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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧上-
最悪のタイミング
しおりを挟む11月下旬の保健室は慌ただしい。体育や部活動などの怪我に加え、季節の変わり目で体調を崩す生徒がひっきりなしにやってくる。今日も例外ではなく既に3つあるベッドは満床だ。
ようやく落ち着いた室内で保健教諭の内山里菜はパソコンの前に座り、ひとつ大きな息を吐いた。
感染性が強いウイルスによる風邪も流行り出す時期だ。体調管理には気をつけろと全校集会でも口を酸っぱくして言っているものの、成長過程の身体は免疫力が乏しいのだろう。
全生徒の情報が入ったデータをスクロールする。常連という言い方は好ましくないが、よく怪我をして保健室にやってくる顔見知りの生徒もいれば、初めて認知する生徒も当然いる。
(知らなかった生徒を知る機会にはなるけれども……)
保健室は病院ではない。もちろん看護師などおらず全て一人で対処しなければならない。
連日この調子なのでさすがに骨が折れそうだ。
「──……」
パソコンとの睨み合いにも慣れてきたが、コーヒーでも飲まなければやっていられない。そう思って立ち上がった矢先、入口の木製扉が2回ノックされた。
この時期は授業中に生徒が来ることも珍しくない。またか、という気持ちで扉が開かれるのを一瞬待った。しかし意に反して、ノック音の後扉は微動だにしない。不思議に思った内山は自ずから確認に出向くことにした。
「! えぇっと……新見先生?」
「こんにちは。お忙しいところすみません。今……お邪魔してもよろしいでしょうか?」
扉を開けると、小柄な女性がひとり窺うようにして立っていた。先月、心理カウンセラーとして赴任した新見香織だ。
内山が驚いたのは生徒でなかった事以外にもある。その疑問を新見からの質問の回答とともに返した。
「えぇ、構いませんが……。新見先生、今日は非番では?」
「そうなんですが、残してしまった業務を片づけたかったのと確認したいことがありましたので」
内山の質問に、新見は困ったように笑いながら返答した。
わざわざ非番の日に保健室に赴いたということは、おそらくパソコンを使用したいからだろう。個人情報の取り扱いに驚くほど敏感な時代だ。カウンセリング室として設けられた向かいの校舎の教室には、パソコンを設置しなかった。カウンセリングの記録は、同じパソコンで取るようにとの上からのお達しだった。「生徒たちの心のケアを」との目的でカウンセラーを迎え入れたが、学校側も本人もまだ試行錯誤しているようだ。
「大変ですね。どうぞ」
「ありがとうございます。失礼します」
新見を室内へ招き入れ、扉をそっと閉める。
「ちょうど開いていたところなのでそのまま使ってください」
パソコンは先程使用したままになっていた。念の為にロックはかけたが新見はパスワードを知っている。すると彼女は礼を言って会釈をし、パソコンへ向かった。
ちょうど席を立ったのでコーヒーを二人分淹れるため電子ケトルへ水を注ぐ。カタカタというキーボードの音を聞きながら彼女を横目で見る。
新見とはまだよく話をしたことがない。互いに各々の担当教室から離れる事が少ないことも要因の一つであるが、なにより彼女はまだ若い。いや、若く見えるというべきか。年齢で言えば彼女より下の教師もまだいる。彼女は小柄なこともあり生徒たちと並ぶと大差ない為そう見えるのかもしれない。
そしてもう一つの要因は、カウンセラーとして赴任してきたせいか独特な雰囲気をもっていることだ。そういった点は精神科医に近いのかもしれないな、と内山は思っている。
「どうぞ」
「すみません、ありがとうございます」
慣れた手つきで淹れたコーヒーをマグカップに注ぎ新見に差し出した。集中していたのか、声をかけるまでこちらの挙動に気付かなかったようだ。
「でも、何も休日に出勤しなくても……」
立ったままコーヒーを口にしながら、寝ている生徒に気を遣うように小声で話を続ける。
新見は再び苦笑しながら現状を伝えた。
「思った以上にカウンセリング室を利用する生徒が多くて。ひとりに時間をかけてしまうとどうしても……」
