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天の川へ願いを-鍵を守護する者④-

気合いの一日

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────ねぇ、どこに行くの?
少女の問いかけには応じなかった。代わりに強く抱きしめられる。
視界がボヤける。水の中にいるかのようだ。ぼんやりとしたままその先を見つめる。
そうだ。この後、この人が何かを呟く。少女はそれに答える。幾度となく見てきた光景だ。
だからもういいよ。わかってるから。これは変えられないんだって。
その少女の小さな手は何も掴めない。それでもしっかりと憶えている。
あの温もりを。


美都はふっと目を覚ました。まだ不鮮明な視界のまま、二度瞬きをする。
こんな夢を見るのは、夏が近いからか。容赦無く気温を上げていく気候が、一層記憶を蘇らせるのだろう。何せあの日も暑かったのだから。
(……いけないいけない)
額に手を当ててふぅと息を吐く。久々に見た夢に引きづられている場合ではない。珍しく目覚ましが鳴る前に起きたのでそのままゆっくりと上体を起こす。カーテンの隙間からは、眩い光が差し込んでいた。今日は天気が良さそうだ。
中学3年生最後の夏だ。そしていよいよ今日、引退をかけた最後の試合が始まる。





「じゃあフォーメーション確認するね」
主将である少女が部員に声をかける。そもそもラクロスのプレー人口は少ない。中学でラクロス部がある学校は数えられる程度だ。なので大体高校生も交えた大会が開かれることが多い。
夏の大会は秋の全国大会へ向けての前哨戦だ。ここで良い結果を残して後輩に引き継ぐ。それが3年生に出来る最後の務めだ。
試合は予選リーグの後トーナメント方式で進んでいく。トーナメントからは一度の負けも許されない。負ければそこで終わるのだ。第一中は順当に勝ち進み、決勝トーナメントまで駒を進めていた。やはり引退がかかっているだけあり、どこの学校も気合が入っている。
「次の相手はとにかく攻めてくる。だからディフェンスが大変になると思うの──」
部員は主将の声に真剣に耳を傾ける。美都も同じようにしてグッと喉を締めた。自分のポジションはディフェンスだ。事前情報で攻撃的なチームだということは判っていた。だからこそ気合いを入れて臨まなければならない。
「でも大切なのはいつも練習でしてたことを忘れないこと。いいね?」
前に立つ彼女の言葉に、一斉に「はい!」と言う声が響き渡る。試合開始は1時間後、集合は20分前とのことで一旦解散となる。
「美都!」
飲み物を買いに行こうとしたところ、今まで部員たちの前で話をしていた少女から声が掛かった。主将である赤木麻衣子あかぎまいこだ。彼女に応じるよう身体を捻らせる。
「飲み物買いに行くんでしょ?  私も行くわ」
「うん。一緒に行こ」
ショートカットを風に靡かせて、爽やかに笑む彼女と肩を並べて歩く。溌剌としていて清々しい。中学からの仲だが、彼女の竹を割ったような性格が美都は好きだった。物怖じせずに真っ直ぐにプレーをする姿は、贔屓目無しにしてもスッと目を惹く。ポジションは違うが彼女から学んだことは多い。
「珍しいね。麻衣子がベンチから離れるの」
彼女は主将であるがゆえ、チームメイトから何かと相談や確認をされることが多い役割だ。なのでいつでも対応できるように常にベンチの近くにいるのが彼女だ。美都がそう訊くと「副主将に任せてきた」と言って笑みを浮かべ、自販機を目指しながら言葉を続けた。
「次の試合さ。美都にとって辛くなるんじゃないかな、と思って。ディフェンスの3年、美都だけだから」
言いながら麻衣子は難しい表情を浮かべる。なるほど、と美都は瞬時に理解した。彼女のいう通り、同級生でディフェンスのポジションについているのは自分だけだ。ディフェンスは全部で3人。残り2人は後輩が入っている。ディフェンスは文字通り守備の要だ。相手チームのオフェンスからゴールを守る。
先ほど次の試合の連携確認で「ディフェンスが大変になる」と彼女は言っていた。だから気にしてくれたのだろう。彼女の気遣いに感謝し、心配させないよう笑顔で応えた。
「大丈夫だって!  頼りになる後輩もいるし。絶対ゴール死守するから!」
「うん、もちろん信じてる!  でも美都は優しいからちょっと心配で」
肩を竦める麻衣子に、美都ははたと目を瞬かせる。
「そうかなぁ……」
「そうだよ。まぁそれが美都のいいところなんだけどね。美都がディフェンスであるおかげでチームプレー成り立ってるもん」
「大袈裟な。麻衣子が的確に指示出してくれるからだよ」
自販機に着きスポーツ飲料を選択してボタンを押す。隣で話す麻衣子の言葉に恐縮して眉を下げる。それに返すように、美都も彼女の良い点を挙げた。
「指示通り動けるのが美都のすごいところなの。だから後輩も安心して美都についてけるんだし」
「褒めすぎだよ。もう、どうしたの麻衣子。そんなに心配?」
今度は彼女が自販機で飲み物を買う姿を美都が見つめる。それだけ彼女が気にかけてくれているということだとは解るが、いつもと違う様子にこちらが逆に心配になってしまう。麻衣子は美都の言葉を受けていつも通りふっと微笑んだ。
「実はちょっと心配してた。でもやっぱ美都なら大丈夫だね。次の試合、本当に頼りにしてるから!」
「……うん!  頑張ろう!」
互いに力強く気合いの言葉を交わす。試合で手を抜いたことはない。もちろん次の試合でも全力で臨む。自分の中にある優しさに美都自身は気付かなかったが麻衣子はそれを懸念していたようだ。だから大丈夫だと安心させる。
