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暗闇に届く一閃の -鍵を守護する者⑦-
彼について
しおりを挟む「星名の転校理由?」
職員室の前で羽鳥を捕まえ、美都が単刀直入に訊ねる。振り返った彼女の声が少しだけ大きかった為、慌てて辺りを見回すように確認した。なんとなく本人には聞かれたくなかったのだ。幸い彼の姿はなく、ほっと胸を撫で下ろした後彼女の疑問に頷く。
「はい。ちょっと気になって」
「知ってどうするの?」
「えっと……」
訝しむような羽鳥の視線に口籠もった。この質問が来ることを予想していたものの、いざそう訊かれると恐縮せざるを得ない。やはりなんとなく水唯のプライバシーを侵害しているような気になってしまうのだ。
しかし、と美都は真っ直ぐに羽鳥を見据え用意していた答えを口にした。
「水唯のことが心配なんです。隣に住んでるから何かあった時に手助けが出来ればとは思うんですけど、どこまで踏み込んでいいかわからなくて。色んな事情があるんだろうな、とはわかってるんですけど……」
実際のところ、美都にも人には簡単に言えない事情があった。もちろん現状四季と同じ家で暮らしているということはそうだがそれ以外にもある。それは他人から軽々しく干渉されたくはないことだ。自分のことを棚に上げて、とは思うが羽鳥に伝えたことは嘘ではなかった。水唯の手助けになりたい。今の彼を見ていると潰れてしまいそうで不安なのだ。
すると考え込むようにしていた羽鳥が一つ息を吐いた。
「まあね。本人に聞きづらいのはわかる。でもこればっかりは星名のプライバシーに関わるからなぁ」
想像通りの返答が来て美都は肩を落とした。羽鳥の言う通りだ。先程己でも考えた通りそこには水唯のプライバシーが存在する。やはり彼に直接訊くしかないか、と頭を悩ませていたところ羽鳥が続けて口を開いた。
「──と言いたいところなんだけど。あんたに色々お願いしている手前、ちょっとは知っておいた方がいいかもね」
「! じゃあ……」
「とりあえずここじゃ話しにくいし移動しよっか。前みたいにあそこでもいい?」
羽鳥が指すのは職員室のベランダのようだ。以前一度あの場所で進路相談をした記憶がある。美都は是と頷きそのまま彼女の後に続いて職員室へ入室した。
「悪いけどちょっとだけそこで待っててくれる?」
「はい。何かすることありますか?」
「大丈夫。することと言えばあんまり辺りを見渡さないことね」
彼女のデスクに辿り着き、横でピタッと立ち止まる。羽鳥がそう言うのは職員室には教師が使用する教材や考査に関する資料等も置いてあるからだろう。落ち着かずに天井を見上げていると、羽鳥の向かいにデスクを構える教師が戻ってきたようで不意に目線が動いた。
「こんにちは、高階先生」
挨拶をするといつものように柔らかい笑みを見せながら「こんにちは」と返事が返ってきた。職員室という緊張感のある空気の中でも彼の存在があるだけで少しだけ和らぐような気がする。チラリと羽鳥を確認するとまだ手を動かしていた。その為続けて彼に声をかける。
「この間きらきら星変奏曲を聴きました」
「きらきら星ですか。モーツァルトが編曲したマザーグースの一つですね」
つい先日耳にした単語が彼から飛び出てきた為、美都は思わず目を瞬かせる。
「先生はマザーグースについても詳しいんですか?」
「語れる程ではありません。ただ色々調べていく内にそこに行き着いてしまっただけで」
「何を調べたらマザーグースに行き着くんです……?」
素朴な疑問がつい口から零れてしまった。語れる程では無い、と高階は苦笑気味に謙遜しているものの彼の知識欲は計り知れないようだ。すると着席しながら机の隅にある本棚から一つの本を取り出し、美都に差し出した。
「──眠れる森の美女、ですか?」
彼が手に取った本の表紙には、良く童話で目にするお姫様の絵が描かれていた。音楽教師である高階が所持するには珍しい物のようにも思える。作者だと見て取れる、『シャルル・ペロー』という名前が絵の横に記してあった。
「それは『マ・メール・ロワ』と呼ばれる童話集です。同じタイトルの曲がクラシックにもあるんですよ」
