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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧上-
傾く天秤
しおりを挟む凛は足早へ7組の教室へ向かう。何せ授業間の休み時間は短い。
朝も一緒に登校できず、1限2限のあとも移動教室で美都のもとへ行けなかった。午前中のチャンスはここだけだ。
「──……」
昨日、美都の様子がおかしかった。問いかけても「なんでもないよ」と笑顔で返ってくるのはいつものことだ。
しかし、その微妙な雰囲気の違いを感じ取った。加えて最近妙によそよそしい気がする。
胸騒ぎがするのはいつも美都のことに関してだ。この胸にかかる靄の正体を早く突き止めたかった。
そうこう考えている間にあっという間に美都がいる教室へ到着する。扉から控えめに顔を覗かせた。
「!」
教室内は休み時間らしく、生徒たちが其処彼処で羽を伸ばしている。そんな中、ひっそりと机に俯せている美都の姿が目に入った。
(寝てる、の……?)
彼女にしては珍しい。普段ならばクラスメイトと談笑しているところだ。
その時ちょうど通りがかった春香に声をかけ、様子を訊ねた。
「美都って、今日ずっとあんな……?」
「うん。なんか寝不足気味みたいだよ?」
「……そう」
思わず美都の方へ視線を向ける。何か眠れないことでもあったのだろうか。
不意に少年二人にも目を向けるが、互いに自分の席で次の教科の予習をしているようだった。
「美都にしては珍しいよね。起こす?」
「ううん、大丈夫。またお昼過ぎに来るわね。ありがとう」
顔を見られなかったのが気がかりだが、寝不足ならわざわざ起こすのも申し訳ない。ただ、あの二人の雰囲気も気になる。おそらく昨日何かがあったのだろう。でなければ、この違和感は杞憂ということになる。問い詰めたい気持ちを潔く諦め、凛は自分の教室に帰った。
彼女が去ったちょうどその後、小さく唸る様に美都がゆっくり首を持ち上げる。意識の端で凛の声が聞こえたような気がしたからだ。
まだぼんやりとした頭を少しずつ慣らしていると、頭上から春香の声が聞こえた。
「起きた? 凛が来てたよ? 寝てたからまた来るって」
「そっ……か。……ごめん、ありがと」
伝達役になってくれた春香に礼を伝える。
夢ではなかったらしい。後で謝らなければ。重たい頭を上げながら額を右手で支える。
重いのは頭だけではない。身体中がまるで鉛玉のようだ。
昨夜何度も起きてしまったのが祟っている。なんとか3限までやり過ごしてきたが、そろそろ倦怠感を無視できなくなってきた。
昼休みは保健室に行ってベッドを貸してもらおう。纏まった睡眠が必要だ。
その考えと同時にチャイムが鳴る。まもなく担任の羽鳥が教室へ入ってきた。談笑していた生徒たちは慌ただしく着席する。
「きりーつ、礼」
日直が号令をかけて4限目が始まった。午前中最後の科目は、担任の羽鳥が受け持つ国語だ。
「教科書、83ページの……」
羽鳥が朗朗と読み上げ、黒板に要点を纏めていく。生徒たちは必死にそれを自分のノートに書き写す。考査前だけあって、いつも以上に教室は空気が張りつめていた。
国語は板書が中心の授業になる。理数系と違ってそこまで頭を使う科目でないのが幸いだった。しかし、だからこそ色々考えられてしまう。
四季とは結局未だ口をきいていない。
登校してきた際、先に席にいた自分を一瞥した顔は明らかに不機嫌そうだった。昨日の言い合いに加えて、今朝勝手に家を出たからだろう。
美都もうだつが上がらず、謝るタイミングを逸してしまっていた。
「……」
周りに気付かれないくらい小さな溜め息を吐く。
和真の言うとおり、誰かとケンカするのは初めてかもしれない。だが、ただ謝っても四季は聞き入れてくれないだろう。
解決方法はわかっている。自分の考えを伝える事だ。しかし表面上のひとりよがりの考えを、四季が納得するとも到底思えない。
──『お前さ、四季にあの事話さねぇの?』
昨日の和真の言葉が思い出される。
話せないことでは決してない。ただ、余計な情報は負担になるだけだ。
──『君が思っているように、俺たちも君のことを守りたいと思っている』
鍵は、確かに守らなければいけないものだ。しかし「美都」はそうではない。
「……っ!」
美都は左手でこめかみを押さえる。頭に鈍い痛みが走った。
わからないことが多すぎてもどかしい。知らない事があることが怖い。鍵の事も、自分の事も、夢に出てきた巴に似たあの女の人の事も。
この生活はいつまで続くんだろう。
鍵っていったい何? 鍵を手にして何をするつもりなの?
