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暗闇に届く一閃の -鍵を守護する者⑦-

マザーグースの歌

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段々と目的地に近づく。ここひと月程すれ違ってばかりの人物に会いにきたのだ。行っても空振りになるかもしれない。その確率の方が高い。しかし今日に至っては不思議と確信めいたものがあった。
教会の扉へと続く脇に青紫の花がふと目に入る。凛と咲き誇る姿が印象的だった。
何度来てもここの木製の扉は重いな、と考えていると率先して四季が扉を開けてくれた。ギィと鈍い音が響く。
「……こんにちは」
控えめに入室の挨拶を口にする。いつ来ても澄んだ空気が流れているせいか、小さくても声が響くのだ。そろりと中を窺うように半身だけ入れた瞬間、前方で動く影が見えた。
「──!  美都さん……っ!」
いつものように紺色の衣服を纏った女性が、自分の声に反応してその瞳を大きく開いた。次の瞬間にはこちらに向かって小走りで駆けてくる。ようやく会えた喜びで自分もそのまま前進した。
「よかった。菫さ──わっ!」
名を呼ぶ途中で、向かってきた彼女の身体に強く包まれた。驚いて目を瞑る。彼女が取り乱すのは珍しい。いつも冷静な姿しか見たことがなかったのだ。だが何となく、その理由がわかってしまった。抱きしめてくれた身体が震えていたから。
「……やっぱり、もう知ってるんですね」
ポツリと菫の耳元で呟いた。ゆっくりと身体を離し、自分と視線を交わす。どことなく泣き出しそうにも見える悲痛な面持ちだった。反して自分は驚くほど落ち着いている。もうこの状況を受け入れてしまったからかもしれない。
震える手が頬に触れる。まじまじと自分を見つめる様が少しだけくすぐったく感じた。
「美都さん……だったんですね」
「はい。それに──闇の鍵、でした」
菫は決して具体的な言葉を用いてはいないが、それが何を指しているかはすぐに理解出来た。だから肯定し、その内容についても触れる。すると彼女の顔が更に陰った。以前ここで直々に説明を受けたのだ。破壊の力を持つ《闇の鍵》。それが自分の中にある。
「まさか本当に、こんなことが──」
眉間にしわを寄せ、顔を俯かせた。声を詰まらせる彼女を見つめていると後方から四季がおもむろに口を挟む。
「菫さんは本当に何も知らなかったんですか──?」
少しだけ棘のあるような質問の投げ方だ。責めるようにも聞こえて取れる彼を窘めるべきかと名前を呼ぼうとした。
「鍵の所有者が誰なのかは、一度でも顕現しなければ私にもわかりません。しかし──可能性は感じていました」
四季の疑問に応じた後、菫は尚も顔をしかめながらそう呟いた。可能性、と言う単語に小さく首を傾げた。彼女は自分が所有者である可能性を感じていた、と言うことだろうかと。
「ですがそんなことは絶対にあり得ない、と──守護者が所有者を兼ねることはあり得ないと。そう、考えていたのです」
弥生も同様のことを口にしていた。つまりは菫も彼女と同じ考えだったのだ。菫でさえそう言うくらいなのだからやはりこの状況は普通ではないのだろう。
自分が鍵の所有者であることは既に受け入れた。しかし、果たして自分である理由が何なのかは分かっていない。それを菫に訊かなければと思い出した。
「菫さんはどうしてわたしが所有者かもしれないって思ったんですか?」
素朴な疑問を口にする。衣奈には明確な理由があった。自分には他者に劣らない責任感があるのだと。しかし鍵を所有するに相応しいと言う評価には未だに納得出来ていない。
菫は美都の問いかけを聞くと一度目を瞑り、その考えを口にし始める。
「……守護者は、指輪によって選ばれます。正義感の強い方、その力を扱うのに十分な素養がある方……選定基準は様々ですが守るための力が必要だと判断した者を選ぶと言われています」