へぇ、と感嘆しながら高階の話を耳にする。しかしなぜそれがマザーグースに繋がるのだろうと美都が首を傾げていたところ続けて彼から解説が入った。
「マ・メール・ロワ、という言葉自体がマザーグースを意味するんです」
「え、そうなんですか?」
「はい。マザーグースの意味を知っていますか?」
そう高階から問われて、美都は思わず目を丸くした。そう言えばこの間菫が説明していた気がするな、と記憶を遡って思い当たった言葉を口に出す。
「イギリスの童謡……でしたっけ?」
「正解です。元はイギリス発祥のものが多かったんですが、伝承化した童謡の総称として用いられるようになりました。現にこの曲はフランス語で作者もフランス人なんです」
「へぇ。マザーグースって奥が深いんですね」
「そうですね。ちなみに時系列的にはペローの童話集の方が先になります。マ・メール・ロワの英訳がマザーグースとなったようですね」
高階がマザーグースに行き着いた一連の流れを聞いて、やはり何事も興味を追求するところが大切なのだろうなとありきたりな感想を抱く。彼が博識なのは、興味や関心を追い続けているからだ。以前花言葉についての話が出た時も驚いたものだが、恐らく一度気になった事項は調べないと気が済まない性格なのだろう。
言いながら今度はCDケースを取り再度美都に手渡した。ジャケットの裏面を確認する。すると今話題に上っていたであろう曲名が恐らくフランス語で表記されていた。
「えっと……、ラ……ラヴェル……?」
なんとか拾えた箇所を口に出しながら読み上げる。間違っていないだろうかとドキドキしていると高階が肯定した。
「はい。モーリス・ラヴェル──フランスの作曲家です。代表曲だと『ボレロ』や『水の戯れ』がありますね。ドビュッシーと並ぶ印象派だと言われています」
読めなかった部分を補完するように高階が作曲家の名を声に出した。続けて代表曲を挙げていくが如何せんピンとは来ない。しかし曲名の一つと後に出した作曲家の名前から思い出したことがあった。
「そう言えば、ドビュッシーにも水に関する曲がありましたよね。『水の反映』でしたっけ?」
「良く覚えていますね。そうです。同じ水という題材だけあって良く比較されることが多い作品です」
そう言われると俄然聴いてみたくなるものである。『水の反映』は確かその名の通り水が流れるような旋律だったな、とふと思い出した。比較されるくらいなのだから似通ったところもあるのだろうと考えていたとき、ようやく羽鳥の手が空いたのか彼女から声がかかった。
「悪い、お待たせ。行こうか」
「あ、はい! それじゃあ高階先生、失礼します」
話に付き合ってくれていた高階に会釈をして美都は再び羽鳥の後に続いた。
職員室のベランダへ繋がる扉を開くと、秋らしい風が頬を撫でる。心地よい風だ。
「あんたさ、そんなに音楽好きならそっちの道に進んだら?」
先程までの会話を掻い摘んで聞いていたらしい羽鳥から、そのように提案される。思わず一瞬目を瞬かせた。
「でもわたし楽譜とか全然読めないですもん」
「今から勉強するのでも遅くないでしょ。別に高校を音楽科にするわけじゃないんだし長い目で見てみたら?」
ベランダの柵に寄りかかりながら彼女が諭す。美都自身、音楽に関する道を考えたことがなかった。それは自分とは縁遠い世界で相応の訓練が必要なものだと思っていたからだ。だから羽鳥からの提案にすぐに答えることが出来ず口籠もる。
「やる前から自分の可能性を限るのは良くない。興味があるならまずは始めてみればいいんだ。意外と違う自分にも気付けるかもしれないよ」
その言葉にハッと息を飲んだ。まるで考えていることを読まれた気分がしたのだ。手を出す前から諦めようとしていた。自分に出来るわけがないと決めつけて。羽鳥に言われたことを咀嚼し、美都は胸に落とし込むように一つ息を吐いた。
「ありがとうございます。ちょっと──前向きに考えてみます」
「うん、そうしな。それに、後悔しない道を探すんだろ?」
「そうでした。色々試してみないと」
以前交わした会話を羽鳥は律儀にも覚えていたらしい。未だ志望校は決められないでいるが後悔しない道を探してみると彼女に宣言していたのだ。羽鳥はそのことを持ち出して提案してくれたのだろう。
