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祝いの中の真実に-鍵を守護する者⑥下-
明けゆく空
しおりを挟む衣奈との一戦が終わり日常が戻ってきた。ここ数日落ち着かない日々を送っていたがそれもようやく片がついたのだ。新学期が始まって一週間。最後の平日の授業を終え、美都は解放されたかのように身体を伸ばした。この後しばらくするとHRが始まる。息を吐いてちらりと後方の席を見た。
「──……」
今日も水唯は休みだった。昨日のメッセージには一言「大丈夫だ」と返信があったものの学校に来られない程具合が良くないということなのだろう。
(心配だな……)
何分彼は一人暮らしだ。料理も得意ではないと言っていた上に食事をただの作業でしかないとの話もしていた。ちゃんと栄養を摂っているか不安になる。ただでさえ水唯は同い年の男子生徒に比べて華奢に見えるのだ。うーんと唸っていると背後から声がかかる。
「職員室行くんだけどついてきてくれない?」
「うん、いいよー」
あやのからの依頼を快諾し、席から立ち上がり彼女の後に続く。特に用事があるわけでもないがずっと椅子に座り続けているのも中々辛いものがある。三年生は部活動も無く身体を動かす機会がめっきり減るので少しでも歩き回りたかった。
他愛の無い会話をしながら職員室へ向かっていると手前で見知った少女がこちらに歩いてくるのに気が付いた。彼女も自分の姿が視界に入ったようでニコリと笑みを浮かべている。
「美都ちゃん」
衣奈が自分の名を呼ぶ。ただそれだけのことなのに嬉しくてふっと微笑んだ。もう後数十歩もすれば職員室へ着くのであやのへ先に行くように促す。
「何か変化あった?」
「ううん。強いて言えば不思議なくらい心が軽いの。美都ちゃんのおかげね」
宿り魔が祓われたことにより、以前よりも衣奈の表情が明るくなった気がする。本当に心からの笑顔なのだろう。変化が無いと聞いて安心した。だが一つ、外見の違いに気づいて思わず問いかける。
「衣奈ちゃん、眼鏡は大丈夫なの?」
おさげ姿なのは変わらないがいつも掛けていた眼鏡がなく気になったのだ。コンタクトが苦手だと言っていたため今は裸眼なのだろう。するとふふっと笑い声を漏らし美都の疑問に答える。
「あの眼鏡、ほとんど度が入ってないのよ」
「え、そうなの⁉︎」
「えぇ。ただちょっとね……自分を隠すために使っていたようなものだから」
少しだけアンニュイな表情を見せ衣奈が目を伏せる。彼女がそう言った理由はなんとなく理解出来た。宿り魔が憑いたことによって現れたもう一つの意志。衣奈にとってそちらが自然体に近かったのかもしれない。だから普段の己を隠そうとしていたのだろう。
「……もう平気?」
「どうかしら。まだ慣れないっていうのが本音よ」
「そっか。でも眼鏡無いのも可愛いね」
やはり眼鏡をかけている印象が強いせいか自分自身もまだ衣奈のその姿に見慣れないのだが、直接瞳が見られるのは新鮮だなと感じるのだ。澄んだ瞳も良く見える。
すると衣奈は美都の言葉に目を瞬かせ、口元に手を当てながら苦笑した。
「あなたは本当に人誑しね」
「え? それは褒められてない気がする……」
むぅ、と小さく頬を膨らませ反論する。美都の反応に衣奈はクスクスと笑っている。こうしてまた話せるようになって良かったな、としみじみ感じる。それどころか以前よりも距離が近づいたようだ。彼女が心を許してくれたからだろう。纏う雰囲気が柔らかくなった。衣奈につられてクスリと笑みが零れる。
「みんながあなたを好きな理由が、なんとなく分かった気がするわ」
そう言われて目を瞬かせた。みんなという不特定多数を指されても実際のところふわふわとしており自分ではよく分からない。それに、と思い目の前の少女を上目遣いで見る。
「どうしたの?」
「衣奈ちゃんは──……やっぱりわたしのこと嫌い……?」
恐る恐る衣奈に訊ねた。スポットの中でひたすらに拒絶された。素直さを体現しているようだと。だからこの質問も少し怖い。また嫌いだと言われたら、と。だが確かめておきたかったのだ。
答えを聞くために肩を竦ませていた美都を見つめ返し衣奈はふっと笑みを浮かべた。
「本当に嫌いだったらまたこうやって話してないわ。……あの時はごめんね」
「! ううん! そっか、よかったぁ……」
