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暗闇に届く一閃の -鍵を守護する者⑦-

静謐な夜に

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暗闇が心地良いと感じ始めたのがいつからだったのか、あまり覚えてはいない。それほどまでに夜の静寂は自分にとって心落ち着ける時間だった。無論、あの学校に転校するまではの話だ。
「……──」
はぁ、と重たい息を吐き頭を抱える。まるで出口のない迷路を彷徨っているようだ。毎日が息苦しい。彼女の顔を見る度に、胸が針で刺されたように痛む。あのあどけない表情を無下に出来ない自分にも反吐が出るのだ。
しかし、と保健室で言葉を交わした状況を脳裏に浮かべた。
『……どうかな。ちょっとだけもう麻痺しちゃってるみたい』
初めてだった。あんな表情をする彼女を見るのは。諦めと悟りを開いているかのようで。達観したようにも感じた。その際にしていた会話があまりにも彼女にとってタブーだったに違いない。それは血の繋がりの話だったからか。
(人のことは言えないな)
あの時美都に詮索されなかったからまだ良かったものの、こちらも他人には言い難い状況だ。恐らく彼女もそうなのだろう。親と共に生活していなかった、と口にする程には疎遠なのだ。なるほど、と少しだけ納得する。
(──『普通』の家庭、ではない……か)
いつも笑顔で何事もないように振る舞う少女にも、こんな事実があったなんて。何を以て「普通」とするのかは殊更に難しいが、義務教育期間に親と同居していない時点でそれは十分説明が付くはずだ。それが鍵の所有者と関係があるのかと聞かれれば不明だが。そもそもなぜこんなことが必要なのだ。なぜ彼女を調べなければならないのだろう。一体何の為に、と主の意向を計りかねていた。
だんだんと、その主が座する空間へと近付く。先程まで思い出していたことを報告しなければならない。そしてもう一つ、気になる事を。
開かれた空間へと出ると真っ直ぐに中央まで歩を進めた。何度来ても不思議な場所だ。時空そのものが歪んでいるのかはわからないがいつの間にかここにたどり着いているのだから。
『────顔色が良くないな』
隔たれた空間から声が聞こえた。向こうはこちらの様子が把握出来ているのだ。しかし自分は一度たりとも主と呼ぶ者の姿を見たことがない。年齢も格好も全てが謎に包まれている。それでも自分はこの者には逆らうことが出来ない。そう言えば保健室で同じことを四季にも言われていたのだったと不意に思い出す。
水唯はグッと唇を噛み目を細めると、その場に跪いた。
「いえ、問題ございません」
『余程集団行動が苦手と見える』
半ば揶揄うような言い方で遠くから乾いた笑いが届く。彼の指摘は半分は当たっている。元々集団行動は得意ではない。だからそれを伴う学校生活など嫌だった。命令のために致し方なく、だ。それに顔色が良くないのは他に理由がある。その理由を彼に話すことはしない。これは私情なのだから。
「報告します」
淡々と業務的に呟く。主からの命令は、鍵の所有者である身辺を調査すること。わかった事を逐一報告することが義務付けられていた。その命が下り半月以上経つ。しかし未だその意図を計りきれない。こんな回りくどいことをする前に、鍵を奪ってしまえば良いのにとさえ思う程に。
そして今日交わした内容を噛み砕いて報告していく。すると何か引っかかるものがあったようだ。
『家庭環境に難あり──か』
難という程かどうかは解らないが、どうやら主はそう捉えたようだ。程度が不明のため訂正はしなかった。そしてもう一つ感じていたことを口にする。
「それと──不思議な力を感じます」
『へぇ?  それは具体的にどんな?』
力、という単語に興味を持ったのかすぐに追及された。顔を伏せたまま彼女に感じた力について考える。
「──守護者の力では無いようです。かと言って所有者だからというものでも無い。恐らく彼女自身の……内側から起因するものかと」
先に不思議な、と形容したのはまだ自分でも測りかねているからだ。今考えたことを口に出してみたが何が、と問われれば難しい。だが恐らく主はそれを求めているのだろう。
「特に精神力は人並みはずれていると思います。責任感からかもしれませんが総合的な力を見ても他者と比べて強いでしょう」
『──なるほど。面白い』
短い返答に思わず顔を歪ませた。こうして、彼女への包囲網が出来ていくのか。ただ《闇の鍵》を所有しているというだけでその存在が脅かされるなど可哀想だとさえ感じる。まだ15歳の少女に業を背負わすのかと。あまりにも理不尽だ。これからの彼女の苦痛を考えると苦い顔をせざるを得ない。ギリッ、と奥歯を噛み締めた後その言葉は半ば無意識に口から出た。