「それにしても先生って心理学でも学んでたんですか?」
あまりにも先読みの才に優れているため美都が不意にそう質問した。学んでなかったとしてもこうして一人一人に親身になってくれる姿は見習うべきだな、と感じるところだ。
するとその質問に今度は羽鳥が目を瞬かせる。そしてすぐに笑みに変わった。
「ははっ、よく言われるわ」
羽鳥が思わず笑ったのは、生徒からのその質問と似たことを以前言われたことを思い出したからだ。やはり血縁なんだなと感じる。しかし目の前の少女は自分が彼女の叔母と懇意にしていることを知らない。だから首を傾げているのだ。本当はそのことについても話さなければならないのだが何分今日は時間がない。そう考えた羽鳥は話を切り替えるように腕を組んだ。
「さて本題に入ろうか。星名が転校してきた理由だね」
羽鳥がそう口にしたことをきっかけに美都も背筋を伸ばす。本来ならば個人のプライバシーの領域だ。それを超えて聞くからには真摯に向き合うべきだと弁えている。
「結論から先に言うけど、実は私も明確な理由は知らないんだ」
「え──? そう、なんですか……?」
驚いて目を見開いた。羽鳥でさえも知らないのであれば、余程人には言い難いことなのだろうと察することが出来る。しかし淡い期待を抱いていただけに、先に耳にした結論に美都は肩を落とした。するとその様子を見た羽鳥から質問が続けられる。
「星名の家族構成については聞いたことがある?」
「いいえ。それこそセンシティブなことだと思うので」
「まぁ、そうだよね。……じゃあここからは他言無用にしてくれる?」
そう言われて美都は伏し目がちにしていた顔を上げる。羽鳥の様子からするにやはり繊細な話なのだろう。美都は唇を結んで頷いた。
「転校の手続きに来たのは父親だった。これは別におかしいことじゃない。人当たりも良さそうだったしね。疑問に思ったのは時期だ」
淡々と当時のことを思い出すように羽鳥が語り始める。すぐに訝しむように眉を顰めた。彼女が疑問に感じたのも納得できる。水唯が転校してきたのは夏休みの手前。それも中学三年生、受験生というオプションが課されている状況だった。
「私は初め、引っ越しによる転校だと思ってたんだけどね。それなら両親の仕事の都合とか色々あるだろうし。でもそうじゃなかった。星名は元々、ここに来る前は私立の中学に通ってたんだ。それも進学校のね」
「私立の進学校……? じゃあ別に転校しなくても良かったはずじゃ……」
「そう。だから明確な理由が計りきれないんだ。見てわかる通り、星名は頭の回転も早いし成績は申し分ない。それなのにわざわざあの時期に転校してくる理由は何なのかって」
水唯の過去を初めて知り目を見開いた。羽鳥の言う通りだ。私立の進学校に通っていたのならばわざわざ公立の中学に転校する理由など無いはずだ。だから彼女も頭を悩ませている。
「学校に馴染めないとかいじめについても考えたけどそうは思えなくてね。そもそも今挙げたものが理由なら、もっと早めに対策に出ているだろうし。勉強についていけなくなった、ってのも違うだろうしね」
「……先生は何か心当たりがあるんですか?」
様々な転校理由を列挙しながら己の憶測を述べている羽鳥に問いかける。すると先程より険しい表情を見せ口元を押さえた。
「転入手続きが終わった後、父親は星名を置いて帰ったんだ。後は勝手にやれと言わんばかりにね。それに関しては星名自身も異を唱えなかったし、むしろそうされるのがわかっていたかのようにその後も淡々と面談を進めた」
頭の中に当時の様子を回想しているようだ。羽鳥は口に出す度苦い顔を浮かばせている。
「ただの放任主義なんだと思ってた。それにしても、と思ってつい口を挟んだんだ。両親はそんなに忙しいのかって。そしたら──」
状況を説明しながら羽鳥が水唯とどういう会話をしたのか美都に伝える。
『さぁ。必要以上に会話をしていないので』
『──そう。お母さんは?』
『しばらく話していません。入院していて長い間顔も見てませんから』
その時彼は顔色一つ変えずただ淡白に彼女と応答を繰り返したらしい。
「っ……──」