「これくらいの年頃が、一番悩む時期ですからね。身内でない人間に話を聞いてもらう機会なんてそうそうないですから」
「えぇ。だからこそなるべく生徒と向き合ってあげたいんです」
なるほど、と内心頷いた。
初めて新見の仕事に対する姿勢を垣間見たが、意外と真面目な性格らしい。外見で判断するものではないなと身につまされる。
「おかげでメンタル面で利用する生徒が減って、助かってますよ」
「本当ですか? お役に立てているならよかったです」
そう言うと新見は静かに笑みをこぼした。
笑うとさらに幼く見えるのは彼女の雰囲気ゆえだろうか。だからこそ生徒も話しに行き易いのかもしれない。
内山は一息吐いて、何かを思うようにカップの中のコーヒーに視線を落とす。
「……しかし、やっぱり難しいですね。心の問題というのは」
「──と、言いますと……?」
その深刻そうな声に、新見は首を捻り内山へ向き直った。
「相談に来る生徒は、ちゃんと自分で『悩みや問題を抱えている』と声をあげられる子たちです。その子たちの不安を取り除くことは、入り組んだ問題でない限り難しい事ではありません。原因が判っていますから」
もちろん例外はありますが、と付け加えた。
そしてそのまま内山は声のトーンを落としつつ話を続ける。
「問題なのは、自覚のない子たちです。他者に抑圧され、そうあるべきことが当たり前だと考えてしまう子たちは、心の傷に気付かずにその痛みを持ったまま成熟期を迎えてしまう。中には自分で抑え込んでしまう子もいるでしょう」
家庭環境やクラス内の不和。そういう事情で不登校になる生徒を山ほど見てきた。
事実、心の病が原因で保健室にしか来られない生徒を今も目にしている。
「中学生というのは、大人にも子どもにも成りきれない不安定な時期です。なのにこの時期に体験することが今後の人格形成に強く関わってくる。いえ……だからこそ、なのかもしれませんが」
保健教諭として様々な生徒と接してきた。中学生のコミュニティはそう広くは無い。その限られたコミュニティの中で苦しんでいる姿も十分に目の当たりにしてきた。何かしてやりたくとも、保健教諭の自分に出来ることは多くない。話を聞き、時々で向かうべき道へのアドバイスを行うことくらいだ。
「そういう生徒たちとの向き合い方……というか、信頼関係というか。……毎度考えさせられますね」
内山は苦笑しつつ、持ったままのマグカップに口をつけた。
その話にじっと耳を傾けていた新見はふっと息を吐く。そして視線をパソコンに向け、何かを考えるように呟いた。
「……確かに、そうかもしれませんね」
内山の位置からはパソコンの画面は見えない。
何かを見てそう思ったのか、はたまた自分の言葉を聞いたからなのかはわからないが初めて新見がこれまでと違った表情を覗かせた。それはようやく彼女が年相応に見えた瞬間だった。
するとドア越しから廊下をぱたぱたと歩く足音が聞こえてくる。まもなく扉が雑然と開かれた。
「失礼しまーす。先生、病人連れてきましたー」
「しーっ。寝てる子がいるからそっと入ってきなさい」
まるで友人に会いに来たかのように春香が保健室のドアを開けた。壁にもたれかかっていた内山は、やれやれという感じでそれを正す。
次いで春香に手を繋がれた美都が辛そうにそっと顔を覗かせた。
「……失礼しま──……っ!」
入るなり息を呑んだ。それは、本来いるはずのない人物と目が合ったからだ。
(……なんで)
────なんでこの人がここに……⁉︎
新見は室内に入ってきた美都を確認すると、同じく一瞬驚いたような顔をしたがすぐに何事もなかったように微笑む。
咄嗟の事で硬直してしまった美都は、春香の手を離してその場に立ち尽くした。不思議に思った春香がおもむろに声をかける。
「美都? 大丈夫?」
「……っ、……うん──平気……」
ようやく我に返る。新見を警戒しながら、春香が促してくれる椅子に座った。
先程の表情からして今のこの状況は仕組まれたことではない。恐らく向こうも下手な手は打ってこないはずだ。しかし今日は彼女の勤務の日ではない。ならばなぜここにいるのか。
頭の中で幾通りの考えを巡らせていると、内山が美都に電子体温計を手渡した。