再びベンチに戻ろうとしたところ「みとちゃーん」と言う聞き慣れた声が聞こえて足を留めた。声がした方を確認すると、帽子を被った弥生と那茅がこちらに手を振っているのが見えた。
「知り合い?  じゃあ先に戻ってるね」
麻衣子はそう言うと笑顔で去っていった。彼女の背中を見送り、弥生と那茅の元へ駆け寄る。
「弥生ちゃん、なっちゃん!  来てくれたんだ!」
「さっきの試合からね。動きが早すぎてびっくりしちゃった」
「みとちゃんすごーいっ!  かっこいー!」
二人からの忖度のない感想に、美都は照れ臭く笑った。そう、ラクロスには俊敏な動きが求められる。特に自分のポジションであるディフェンスは、ボールを取り返した後すぐに仲間へと送球する必要があるのだ。
「これ差し入れ。たくさんあると思うけど、暑いし念には念をね」
「わぁありがとう!  すごく助かるよ」
弥生から差し出された塩分タブレットを受け取り、礼を伝える。この時期は熱中症との戦いでもある。試合中は容赦無く汗が流れ出るため水分と塩分は必須だ。
「まだ時間あるかしら?  那茅と一緒に写真撮ってもいい?」
「わたしとなっちゃん?」
「えぇ。ラクロスのユニフォーム可愛くて。普段見られないから新鮮だし。ね、ダメ?」
彼女のこのお願いの仕方にはついたじろいでしまう。上目遣いで肩を竦ませながら訊かれれば断れるはずがない。それに足元では幼子が目を輝かせてこちらを見ているのだ。
「恥ずかしいけど……じゃあなっちゃん、撮ろっか?」
「うん!  みとちゃんとおしゃしんとる!」
パァっと表情を明るくし、いつも通り元気な声で那茅が声を発する。そしてすぐさま自分の横にピタリとついた。弥生がスマートフォンのカメラを向け、彼女の指示で何枚かシャッターが切られる。一通り撮り終えて弥生が画面を確認して顔を綻ばせた。
「うん、可愛い」
「なちもみるー!」
「これ瑛久に送っていい?  あ、四季くんにも送ろうか?」
「四季には送らないで恥ずかしいから!」
最後の弥生の提案を全力で制止する。学校での部活時はコートが隣なので練習着には互いに見慣れているが、いざユニフォームとなるとやはり気恥ずかしさがある。弥生は「あらあら」と言いながら愉しそうに微笑む。那茅は嬉々として母親のスマートフォンを覗き込んでいた。
「試合中は写真撮ってもいいの?」
「大丈夫だよ」
「よかったー。じゃあたくさん撮っちゃお。良い写真撮れたら送るわね」
幼子と同じ表情を浮かべる弥生はやはり可愛らしいなと思う。まだ26歳なので当たり前だが到底一児の母とは思えない。大人っぽさと少女らしさが兼ね備えられている。
もう少し二人と会話したいところだが、そろそろ戻ってアップを始めなければと思い競技場の時計を見遣る。その時、ちょうど後輩二人がこちらに走ってくるのが見えた。
「美都先輩!  キャプテンどこにいるか知りませんか⁉︎」
「え?  戻ってないの?」
後輩の質問に目を瞬かせる。彼女らからキャプテンと呼ばれるのは当然麻衣子のことだ。彼女ならつい数分前に別れたばかりだ。そのままベンチに戻ったものだと思っていたのだが違ったのだろうか。
「戻ってないんです。さっき美都先輩と歩いてるの見かけたからてっきり一緒だと思ったんですが……」
「先に戻るって言ってたんだけど……さすがに遅いね」
「ですよね。どこ行っちゃったんだろう……」
いつもであれば、試合の30分前には彼女はベンチにいる。自分と別れてから10分は経過している。手洗いに寄ったと見てもさすがに今の時間まで戻らないのはおかしい。普段と違う状況に後輩たちも狼狽えている姿が見てとれる。試合前にこの心理状況は良くない。
「わかった。わたしも探してみるから二人はひとまず戻って──、……っ‼︎」
瞬間、背中に悪寒が走る。近くにいた弥生も異変に気付いたようだ。
────宿り魔の気配だ。
現状にハッと息を呑む。自分と別れた後ベンチに戻っていない彼女、そしてこの宿り魔の気配。嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「美都ちゃん……!」
同じく気配を察知した弥生が心配そうに美都の名を呼んだ。迷っている暇はない。すぐに試合が始まるのだ。美都はグッと喉を引き絞り弥生の声に頷いた。
「とにかく二人は戻って。もし時間までに戻らなかったら副キャプに指示仰いで試合に臨んで!  わかった?」
「は、はい!  でも美都先輩は……?」
「わたしが探してくる!  心配しないで、ちゃんと戻るから。二人はいつも通りね!」
心配そうに見つめる後輩二人に笑みを向ける。そして同じく不安な表情を浮かべている弥生に目配せを送り、美都は気配を頼りに走り出した。
おそらく弥生は自分の待遇を案じてくれていたのだ。だが四季を待っている時間は無い。気配は遠くないのだから今まだ動ける自分が行くべきだ。それに麻衣子が戻っていないことが更に気がかりでもある。
だがわからないのは、今が日中であることだ。最近の宿り魔の出現時間の傾向と大きく外れている。イレギュラーだっただけに油断していた。
とにかく今は退魔に向かうしかない。それが守護者の務めなのだから。美都は人が少なくなっていくのを見計らい、首にかかっている指輪を取り出す。
粛々しゅくしゅく──紗衣加さいか!」
指輪を右手に装着し、自らの気配を消して守護者としての装いを纏う。自分にとっても時間との戦いだ。引退をかけた試合。対象者が麻衣子であった場合、迷ってはいられない。初音の妨害が入ったとしても、剣を向ける覚悟を決めなければ。
唇を噛み締めながら、スポットの入り口に近づく。
願わくは初音が現れないことを。滞りなく退魔を終え、試合に戻れるように。
ただ、そう祈るばかりであった。