「……恐れながら」
もはや限界に近い。これ以上は良心の呵責に自分が耐えられない。だからひとまずは知りたかった。
「今下されている命に、果たしてどのような意味があるのでしょうか」
先程も考えたことだ。鍵を奪いさえすればこの苦しみは終わる。ならば早急に行動に移すべきだ。この胸の痛みを抱えて過ごす日々は、相当に辛い。だから早く逃れたかった。早く終わらせて楽になりたかった。
少しだけ噛みつくような言い方が気に障ったのか、主の側に控えていた人物が声を上げようとした雰囲気を察知する。しかし主がそれを諌めた。
『──意味が必要か?』
「はい。鍵を奪えば済む話のはずです」
『はっ、確かにな』
然もあらんといった風に主が乾いた笑い声を響かせる。わかっているのならば何故、とやはり疑念が拭えない。するとその隔たれた空間越しから説明が聞こえ始めた。
『鍵を所有するに値する者であるかどうかを見極めていた。──鍵には発動条件があるからな』
「発動条件……?」
『鍵を手にするだけでは意味がないんだよ』
どういうことだ、と眉間にしわを寄せる。鍵を手にするだけでは意味がない、と言いつつそれを求める理由。それがなぜ所有者である彼女に関わってくるのか。発動条件、という言葉にも引っかかりを覚える。
『あの少女の中にあるのが《闇の鍵》であれば特にな』
「彼女自身の何かが関わってくる、ということですか?」
『聡いな。何かではなく、所有者自身だ』
「所有者自身──?」
彼からの回答に更に怪訝な顔を浮かべる。一連の流れを要約するとまるで発動条件は彼女自身だ、と言っているようなものだと。そして次の言葉で息を呑むことになる。
『発動条件は謂わば使用権限のことだ。──鍵を扱えるのは所有者のみなんだよ』
「──……!」
思いがけない情報に目を見開いた。そして同時に疑問が湧き上がる。
「ならば、なぜ……」
先程彼が言っていたことをようやく理解する。鍵を手にしたところで発動条件に当てはまらないではないか、と。彼女から鍵を取り出しても使用できないのならば意味をなさないはずだ。言っていることとやっていることが矛盾している。その事実に混乱する。
絶句したままの自分に主が鼻で笑う音が響いた。
『無論、方法ならあるさ。だがそうだな──そろそろ試してみるか』
言いながら側に控えている人物に指示を出す。するとすぐにその人物がこちらに近付き手にしていたものを差し出した。立ち上がりながら無言でそれを受け取り確認する。
「……宿り魔の胚?」
小さいが禍々しい気を孕ませている。これを使用して鍵を奪うということか、と考えていると主人から名前が呼ばれた。
『水唯。お前に新たに命じよう』
思わず身構える。新たな命令、ということは次の段階に進むはずだと。それはこれまでずっと自分が考えていたことに移るということだ。覚悟を決める時だ。そう思いながら口を結んだ。しかし彼がついで語ったことは、想像もしていなかった方法だった。
『その胚を、対象者の心のカケラに埋め込め』
「……っ⁉︎」
下された命令に声を詰まらせる。対象者とは紛れもなく美都のことだ。目の前に座する主人は彼女の心のカケラに宿り魔を憑けろと言っているのだ。本来宿り魔は無機物を憑代とする。稀に衣奈や自分のように人に憑けられることもある。そうすれば宿り魔と同じ力を使うことが出来るからだ。しかし今回の命令はそのどれとも違う。彼女自身ではなく、敢えて”心のカケラ”にと指示があるのだ。極めて冷静を装い、その意図を計るように口を開いた。
「埋め込んだ後、──彼女の中に戻す、ということですか」
『そうだ。例え守護者と言えど、己の中に埋め込まれたものは退魔出来ないだろう?』
背筋に悪寒が走る。抑、心のカケラは絶対不可侵の領域だ。取り出せるのは宿り魔のみ。それをわかって尚彼女をより苦しめようとしているのか。
「……なぜ彼女自身ではなく、心のカケラなんですか」
『なんだ、今日はやけに質問が多いな』
繰り返される質疑応答を嗜めるように主人がそう発言する。ハッとしてすぐさま「申し訳ございません」と謝罪するが、計画を実行する意味がわからなければ動くことは出来ない。否、以前であれば口答えせず肯定するだけだっただろう。しかし今は状況が違う。──彼女に近付き過ぎてしまったが故に。
『お前が先程言っただろう。不思議な力を感じる、と。彼女には少なからず守護者の加護がある。動きを抑えたとしてもそれが邪魔をする可能性は大いにあり得るからな。精神力が強いのならば尚更だ』