「月代か。怪我以外で来るのは珍しいな」
「あ……すみません……」
既に起動されていた体温計を受け取り脇に挟む。
部活をしていた頃は怪我をする度に保健室で手当をしてもらっていた。なので互いにそれなりに面識がある。
内山は問診票のボードを片手に持ち、情報を書き込んでいく。
「いつからそんな状態に?」
「……倦怠感は、今朝から……あったんですけど……」
呼吸が浅いため、言葉が途切れ途切れになる。横に立っていた春香がフォローするように美都の症状を伝えた。
「寝不足だと思ってたんだよね? みんなそうだと思ってたから誰も気付かなかったんです」
春香の言葉に同意するようにコクリと頷いた。その間も視界の端に映る新見の姿が気になって落ち着かない。いつもより心臓が早く感じるのは、体調の悪さなのかそれとも緊張なのか。
内山はそのまま問診を続ける。
「食欲は? 朝は食べてきたの?」
その質問にゆっくり首を横に振る。突き詰めて言えば食欲が無いのは昨晩からだが、敢えて触れなかった。
内山はその回答を見越していたかのように息を吐き、棚からゼリー状のエナジー飲料を取り出してきた。キャップを回しながら少し呆れたように呟く。
「そんなことだろうと思ってたけど、何か胃にいれなきゃ薬も飲めないでしょ」
「……すみません」
瑛久からも薬を受け取る際、そのように言われた。昼食のあと飲もうと思っていたのだが身体がそこまでもたなかったらしい。
ちょうど、ピピピっと電子体温計が鳴った。数値を確認することなく内山に体温計を差し出す。
「──37度9分か。割とあるな」
春香を経由して運ばれてきたゼリー飲料を、その手に持ったまま項垂れた。明確な数字が出てしまうと自覚せざるを得ない。なんとかゼリー飲料に口をつけようとするがそれすらも億劫だ。自覚した途端に身体が重くなったように感じる。
「念の為病院で診てもらったほうがいい。強いウイルス性かもしれないし」
そう言うと内山はパソコンの方へ向かった。するとすぐにパソコンの前に座っていた新見が席を譲る。その間も彼女は美都から視線を外すことはない。立ったまま何かを考えるように腕を組んでじっと佇んでいる。
その新見の動向を気にするように美都も目を細めるが、いよいよ頭がぼうっとし始めた。
「……──っ」
身体が動く間になんとかしなければ。新見がどういう出方をしてくるかがわからない今、予断を許さない。
カチカチというマウスの音が警鐘のように聴こえる。
パソコンを操作しながら内山が美都に向かって声をかけた。
「迎えを呼びましょう。待ってなさい、今連絡するから」
電話をかけるためにパソコン内にある美都のデータを呼び出した。その中には電話番号の他、家庭における特記事項が記されている。ふと不思議に思い首を傾げた。なぜたかすぐにデータが引き出せる状態になっている。直近で開いた履歴があったからだ。しかし特に何か書き加えた様子はなかった。
「……いいです。一人で行けます」
ポツリと独り言のように発せられた弱々しい少女の声で思考を戻される。その申し出に呆れるように息を吐いた。
「その熱で一人で行かせるわけにいかないでしょう。おとなしく──」
「──迎えに」
美都は強い意思で言葉を遮った。苦しいのか、か細い声で伏し目がちになりながら呟く。
「……来て、くれる人なんて……いませんから──」
発言の後、その場の空気が留まったのを肌で感じた。
今更円佳に迷惑はかけられない。かと言って赤の他人である弥生を呼ぶのも違う。四季とは話せる状況ではない。水唯にも凛にも頼れない。
──────今は、ひとりだ。
内山は美都の言葉に驚き、手を留めて彼女を見つめた。データを見た際に視界に入った文章。特記事項には彼女の家庭環境が記されていた。
先程、新見とした会話を思い出してしまう。今まで感じたことがなかったが、彼女は『自覚のない子』だ。
「──美都……?」
戸惑うように春香が美都の名を呼ぶと、ハッとしながら小さい声で「すみません」と謝り更に顔を背けた。
内山は深い息を吐きながら渋面を浮かべる。
「……でも一人で行かせるわけにいかない。それはわかるわね?」
手に持ったゼリー飲料のパックの端を握りしめたまま小さく頷いた。