走り行く少女の背を不安げに見つめる。宿り魔が出現するのにこちらの都合は関係ない。だがやはりなぜ今なのかと思ってしまう。
「みとちゃんどうしたの?」
那茅がきょとんと目を丸くして首を傾げた。それもそのはずだ。美都は本来ならこれから次の試合に出場する予定なのだから。自分たちはその姿を見に来たのだ。
弥生が娘の言葉に応じるように彼女の頭を帽子越しに優しく撫でた。こんな時、自分が代わってあげられれば良いのにとさえ思う。
(……美都ちゃん)
気配が感じられるということは、まだ自分の中の守護者の力は完全に失われていないということだ。だがそれも疑問に感じる。新しい守護者が選定されたのであれば、もう自分たちの出る幕はないはずなのだ。それなのになぜだろう。自分たちの代には所有者が現れなかった。もしかしたらそのことに関係があるのかもしれない。そしてもう一つ考えられることがある。力が失われていないということは──。
(もしかして……またこの力が必要になるときが来るの……?)
自分で考える可能性に苦い顔をする。手助けができるのであれば無論そうするつもりだ。だがそれは、良くない知らせなのではないかと穿った見方をしてしまう。
「おかあさん?」
何も言葉を発さない母親を不思議に思ったのか、那茅が小さい頭をもたげた。ハッと我に返り娘に目を向けた。
「あ、ごめんね。とりあえず観客席に行こっか」
「うん!  でもみとちゃんはー?」
「美都ちゃんなら大丈夫よ。またかっこいい姿見せてくれるから」
そうだ。今自分がどれだけ心配しても仕方のないことだ。彼女ならば大丈夫だ。最近の美都は目を見張るほど強くなった。戦い方に悩んでいる節が見られるが宿り魔との交戦にもう恐怖はないのだろう。
つい、自分が守護者だった時のことを思い出してしまう。だからこそこんなにもどかしく思うのか。それに加えて少女のあどけない姿が当時のことを助長させるのだ。ただ真っ直ぐに脅威に立ち向かっていく姿が。
だから今自分が出来ることは彼女を信じることだ。美都なら大丈夫だ。宿り魔を退魔してすぐに試合に戻る。そう信じて待とう。
弥生は娘の手を引きながらそう強く思った。


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