少しだけ気怠そうにしながらも朗々と長い理由を口にしていく。彼の声から語られることを耳にしながらただその場に立ち尽くした。既に包囲網は作られていたのだ。そんなことはお構い無しに説明はそのまま続けられる。
『意志が邪魔をするのなら意識を奪えばいい。さすがに心のカケラを取り出せば抵抗は出来まい。胚さえ埋め込んでしまえばこちらのものだ』
無言のまま、頭を必死に巡らせる。心のカケラは人間を動かす核のようなものだと聞いたことがある。だからそれを取り出す行為は相当の苦痛を伴うのだ。人間にとって重要な存在であるが故に。その重要なものに宿り魔の胚を埋め込むということ。心のカケラに埋め込まれた胚は果たしてどうなるのか。心のカケラが憑代になるとは、どういうことなのか。
『さて────お前はどうなると予想する』
さも愉悦そうに主人から問われる。まるで考えていたことを見透かされているようだ。何か答えなければと必死に考察を口に出そうと乾いた喉を振り絞った。
「……っ、宿り魔を内側から侵食させ彼女の精神を乗っ取る──」
『そう。万一精神が乗っ取れなかったとしても、抗えない苦痛が彼女を襲う。だが向こうは為す術もない。こちらに従うしかなくなるんだ』
そういう、ことか。ようやく理解した。同時にその残酷さに身震いして息を呑む。
所有者にしか鍵が扱えないのであれば、無理矢理にでも従わせれば良い。精神を乗っ取ることが出来れば発動条件は揃う。乗っ取れずとも耐え難い苦痛を与えれば従わざるを得ないということだ。
「──っ……」
動揺を悟られないよう口元を手で覆い隠す。もう後戻りが出来ないところまで事態は進んでいる。自分で蒔いた種ならば己が回収すべきだと思っていた。しかしこの方法は自分の予想を遥かに超えるものだ。一度決めた覚悟が揺らぎそうになる。
ふと脳裏に彼女の姿が浮かんだ。あんな小さな少女に、魔の手が伸びようとしている。そしてそれを実行するのは紛れもなく自分なのだ。
『────水唯。出来るな?』
命令に否はない。与えられているはずがない。今一度覚悟を決めるのだ。一時も万事も、彼女にとって苦痛には変わりない。これ以上肩入れしてはダメだ。彼女とはただの同級生で。ただ、それだけのはずだ。
グッと喉を引き絞る。ゆっくりと目を瞑ったあと腕を下ろした。一つ深呼吸した後。瞼を開く。
「……承知しました」
そうだ。自分に拒否権はない。そのためにここにいるのだから。





水唯が立ち去った後、側に控えていた者も下がらせ広間には静寂が戻った。
「──随分と意地悪なことをするんですね」
クスクスと愉しそうな笑い声が響く。笑い声でさえも甲高さが気になる程だ。視線を動かすと柱の影からその人物が姿を覗かせた。
「いつから聞いていた?」
普段ならば配下の者は気配で気付くがこの人物の場合は話が別だった。巧妙に己の気配を消していたのだろう。
「あの子との会話はずっと聞いておりました。所有者の少女の話は興味深いですね」
あの子、と指すのは水唯のことだ。彼との会話を聞いていたのならば話は早い。そして言葉尻から既に興味を抱いていることが窺える。無論、そのために呼んだのだから。
「所有者であり守護者だからな。稀有な少女だろう?」
「えぇ。何か理由がありそうですね」
顔を見ずとも口角が上がっているような喋り方をしているのが解る。掴みは上々ということか。だがこれはきっかけに過ぎない。問題はここからだ。
「気にならないか?  あの少女について」
「あら……その為に私を呼んだんでしょう?」
「察しがいいな。して、水唯との会話の中にお前が動くだけの要素はあったか?」
その問いに対してしばし間が出来る。彼女自身呼ばれた理由を察している以上、今後の出方を考えているのだろう。さすがに一筋縄ではいかないか、と骨が折れる。無言のまま彼女の言葉を待っているとようやく口を開いた。
「強い力の要因について、でしょうか」
「──へぇ。てっきり家庭環境の方かと思ったが」
「もちろん、それは前提条件ですわ」
彼女の技能を考えれば、自分が口に出したことにまず興味を抱くと思っていたのだ。それを肯定した上で力の要因に目を付けるということは何かしら重なるものがあるのかもしれない。
「ならばその上で契約を交わしたい」
「何でしょう?」
自身が呼ばれた理由を察しながら敢えてここでは対等な立場に出ようとする姿はやはり曲者だと感じざるを得ない。しかし彼女の動きが必要なのも確かだ。だから契約なのだ。その為の条件は揃えた。
そのまま契約内容を口にしていく。彼女は不敵な笑みを見せながら黙って耳に流していた。一通り話し終えるとすぐさま疑問点を列挙し始める。
