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祝いの中の真実に-鍵を守護する者⑥下-

そこへ至る道

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4限目が終わる鐘が鳴り響き、生徒たちは空腹状態で各々教室へと戻っていく。その流れに逆らうように、美都は高階の元へ駆け寄った。
「なかなか興味を持ってもらうのは難しいですね」
と珍しく弱気になりながら高階が苦笑してそう口にした。
今学期初めての音楽の授業は座学となった。いつも実技であることが多かったことに加え、昼前の授業ということで生徒たちの集中力は低下気味だった。そこにクラシックとあって更に追い討ちとなったらしい。
「きっかけって大切なんだなって思いました」
美都にとっても今まではクラシックに触れることはなかった。きっかけがなければクラシックに興味を抱くことはなかっただろう。同年代にクラシックを説くのがいかに難しいかよくわかった。
「なるべく知ってそうな曲を選んだつもりだったんですが……」
「確かに耳馴染みのある曲が多かったです。とは言えわたしは先生のおかげでみんなよりたくさん聞いているってこともあるんですけど」
「そうですね」
クスクスと肩を竦めて高階が笑みを零す。この感覚も久しぶりだ。なにせ長い夏休みの後なのだ。合唱コンクールがあったにしろ、あれは授業ではなかった。こうして業後に言葉を交わすことがやはり何よりもの癒しだなと感じる。
「昨日は途中で失礼しました」
「いいえ。僕もつい話し込んでしまうので」
すみません、と互いに頭を垂れる。だが高階が恐縮することは決して無いのだ。
「高階先生の話はいつも面白くて。勉強になります」
と理由を伝える。すると彼が気遣うようにこちらに優しい瞳を向けた。
「──『月光』に関してはもう大丈夫ですか?」
昨日職員室で話したことだ。ベートーヴェン作曲の「月光」について、彼に詳細を聞いた。あの教会で聞いた音色に不安を覚えたからだ。高階は昨日のやり取りで心配してくれていたのだと、今朝羽鳥から聞いている。なので今のはそのことに対する問いだろう。
美都はその質問に「はい」と短く答え礼を伝えた。彼も安心したように微笑む。
「先生はやっぱり博識ですね」
作曲家の生い立ちについてまでさらりと出てくるところはさすがだった。音楽を専門にしていれば当たり前なのかもしれないが。
「境遇を知れば、曲に対する解釈も変わってきますから」
「曲の……解釈……?」
その言葉にきょとんと目を瞬かせる。どういうことなのだろうと首を傾げたところ、続けて高階が説明をし始めた。
「音楽は謂わば旋律が言葉のようなものです。その言葉をどう表現するか。あるいはどう読み取るか。それが解釈です」
上手く飲み込めずにいると高階が顎に手を当ててそのままピアノへと向かう。それに倣うようにして美都は横に立った。楽譜を捲りながら彼が続ける。
「例えば昨日話しに出た『月光』は、月代さんも感じていたように少しだけ怖い印象がありますよね」
「はい。そう言えば愁情……って仰ってましたよね?」
「そうです。憂いや悲しみ。『月光』は旋律もわかりやすくはありますよね」
「わかりにくいものもあるんですか?」
美都がそう訊ねると開いたページを譜面立てに据えて高階が鍵盤に手を伸ばした。そしてゆったりとした手つきで鍵盤を叩いていく。
(きれい……)
優しく流れるような旋律に意識を持っていかれる。始めに中音域の旋律が聞こえると、それに合わせて心地よい低音の響きがサポートするかのようだった。穏やかで好きな曲調だなと思いながら黙って目を閉じる。
しばらくして演奏を終えると高階に謝辞を込めて拍手を送った。
「今の曲は月代さん好みだと思ったんですがどうでしょうか?」
「はい!  とても素敵な曲でした。なんて言う曲ですか?」
ありのまま感じた印象を伝える。すると高階は頷いて楽譜に記されているタイトルを指差した。
「──『悲愴 第2楽章』……?」
「そうです。ベートーヴェンのピアノ・ソナタです」
驚いて目を見開く。ベートーヴェン作曲だと言うこともだが、その旋律の美しさのタイトルが『悲愴』という決して良い意味合いでなかったことに対して驚きを隠せなかった。
「穏やかな旋律ですよね。良くドラマでも使われてます」
「でも……悲愴、なんですね」
旋律とタイトルが結びつかない。目を伏せてなぜだろうと考える。続けて高階が鍵盤に指を滑らせた。