口元に手を当て、内山は考えを口にしていく。
「と言ってもここは空けられないしどの先生も授業中だから──早くて昼休みね。今はベッドもいっぱいだから座ったまま我慢してもらうことになるけど……」
室内を見渡して打開策を練ったが、これくらいしか思いつかない。38度近くあれば座っているのもしんどいはずだ。先程から呼吸が浅いのも把握している。手にしたままのゼリー飲料にもほとんど口をつけておらず、そのまま春香に返している様も見た。
しかし、今の台詞を聞いたからには放っておくことは出来ない。酷な事をさせているのが解っているからこそ、頭を悩ませてしまう。
そのとき、それまで沈黙を守っていた新見がおもむろに声を発した。
「──よろしければ、カウンセリング室を開けましょうか?」
「……⁉︎」
その声に反応して、美都が目を見開いた。その顔を見てか新見はいつも通りの笑みで返す。
「あそこにも一つベッドがありますし。ここで座っているよりかは良いかと」
確かに、と内山は思い出したように感嘆した。しかし非番の日にわざわざ開けてもらうのも忍びない。
どうしようか迷っていると美都が慌てるように立ち上がって新見に言葉を返した。
「──……いいです! ここで座っていれば大丈夫ですから──、っ……!」
恐らく立ちくらみだろう。言い終わるのと同時に身体がよろけてそのまま元の椅子に座りこんだ。咄嗟に春香が肩を支える。
美都の顔面は先程より蒼白で、悪化しているのが目に見えてわかった。
内山は今の状況を鑑みて、恐縮気味に新見に申し出る。
「新見先生、すみません。お願いしても良いですか?」
「先生! わたし……っ!」
大丈夫だということを伝えたかった。ここで止めなければ、と必死に主張しようと声を出すが浅い呼吸のまま長く話し続けることが困難だった。
今の挙動が裏目に出てしまったのか、内山は美都と向き合うと冷静に言い聞かせる。
「寝かせてもらった方がいい。昼休みまでまだ30分もあるんだから」
「でも……!」
あくまで善意での申し出だ。しかし美都にはここで素直に頷くことが出来ない理由があった。新見がどんな人物か知っているからだ。彼女の目的も。だからこそこの状況はまずいと判断した。その時。
「月代さん」
新見の声が、脳内に刺さる様に響く。
「向こうの方が……ここよりも、ゆっくりできるんじゃないかしら?」
薄ら笑みを浮かべる表情に、喉が絞まる。彼女の言葉が意味すること。それを理解するのは容易だった。当然の如く、他の二人はきっと言葉通りの意味で受け取るだろう。敢えてそのように言ったのだ。自分にしか解らないように。
見えない圧力に息が詰まりそうだった。対外的にはゴネる生徒を優しく促す様に見えるだろう。だがもちろんそんなことはない。新見にとっては不意に訪れた絶好のチャンスなのだ。ここで対象である美都をみすみす見逃すわけはない。だから圧を加えた。他の人間がいることを逆手にとって、人質にした。
これ以上の抵抗は、危険だ。
「こうしていても悪化するだけでしょう? 休ませてもらいなさい」
「……っ、──……はい」
次いで内山の念押しがあり、もはや美都には頷くしか選択肢がなかった。俯きながら小さく返事をし唇を噛み締める。
その瞬間、新見は二人に悟られないように更に口角をあげ不敵に微笑んだ。
「じゃあ川瀬は、この事を今授業してる先生に報告してくれる?」
「あ、はい。ちょうど羽鳥先生の授業なので伝えておきます」
内山と春香の会話を意識の端で聞きながら、必死で思考を巡らせる。
考えなければ。カウンセリング室へ行けば二人っきりだ。新見は必ず仕掛けてくる。その前になんとかしなければ。
横目で彼女を確認する。向こうも同じように何かを考えているようだった。
いつもならば一人でもどうにかなる。しかし38度近くある身体は重りがついているかのようだ。上手く立ち回れるか不安が募る。そのせいで心臓が早鐘を打ち始めた。
すると会話を終えた春香が、美都を支えるようにして立ち上がらせる。
「──それじゃあ、行きましょうか。月代さん」
美都は思わず顔を歪ませる。
偶然とは言え、最悪のタイミングに。
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