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思い出に至る全ての道-鍵を守護する者⑧上-
暗い雲
しおりを挟む眼前に広がるのは暗闇だった。否、正確に言えば暗闇だけではない。
姿は確認出来ないが誰かと話しているようだ。その映像だけ見えた。
────違う。これは自分の記憶ではない。
「……っ!」
掴んでいる布を強く握り締める。呼吸が浅く、額には汗が浮かんでいた。
これは夢でない。夢ならばもう少し不鮮明なはずだ。あんなことはあり得ない。あんな──。
「──……! はっ……」
とうとう耐え切れず飛び起きた。まただ。またいつの間にか寝室にいる。一体、いつの間に自分は眠りに落ちたと言うのだ。
わからない。覚えていない。それが恐ろしい。まるで自分が自分でなくなっていくような感覚が。
服を巻き込むようにして胸の前で手を握り締める。心臓が早鐘を打っている。この状況はいつになったら終わるのか。終わる日が、来るのか。
グッと喉を引き絞る。口内に溜まっている唾を飲み込んだ。
高階律はまだ陽が差し込むには早い暗い時間に、一人ベッドの上でその瞳を細めた。
◇
季節は11月。それもまもなく中旬に差し掛かる。第一中学は二学期のもう一つの目玉行事である文化祭を明日に控えたところであった。
文化祭。本来ならばそれは準備段階からワクワクとするものだ。楽しかった、と言う記憶はほんのりある。だがそれよりも警戒心の方が強かった。それは少し前に赴任してきたスクールカウンセラーのせいだろう。
「大丈夫? 眠れてないの?」
隣を歩く凛が、小さな欠伸を繰り返す美都を心配して口を挟んだ。
「んー……ちゃんと疲れがとれてないのかな。ここんとこ毎日だしね」
苦笑いで凛の質問に答えを返す。彼女への返答には後半に省略した文言がある。それは言わずとも知れているからだ。
スクールカウンセラーである新見香織が赴任して2週間弱。彼女が現れてからというもの、宿り魔の襲撃が止んだ日は無い。毎日違う場所にスポットが張られる。その度にそこへ向かい退魔をするのだ。ここまではいつも通りの守護者の仕事だ。だが加えてそのスポットには仕掛けがあった。
「厄介なのは、お前が絶対に行かなきゃいけないってことなんだよな」
「うん。わたしがいないとスポットに入れない仕様だもんね」
前を歩いている四季がため息混じりでそう言った。
そうなのだ。美都でなければスポットに切り込むことが出来ない。どうやらそういう結界が張られているらしい。先に四季と水唯がスポットへ到着したとしても彼らだけで突入することは不可能なのだ。「美都」というトリガーがいて初めてスポットへの立ち入り許可が出る。
(わたし自身が、鍵そのものみたいな扱われ方だなぁ──……)
敢えて口には出さなかった。現に自分は鍵を所持している。だからと言って自分自身が鍵だとは決して思っていない。そこの区別はしておかなければいけない、と理解している。
「完全に君を誘き寄せるための罠だ。新見も周到に策を立てている」
四季の言葉に重ねるようにして、今度は水唯が口に出した。彼はこれまで守護者と相対する者としていたため、かつての同胞であった新見の動向がなんとなしに読めているのだろう。現状、こうして水唯が力になってくれることが何よりもありがたい。
「罠、かぁ……」
二人からの忠告により、例え一番に彼女がスポットへ辿り着いても一人で入ることはしていない。それは水唯が言った通り罠だからだ。鍵の所有者である美都はそれだけで脅威の対象となる。それを二人も承知の上なので美都一人で宿り魔と対峙させることは決してしなかった。
スポットの中には宿り魔が一体。新見がその場に現れたことは無い。だからこそ不思議でたまらないのだ。
「どうして新見先生はスポットには現れないんだろう」