「こちらはどうですか?」
先程よりも早い指の動きで音が進んでいく。短調で物哀しい。そして激情的にも感じる。揺さぶられるような曲だ。
キリの良いところまで弾くとまたおもむろに口を開いて高階が解説を始める。
「今のは『悲愴 第3楽章』──先程の第2楽章に続く曲です」
「え?  同じ『悲愴』なのに全然印象が違うんですね」
第2楽章と打って変わって、今度はそのタイトルに相応しい曲調だなと感じた。直後高階からソナタについて説明がされる。ソナタとは複数楽章から構成される楽曲であること。物語の起承転結に似たものらしい。
「第1楽章はもっとタイトルに相応しい程の迸る曲です。この曲は『月光』より少し前に書かれたもの。彼がだんだんと耳に異変を感じ始めた時期でしょうか」
ハッと息を呑んで思い返した。ベートーヴェンはいつしか全聾になったのだと。月光が書かれた直後に彼は遺書を書いたのだと聞いている。だとしたらこの『悲愴』はだんだんと耳が聞こえなくなることに不安を感じたベートーヴェン自身の悲しみなのだろうか。そう考えていると高階は鍵盤に触れながら目を細めた。
「ここからは僕の解釈です」
解釈、という言葉を耳にして彼に目を向ける。先程高階自身が口に出したことだ。
「ベートーヴェンはこの曲の中に、彼の意志を示したのではないかと。作曲家としての、彼の今後を示すような」
「意志……ですか?」
「えぇ。この曲は『月光』とは違い、ベートーヴェン自身がタイトルを付けたと言われています。なのでやはり彼自身少なくともそう感じていたのでしょう。第1楽章はまさにタイトル通りですね。ですが……」
難聴の兆し。それを感じた頃に作られたのがこの悲愴だという。今後どうなるかわからない状態で作曲を続けていたのだ。彼の半生を思いながら高階の言葉に耳を傾ける。
「第2楽章の旋律の美しさ。僕は美しさの中に不安定さも感じます。叙情的とも言えますね。僕は、初めて聞いたとき諦めの曲だと思ったんです。見事に外れましたが」
苦笑しながら困ったように眉を下げる。彼がこの曲を初めて聞いた時期はわからないが、少なくとも高階はそう解釈したのだ。それはベートーヴェンの境遇を知る前だったということだろう。
「なんで諦めだと思ったんですか?」
「あまりに綺麗だったから、ですね。もうこれで良いと言われているような感覚がして。それでも第3楽章でそれは打ち破られました」
「さっきの……?」
早いテンポで進んでいく第3楽章。高階はそこに何かを見出したらしい。それはなんだろうと首を傾げた。
「この悲しみ、苦しみを受け入れて乗り越える──という想いです。僕はそう感じました」
へぇと感嘆する。美都が抱いた感想とあまりに違ったのだ。
「第3楽章はロンド形式なんです。出だしのフレーズが何度も繰り返し登場します」
「悲しみが繰り返される、ってことではないんですか?」
「確かにそういった解釈もできますね。でも第3楽章のもう一つの特徴として、演奏指示にアレグロが使われているんです」
音楽用語に詳しくない美都はその単語を言われてもピンと来なかった。しかしそれを図ったように高階が丁寧に解説を進める。アレグロは『速く』という速度記号らしい。それを理解した上で彼が再び彼の解釈について述べる。
「僕はこの指示を見たときに、『悲しみは繰り返しやってくるがそれは幾度も速く過ぎ去るものだ』と言っているのではないかと思いました。むしろそう言うことで自身を慰めているような。それがベートーヴェンの意志のように感じるのです」
悲愴というタイトルに隠されたベートーヴェンの意志。高階はそう読み取ったのだ。繰り返される悲しみや苦しみを乗り越えていく。訪れる受難に立ち向かうという想いか。
「実際ベートーヴェンはこのあと『月光』を書いたときに絶望の淵に立たされました。でも彼は諦めることはせず、何ならそれ以降の作品こそ彼の代表作と言われるものばかりとなったんです」
『運命』や『歓喜の歌』がそうですね、と彼は付け加えた。なるほど、と一連の話を聞いてようやく納得した。
「解釈って不思議ですね」
「そうですね。奏者にも聴者にもそれぞれの解釈があります。それによって雰囲気も変わってきますから」
ただ綺麗な旋律の中にも作曲家の背景がある。そんな当たり前のことを深く考えたことはなかった。確かにそれを理解しているかどうかによって奏者の弾き方も変わるだろう。
「月代さんの感性は割と鋭い方だと思いますよ」
「そう……ですか?」
