる。
予想だにしなかった事態に一瞬思考が停止する。明らかに自分のときとは違うという状況に。
羽鳥は己の口を手で覆い、冷静に事態を確認する。そしてその疑問を口に出した。
「そんなことがあり得るのか……?  守護者と所有者を兼ねるなんて」
「やっぱりおかしいですよね?  なんで美都がこんな──っ……!」
凛は今にも泣きだしそうな声で、羽鳥の疑問に食いつくように返答した。そのまま凛は顔を覆う。
突然泣き出した生徒の姿を見て、羽鳥は慌てて凛の頭を撫でた。自分が泣かせたわけではないが、生徒に泣かれるのには弱い。凛を宥めながら、羽鳥は難しい顔をして考えを巡らせる。
今聞いたことが事実だとしたら、美都は自分自身を守りながら戦わなければならないということか。この過敏な時期に、他にも問題を抱えながら生活するのは負担が大きすぎる。今までは干渉しないつもりでいたが、そうも言っていられなくなったと言うことか。
「──先生は、なぜこのようなことが起こるのか……何か考えられることはありますか」
それまで黙していた水唯が静かに口を開く。極めて真剣な声色だった。
その問いに応えるべく、羽鳥は凛から手を離し水唯と向き合う。凛は深呼吸をしながら必死に涙を止め、二人の会話の成り行きを見守った。
「……わからん。だが月代でなければならない理由が、必ずあるはずだ」
羽鳥は腕を組み、深い息を吐いた。そのまま己の考えを述べる。
「鍵の選定基準は定かではない。素質なのか、他に要因があるのか。あるとすれば、他に適任者がいなかったからかもしくは……月代の場合に限ってはカモフラージュも考えられる」
「カモフラージュ?」
横で聞いていた凛が辿々しく聞き返す。
「所有者は基本戦う術を持たない。だから守護者がいるわけだ。所有者は守護者と違って、自分が鍵を保持していることは知らされない。だから月代の場合、先に守護者と名乗らせておいてあくまで所有者ではないということを示したかったのかもしれないな」
羽鳥の考えを少年らは無言で聞いていた。
「だが諸刃の剣だ。リスクが高い。この仮説も当たらずしも……というところはあれど、決定的な判断に欠けるな」
水唯はいくつもの可能性を頭で作り出しながら、羽鳥の見解と照らし合わせた。
カモフラージュの説は自分も考えたことがあった。ただそれは前提として、守護者の正体を知っていなければならない。守護者のときの姿は普段とは違う。そうそう気付くものではない上に実際に自分も気付かなかった程だ。
だからと言ってこの仮説を捨てきれないのは、《彼》がどこまで知っていたかわからないからだ。もし何らかの手段で美都たちが守護者だと判っていたのならこの仮説は成り立つ。だが羽鳥の言うように決定的な判断に欠けるのだ。どうしても何かが足りない気がする。
「──ところで星名はどういう立ち位置なんだ……?  なぜ鍵のことを知っている」
脳内で様々な憶測をしていると、羽鳥が心底の疑問だったように水唯に向かって呟いた。確かにこの状況では不思議に思うのも無理はない。守護者である四季と親友である凛。考えてみれば転校してきてまもない自分がここにいるのは側から見たら共通性を感じられないものだ。
「俺は──……もともとは対立的な立場の者です」
「それは──敵……、ということか?」
「────はい」
水唯は自分の罪を告白するかのように羽鳥の質問に応えた。そのままこれまでの経緯の説明を端的に始める。
命令のためにこの学校に来たこと。美都によって救われて今はこうして彼女を守る立場にいること。
羽鳥は動揺しつつも冷静に水唯の言葉を耳に流した。そして状況を分析し反芻するように口元を押さえる。
「……なるほどな。合点がいった。星名の顔つきが変わったのはそのせいか」
「そんなに……変わりましたか?」
水唯の返しに羽鳥は肩の息が抜けたようにふっと微笑む。
「変わったよ。転校してきたときとはまるで別人だ。……月代のおかげだな」
その流れで羽鳥から所感が述べられる。
初めて顔を見た時の水唯はあまりにも静かすぎて不安だった。挙動に関してもそうだ。新見とはまた違った虚無感があった。
それが今や、口数が少ないことには変わりないがこうして意見を交わしてくれるようにまでなったのだ。
羽鳥はここ最近の彼の変化を少しずつ感じ取っていたようだ。
その話を聞いて水唯はバツが悪そうに俯いた。当時の事を思い出して少し恥ずかしくなったらしい。
「本当にこの子は……人のこととなると一生懸命なんだから。もう少し自分を大切にして欲しいものだな」
美都を見つめながら呆れ気味に羽鳥が呟いた。今朝受けた高階からの報告を思い出す。
職員室に戻ってきた高階から、伝えておきたいことがあると声をかけられた。用件は美都のことであった。
『本人は無自覚でしょうが……おそらく体調が良くないのだと思います』
深刻な声色で自分にそう伝えてきた。俯きながら彼は己の見解を続ける。
『……彼女が心配です。自分を追い込みすぎなのではと……』
渡り廊下でうずくまっている姿を見つけ、思わず駆けつけたのだという。立ち上がらせる際に手を握り、熱を帯びている事に気付いたのだそうだ。