「元々彼女は前線に立つような人間じゃない。だが君を無理矢理捕まえようとしないのには……やはり疑問が残るな」
「そうだよね……」
使役している張本人だとすればその場で宿り魔に指示を出した方が確実性があるような気がするのだ。宿り魔一体に対してこちらは三人掛かりなので多勢に無勢ということなのだろうか。だがそうなのだとしても宿り魔を増やせばいいだけの話だ。彼女の考えている意図が掴めず唸っていると水唯自身も考察を述べる。
「こちらの出方を観察していたのかもしれない。何にせよそろそろ向こうも違う動きに出るはずだ」
「一層注意が必要、ってことだな」
四季の言葉を耳にして思わず肩を落とした。毎日出現する宿り魔のおかげで最近は落ち着けた日がない。この状況がまだ続くのかと思うと辟易としてしまう。周囲を警戒することは神経をすり減らす。今はまだ良いがこれから先は期末考査に時期がさし掛かってくるのだ。気の抜き方を考えなければな、と浅く息を吐いた。
「美都、私に出来ることはない?」
「ありがとう。大丈夫だよ」
実際、こうして凛と会話しているだけで気が紛れる。後は授業中か。勉学に集中している方が余計なことを考えずに済むとは皮肉なものだ。しかし凛は尚心配そうに美都を見つめた。
「本当に……気をつけてね」
気にかけてくれる彼女へ「うん」と微笑みを返す。すると少しだけ安心したような表情を見せた。
ふと空を仰ぐ。登校するには相応しくない分厚い雲が空を覆っていた。せめて天気くらいは好いものであってほしいものだと思いながらも自然に文句は言えない。
それに大変なのは自分だけではない。前を歩く二人の少年も同様だ。それこそ彼らの方に負担が掛かっていると言っても過言では無い。どうにか出来ないものかと気を揉んでしまう。
「……──」
溜め息が止まらない。何もかもが不透明のように感じてしまう。どうすればこの状況を打破出来るのかと考えてみても答えはなかなか出ないでいた。
『カウンセリング室で待ってるわね』
と、初めて学校で対面した時に新見にそう言われた。彼女の目的は鍵よりも「美都」という人間自身だからだ。彼女の言う通り、自分がカウンセリング室へ赴けば恐らく状況は変わる。しかしそれに応じたくはない。
(過去なんて──……)
思い出したくない。今までもそうして生きてきたのだ。今更思い出す必要もない。他人に詮索されるのも嫌だ。新見のように興味本位で踏み込んでくる人間には余計に神経質になる。
「美都?」
「あ、ううん。文化祭が終わっちゃうと楽しみがなくなっちゃうなーって」
「そうね。次は期末考査だものね」
無言のまま考えを巡らせていたところに、凛に名を呼ばれハッとする。楽しみさえあれば普段の生活も違うのだろうが、目下これからの季節は期末考査一本になるのだ。それさえも憂鬱だ。それよりも。
(進路決めなきゃな)
四季も凛も何も言わないが気にしているはずだ。期末考査が終わればすぐに12月に入る。冬休み前には確実に志望校を決めなければならない。自分が遅すぎるくらいだ。
(また羽鳥先生に相談してみよう)
公立の高等学校。以前四季と調べてみたことがある。その際にいくつか目星をつけてみたもののいまいち決定打に欠けるのだ。欠ける、と言うよりも何をもって決めて良いのかがわからないと言うべきか。
そんな考えを巡らせている間に学校へ到着する。靴箱で上履きに履き替えていたところ、不意に名前を呼ばれ顔を上げた。
「おはよう、衣奈ちゃん」
目線の先に立つ少女がニコリと微笑む。少年らに先に行くように伝え、衣奈と合流すると凛と共に4組の教室前まで歩いた。そのまま凛を教室内へ見送り衣奈と二人廊下に残る。
「大変だね、毎日」
「まぁ大変なのはわたしだけじゃないしね」
衣奈が零した言葉に肩を竦める。彼女も美都が《闇の鍵》の所有者だと知っている数少ない人物だ。だからこそ今の美都の立ち位置を理解している。行動が制限されている様を彼女は言っているようだ。