高階からそう言われきょとんと目を丸くする。むしろ逆だと言われることが多い。否、感性とは違うかもしれないが周りからは鈍感だと言われることがほとんどだ。なので不思議だった。
「前に『雨の歌』を聞いたとき切なさを感じ取っていましたよね。それに昨日話した『月光』についても。もちろん奏者側の表現がわかりやすいというのもあったのかもしれませんがただ漠然とした感想よりもしっかりと読みとってますから」
それには思わず、うっと声を詰まらせた。なぜなら圧倒的に漠然とした感想の方が抱きやすいからだ。『雨の歌』や『月光』はたまたま心情と重なっただけだと言っても良い。渋い顔を浮かべていると高階がクスクスと笑った。
「もちろん、いつもそこまで深く考えて聴くことはないですよ。楽しんで聴くのが一番です」
「うぅ……はい」
「それにここまで話しておいて何だとは思いますが、解釈には正解も間違いもありません。自身が感じ取った曲の印象が第一です」
フォローするかのように高階がいつもの笑みを浮かべた。彼のいう通りだろう。確かに作曲家の背景を知ればもっと解釈は深まるかもしれない。しかしそれは固定観念となってしまう可能性も無きにしも非ずなのだ。解釈には正解も間違いもない。音楽は自由なものだ。おそらく彼はそう言っている。
すると一通り話し終えた高階が「あっ」という表情を浮かべ申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません……結局話し込んでしまいました」
反省して肩を落とす様子を見て、つい笑みが零れる。高階の音楽への愛はやはりすごいなと感じるところだ。
「先生の演奏が聴けて、お得でした」
実際に久しぶりに高階の演奏を聴くことが出来て満足なのだ。だから彼が気にすることは何もない。むしろ自分を気にかけてくれたのだから。
高階もピアノを片し始める。その際に再び話がベートーヴェンについて戻った。
「ベートーヴェンには有名な名言があることをご存知ですか?」
「名言?」
作曲以外にも特出するところがあったのか、と目を瞬かせた。確かにベートーヴェンと言えば世界中でもっとも有名だと言っても良い作曲家だ。彼の逸話は多いに違いない。だが半生すらロクに知らなかった美都にとっては名言も全く触れて来なかった箇所だ。
その単語を復唱すると高階は頷いて口を開く。
「──『神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう』──彼の強い意志が垣間見える言葉ですね」
思わず息を呑んだ。とある単語が耳をなぞったのだ。
「運命に……立ち向かう……」
ポツリと呟く。教材をまとめそれを手に取った高階がピアノの椅子を引き「行きましょうか」と退出を促す。彼に続いて音楽室から出て、そのまま肩を並べて廊下を歩いた。
「これは余談ですが、ベートーヴェン作曲の『運命』というタイトルは彼が付けたものではないんです」
「え?  じゃあ誰が付けたんですか?」
ベートーヴェンの中でも知名度の高い作品だ。クラシックを知らない人間でもフレーズを聞けば納得出来る程には世間に浸透している。そんな有名な曲でさえ彼が付けたタイトルでないことに驚いた。
「諸説ありますが、冒頭のメロディーを『運命はこのように扉を叩く』とベートーヴェン自身が言ったから、と彼の弟子によって伝えられています。それが通称になったようですね」
なるほど、と説明を聞いて頷いた。頭の中で曲を思い浮かべる。確かに冒頭のあの旋律は有名だ。ベートーヴェン自身がそう表現したのも頷ける。
「あんまり明るい曲ではないですよね。それにちょっとだけ激しいというか」
交響曲とはそういうものだと言われてしまえばそれまでだが、激しく揺れ動く旋律は確かにタイトル通りとも言える。
「最も有名な第1楽章が短調だからそう聞こえるんでしょうね。最後まで通して聴けば印象は変わるかもしれません。交響曲は全体を通して一つの物語ですから」
「運命に立ち向かっていく物語、ですか?」
「はい。それでいて苦悩から歓喜へと至る道を示しているのだと思います。彼の人生のように」
これも名言の一つです、と高階がおどけるように言う。苦悩を突き抜ければ歓喜に至る、と。ベートーヴェンの人生は壮絶だったのだろう。
どんなに苦しいこともいずれは歓喜になる。ベートーヴェンは曲を作ることでそう示したかったのだろうか。
「運命って何なんだろう……」
ぼんやりと考えながら小声で疑問を口にする。その単語の意義があまりにも広すぎて上手くまとまらない。昨日夢の中で言われた「さだめ」とは違うものなのだろうか。