まず始めに、彼女から守護者の選定基準が話される。指輪が守護者を選ぶと言うことは以前から耳にしていた。それさえも当初は疑ったものだ。こんな臆病な自分が守護者であるはずがないと。しかし結果的には自分が力を望んだ。大切な人を守るために。引いては、いつか現れる所有者を守るために。
「しかし所有者に関しては──基準が不明です。これまでの方にも共通点はあまりありません。先代に所有者が現れなかったのはそのせいでしょう」
確かに弥生たちの代ではとうとう所有者が判明しなかったと言っていた。それも不思議ではない。以前瑛久が「鍵の所有者が見つかる確率は宝くじが当たるよりも低い」と分析していたからだ。だがそれも今回はイレギュラーがあった。
「美都さんたちの代においては、そこから全てが以前と異なります。第一中学三年の女子生徒と既に範囲が限られていた。それは私にも知り及ぶところではありませんでした。ですが──」
何度目かの逆説の接続詞を口にすると菫はゆっくりと瞼を下ろした。その様に首を傾げる。彼女が一つ息を吐いた後、ゆっくりと目を開くとその瞳が美都を捉えた。
「あなたこそが特異だったのです」
「……わたし、が──?」
思いがけず心臓が一つ大きく鳴る。特異と言う単語は必ずしも良い意味とは限らないからだ。ここではそのように感じる。だがなぜ自分が、と言う疑問ももちろんある。
菫は静かに頷くと再び彼女の見解を話し始めた。
「あなたという存在は極めて稀でした。今までその存在を隠し通せたのが奇跡と思える程に」
「ちょ、ちょっと待ってください。どうして──なんでわたしが稀なんですか?」
彼女が話す内容について理解が追い付かず、困惑気味に口を挟む。菫がそう評するのには何か理由があるからなのではないかと。するとまるでその問いが来ることを図っていたかのように、用意していた答えを口にしていく。
「初めて美都さんがこの教会を訪れた時、あなたは不思議な気に包まれていました。淀みのない洗練された気。それがあなたを守っていました」
「気……?」
「それは確実に他者とは違うものです。具体的に何が──というのは私もわかりません。ですがあなたのそれは特殊です」
菫が話す内容に目を見開く。もちろん自身で感じたことはない。そもそも気というものも曖昧だ。自分にわかるのは宿り魔の禍々しい気配だけ。自分を纏う気など考えたことがなかった。特殊だと言われたことに驚く。思わず手のひらを確認するように見つめた。
「だからこそ最初あなたを見た際にもしかしたら、と思いました。しかし直後にあなたが手にしていた指輪を見て、その予想をすぐに捨て去ったのです」
「……やっぱり、守護者が所有者になることはあり得ないんですか?」
ずっと考えていた。弥生でさえも「そんなことはあり得ない」と強く口にしていたのだ。だが結果的にその理論は覆った。こうして自分が守護者と所有者を兼ねているという事実。
美都の質問に菫は一旦口を噤む。先程彼女自身そのように考えていた、と話していた。しかし実際目の前に”特異”が存在しているのだ。菫は目を細め、言葉を選ぶようにして再び口を開いた。
「──前例はありません。しかし指輪があなたを選んだ。あなたが守護者であるべきだと。それはあなたが既に所有者だと決まった後に起こった出来事のはずです」
「じゃあ……指輪の意志が?」
「あなたを守れるのは、あなた自身だと──。現状はそういう他ありません……」
語尾に覇気がなくなり、難しい顔をしたまま目を伏せた。菫でさえも考えは曖昧だ。しかしこの現状を鑑みると彼女がそういう表情になるのは理解出来る。通常、一人の所有者に守護者は二人。それが1対1になるのだ。リスクが大きいと考えるのは当然だろう。
胸元にある指輪に触れる。自分が特異だとは思わなかった。そこには何か理由があるのではないのだろうか。しかし自分では思い当たる節はない。これまでも至って普通の生活を送ってきたのだ。他人と違うことなどないはずだ、と考えた時。
(あ……っ!)