羽鳥も最近の美都の雰囲気が違うことに違和感を感じていた。
努めて普段通りに振る舞ってはいるものの、彼女の周囲の空気が張りつめていたのだ。ほんの些細な違いだが、敏感な人間は察知出来る。
しかし自分以外で、まさか高階が反応するとは思っていなかったので驚いたのだ。彼は担任を持っていないのでそれ程生徒と接する機会が多くない。それなのに週に数回しか顔を合わせない美都の微妙な変化に気付いた。改めてその視野の広さに感服する。
「先生の知り合いは……どっちだったんですか」
四季がおもむろに羽鳥に訊いた。「どっち」の選択肢が無くても、四季が訊きたい事は理解できた。
「……どちらも見てきた。だから月代の痛みは──……よくわかる」
羽鳥は目を細めた。守護者も、所有者も。どちらも近くで見てきたから。
鍵を奪われるときの苦しみは所有者にしかわからない。もしくは探索のための対象となった者。声を抑えられない程、耐え難い痛みだ。
それをたった15歳の子どもに担わせるのはなぜなのか、未だに理解できない。
だがそれが解ることはきっとないのだろう。全ては鍵の意志だ。人間の中にあるのにそれを決めるのは人間ではないとは、なんという皮肉なのだろう。
「……新見の事、すまなかったな。まさか保健室で鉢合わせるとは思っていなかったんだ。もう少し注意しておくべきたった」
四季に向かって謝罪をする。
怪しいと思いながらも、決定的なものがないため迂闊に手出しが出来なかったのは確かだ。だがそれにより結果的に美都を苦しめることになってしまったことに、責任を感じざるを得ない。彼女のことを思ってやったことが裏目に出てしまった。
「いえ──俺たちも油断してました……」
四季は首を横に振る。勤務の日ではないから大丈夫だという甘えが少なからずあった。
守りたいのなら、目を離すべきではなかったのか。しかしそれは美都の自由を奪う事になる。
所有者にも守護者にも、それぞれの葛藤がある。守るものと守られるべきもの。特に美都の場合はその両方を兼ねているせいで更に心情は複雑なはずだ。
羽鳥は深く息を吐くと、話を切り替えるように少年たちに指示を出した。
「ひとまずあんたたちは教室に……と言いたいところだが、その前に保健室に行った方がいいな」
四季たちの様子を見ながら羽鳥は呟いた。
宿り魔と戦った際に受けた傷がそこかしこに見受けられる。傷自体は大したことはないものの、さすがにそのまま返すわけにはいかない。この時間であれば新見ももう保健室にはいないだろう。満床だったベッドにも空きが出来ているはずだ。
「月代もおぶってかなきゃいけないし、とりあえず移動しよう。ここはどうにも居心地が悪い」
カウンセリング室の空気は独特だ。おそらくそれは新見が作り出している空間ということもあるだろう。
羽鳥の言葉に、四季がすかさず反応する。
「俺が──……!」
「気持ちはわからんでもないが、そんなことしたら余計目立つだろう。私が運ぶよ」
言いたい事を汲み取ったうえで、羽鳥が四季の申し出を遮った。自分が運ぶ意思を示したかったのだろう。
羽鳥の返しは的を射ている。四季は納得せざるを得ない表情で項垂れた。そんな少年を見て、羽鳥は徐に声をかける。
「向陽も大変だろうが……月代を守ってあげな。大切だと思うのなら、何があっても手を離さないようにね」
その言葉に四季は顔を上げる。決意と戸惑い。彼の顔にはそのどちらもが同居していた。
「夕月と星名も。出来る範囲でね」
各々がそれぞれの思いを胸に唇を噛みしめ頷いた。
羽鳥の言葉には様々な想いが含まれている。
担任として一生徒を思いやる気持ち。過去に鍵に関わった者として理解できる美都の立場。そして、彼女の家庭環境を知る者として。
ふわふわと飛んで行ってしまいそうな彼女を繋ぎとめるための重石が必要だ。それが出来るのは間違いなくこの子たちだと確信している。だから自分にできる事は、学校生活で美都が不自由なく過ごせるよう環境を作ることだ。
教師として一人の生徒に肩入れしすぎるのは良くないことだとは分かっている。だがもはや見過ごすことが出来ないところまで事態は進行している。
年端もいかぬ子どもたちにとって、この運命は過酷だ。
所有者も守護者もそれに関わる者も、そして関わってきた者も。おそらく自分も例外ではないのだろう。
(……妙な因果だな)
こんな形で再び関わる事になろうとは。
羽鳥は脳裏に、当時を思い浮かべた。
美都と同じ姓だった自分の友人。彼女もまた守護者だった。彼女ならきっと何か知っているに違いない。このタイミングなのも偶然ではないような気がしてきた。まさに鍵の因果だ。今までは彼女が何も話さなかったためこちらも口出しせずにいたが、もう聞き出しても良いだろう。そうしなければ、こちらも適切な動き方が判らない。
羽鳥は何度目かの溜め息をつくと、三人を促すように柏手をひとつ打った。





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