美都はただ絶句する他なかった。考えたことはあった。なぜ彼が一人暮らしなのか。それは何かしらの家庭の事情を抱えているのでは無いかと。だから余計な干渉をすべきでは無いと考えていた。しかしいざ理由を知るとそこには想像以上に深い要因があったことを思い知る。
『君は──……寂しくないのか』
先日保健室で交わした言葉が不意に脳裏を過ぎる。ようやく理解した。やはり彼もまた似たような境遇にいるのだ。それでも、と疑問に思うところがありグッと手を握りしめ美都は顔を上げる。
「でもお父さんとは仲が悪いわけじゃないんですよね? だとしたらなんで一緒に暮らしてないんでしょうか」
「──やっぱり、そうなってるのね」
はぁ、と苦い顔で羽鳥が息を吐く。その反応に美都は目を見開き首を傾げた。どう言うことだろうと。すると続けて羽鳥から驚くべき情報が伝えられる。
「便宜上はね、一緒に暮らしていることになってるの。当たり前と言えば当たり前なんだけど、まだ義務教育中の子どもを一人暮らしさせるわけにはいかないんだよ」
「でも水唯は──引っ越してきた当初から一人暮らしだって」
「余計な詮索をされたくないからこっちには隠してたんだろうね。まぁ前から月代の話聞いてたら疑問に感じちゃうけどさ」
ハッと以前の言動を省みる。水唯自身が一人暮らしだと口に出したことはないはずだが、無論羽鳥も周知の上で話を進めていた節があった。彼女の言うことこそもっともだ。15歳の少年が簡単に一人暮らし出来るわけはない。つまり彼の父親は保護者としての体裁を繕っていただけということになる。
「不仲かどうかはあの短い時間じゃ判断が付かなかった。でも星名を一人で好きにさせてるってことは──父親にも他所に生活圏があるんでしょう」
「そんな……」
思わず声が溢れる。そこにどんな事情があるか解らない。それでもあの広い部屋で一人で生活する彼のことを考えると胸が痛んだ。
顔を歪ませたままの美都を慰めるように羽鳥が呟く。
「こればっかりはさ、やっぱり他人が簡単に干渉出来ない領域なのよ。見たところ虐待されてるわけじゃないし──恐らく星名も他人の介入を望んでない。こちらから下手に口出しが出来ないの」
その通りだ、と羽鳥の考えを聞きながら美都は顔を伏せた。家庭環境の領域に、簡単に他人が入っていいものではない。担任である羽鳥自身もそれを弁えている。それ故のもどかしさもあるだろう。
「……だからさ、月代にお願いしたの。星名のこと見ていて欲しいって」
口を噤んだまま下を向いていると、不意に自分の名前が出されハッと顔を上げた。少しだけ申し訳なさそうにも聞こえる羽鳥の声に眉が下がる。
「あんたも大変なのは分かってたんだけどね。でもあんたみたいな子が近くにいてくれると星名も少しは落ち着くのかなって。実際波長も合ってたみたいだし」
「わたし──お節介じゃなかったでしょうか……」
「本当にそう感じてるなら最初から拒絶してるよ。それに、それが月代のいいところなんだから」
これまでの水唯に対する自分の行動を省みて肩を落とす美都に、励ましの言葉をかけながら羽鳥が頭に手を乗せた。そうだったらいいとは思うがやはり彼の迷惑になっていなかったか気掛かりでもある。
「星名はさ、年齢の割に落ち着いてるしあまり感情を表に出すような子じゃないでしょ? でも月代と話してる時にはすごく雰囲気が柔らかくなるんだよ」
「そう、でしょうか……」
「うん。だから今後ともこちらとしてはお願いしたいところなんだけど──」
美都の頭を優しく撫でていた羽鳥の手が止まる。それに応じるように美都も視線を上げた。
「──今の話を聞いて、これからも今まで通り星名と接することが出来る?」
「……!」
その言葉に瞬間声を詰まらせる。彼の事情を知る前と知った今では、心構えが変わってくる。そう考えて羽鳥も訊いてくれたのだろう。
美都は再び顔を俯かせて目を瞑る。以前と同じように、とはいかないかもしれないと思わず考えた。背景を知ってしまうとどうしても気を遣ってしまう。彼と似たような境遇にいる自分だから分かる。だから他人に話すことを避けている。そんなことをさせたくないから。ならば答えは既に出ている。
目をゆっくり開いて、その瞳を羽鳥に向けた。
「はい。あ、いえ……あの──」
一度肯定し、そしてすぐに否定したのには理由があった。今まで通りと言うのは殊に難しい。だってきっと、事情を知った今では。