そうだ、あの夢。あの夢を再び見た。あの夢は何か関係していないのだろうか。守護者の力でないとすると菫の言っていたようにこれが自身の力なのだろうか。
「菫さんあの……夢の話、なんですけど──」
「夢……?  以前仰っていた予知夢のようなもののことですか?」
「はい。えっと……それをこの間また見ました」
若干恐縮気味に伝える。夢の内容については四季にも詳しい話はしてはいない。しかしそれよりも忘れないうちに菫に共有しておかなければと思ったのだ。
「その夢で『君が《闇の鍵》に選ばれたのはさだめのようなものだ』って……そう言っていました。やっぱり何か法則性があるんじゃないでしょうか」
そう言うと菫は一瞬驚いたように息を呑み、すぐに何か考えるように怪訝な表情を垣間見せた。
「……美都さんが見た夢の声がそう仰っていたのですね?」
彼女の問いに肯定する。自分でも不思議なのだ。あの夢の声の主は明らかに何かを知っているようで。しかしやはり心当たりは無い。彼がそう言う理由も解らない。何がさだめだと言うのか。
しばらくして菫は目を瞑ったまま首を横に振った。これは先程の自分の問いに対する答えなのだろう。やはり法則性はない、とそう言うことだ。しかし、と菫が口にする。
「その夢の声の主が、美都さんに何かしら働きかけているのは確かです。以前の警告にしてもそうですがそれはあなたに利をもたらすもの。現状はそう言えますがもし不審な点があればすぐにおしらせください」
「わかりました」
菫の言う通り、確かに現状あの声はあるべき方へ導いてくれているようにも感じる。そのまま信じ過ぎるのも危険なのかもしれないが彼女がそう言うのであれば大丈夫だと判断したからだろう。彼女の言うことに頷き会話が一段落した時、しばらく静観していた四季から声が上がった。
「菫さん。鍵について、まだ俺たちに話していないことがありますよね?」
後方から聞こえる彼の声に反応して振り向いた。今日の四季はやけにピリピリしている。どうしたのだろう、と怪訝な表情で首を傾げていると彼が継いで口を開いた。
「鍵の使用権限が所有者にしかないと言うのは本当ですか?」
「──!」
彼が発した言葉に驚いて目を見開く。自分にとっては初めて聞く情報だ。なぜ彼が知っているのか、と言う疑問は恐らく弥生たちとの会話からだろうと察せられる。すると菫は推し量ったようにゆっくりと頷いた。
「ご存知なのですね──そうです。鍵は所有者にしか扱えません」
「それには何か理由があるんじゃないですか」
すかさず四季が追及する。鍵が所有者にしか扱えない理由。彼が疑問に持つのも納得できる。理由がなければ守護者の存在意義が揺らぐからだ。鍵が他人の手に渡ったところで何も出来ない、ということになるのだから。
「鍵は本来、使用するものではありません。あくまで均衡を保つためのもの。2つに分かれているのも力を分散させるためです。……美都さん、当初私がした話を覚えていますか?」
不意に話を振られ記憶を遡る。鍵について聞いたことは多くない。そのどれだろうと考えていると再び菫が紡いだ。
「鍵が人の中にある理由。それは我々人間が手にして良いものではないからです。だから人の中に封じたのです。しかし一点だけ、その使用を認められるのが所有者なのです」
「どうして所有者だけに……?」
「鍵を所有するということ──それだけで所有者は脅威の的となります。その人権を守るべくのことだと、私は考えております」
だんだんと思い出してきた。守護者になったその日の夜、この教会で菫と交わした内容。手出しが出来ないように心のカケラに封じたのだと。そしてその不可侵を破ったのが宿り魔。
とどのつまり、やはり所有者以外が鍵を手にしても無意味なのだ。しかしそれでも鍵を狙うのは、何かしら発動する手段を講じているからか。それとも手に入れてからそれを考えるのか。
「美都は鍵を使用することが出来るということですよね?」
これまで考えていたことを一気に問い質すように、四季から疑問の声が次々に上がる。その問いに菫は大きく息を吐いた。