ホッと胸を撫で下ろした。たった一つの単語なのに、それが心を揺さぶるというのもおかしな話だ。だがやはりマイナスな言葉はマイナスにしか受け取ることが出来ない。逆を言えばプラスな言葉は気持ちを晴れやかにする。言葉とは不思議なものだなと改めて感じるところだ。
「美都ちゃんの言葉には力があるのね」
「力?」
ちょうど今しがた言葉について考えていたため、衣奈から言われたことにきょとんと目を瞬かせた。
「気付いていなかったの? あなた、それで私の宿り魔を祓ったんでしょう?」
「えぇ……?」
「呆れた。自分の力くらい知っておいたほうが良いわよ」
「仰る通りです……」
何も言い返せず美都はただ唸るように頷いた。指摘されるまで気付いていなかった。そうだったのか、と目から鱗だ。だがそうなって来ると新たな疑問が生まれる。
「言葉に力ってどういうことなんだろ?」
うーんと首を傾げる。剣のように形がないだけに想像がしづらい。だが衣奈がそういうのならば自分の言葉に力が宿っているのは事実なのだろう。いまいち掴めないでいると衣奈がサポートするように口を挟んだ。
「思い出してみたら? どうやったのかを」
「えっと……あの時は衣奈ちゃんと話がしたくて……」
思い返してみると割とあの時は無我夢中だったのだ。冷静に衣奈に話をしていたようにも思えたが決してそんなことはなかった。自分でも良くあそこまで彼女にかける言葉がすらすらと出てきたものだと感心する。ならばなぜ退魔が出来たのか。苦しんでいた衣奈を助けたかったというのは少し烏滸がましいが彼女の気持ちに寄り添いたかった。その為に自分がしたことは何だったか。そもそも衣奈と戦う前に何を考えていたのか。
「ほんの少しの勇気と──自分を信じること」
そうだ。戦う術を自分の中に落とし込んでいた。戦う、というのもおかしい。向き合うといった方が正しいだろう。
「そこからまた考えていけばいいんじゃない?」
「うん……! ありがとう衣奈ちゃん」
呟きを拾うようにして衣奈が頷く。勇気と自信。それが言葉に力を与えたのかもしれない。自分としては剣を向けずに退魔が行えたということだけで大躍進だ。彼女に礼を伝えて手を振り別れる。しばらく衣奈と話し込んでいたように思うがあやのはまだ用事が終わっていないのか職員室から戻ってきていない。彼女の帰りを待つ為職員室の前の壁にもたれる。
「……勇気は汝を正しい道に導く、か」
先程自分で口にした単語から連想ゲームのように思い出したことを呟く。高階から教えてもらったベートーヴェンの格言だ。
実際その通りになった。偉人の格言も侮れないものだなと感嘆する。勇気を持つことは難しい。自分の殻を破らねばならないから。だからずっと怖気付いていた。それでもグッと息を呑んで少しの勇気を抱くことが出来たのなら、物事は必ず進展する。今回のことで強くそう感じた。
不意に過ぎ去った誕生日のことを思い出す。否、数日前のことではない。数年前──あの時の誕生日だ。
(あの時も──……)
勇気を持って声に出していたのなら。今何かが変わっていたのだろうか。違う道を歩んでいたのだろうか。過ぎたことの仮定をしても意味のないことだとは分かっている。それでも考えずにはいられない。結局今年も何も変わらなかったのだから。
衣奈の心に散々踏み込んでおきながら自分のこととなるとやはり怖くなってしまう。そんな臆病な自分を省みて目を細めた。
「──まだ悩んでいらっしゃいますか?」
「!」
若干俯き気味にしていたところ頭上から柔らかく響く声が聞こえてパッと顔を上げる。すると高階が困ったような笑みを浮かべてこちらを見ていた。ちょうど授業が終わった帰りなのだろう。彼には情けないところを見られてばかりだなと眉を下げる。
「いえ。元気になりました!」
首を横に振ってニコリと笑みを浮かべる。その姿に高階は一瞬目を瞬かせた。
「お友だちと話し合えたんですね?」
「はい。ちゃんと向き合って話を聞いてもらえました」
「それなら良かったです」
美都の笑みに応えるように彼も同様に口角を上げた。次いで教材の間に挟んでいたCDを手に取り彼女の前に差し出す。いつものクラシックCDの貸借だ。それを受け取りジャケットを確認すると「Beethoven」と表記されているのが分かった。
「ベートーヴェン……ですか?」
言いながら裏返して収録楽曲を目で追う。だがここ数日話題に出ていた曲は見当たらなかった。どういうことだろうと首を傾げているとその理由を高階が口にし始めた。