新見がこの学校に来てから、まるで護衛のように四季か水唯が近くで見ていてくれるようになった。彼女はほぼ日中をカウンセリング室で過ごしているようなのであまり気を張るものでもないと思っている自分は少し楽観的らしい。
「今のところは大丈夫なんでしょう?」
「正直、動きがなさすぎて逆に手詰まりって感じかな」
「なるほどね」
毎日宿り魔が出現するのは新見の仕業であるとは言え、彼女自身の動向は読めない。新見が直接手を出して来ないことには、こちらが出来ることはただ警戒することだけだ。先ほどの言葉を反芻し、衣奈は何かを考えているようだった。
「衣奈ちゃん?」
「……私なら、そろそろ仕掛けるでしょうね。疲れてきてるでしょ、美都ちゃん」
「! う、うん。そうだけど……」
図星を突かれて目を瞬かせる。やはり衣奈は鋭い。今の状態については何も口にしていないのにそこまでわかるとは。
「あの人はそれを狙ってるのかもしれないわ。心身ともに弱っているところを狙うのは常套手段だもん」
さすが、と言ってよいものなのだろうか。衣奈は頭の回転が早い上に敵対する位置にいたため相手の動きが把握出来ているようだ。彼女の考えに感服する。
「でも朗報よ。あの人、来週から非常勤になるみたい」
「本当? それなら毎日気を張らずに済むかな」
「えぇ。あと数日の辛抱ね」
その情報を耳にしてホッと胸を撫で下ろす。少しだけ光明が射してきたような気持ちだ。
スクールカウンセラーの赴任は思った以上に生徒たちに人気が出た。それがようやく落ち着いてきたことから非常勤勤務へ切り替わると言うことなのだろう。
「衣奈ちゃんは……新見先生と面識ないんだよね?」
「まったく。覚えてないだけかもしれないけれどね。でもあの人は私のこと知ってそうだったな」
不意に衣奈は険しい表情を見せる。その様子に首を傾げた。
「行ってきたの、カウンセリング室。どんなもんかなと思ってね」
「え! 大丈夫……だったの?」
「全然何ともなかったの。でもそうね……やっぱり美都ちゃんは行かない方がいいかも」
まるで偵察にでも赴いたような言い方だ。衣奈の行動に素直に驚く。何事もなく安心したが訝しむような衣奈の言葉が引っかかった。
「居心地が悪かった。向こうの領域だから当たり前なんでしょうけど、それにしてもね。空気が循環してない感じ」
体感してきたからこその感想だろう。そもそも自分の教室以外はやはりどことなく雰囲気は違うものだ。だが衣奈の言い方からして、カウンセリング室はそれ以上に独特の雰囲気を醸し出しているのだと察することが出来る。無論行くつもりはない。だがその内容については気になっていた。
「カウンセリング室を利用した子に特に変化は見られないみたいだけど──どんなことをしたの?」
あくまで狙いは自分なのだとしても、新見の動きは逐一警戒していた。だからカウンセリング室を利用する生徒たちのことが気がかりだったのだ。だが取り留めて大きな変化は見られないためひとまずは安心していた。
「普通にお悩み相談だった。でもそれは対私だからでしょうね」
「どういうこと?」
「手の内を明かさなかった、ってこと」
ちょうどその瞬間に予鈴が鳴り響いた。気になるところだがこれ以上は授業もあり難しいところだろう。
「ひとまずは近付かないのが吉ね。あの人自身はただの人間だもの。領域に入らなければ大丈夫だよ」
正直衣奈の情報はありがたい。自分もだが水唯も同様に新見と距離を取っている。それは以前、彼の家に制裁として現れたことがあるからだ。落ち着くまでは同じ家で暮らすことにしたため日々の生活は問題ないが学校は別だ。特に水唯は新見に対して慎重な態度を見せている。恐らくは彼女がどういう人間か知っているからだろう。その雰囲気から何となくこれまでの関係を訊ねることが憚られている。水唯が自ら口に出さないということは何か言葉にし難いことがあるのかもしれない、と考えているのだ。だが気になることがある。これまで対峙した衣奈や水唯とは違う点が新見にはある。