「──先程も申し上げた通り、鍵は本来使用するものではありません。そして使用権限があるからといって簡単に発動できるものでもないのです」
菫の声色が、少しだけ硬くなったような気がした。彼の問いに真正面から応じてくれている。そこには恐らく鍵を知る者としての責任のようなものがある。鍵というのはそれ程までに繊細なものなのだろう。
「美都さんを怖がらせるつもりはありませんが──使用するにはリスクが伴います。決して発動しようなどとは考えないでください。あなたの中にあれば、それはただの物質でしかないのですから」
「……はい」
もちろん鍵を使おうとは思っていない。自分の中にある《闇の鍵》は破壊の力を宿しているという。それだけで少し怖いと感じる。自分には破壊衝動はない。
度重なる質疑応答の末、四季もようやく納得したように見えた。彼も守護者として思うところがあったのかもしれない。不安にもなるだろう。結果的に美都という所有者を守る人間は一人なのだから。
守護者である自分と、所有者である自分。それは誰もがいう通り特異なのかもしれない。それでも、と胸元を見る。
「……指輪が──わたし自身を守るためにわたしに力が必要だと判断したのは間違ってないと思うんです」
ポツリとそう呟く。守護者の力を望んだのは自分だ。その前に自分が所有者だったと分かっていても、自分は力を望んだだろう。自分の身は自分で守る。他の誰にも背負わせたくないと思うから。顔を上げて菫を見つめた。
「多分、守られているだけなのは性に合わないので。もしかしたら指輪はわたしの性格を知っていたのかもしれないですね」
ふふ、と笑みを零す。四季曰く「真っ直ぐで向こう見ず」なのだ。大人しくしていられるわけがない。自分でも分かっている。それに守るべきは自分ではない。鍵なのだから。
すると菫はそれまで張り詰めていた気を和らげるように小さく息を吐き肩を落とした。
「──あなたはやはり不思議ですね。あらゆるものを享受し、許容する。そこには優しさと強さがあるからでしょう。あなたに想いが集まる理由です」
「想いが集まる……?」
「美都さんが他人を想うように、あなたに関わる人間もまたあなたに想いを向けています。それを忘れないでください。その想いは必ずあなたを守ります」
なんだか変な感じだ。今までは守護者として対象者を守る立場にあった自分が、今度は他人からの想いに守られているとは。しかし菫の言うことももっともだ。それは衣奈と戦う際に感じた。他人からの想いと温もり。それがある限り大丈夫だ。
「────鍵の守護者」
凛とした声で菫がそう呼ぶ。その声に反応し、二人で菫の方を向いた。彼女は二人からの視線を受けると両手を前で組みゆっくりと目を瞑った。
「あなた方が守るべき鍵の所有者が判明しました。所有者の名は──月代美都。どうかお二人の力で彼女を守ってください」
自分の名が呼ばれ、ピクリと身体が強張る。一種の儀式のようなものだろうか。菫は後半になってようやく目を開くと再び二人の姿を瞳に映した。
身体を捻り四季の方を見る。守護者は何があっても対等な立場だ。これまでも、これからも。例え自分が所有者であっても。彼と視線を交わし頷きあう。
「──はい!」
ここからもう一度。踏み出すときだ。本来の目的がようやく始まるのだから。





四季と共に教会の外へ出る。ついでその姿を送るように菫も後から続いた。扉を開いた瞬間目に入ってくるのは彩りのある花壇だ。
「ここのお花は菫さんが管理してるんですか?」
「えぇ。季節によって植え替えているんです。半ば趣味のようなもので」
肩を竦めながらふふっと微笑む菫に心が和んでいく。季節毎に違う顔を見せるのだろう。ひと月前は確かグラジオラスが咲いていた。彼女は花に知見があるのだろうと感じさせる。素敵だな、と見渡していると菫から声がかかった。
「よろしければ少しお持ちしませんか。ちょうどまた植え替えの時期ですので」
「いいんですか?  あ、でもうちに花瓶あったっけ?」