「もしかしたら今まで以上に──お節介になるかもしれないですけど……」
絶対に彼のことが気になってしまうから。一人にさせたくないと思ってしまうだろう。それが水唯にどう取られるかは解らない。それでも放っておくと言う選択肢はやはり存在しないのだ。
すると美都の答えを聞いた羽鳥が口元を押さえて軽く笑んだ。
「月代はそれぐらいでなくっちゃ困る」
「うぅ……、なりすぎないようには気をつけます……」
「大丈夫だって。頼りにしてるよ」
言いながら再び頭に手を乗せ優しく二度反復させる。以前四季にも自分に対するお節介という言葉は褒め言葉だと言われたことがある。ずっと水唯のことが気掛かりだった。それでもあまり干渉すべきではないという意識から付かず離れずの場所で見ていたのだ。しかしやはり見ているだけではもどかしい。彼の手を放さずに繋いでおかなければ。
そう胸の内で拳を握りしめていたところ、羽鳥が片方の手をベランダの柵に置いた。
「……あのさ月代。あんたの──」
「──っ⁉︎」
彼女が喋り出したのとほぼ同時だった。冷たい気配が美都の背筋をなぞったのだ。これは秋風ではない、と瞬時に理解した。
(宿り魔の気配……⁉︎)
ハッと息を呑み視線を動かす。久々のその感覚に動揺する。それになぜだ、とも。鍵の所有者はここにいるのに、と。訳が分からず忙しなく目を瞬かせているとその様子を疑問に思った羽鳥から「どうかしたの?」と質問が入った。
「先生あの……っ、急用を思い出しました!」
四季には予め職員室に行くことを伝えてある。だとしたら恐らく彼が向かってくれているはずだ、と思うがさすがにこのままにはしておけなかった。
美都の申し出に羽鳥は一瞬きょとっとしたが特に言及をすることもなかった。彼女に応じるように職員室へ続く扉へと戻るべく身体を捻る。
「悪かったね、長いこと」
「いえ。こちらこそありがとうございました」
元々は美都が羽鳥に頼み込んだのだ。それを羽鳥は特別に教えてくれた。感謝こそすれ時間を割いたことを謝られることではないのだ。
余程焦って見えたのか羽鳥は美都に先に行くよう促し扉を開けた。その気遣いと先程までの対応に礼を伝え会釈をする。「失礼します」と挨拶をした後、職員室内を少しだけ早歩きするように出入り口へ向かった。その様子を見ていた羽鳥はふっ、と息を吐く。
水唯の話は、元々機会があれば共有するつもりだった。大人よりも同じ年齢の見知った者が側にいる方が良いだろうと考えていたからだ。だがそれが果たして美都で良かったのか、という疑問はある。もちろん彼女の人間性に問題はない。むしろ信頼している。危惧すべきは彼女も彼と同じような状況下にいるのではないか、ということだった。水唯の話を一通りし終えた後、本当は聞くつもりでいたのだ。「あんたの方はどうなのか」と。彼女の方こそ自分は知らないことが多い。
(甘えてしまっている……)
あの少女に。優しいから、つい頼ってしまう。それが負担にならなければ良いのだが。それにしても、と自分のデスクに戻りながら今去っていった美都の様子を脳裏に思い浮かべる。
何かに気付いたように焦る素ぶりを見せていた。その反応に俄かに見覚えがあったのだ。あの少女が血縁だからなのかもしれない。しかしそれにしても急に態度が変化する様は──。
(やっぱり、ね──)
他者に説明が及ばないこと。その昔、自分の友人も経験していた。全く同じようにしながら。
堪らず今度は長い息を吐いて頭を抱えた。続いているのか、と。しかし彼女が何も言わない限りこちらから口出しをすべきことではない。それに恐らくその友人ならばあの少女がどのような状況にいるか把握しているはずだ、とも。
「……やるせないな」
周囲に気づかれないようポツリと呟く。生徒たちの力になってやることが教師の務めだ。しかし美都がしていることはその度を超えている。だから簡単に手出しができないのだ。
もし本当にそうなのであれば、それ以外のところでサポートするしかない。他の生徒と同じように、せめて学校生活においては不自由のないように。
そう考えながら羽鳥はグッと喉を引き絞った。
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