どうして。
──────どうしてわたしだったの?
「……ろ、月代!」
「──!」
ぼんやりとした頭に、ようやく羽鳥の声が耳に入った。繰り返し呼ばれる自分の苗字にハッとする。
自覚していくと、周囲が少し騒ついているのが分かった。
「あ……」
恐らくその前から何度も羽鳥に呼ばれていたのだろう。
彼女と目が合い、躊躇いながらゆっくりと席から立ち上がる。
「どこかわかるか?」
「……──すみません、聞いてませんでした」
教科書に目線を落とすが、正直どこまで聞いていたのかも覚えていない。無意識に浅い呼吸が続く。
よりによって期末考査前だ。俯いているため羽鳥の表情はわからないが呆れた事だろう。
普段であればその場で注意して授業を続行する。しかし何故か少し間があった。
不思議に思っていると視界の端に羽鳥が映った。その事に驚いて顔を上げる。彼女の表情を見る限り、怒っているわけでも呆れているわけでもなさそうだ。
わざわざ自分の元へ来た理由が計り知れず戸惑っていると、羽鳥がおもむろに腕を持ち上げた。
「……!」
視界に手が迫ってきたため反射的に強く目を瞑る。しかしその手は意に反してそっと額に当てられた。
「……っ、……?」
「──やっぱりか」
一瞬何が起こったか理解出来ず恐る恐る目を開けると、察したような声色で羽鳥が呟く。
美都の額から手を離すと教室内を見回して声を発した。
「保健委員は?」
「あ、はい」
ざわつき始める教室の後方で、春香が返事をして席から立ち上がる。
「川瀬か。悪いが月代を保健室まで連れて行ってくれるか」
「あ、はい。わかりました」
保健室、という単語を耳にして初めて美都は自分の体調が良くないことに気付いた。羽鳥が額に触れたのは体感温度を確かめるためだろう。結果、熱があると判断されたようだ。
二人の「抜けた箇所はあとでマンツーマンで教えるよ」「えー、それもプレッシャーだなあ」と親しみのある会話がぼんやりと耳に入る。
春香は横に来ると心配そうに美都の顔を覗き込むようにして手を取り、ドアへ促してくれた。
「大丈夫? 歩ける? 行こっか」
「……うん。──先生……」
扉へ促す春香の呼びかけに応じ、席を立つ前に羽鳥の方へ向き直る。
すると出かかった謝罪の言葉を遮り、美都の頭にそっと手を置いた。
「しっかり休んできな」
言いながら羽鳥は少し雑に頭を撫でる。それは授業を中断してしまった申し訳なさを払拭してくれる柔らかい声だった。
美都は彼女の優しさに胸が詰まる想いで頷くと、春香に身体を支えられて前方の扉から教室を後にした。
「さ、授業再開するぞ」
二人を見送った後、騒ついた教室の雰囲気を正すように羽鳥が二度手を鳴らす。
その中で二人だけは一連の間に一言も声を発さなかった。四季と水唯だ。
どちらも驚いて硬直し、美都が教室を去るまでの間ずっと事の成り行きを呆然と見ていた。彼女がたどたどしく教室を去り、各々考え込むように口に手を当てる。
(風邪……? いつから──あの時は平気だったよな?)