菫の申し出に喜んだのも束の間、そう言えば花を飾るための道具がなかったなと思い出した。言いながら四季を見ると、一旦考えるようにして彼は首を横に振る。どうしようかと頭を悩ませていると再び彼女が言葉を続けた。
「そう大きいものでも無いのでグラス等で大丈夫ですよ。お待ちくださいね」
そう言うと教会の壁沿いに彼女が歩く。どうやらそこに菜園道具を置いているようだ。剪定用の鋏を手にして花壇に向かった。菫の後に続いてパタパタと足を進める。屈んだ彼女の背後からその様をまじまじと見つめた。
「この青紫の花はなんですか?」
「リンドウです。夏の終わりに咲く花ですね。そう言えば──」
根元の方に鋏を入れながら丁寧に剪定していく。するとふと何か思い出したように菫がくるりと身体を捻った。なんだろうと首を傾げる。
「美都さんの瞳の色に似ていますね」
「そ……!  そうでしょうか……」
急にそう言われ、思わず照れて顔が熱くなる。こんなに素敵な花と並べられるのは恐縮に感じるが嬉しくもある。菫もよく見ているなと感心してしまった。
その時不意に背後から楽器の音が耳に届いた。それに反応し顔を向ける。
(あ……)
生のピアノの音だ。
思えばあれ以来だ。ここでピアノの音を聞くのは。あの誕生日、重々しく響く旋律に捕まった。
(あれは何だったんだろう──)
自分の深層心理から来る恐怖なのか。それともその後に起こったことへの予兆だったのか。今でも思い出すと背筋に悪寒が走りそうになる。しかしたった今耳に届いてくるのは軽快でありながらやはりどこか物憂げに聞こえる旋律だった。記憶の中にある数少ない知識を呼び起こす。
「──きらきら星変奏曲?」
「?  “きらきら星"のことか?」
「そう、それ」
四季とそう交わし互いに耳を傾ける。彼も聞き馴染みがあるのか納得したように頷いた。
「確かに言われてみればメロディがそうだな」
「ね。小学生の頃リコーダーで吹いたなー」
懐かしいな、と思い出しながら”きらきら星"の歌詞を口ずさむ。単純明快で頭に残りやすい主旋律だ。アルファベットを覚えるために聞いた曲でもある。
「──マザーグースですね」
ポツリと菫が呟いた言葉に歌うのを止め首を傾げた。その場で立ち上がり切った花を整えながら、彼女が続けて説明を付け加える。
「イギリスの童謡です。有名なところだと”ロンドン橋"などもそうですね」
「へぇ、そんな言い方するんですね」
初めて耳にする情報にほぅ、と感嘆する。挙げられた曲から確かに幼い頃から聞いてきた曲だなと納得した。
「マザーグースってちょっと怖いのもあるけどな。訳し方が違うのとかもあるし」
その単語を聞いて他の曲も思い浮かんだということだろう。やはり四季も博識だなと感心する。否、もしかしたら自分が物を知らな過ぎるだけなのかもしれないが。
「きらきら星もそうなの?」
純粋な疑問として訊ねてみたところ、何かを考えるようにして四季が一旦口を噤む。頭の中で整理がついたのか少ししてから再び解説が始まった。
「英語詞を直訳すると、『あなたは一体何なのか』って意味になる部分があるから確かに日本語詞とは違うな」
言いながらスマートフォンを取り出し操作し始めた。自分の考えと果たして合っているのかを調べているようだ。そしてすぐに表示された画面を声に出して読み上げた。
「──へぇ。元々はフランスのシャンソンらしい。母親に悩みを打ち明ける、みたいな歌だって」
「……そうなんだ」
不意に飛び出てきた単語に思わず一瞬だけ声を詰まらせた。だが彼に悟られないように平静を取り繕う。こんなに敏感になってしまうのは恐らく保健室でした水唯との会話のせいだろう。
この奏者は、意味を知って弾いているのだろうか。それともただ単に好みからの選曲なのだろうか。どちらにせよ原題を知った今、少しだけ聴き方が違ってくる。解釈の変化とはこういうことなのだろう。
(きらきら星……)
その中に出てくる単語から連想ゲームのように水唯の顔を思い浮かべる。彼の苗字にも星があるからだ。