「ロマンス第一番などは月代さん好みだと思います。最近愁情の曲ばかり話題に挙がってましたので、初心に戻ってみようかと」
今度は美都がきょとっと目を瞬かせる番だった。高階がこれを選んでくれた理由は何となく察することが出来る。落ち込んで見えた自分を励ます為だろう。さすがに気遣いに長けている。
「ベートーヴェンは名前が一人歩きしているせいか『運命』や『エリーゼのために』などの短調の曲が挙げられがちですがそんなことはないんです。ロマン音楽の創始者なので熱情的なんですよ」
ふふっと高階が少年のような笑みを浮かべる。彼が音楽について話すときは本当に心から楽しそうだ。だからついこちらも興味を抱くのだ。それほどに彼にとって音楽は尊いものなのだろう。そこでふと思ったことを口にしてみた。
「先生は──いつからそんなに音楽が好きなんですか? 何で音楽の先生になろうと思ったんですか?」
純粋な疑問だった。ただ自分が進路で悩んでいるから、というのもある。だがその職業に就くということは何かしら理由があったはずだと。それを聞いてみたかった。
美都からの質問に目を見開いた後、考えるようにして口元に手を当てる。
「……記憶にない頃からピアノには触れていたようです」
「──?」
その回答に違和感を覚え首を傾げた。なぜ自分のことなのにどこか他人行儀なのだろう。すると美都の反応に気付いたのか高階はすぐにその理由を話した。
「実は幼い頃に大きな事故に遭いまして。その前後の記憶があやふやなんです」
「え⁉︎ そうだったんですか……」
高階の過去を初めて知り、驚いて声を上げた。確かに幼少期ならば記憶が不鮮明になるのも無理はない。無神経なことを訊いてしまっただろうかと後ろめたさを感じていると彼が言葉を続けた。
「ですがなぜだがその事故があってから一層音楽をしたいという気持ちが強くなったのは確かです。今思えば未練に近いものかもしれません」
「じゃあ……もうその時にはピアノが好きだったんですね」
「そうですね……そう、だったんでしょうね」
まるで己にも言い聞かせるように、高階は目を細めて呟く。曖昧な記憶を呼び起こすかのように。恐らく彼にとっては良い記憶ではないはずだ。それでも自分の質問に答えてくれるのは優しさからだろう。
「……不思議とピアニストになりたいとは思っていなくて。ただ音楽に触れていられればそれで良いと。だから教員の道を目指したのかもしれません」
事故の後遺症はなかったと詳細が話される。彼の腕ならピアニストの道も目指せたはずだ。それなのに敢えて教員を選んだ。そこについては彼自身も曖昧のようだ。深掘りするのは良くないと分かっている。それでもやはり興味があった。
「先生は、先生になって良かったって思いますか?」
教師という仕事は自分が思う以上に大変な職業だと考えている。非常勤とは言え、彼も複数のクラスを担当する一教師だ。生徒との触れ合いや他教師との兼ね合いもあるだろう。高階が教師という道を選んでどう思っているのか。
するといつものように彼が柔らかく微笑む。その優しい表情に目が惹かれた。
「はい。教師に向いているかと問われれば疑問が残りますが、僕は先生になって良かったと思いますよ。様々な可能性を間近で見ることが出来ますしね」
「可能性?」
「音楽という授業は取り組む姿勢でその人の人間性が顕著に出ます。好き嫌い、得意不得意。それらは少し解釈と似てますね」
少しだけ話が入り組んできたように思え高階の言葉を元に必死に頭を巡らせる。無言になった美都の表情を察してか、彼が続けて解説を始めた。
「簡単に言えば個人の表現です。苦手でも一生懸命な子だったり、楽しそうに授業を受けていたり。如何に音楽と向き合い表現するか、でしょうか。それが面白いんです」
「如何に音楽と向き合うか……」
ポツリとその言葉を復唱する。如何に表現するか。それは今まで悩んでいた力の使い方に似ている気がするな、と感じた。
「月代さんの表現方法は、実は少し独特なんです」
「え? そう、なんですか……?」
表現方法が独特だと言われきょとんと目を瞬かせた。もちろん自覚が無いからだ。悪い方でなければ良いが、と思い当たる節を考えてみるがやはり自分ではわからない。うーん、と唸っていると高階がクスクスと笑い声を漏らした。
「もちろん良い意味でです。以前君は歌に自信がないと恐縮していましたが、それでいて惹かれるものを持っています。思わず耳を傾けたくなる透明感。歌に限ったことではないね。月代さんは普段からの姿勢がそのまま表れているんでしょう。一生懸命届けようとする想いが何よりも強いんですね」