「──契約内容については把握しました。しかし先程あの子に別命を下されたのでは?  それによっては私の出番もなくなるでしょう?」
訝しむように顎に手を当て目を細めている。本来ならばその予定であった。しかし、と先程感じたことを口にする。
「遂行できると思うか?  あの任を」
「……まぁ。あの子のことを信じていらっしゃらないのですね」
「期待はしている。だが難しいだろうな」
「なぜそう思うんです?」
極めて静かに彼女がそう問いかけた。現状は水唯以外動かしていない。わざわざ対象者と同じ学校へ転入させ、探索を命じてきた。それは彼が適任だろうと考えていたからだ。あの年齢で感情を抑え込むのに長けており、逆らうことなくただこちらに従う。
なぜ、と問われれば答えは一つだった。
「アレに危うさが垣間見えた」
「危うさ、ですか」
「あぁ。集団生活の中で何か感じるところがあったようだな」
そうでなければあのように質疑応答の繰り返しにはならない。必死に感情を表に出さないようにしていたように見えたが少なからず動揺していたのも事実だ。あんなに淡白だった少年がここ最近は変わりつつある。無論些細な変化ではあるが。それに、と今一度彼女を見遣る。
「お前の方こそ感じたのではないか?  水唯に関してはお前の方がよく見てきただろう?」
自分でさえ気付く程だ。目の前の人物が気付いていないわけがない。気付いていて尚口にしないことに不気味さを感じる。
すると一度ふっと息を吐き、その顔に笑みを零した。
「さあ?  なにせあの子とはしばらく話していませんので」
飄々と質問を躱す。やはり掴めない女だな、と呆れてこちらも息を吐いた。
「どちらにせよ、お前も準備に時間がかかるだろう。水唯の度胸試しにはちょうどいいはずだ」
「それはそうですね。では早急に動き始めましょう」
承諾の返事は聞いていないが、この言い方だと契約は成立だと見て良いだろう。タイミング的に適当なはずだ。まだ器に力が足りていない。水唯が命令を遂行できればそれでも良い。少女を服従させてしまえばこちらのものだ。だがもしそれが叶わなかった場合、新たな手段を講じなければならない。その鍵を握るのが他でもない目の前にいる人物なのである。水唯には出来なくとも彼女には出来る。その為に呼んだのだ。
「────ひとつよろしいですか」
「なんだ」
そう考えていたところに再び甲高い声が響いた。あのままこの場を去るかと思っていた彼女はまだそこに佇んでいた。短く質問内容の詳細を訊く。
「もし水唯が失敗した場合、あの子を切り捨てるおつもりですか?」
これまでの他人行儀な言い方と打って変わって、初めて彼女が彼の固有名詞を口にした。やはり人の子ということか、と口角を上げる。
「どうかな。水唯のあの力は惜しい。失敗したからとて切り捨てることはないが──」
その後に続く言葉は飲み込んだ。水唯には失敗できない理由がある。だから簡単に引き下がることはしないはずだ。しかし懸念点もあった。それが感じた危うさなのだろう。
黙り込んだまま考えていると、これ以上言葉が続かないと判断したのか彼女が一つ息を吐いた。
「お考え把握いたしました」
「──やはり師としては情けをかけたくなるか?」
水唯の今後を気にする様子が見て取れた為、そう問いかけてみる。彼に一時期付き添っていた彼女が一体どのように感じているのか興味があった。しかしここでまた予想を裏切るような返答が彼女の口から語られる。
「いえ?  もし切り捨てるのであれば私が請け負おうと思っていただけですから」
それでは、と一礼して彼女が空間から立ち去る。なるほど、と少しだけ納得した。
(情けではなく、責任か)
指導した者の責任と役割。技術を横流しさせないように、という理由もあるだろう。改めて恐ろしい思考の持ち主だ。契約を交わした以上、こちらの味方でいることは幸いだと感じる。
「──……っ」
立ち上がろうとした瞬間、不意に眩暈に襲われた。頭を抱え息を整える。無意識の内に元の意識が抵抗しようとしているのか。つくづく扱いづらい身体だ。やはりまだ力が足りない。この邪魔な意識を抑え込む為に、まだ時間を要するということか。儘ならないことに辟易とする。だが、と一つ確信めいたものがあった。
この器を安定させる為の方法。それはいずれ──間もなく判明することになる。他でもない先程の彼女の働きによって。
(どれほどのものか──見物だな)
彼らの娘が、一体どれほどの力をその身に宿しているのか。




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