四季は昨日の言い合いのことを思い出していた。それ以降は美都と会話をしていないため、今日までにおける彼女との接点はそこまでだ。
今朝も起きた時には既に美都の姿はなかった。テーブルの上に書置きのメモだけが残っており、「勝手な行動をするな」と言った矢先のことだったので感情が蒸し返していたのだ。登校した際に一度目が合ったものの、互いに何も言わずそのまま目を逸らした。確かに今日は休み時間ごとに臥せっていた姿が目に付いたがまさか体調を崩していたとは。
(何を意地張ってんだ俺は)
彼女の体調の変化に気付けなかった自分に嫌気がさす。
子供染みたつまらない意地を張っても話は進展しない。ただ最近の美都の態度が気がかりなのは確かだ。しかし問い詰めたところで恐らく彼女はまたはぐらかすだろう。
水唯はどう考えているのだろうか。昨晩、二人で何か話していたのは知っている。自室にいたため具体的な会話の内容までは耳に入ってこなかった。恐らく自分たちのフォローだとは思うがその間に一度だけ美都が声を荒げた瞬間があったのだ。学校に来るまでに訊ければよかったのだが、今日の水唯は一段と低血圧気味だった。一緒に暮らし始めてから知ったのだがどうやら朝に弱いらしい。わざわざそんな状態の水唯に訊くべきではないと思ったため、必要最低限の会話しかしなかったのが今になって悔やまれる。ちらっと水唯の方を見るが、彼も何か考えている様子だった。
(…………)
四季は小さく頭を振ると、呼吸を整え前を向いた。
幸いにも今日は新見の勤務日ではない。美都は恐らくそのまま保健室で休むことになるだろう。
昼休みに入ったら真っ先に彼女の元へ向かおうと考え、四季は授業を聴く姿勢へ戻った。
◇
各教室で授業が行われている中、静まり返った廊下を美都と春香は歩いていた。
教室を出てからも春香は美都の手をしっかり握っている。
「ごめんね……授業抜けさせちゃって」
「大丈夫大丈夫。気にしないの」
春香は小学校の時からの同級生だ。バスケ部ということもあり活発で、勉強もできる。今年度久しぶりに同じクラスになってからというもの彼女には世話になりっぱなしだ。
それにしても、と春香がおもむろに呟いた。
「長い付き合いだけど、美都がそんな元気ないの初めて見たかも。何かあったの?」
とうとう隠し切れなくなってきたということか。体調はダイレクトに表情や感情に現れるようだ。いつもであれば「なんでもないよ」と誤魔化すところだが、この状態では何の説得力もない。仕方なく当たり障りのないように春香に応じた。
「……考えることが多くて、頭の中ごちゃごちゃしちゃって」
「あーこの時期はね……ナイーブになっちゃうよね」
期末考査に進路希望。中学校生活の中でも正念場だ。加えて美都には、鍵の事もある。さすがにそれを春香に伝えることはないが、彼女にも同意するだけの思うところはあるようだ。
「わたしもさ、親とケンカしちゃって」
「そうなの……?」
「まあわたしが悪いんだけどね。ほらこの時期ピリピリしちゃうでしょ?」
聞けば、勉強で上手くいかなかい時につい八つ当たりしてしまったのだという。優しさや気遣いを蔑ろにしてしまったことを今になって反省しているらしい。
「気にかけてくれてるのに、それが負担に思えちゃうんだよね」
「……──」
そうなのかもしれない。置かれている境遇は違うが、春香が言っていることはなんとなくわかる。
きっと四季は、自分のことを気にして怒ってくれたのだ。それを受け止めることができず噛みついてしまった。己のことしか考える余裕がなかった。今思えばあれで四季が納得するはずもないことは理解できる。
「でも──ううん、だからこそわがまま言った分返していかなきゃね!」
そう言って春香は繋いでいない方の手で握りこぶしを作り己を鼓舞した。
「……そう、だね」
今は、春香の想いが眩しく見える。彼女は自分の中の枠組みに囚われず、しっかり他者のことを考えているのだから。
同時に自分が酷く後ろ向きなことも察知してしまった。自分は春香のように果たして想いを返していくことが出来るのだろうか、と。確かにいつまでもこの膠着状態を続けるわけにはいかない。ただ素直になれない自分を律すればいいだけだ。それだけのはずなのに。
(……怖いんだ、わたし)
傷付くことも、傷付けることも。ちゃんとわかってたはずなのに。踏み込みすぎてしまった。
────戻ったら四季に謝ろう。
そして、いつも通りにするんだ。彼をこれ以上、面倒事に巻き込んじゃいけない。
「……──っ」
瞬間、頭に鈍い痛みが走った。思わず顔を顰める。まるで四季の想いを蔑ろにしようとしている自分を咎めているかのようだ。
呼吸が浅くなり、不意に立ち止まる。美都の体調の変化に気付いたた春香が心配そうに伺った。
「美都? 大丈夫?」
大丈夫だ。全部元に戻るだけ。なんだ、すごく簡単なことじゃないか。
彼と会う前の自分に。鍵の事を知らなかった頃に。そうすれば誰も傷付かずに済む。
(元に──戻さなきゃ)
無論四季だけではない。彼らは何にも囚われてはいけない。彼らの生活に干渉させてはいけない。特に自分のせいで。
他人、なのだ。
「は──っ……」
美都は目を瞑り、乱れた呼吸を整える。
そして感情を胸に落とし込むように、吸った息をひとつ飲み込んだ。
「……うん。もう大丈夫」
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