真っ向から告げられる評価に、面映ゆくなり赤面する。一生懸命、というよりも無我夢中なのだ。四季的には向こう見ずだとでも言うのだろうか。自分に何が出来るか、どこまで出来るか分からないから必死で物事に向かうしかない。その姿勢を褒められるのはどこか恥ずかしくなる。
「わたしすごく不器用で……だから、その──色々試してみなきゃなっていう気持ちで……」
「その姿勢が大切なんです。そうやって一つずつ自分に出来ることややりたいことを見つけていけば良いと思いますよ」
その言葉にハッと息を呑んだ。これが可能性なのか、と。やりたいことがないと卑屈になっていた。だからずっと進路が決められずに迷って焦っていた。一つずつ自分に出来ることを見つける。自分と向き合うこと。それが大切なのかもしれない。
「高階先生……ありがとうございます!」
「ふふ、僕は何もしていません。君が素直だからです」
「なんだか先生にいつも導いてもらってるような気がします」
高階の柔らかい笑みにつられて思わずこちらも口元が緩む。特に悩みを相談しているわけではなかったのに彼にはお見通しだったようだ。
「ベートーヴェンも可能性の人間でした。難聴で絶望の淵を乗り越えた後にも様々な苦悩が彼を襲っています。ですがロマン派音楽の先駆けとも言える彼の作品は後の音楽家たちに大きな影響を与えました。それは彼が何物にも恐れず挑戦したからなのだと思います」
僕の勝手な解釈ですけど、とおどけて高階が笑う。ここでまたベートーヴェンの話に結びつけて来るのか、と感嘆してしまった。
「ロマンス第一番、聞くのが楽しみです。またオススメあったら教えてください」
「えぇ。考えておきますね」
互いに会釈を交わす。するとちょうど職員室から羽鳥が出てくるところであった。入れ替わり立ち替わりといった感じで今度は彼女がこちらに向かってきた。
「寺崎待ってるんだって? なんか時間かかりそうだから先行ってってさ」
「あやの、どうかしたんですか?」
「勧誘受けてた。後期の生徒会やらないかって。ほら行こう」
羽鳥からの説明になるほど、と思わず納得してしまった。ただでさえあやのは学級委員として動き回る姿が目立っている。その働きが評価されたのだろう。彼女の器量の良さを見ていればスカウトも理解出来る。羽鳥に促されて彼女とともに教室に向かって歩き出した。
「そういや、こないだ話したこと一応保護者の人に報告しといたからね。月代からもちゃんと連絡しときなよ」
「あ──! すみません忘れてました……」
「あんたねぇ……」
やれやれと隣で羽鳥が呆れるように肩を落とす。そう言えば始業式の日、進路について連絡すると円佳に約束していた。しかしここ数日の一件ですっかり頭から抜け落ちていたのだ。怒っているだろうな、と脳内に円佳の顔を思い浮かべて苦笑する。
「なんか吹っ切れた? そんな顔してる」
「! ──はい。色々……ちょっとだけ落ち着きました」
誕生日に羽鳥と話した時のことがもはや懐かしく感じる。たった数日前のことなのに。15歳になった当日初めて宿り魔に襲われ、翌日には自分が《闇の鍵》の所有者だと判明した。そしてさらに次の日、衣奈と直接対決をし彼女に憑いていた宿り魔を祓うことに成功した。思えばずっと気を張っていたような感じがする。ひとまずは奇襲の心配もないと見てようやく気持ちが落ち着いてきたところだ。それに進路のことも。少しだけ希望を見いだすことが出来た。
「先生、あの──進路のことなんですけど」
「うん。どうした?」
さすがに四季と同じところを目指すとは言い難い。だが彼の申し出のおかげで安心することが出来たのも事実だ。だから進路に対しても少しだけ前向きになれた。
「志望校、ちゃんと調べてみます。まだ自分でやりたいことは全然わからないんですけど……でも進んだ道で後悔がないようにしたいんです」
先程高階と話をしていて思ったことでもある。その道に進んで良かったと思えること。彼のように将来そう言えるように。自分と向き合い、出来ることややりたいことを見つけていきたい。そう思えるようになったことだけで自分としても大躍進だ。褒められたことではないが。
美都のその言葉を聞くと羽鳥は一瞬驚いたように目を見開いた後、すぐに微笑みを浮かべた。美都の決意をうんうんと頷いて耳にする。