体調不良は本人の不養生とのことだが、何だかそれだけが理由ではない気がしてならない。彼とは少しだけ感性が似ているところがある。だからわかることがある。あれは精神的なものだ。それをずっと自分の中に押し込めているように感じる。それがたまに苦しい。
「──きらきら光る……」
再び旋律に合わせて歌を口ずさんだ。願わくば、と心の中で祈る。歌詞のように星空が見守ってくれているのなら、その名を持つ彼も等しく見ていて欲しい。少しだけ不安定に見える水唯を、どうか導いて欲しいと。
「お節介かなぁやっぱり」
「いや、今更だろ」
特に何に対してか口に出していないのに、傍にいた四季から真っ当な意見が返ってくる。果たして自分の考えを理解しているからなのかは定かではないが、彼の評価にまぁそうかと自身で納得してしまった。
「お前の良いところではある、けど──」
「けど?」
逆説で止まったため後に続く文が何なのかと首を傾げる。四季は遠くを見つめるように目を細めた。
「──いや、何でもない」
歯切れ悪く、誤魔化すようにそう呟いた。そう言えば先程もこのような問答をした。彼が二度もこう言うことは珍しい。それなりに四季にも考えるところがあると言うことだろう。追及したい気持ちもあるが具体的な返答が無いからにはこちらも少しだけ待とうと考えた。
話の途中から剪定した花を包むために離席していた菫がそれを手にして戻ってきた。小さいながらも立派な花束だ。菫の愛情を受けて育った花は生き生きとして見える。大切にされてきたのだろう。すると彼女がリンドウの花を眺めながらふっと微笑んだ。
「リンドウの花言葉は──正義」
彼女の言葉には芯がある。口調は極めて柔らかいが凛とした声色に背筋を伸ばした。正義、と言う単語を口の中で復唱する。
「あなたはあなたの正義を貫いてください」
花束を受け取りながら、その花言葉を持つリンドウに目を移す。世間では度々「正義とは何か」と議論になる。正義の概念は幅広い。哲学にまで及ぶほどだ。そう考えると自分の正義とは何なのだろうと改めて鑑みた。
「わたしの、正義……」
今まで深く考えたことはなかった。信念は、と問われれば「大切な人を守る」ことだ。だが正義とはどう言うものなのか。それは殊に難しい。自分が正しいと思うこと。普段から正しさの中に身を置いていなければ解らないものかもしれない。現状は恐らくその立ち位置にいるはずだ。そうなのだとしたら深く考えずとも、今自分が生きてきた道を肯定すれば良い。それだけのことか。
『今のきみなら、間違いを正せるはずだ』
ふと夢の声が脳内に蘇る。先刻も考えていたことだ。やはりあれは「良くないもの」に掛かっていた。そうなると、と連想ゲームのように繋げていく。「良くないもの」の正体は実体の無い影だったはずだ。そしてその実体の正体は確か、先日四季が対峙したと言う少年だった。つまりはあの夢の声は少年に掛かっていると言うことになる。その少年は同級生。同級生の男子生徒だ。
「……どうかなさいましたか?」
余程難しい顔をしていたのか、はたまた突然黙ったせいなのか。菫が首を傾げて様子を訊ねてきた。その声にハッとする。
「あ、いえ!  ちゃんと自分の正義について──自分が正しいと思うことに向き合ってみます」
自分の正義が他人の正義と一致するとは限らない。時には相反することもあるだろう。その時に自分はしっかりと主張が出来るのか。それと今一度向き合わなければならない。その言葉を聞くと菫は微笑んで頷いた。
「振りかざすのではなく、寄り添ってみてください。あなたが信じる想いに」
不思議とストンと胸に落ちた。振りかざすのではなく寄り添うこと。確かに後者の方が理に適っている。菫はいつも自分が思いつかないような考え方を教えてくれる。きっとこれがまたヒントになるはずだ。
菫と視線を交わし、強く頷いた。正義とは何か。間違いを正すとはどういうことか。
きっとこれが、その少年と戦う術だ。



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