「それは──難しいですね」
「あ……!  すみません……」
独り言を拾われ、思わず高階に謝罪する。苦笑しながら肩を竦めた後、彼はそれについて考えるように顎に手を置いた。
「運命は、決められていないシナリオなんだと思います」
高階が呟いた言葉に目を見開く。
「自分の選択や行動によって変わっていくものなんじゃないでしょうか」
「じゃあ……運命は変えられるんですか……?」
「少なくとも僕はそう思います。それが予め決められているものだとしたら、宿命の方でしょうね」
人生の幸不幸。それは決して決められていることではない。何が起こるかわからないからこそベートーヴェンは立ち向かう、と表現したのだろうか。
「……昨日今日と、何だか難しい顔をしていますね」
「──!」
ふとそう言われハッとして高階の方を向く。考えだすとつい顔に出てしまう。悪い癖だ。実際に事が大きく変化した。誤魔化すことも出来ず慌てて目を逸らす。
「あまり詮索するのも良くないと思ったんですが……すみません」
あくまで彼は心配してくれているのだ。だから彼が謝ることではない。むしろそのことで昨日心配していたと言われているのに結局気を揉ませてしまった自分に辟易する。
「実はちょっと友だちと上手くいかなくて……それで」
「そうだったんですね。解決はしそうですか?」
高階の問いに思わず口を噤む。解決させなければいけない。衣奈を何が何でも説得しなければ。鍵を守るために。衣奈に憑いた宿り魔を祓うために。
「……ちゃんと、話し合ってみます」
その言葉は改めて自分に言い聞かせるように。怖がらずにちゃんと向き合うこと。それを教えてくれたのは衣奈だ。
グッと喉を引き絞る。決戦の時間は刻一刻と迫っているのだ。
「月代さんがそこまで真摯に考えているのなら、きっと相手の子も応じてくれるはずです」
「だといいんですけど」
「──『勇気は汝を正しい道に導く』ですよ」
突如高階の口から格言のようなものが飛び出したためなんのことだろうと首を傾げた。ふふ、といつものように柔らかい笑みを浮かべる。そこで先程まで話していた内容をふと思い出した。
「もしかして、それもベートーヴェンの名言ですか?」
「正解です」
肩を竦めおどけるようにして高階が応じた。ここまで行くと音楽の知識というよりも雑学に近いものを感じる。彼の知見の広さには感心させられる。だが少しだけ可笑しくなってクスクスと美都も笑みを零した。
「良い言葉ですね」
「でしょう?  他人と向き合うことには勇気がいります。その勇気を持てたとき、きっと道が拓けるはずです」
勇気を持つこと。勇気が正しい道へと導いてくれる。そうだ。戦う術はあとほんの少しの勇気。それと、自分を信じること。
「はい。ありがとうございます、高階先生!」
ちょうど職員室へ向かう道との分岐点である階段の手前で立ち止まる。
顔を上げて今度はしっかり高階の目を見つめ礼を伝える。高階と話せたことで少しだけ肩の力が抜けた気がした。彼が醸し出す柔らかい雰囲気のおかげで不思議と前を向く気持ちになれる。揺らいでいた心があっという間に直っていくようだ。
すると何かに気づいたように高階の視線が動いた。つられて美都もそちらを向く。視界に入った少年の姿に「あっ」と目を見開いた。
「それじゃあ月代さん、また」
「あ、はい。失礼します」
気を遣ってか早々に会釈をして踵を返す。美都もそれに合わせて会釈をした後、階段を昇ってきた少年の元へ駆け寄った。
「ごめん、また……」
話し込んでしまい、教室へ戻るのが遅くなってしまった。だから彼が様子を見にきてくれたのだろう。以前も同じような事があったなと苦い顔をせざるを得ない。
同じ段に立つと圧倒的に背が高い彼を目線だけで見上げる。口を真一文字に結んだままジッとこちらを見つめたまま何も話そうとしない。いつも以上に機嫌がよろしくないと見える。
「四季──?」
耐えきれず固まったままの彼の目の前に手を翳した。するとやや強引にその手首を掴み何も言わず階段を降り始める。
「ちょ、ちょっと……!」
ギョッと目を見開いて彼の行動に合わせるように足を動かす。危機感がなさすぎだと怒っているのだろうか。しかし先に階段を降りていく彼の表情を見るからにそうでもないように感じた。だとしたらこの無言は何なのだろう。
ひとまずは彼が足を止めるまでついて行く他ない。そう考えて美都は四季の後に続いた。


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