「なんか急に見違えるくらい成長したね」
羽鳥がふっと笑みを零す。そう言われることが少しだけ照れ臭く、誇らしかった。衣奈との一件でほんの僅かだが自信が持てるようになった。それが今の姿勢に繋がっているのかもしれない。加えて所有者であるという自覚から、よりしっかりしなければという責任感が強くもなったのだ。羽鳥にはそれが成長した姿に見えるのだろう。
「その考えすごく大切だよ。選ぶのも決めるのも自分だ。自己責任、っていう言い方は他人行儀かもしれないけど結局将来は自分で考えるしかない。もちろん途中で他人の意志が介在することはあるだろうけどね。後悔しない道を探しなさい」
「──はいっ!」
隣で話す羽鳥の言葉に思いきり返事をした。彼女は決して否定しない。いつでも自分たち生徒の気持ちに寄り添ってくれる。だから彼女は生徒からの評価が良いのだ。本当に周りの人間に恵まれているな、と感じる。羽鳥も高階も、自分の話を聞いて意見をくれる。それだけでありがたい。相談できる相手が身近にいることの大切さを思い知る。
(水唯は──大丈夫かな)
彼の家庭環境については詳しく知らない。だが同い年の男の子が、あの広いマンションの一室で一人暮らしをしているのだ。それには相応の理由があるのだろう。詮索するのは好ましくないと弁えているのだが、引っ越してきた当初から力になりたいとずっと考えている。一人暮らしで頼る人間はいるのだろうかと、ずっと気がかりなのだ。
そう考えていたところふと羽鳥から依頼が舞いこんだ。
「悪いんだけどさ、これ星名に届けてやってくれない? 明日明後日と学校休みになっちゃうし」
各授業で使われたプリントだ。休んでいる二日分の量がある。頭の良い水唯のことなので恐らく自分で予習復習はしているだろうが授業に参加できていないというだけで心配だ。彼女からの申し出を快諾し、その手からプリントの束を受け取った。
「水唯って体調不良でお休みなんですよね?」
「そう聞いてるけどどうかした?」
「いえ、ただ心配で……」
うーんと苦虫を噛み潰したような顔を浮かべる。やはり今夜は何かしら惣菜を持って行こう。彼は料理が出来ないと言っていた。恐らく栄養になるものを摂っていないに違いない。あとは栄養ドリンクか。
ブツブツと呟いていた美都に羽鳥が眉間にしわを寄せた。
「あのさ月代……これは老婆心からの忠告なんだけどね」
「? なんですか?」
彼女がいつもより苦い顔を浮かべているため思わず目を瞬かせた。
「頼んでおいてなんだけど、一人で星名の家に上がるのだけはやめておきなよ」
「なんでですか?」
「あー……」
先程と似たような疑問を繰り返したところ、羽鳥が口元に手を当ててゴニョゴニョと珍しく何か言いづらそうにしていた。その様子に更に首を傾げる。すると唸りを抑え再び美都に向き直った。
「華奢に見えるかもしんないけど、星名だって男子なんだから。もし──もし万が一ね、力で押さえつけられたら敵わないだろ?」
不意に示唆された内容を頭の中で思い描く。力で押さえつけられる、というのがなんとも想像がつかない。その間コンマ数秒だった。
「大丈夫ですよ。そんな状況になるわけないじゃないですか」
ケロッとそう羽鳥に返すと彼女は更に渋い顔を浮かべ頭を抱えていた。はぁーと溜め息を吐く音まで聞こえる。
「……向陽にも言っておくわ」
「四季こそそんな状況にならないですよ」
「そうなんだけどね。そうじゃなくてね」
肯定と否定を繰り返し呆れるように肩を落としている。そんな他愛ない話をしている間にだんだんと目的地である教室に近付いていた。
「まぁ用心するに越したことはないからさ。ちゃんと向陽と共有しておいて」
「? わかりました」
未だに羽鳥の言う意図を計りきれず首を傾げる。しかしそう言われたからには頷かざるを得ない。ともあれ四季とは元より相談するつもりではいた。栄養のある料理を作ることが出来るのは彼だからだ。専門分野は達人に任せた方が良い。今日帰ったら早速相談してみよう。
ようやく心が少し軽くなった。考えなければならないことはもちろん他にもあるが一段落だ。来月には体育大会もある。二学期にある行事への意欲が増してきた。いまこの瞬間、この時間は二度と訪れない。だから学校生活を充実させたい。
そう考え美都は小さく頷いた。
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