(宿り魔が憑いていない……)
なぜ、と疑問に思う。宿り魔が憑いていないのに水唯がそれほど警戒する理由。そして彼女が敵対側にいる理由。鍵を求めていないのであれば、狙いは何なのか。自分が守護者であり所有者である理由を探るためだけだというのだろうか。
「──ねぇ美都ちゃん」
7組の教室へ向かおうとしたところを不意に衣奈に呼び止められる。まだ何かあっただろうかと首を傾げた。
「元気……だよね?」
「? うん。疲れてはいるけど体調的には全然大丈夫だよ」
その質問に目を瞬かせながらありのまま答える。すると少しだけ安心したような表情を見せ、微笑んだ。
「そう……ならいいの。何か手伝えることがあれば言ってね」
「うん。ありがとう衣奈ちゃん」
それじゃあ、と言って衣奈と別れ一人で7組の教室へ向かう。その間も考えるのは同じようなことばかりだ。
もし新見と対峙した際に、自分はどうするのか。宿り魔も憑いていない彼女にどう対応すれば良いのか。
(ただの人間である彼女と──)
どう戦えばいいのか。それをずっと考えている。
7組の教室へ歩いていく美都の背中を見送る。先程の回答を聞く限り無理はしていないようには感じた。しかし以前から引っ掛かっていることがある。
自分がキツネ面を着けて彼女と対峙していた際、普段見せない表情をしたことがあった。守護者の責務に押しつぶされそうになっていた彼女に同情して掛けた言葉がある。「可哀想」だと。その瞬間。
『わたしは……っ、可哀想なんかじゃない……!』
そう呟く美都はとても苦い顔をしていた。彼女の中の何かに触れたようだった。ともあれそれがきっかけで彼女を標的にしようと考えた自分がいるのだが。
恐らく美都にはまだ他人に隠している面がある。隠している、というよりは軽々しく触れられたくない部分というべきか。それは彼女にとって核心に迫るものなのではないかと予想している。だから自分からは何も言わないようにしているのだ。しかし。
(あの新見って人……)
新しく赴任してきたカウンセラーの実態を探るべく接触を図ってみたものの、思うような成果は得られなかった。それどころかまるで空気を掴んでいるような雰囲気を感じたのだ。
(嫌な感じ)
まともな会話もさせてもらえなかった。質問を投げかけても上手い具合に避けられたのだ。それが美都に話した手の内を明かさなかったという話に繋がる。
新見は明らかに美都のことを狙っている。だがその狙いは鍵ではない。あくまで「美都自身」なのだ。興味の対象が美都という人間そのもの。だから気味悪く感じるのかもしれない。
破壊の力を持つ闇の鍵。それが一人の少女の中にある。それも守護者という立場である人間の元に。イレギュラーが故に、誰もが気になっていることだ。だがそれを直接美都に言うことはしない。恐らくは彼女自身が一番疑問に思っていることだから。極めて繊細な部分だ。それを明け透けと美都に投げつける様が不快だ。周りの少年らもそれを感じているのだろう。だから最近ピリピリしているのだ。
(でも本当にそれでいいのかしら)
守るためには側に居る方がいい。それは当たり前だ。しかしそれは美都が望んでいることなのか、と少しだけ疑問に感じてしまう。先程会話した際にも少しだけ疲れが滲み出ていた。長引けばいつかは亀裂を生んでしまうのでは、とお節介に感じてしまうのだ。
衣奈は小さく溜め息を吐く。
とは言え、これ以上踏み込むことは出来ない。もはや自分は何者でもないのだから。今はただ一人の友人として美都のことを見守るだけだ。
そう考えると本鈴が響く中、衣奈は教室へ戻った。
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